佐藤 優 連載和歌山毒物カレー事件について
和歌山毒物カレー事件:1998年7月25日、和歌山県和歌山市園部地区で開かれた夏祭りで、カレーを食べた67人が吐き気や腹痛を訴え、病院に搬送された。
そのうち、4人が死亡した事件。カレーに混入された亜ヒ酸が死因と特定された。10月4日、和歌山県警は林真須美さんを逮捕。逮捕容疑は知人男性に対する殺人未遂と保険金詐欺。その後、同種事件でさらに2回逮捕され、ついに12月、カレーへの亜ヒ酸混入による殺人と殺人未遂容疑で再逮捕。2009年5月18日、最高裁で死刑確定。
魚住)佐藤さん、この事件に対する形而上学的なおそれとは、具体的には何ですか。
佐藤)この事件に関しては、報道のベースのところで見てみても、状況証拠だけで検察は公判を維持し続け、死刑を求刑した。最高裁は最高裁で死刑判決を出す。ここまでやってしまっていいのかと思いますが、いざ、林さんサイドに立って声を出せるかということになると、みんなほとんど凍りついてしまうと思うんです。
安田)かつてはそんな状況だったといえますが、いま、カレー事件については世間の見方が変わりはじめているんですよ。そのことは、現地に行ったり、いろんな人と話をしていて、ひしひしと感じています。ひとつは時間が経過したということもあるだろうし、林真須美さんの声がより多く世間にではじめたということもあるでしょう。
佐藤)刑を終えた夫の発言も大きいのではないでしょうか。
安田)大きいですよね。つまり情報量が増え、質的にも変わってきたということがあります。事件に対して冷静な見方ができるようになってきた。これからもっと変わりますよ。 上告審の最初の頃、まだ新聞には「毒婦」って、赤字の見出しで書かれていました。ところがそのうち、地元で、林さんを支援する人がひとり、ふたり三人と出てきて、やがて大阪や和歌山で集会が開かれはじめ、林さんの言葉も伝わりはじめました。さらに面白いことが起こったのは、事件が起きた当初、なにかおかしいなと疑問を持ちながらも、林さんが怪しいという方向で取材をしていた、一線の若い記者がいまでは中堅になっていて、事件の見直しを始めるわけですよ。集会を開くと彼らも参加してくれる。その場に夫の健治さんや家族が出てきて、真相はこうだと話しはじめているんです。
宮崎)この事件に関して私が思うのは、非常にプリミティブな意識というのかな、判決文を読んでも、なぜこの事件が起きたのかがわからないんです。これは裁判所の怠慢ですよ。原因があるから結果があるわけであって、原因についての解明をサボタージュしたら、次に起こるかもしれないことに対して、社会的な教訓がないままこの事件を終わらせてしまおうということじゃないですか。
魚住)確かに最高裁の判決文のどこを読んでも動機に該当するものが読み取れませんね。そもそも安田さんは、この事件の真相をどう見ているんですか。
安田)殺人事件でなはいことは確かなんです。つまり殺意がうかがえません。言わば、いたずらですよ。カレーにヒ素を混入した人間は、それが致死性のある毒物だと認識していたのかどうか。殺虫剤くらいにしか認識していなかったのではないか。というのも、あの地域はわりあいシロアリ被害が多く、ヒ素を殺虫剤として使っています。殺虫剤としてヒ素が出回っているという状況ですね。 カレーに入れられていたのは純粋なヒ素(亜ヒ酸)です。しかも135グラムと量としては大変多い。寸銅鍋といっても直径高さともに30センチ程度の、一般家庭にあるようなもの。その中に135グラムだからすごい量なんです。4つある鍋のうちのひとつにしか入れられていない。殺意があるのだったら、4つの鍋全部にヒ素を入れるはずです。それが1つの鍋にしか入れられてなかったわけですから、子どもが入れたと考えても論理的にはおかしくないんです。 カレー鍋が置かれていたのはアクリルの屋根しかないオープンなガレージの中で、どこからでも見える場所でした。しかも真っ昼間。地域の夏祭りだからみんな顔見知りです。そんな状況で紙コップに入れたヒ素を鍋の中に入れて、その紙コップをその場で捨てている。普通は隠すでしょ。殺人とは似合わない幼稚で単純な手口なんです。誰でも犯人である可能性があります。
魚住)警察が秒単位で事件の経過を検証していますね。
安田)裁判所は、事件当日の12時20分から1時40分までの間は、ガレージには彼女一人だけだった。それ以外の時間は、常に2人以上の人がいた。だからヒ素を入れる機会があったのは彼女だけだといっている。彼女は、子どもさんと一緒だったのであって、ひとりだったということ自体からして誤りなのですが、それよりもまず重要なのは、他の人がヒ素をカレー鍋に入れる可能性がなかったのか。しかもふたり以上ならば、入れることができないのか。その検証ができていないことなんです。紙コップで入れたという話だから、誰でも入れられる。入れようと思えば誰でもいつでも入れられるのに、彼女はひとりだった、だから入れられたというのは、完全なまやかしですよ。
宮崎)裁判所特有の論理ですよね。
安田)そう。ひとりの時にしかヒ素が入れられないというのは、検察が作った論理です。
魚住)そういうドグマを作ってしまうんですね。
安田)そう。
佐藤)検察官も裁判官もそのように思い込んでいますからね。
安田)加えてこの地域は新興住宅地で、いろいろな人が移り住んでいて、複雑に絡み合った対立がありました。それに引っ張られた警察が、集団毒殺事件だと見立てた。そこから間違いが起きたのではないでしょうか。殺人事件だと見るから動機が見つからない。その見方を取っ払えば、動機が見えてくるはずです。実に不完全な事実認定であることは明らかなんですね。 林被告の毛髪からヒ素が検出されたという鑑定もおかしいんです。12月に本筋のヒ素混入による殺人と殺人未遂容疑で再逮捕するでしょ。和歌山県警は、林容疑者の髪を根元から切って、ヒ素を検出しようとしましたけれども、できませんでした。そこで、兵庫県にある大型放射光施設「スプリング8」に毛髪を持ち込んで鑑定したら、毛髪の切断点から4・8センチのところからヒ素が検出されたというんです。切断地点から4・8センチだとすると、毛髪の伸び方を考慮すれば、7月末にヒ素に被爆した、つまり、ヒ素が毛髪にふりかかったといえる、と。毛髪とヒ素とが化学反応を起こして洗っても落ちなくなるという。鑑定に当たった中井泉・東京理科大学教授が、科学は悪者を逃さないという趣旨のことを記者会見までやってアピールするんです。しかし、ヒ素が毛髪にかかったとしたら、その先端に付着するのが当たり前ですよね。ヒ素が検出されたのは切断点から4・8センチの箇所だけ。普通だったら、あり得ない話です。しかもヒが検出されたのは、採取した3カ所の毛髪うちの1本だけなんです。中井鑑定がおかしい。鑑定自体がおかしいという話になるのに、裁判所はそれを全面的に信用するわけです。最高裁も判決文にそのことを書く。彼女がヒ素を使っていたという証拠だとなるわけです。
佐藤)古畑鑑定の歴史的評価は定まっていますよね。
安田)えん罪が証明された免田栄さんだって、誤った古畑鑑定によって有実とされたんですよ。そういうことをなにも学んでいない。
佐藤)それは裁判官が哲学を勉強していないからです。認識を導く関心があって、無意識のうちにそこがでてくる。鑑定に当たってこれは林真須美さんの毛髪だというのではなく、この髪の毛から何が出てくるか調べてくださいと言うべきだった。情報屋の世界では、情報源から正確な情報を得るためには、こっちが必要とするものについて言ってはいけないという原則があります。
安田)佐藤さん、カレー事件を、情念、情理的なところで表現するとしたらどうなりますか?
佐藤)あの人がやったかやらないかは神様しかわからない。あの人がやってないと確信していることは確かだ。それが事実かどうかはわからないけれども。そこのところからの強い思いがあの激しい取り調べのなかでの完全黙秘になった。人格的に侮蔑され、怒鳴られ、理詰めでこられ、情に訴えられ、取調室の中で警察官は泣く、怒鳴る、ありとあらゆることをやる。あそこのところで黙っていられるというのは、これは尋常な魂の力ではない。その魂の力とぶつかった時にあなたは勝てる自信があるか。だから彼女と同じくらいの魂の力を持ってやらないと、彼女の魂から出ているところのオーラにたたきつぶされる−−こういう理屈ですよね。もしこの事件が裁判員裁判だったとしたら、裁判員は、彼女と同じくらいの魂の力をつけていかないと、魂の力で負けてしまいますよ。
安田)彼女は、思想犯ではないでしょ、戦士でもないし、兵士でもないし、スパイでもない。詐欺師のおばちゃんだった。看護学校を卒業して、子ども4人と夫と一緒に暮していて。その人が1998年の7月末に事件が起きてから、延々いじめられている。そういうダメージを受けているなかで逮捕される。10月初めに逮捕されて、朝から晩まで取り調べられて、子どもたちは、施設に収容される。人質にとられたようなものですよ。夫も逮捕されて、夫はこう言ってるぞと切り返し尋問を徹底してやられる。もう四面楚歌です。10月4日から始まって12月の末まで、毎日の取り調べを、彼女は耐えた。いままでの僕の経験から言うと、普通だったら、どこかで自白させられてしまうはずなんです。1通くらい自白調書があったり、わけのわからない調書があるものなんです。ところが何もない。調書さえない。 林さんが言うには、男の検察官と女の検察官がいて、女性の検察官が自分に手柄をとらせてくれって、すがるように言うんだそうです。警察官は警察官で、強面で来る。逆に彼女はその警官の顔を殴りつける。私は、いままで出会ってきた人間と違う形を見るんですね。その中に。だから無実だ云々というのではなくて、精神の強靭さというだけでは収まらない何かが彼女にはあるのかなと思う。
宮崎)いまの話を聞いて、僕も同じようなことを考えました。たぶん吐かされるためにいろんなことをされたんだろうなと思いますが、彼女の態度に母性をみます。ものすごい母性を。いるんですよ。関西のおばちゃんに。私の母親なんかもそうでした。子どものためなら自分を犠牲にするという女性が。
安田)いまでこそ、いろんな人から手紙が来たり、マスコミの寵児になりつつあるわけですが、この前までは、面会に来る人間さえいない。彼女は長い間、接見禁止だったから、その間、子どもさんとも会えなかった。もうひとつ違うことは、子どもさんから夫まで全員が彼女の無罪を確信しているんです。林真須美の子どもであることを隠さない。彼女と同じくらいの強靭さを子どもも夫も持っているんです。
佐藤)それは彼女の強靭な魂の力が共鳴しているわけですよ。そこで彼女を支援する人たちが増えているというのは魂の戦いにおいて、彼女が勝っているんですね。ギリシャ哲学の考え方ですが、魂というのは身体から一定の距離、放れることができるんですよ。ギリシャ語でプシュケーと言いまして、プネウマというのが霊なんですね。日本は霊魂という概念があるから、霊と魂を一緒に捉えがちですが、ギリシャ人の理解では、霊というのは神様が吹き込んだ命の原理で個性がないんです。それに対して魂というのは個性があります。ですから、肉体から一定の距離、放れることができると考えるんです。現代的なかたちでいうと、その人が発信している言葉、その言葉によって人に影響を与えるということです。それを魂が放れるというかたちで古代人は考えた。だから彼女の発する言葉には人間の深層心理を揺さぶる力があるんですよ。「やってない」と。そういうひと言の。表情という身体言語、いろんな人に出した手紙、その行間から伝わるもの。それら全てが彼女の表現ですよ。そこに尋常ならざるものがある。
宮崎)私の母親を見て感じるのは、かつての母親だったらやれる。がんばれる。たぶん、自分と他人という、自分の共同体と他者との関係が相当はっきりしていたわけで、守らなければならないものはわかっていたわけです。林さんは、他人は守ってくれないということもわかっているところで身につけたものが相当あるのではないかと思います。
佐藤)彼女の人生の核において、たぶん、ふたつのことがあるのでしょう。ひとつは、人に言えないようなものすごい苦労をしている。そのときに国が守ってくれなかった。これがふたつめ。そのふたつのことがあるから、本質において反国家的であるように思えます。
宮崎)ただ、林さんが黙秘を貫いたことがよかったのかという問題が残ると思うんです。僕の周りにはアウトローがいっぱいるわけですが、彼らが、おかしいな、地裁の段階で黙秘したらやばいで、アホやなと言うわけですよ。それには理由があるんやろと、言うんです。あの段階で林さんが黙秘したのは、何か理由があるんじゃないかという簡単な問題意識を誰か提起しなければならなかったのではないかと思います。
安田)その点は弁護士の間でも、弁護活動のあり方としても、重要な問題です。昔から左翼の弁護の中では無罪は黙秘、有罪は喋って謝れと。それは左翼の弁護士の美学だったんです。有実の人も無実の人も分け隔てなく一生懸命、弁護してきた弁護人からすると、無実の時こそ無実を叫べ、有実の時はしゃべるなと。なぜやったかなんて自分ではわかりっこない。やったことはやったことで認めて申し訳ございませんと謝って余分なことは言わない。しかしやってない場合はやってないとハッキリ言わなければいけない、というのが、僕たちの感覚なんです。どうもそのズレが起っていてね、いろんな事情があったと思うんですけどね。黙秘することは誰もが危ういと思っていた。黙秘することで悪くとらえられるし、実際にいろんな場面で林さんに不利に働いた。裁判所は黙秘すれば当然、有罪ですからね。どんな場合でも、この人は黙秘したからやってないと思う裁判官は誰一人いません。
宮崎)懲役何回か経験してきた人間は、あれ(黙秘)はヤバいでという、そういう感覚ありますよね。
佐藤)私も逮捕された時、最初は黙秘でいこうと思ったんですが、弁護士からそれはやめたほうがいいと言われました。検事にも言われた。黙秘はやめたほうがいい。とくに特捜事案に関しては、容疑者に対して、検察官の「この野郎……」という感情が強まるので、黙っていると、とんでもない物語を作られてしまいますから。
安田)黙秘すると、より証拠を作られる。彼らはいくらでも証拠を作ることができるんです。逆に、やってないと言ったら、なかなか証拠をねつ造できません。そんなことすると必ず反論されて、潰されてしまいますから。
宮崎)裁判員制度を取入れて、民主主義的な裁判を行うというのであればね、林真須美さんの判決について、裁判所としての責任問題も明確にしなければならないと思います。裁判所としてはこの犯罪についてよく分かりませんけれども、死刑が相当ですとはっきり言うべき義務があるはずです。
安田)有罪というのはなぜやったかも含めて有罪なんです。ところが、判決は、この人(林被告)が犯人なんだから、動機が分からなくてもかまわないと言っている。しかし動機というのは犯人であるかどうかを決める有力な事実なんです。動機が分からないというのは、事件の見立てが間違っているということです。
佐藤)動機すら解明できないんだったら、捜査能力が弱いということですよね。
宮崎)捜査能力が弱いということだから、差し戻すべきなんですよ。もう1回やり直してこいと。
安田)次に問題となるのは、動機が分からなくて量刑ができるのかということなんです。あの事件、犯人を本当に死刑にできるかということが問題です。裁判所は未必の故意だと認定しているわけです。未必の故意というのは、故意と過失の中間くらいの話。殺そうとは思っていない。でもこれをやると人が死ぬかもしれないなというくらいの話。殺してやろうというのと本質的に責任の重さが違います。
佐藤)スーパーに行って豆腐に針を入れておいた。それ飲み込んで人が死んじゃったと。安田)この事件ではそれくらいしか認定できていないんです。しかも動機も解明できていない。それなのに極刑を出す。量刑のいい加減さ、これくらいやっておけば、社会は納得するだろう、世間が大騒ぎしたんだからこれくらいやっておけばいいだろうと。しかし、動機なんて考える必要ないと最高裁はわざわざ判決書に書いている。こんな判決見たことない。裁判員裁判が始まる前に手本を示したんだと思いますよ。
佐藤)一方で、同じ裁判体が防衛医大の教授に対して無罪を出しておいて、こんな感じでやるんですよと2つの見本を示したんですね。
安田)防衛医大の裁判の場合は評議の面白さ、ダイナミズムを示した。この最高裁判決は誰もが喝采した。裁判官の判断が綺麗に分かれているんですから。5人の裁判官のうち、職業裁判官が有罪と無罪に分かれ、弁護士出身の裁判官が有罪と無罪に分かれて。学者出身の裁判官が無罪の方に流れたから勝ったわけで。相撲でぎりぎり土俵際でうっちゃりやった。ゲームとしては面白い。裁判員裁判が始まれば、みなさんも自由闊達に議論できるんですよ。議論というのはこれだけ大切だし、評議というのはこれだけ重いし、それが面白いんですよということを示した。林さんの裁判は、もうひとつの見せ物だった。それを裁判員裁判が始まる前に終わらせた。裁判員裁判が始まってしまうと、どうして事件を起こしたのか、動機に対する疑問が出てくることになるのが見えていますから。 さらに今回の裁判で、異常に感じたのは、私たち弁護団の言うことを何一つ聞かずに、裁判所が公判日時を一方的に決めてきたんです。事務所に電話が来て、スタッフに伝言するんです。決定を今日送ったことを伝えてください、と。私と電話で話そうとしないんです。それくらい今回の裁判にたいする裁判所の姿勢は、おぞましい限りです。
魚住)裁判員制度導入に関して、「これからはミリメートルのモノサシをセンチメートルに持ち替えないと、一般の人はついてこられない。それでも長さはちゃんと測れるのだから」と竹崎博充・最高裁長官が言いましたよね。精密司法といわれていた、これまでの刑事裁判のありかたを変えるということですよね。この発言を聞いて、そんなこと言っていいのかと思いましたけど。
安田)裁判員制度はそうでもしないと成り立たないんでしょう。ですから“市民”が判断しやすいように、公判前整理手続で難しい証拠や、ややこしい証拠は全部捨てられてしまって、3日、4日で簡単に裁判をやってしまう。結局、評議は裁判官のリードになるでしょうし。声の大きい人間に従うことになるでしょう。
宮崎)だいたい人が人を裁くのはおかしいんです。人とは間違いを犯すから人なんでね、人を裁けるのは神様しかいないんですよ。この国は神様が多いんですよって言ってるようなものですね。私は、裁判員制度に反対だけど、裁判員になったら、全部無罪します。こんな腐ったところで人を裁くことはできない。腐ったリンゴの中に腐りやすいリンゴを入れたって同じことだよと言って。
佐藤)ですから、裁判員制度の呪いについて考えてみたいんです。人が人を裁くとどうなるか。とくに、不当な判決を出すと人の怨霊が怖いのではないか。ましてや無罪を主張している人を裁けるのか。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の怪談に「はかりごと」という話があります。怨霊の怖さがよくわかる話なので、それを導入にしてみましょう。
佐藤)この事件に関しては、報道のベースのところで見てみても、状況証拠だけで検察は公判を維持し続け、死刑を求刑した。最高裁は最高裁で死刑判決を出す。ここまでやってしまっていいのかと思いますが、いざ、林さんサイドに立って声を出せるかということになると、みんなほとんど凍りついてしまうと思うんです。
安田)かつてはそんな状況だったといえますが、いま、カレー事件については世間の見方が変わりはじめているんですよ。そのことは、現地に行ったり、いろんな人と話をしていて、ひしひしと感じています。ひとつは時間が経過したということもあるだろうし、林真須美さんの声がより多く世間にではじめたということもあるでしょう。
佐藤)刑を終えた夫の発言も大きいのではないでしょうか。
安田)大きいですよね。つまり情報量が増え、質的にも変わってきたということがあります。事件に対して冷静な見方ができるようになってきた。これからもっと変わりますよ。 上告審の最初の頃、まだ新聞には「毒婦」って、赤字の見出しで書かれていました。ところがそのうち、地元で、林さんを支援する人がひとり、ふたり三人と出てきて、やがて大阪や和歌山で集会が開かれはじめ、林さんの言葉も伝わりはじめました。さらに面白いことが起こったのは、事件が起きた当初、なにかおかしいなと疑問を持ちながらも、林さんが怪しいという方向で取材をしていた、一線の若い記者がいまでは中堅になっていて、事件の見直しを始めるわけですよ。集会を開くと彼らも参加してくれる。その場に夫の健治さんや家族が出てきて、真相はこうだと話しはじめているんです。
宮崎)この事件に関して私が思うのは、非常にプリミティブな意識というのかな、判決文を読んでも、なぜこの事件が起きたのかがわからないんです。これは裁判所の怠慢ですよ。原因があるから結果があるわけであって、原因についての解明をサボタージュしたら、次に起こるかもしれないことに対して、社会的な教訓がないままこの事件を終わらせてしまおうということじゃないですか。
魚住)確かに最高裁の判決文のどこを読んでも動機に該当するものが読み取れませんね。そもそも安田さんは、この事件の真相をどう見ているんですか。
安田)殺人事件でなはいことは確かなんです。つまり殺意がうかがえません。言わば、いたずらですよ。カレーにヒ素を混入した人間は、それが致死性のある毒物だと認識していたのかどうか。殺虫剤くらいにしか認識していなかったのではないか。というのも、あの地域はわりあいシロアリ被害が多く、ヒ素を殺虫剤として使っています。殺虫剤としてヒ素が出回っているという状況ですね。 カレーに入れられていたのは純粋なヒ素(亜ヒ酸)です。しかも135グラムと量としては大変多い。寸銅鍋といっても直径高さともに30センチ程度の、一般家庭にあるようなもの。その中に135グラムだからすごい量なんです。4つある鍋のうちのひとつにしか入れられていない。殺意があるのだったら、4つの鍋全部にヒ素を入れるはずです。それが1つの鍋にしか入れられてなかったわけですから、子どもが入れたと考えても論理的にはおかしくないんです。 カレー鍋が置かれていたのはアクリルの屋根しかないオープンなガレージの中で、どこからでも見える場所でした。しかも真っ昼間。地域の夏祭りだからみんな顔見知りです。そんな状況で紙コップに入れたヒ素を鍋の中に入れて、その紙コップをその場で捨てている。普通は隠すでしょ。殺人とは似合わない幼稚で単純な手口なんです。誰でも犯人である可能性があります。
魚住)警察が秒単位で事件の経過を検証していますね。
安田)裁判所は、事件当日の12時20分から1時40分までの間は、ガレージには彼女一人だけだった。それ以外の時間は、常に2人以上の人がいた。だからヒ素を入れる機会があったのは彼女だけだといっている。彼女は、子どもさんと一緒だったのであって、ひとりだったということ自体からして誤りなのですが、それよりもまず重要なのは、他の人がヒ素をカレー鍋に入れる可能性がなかったのか。しかもふたり以上ならば、入れることができないのか。その検証ができていないことなんです。紙コップで入れたという話だから、誰でも入れられる。入れようと思えば誰でもいつでも入れられるのに、彼女はひとりだった、だから入れられたというのは、完全なまやかしですよ。
宮崎)裁判所特有の論理ですよね。
安田)そう。ひとりの時にしかヒ素が入れられないというのは、検察が作った論理です。
魚住)そういうドグマを作ってしまうんですね。
安田)そう。
佐藤)検察官も裁判官もそのように思い込んでいますからね。
安田)加えてこの地域は新興住宅地で、いろいろな人が移り住んでいて、複雑に絡み合った対立がありました。それに引っ張られた警察が、集団毒殺事件だと見立てた。そこから間違いが起きたのではないでしょうか。殺人事件だと見るから動機が見つからない。その見方を取っ払えば、動機が見えてくるはずです。実に不完全な事実認定であることは明らかなんですね。 林被告の毛髪からヒ素が検出されたという鑑定もおかしいんです。12月に本筋のヒ素混入による殺人と殺人未遂容疑で再逮捕するでしょ。和歌山県警は、林容疑者の髪を根元から切って、ヒ素を検出しようとしましたけれども、できませんでした。そこで、兵庫県にある大型放射光施設「スプリング8」に毛髪を持ち込んで鑑定したら、毛髪の切断点から4・8センチのところからヒ素が検出されたというんです。切断地点から4・8センチだとすると、毛髪の伸び方を考慮すれば、7月末にヒ素に被爆した、つまり、ヒ素が毛髪にふりかかったといえる、と。毛髪とヒ素とが化学反応を起こして洗っても落ちなくなるという。鑑定に当たった中井泉・東京理科大学教授が、科学は悪者を逃さないという趣旨のことを記者会見までやってアピールするんです。しかし、ヒ素が毛髪にかかったとしたら、その先端に付着するのが当たり前ですよね。ヒ素が検出されたのは切断点から4・8センチの箇所だけ。普通だったら、あり得ない話です。しかもヒが検出されたのは、採取した3カ所の毛髪うちの1本だけなんです。中井鑑定がおかしい。鑑定自体がおかしいという話になるのに、裁判所はそれを全面的に信用するわけです。最高裁も判決文にそのことを書く。彼女がヒ素を使っていたという証拠だとなるわけです。
佐藤)古畑鑑定の歴史的評価は定まっていますよね。
安田)えん罪が証明された免田栄さんだって、誤った古畑鑑定によって有実とされたんですよ。そういうことをなにも学んでいない。
佐藤)それは裁判官が哲学を勉強していないからです。認識を導く関心があって、無意識のうちにそこがでてくる。鑑定に当たってこれは林真須美さんの毛髪だというのではなく、この髪の毛から何が出てくるか調べてくださいと言うべきだった。情報屋の世界では、情報源から正確な情報を得るためには、こっちが必要とするものについて言ってはいけないという原則があります。
安田)佐藤さん、カレー事件を、情念、情理的なところで表現するとしたらどうなりますか?
佐藤)あの人がやったかやらないかは神様しかわからない。あの人がやってないと確信していることは確かだ。それが事実かどうかはわからないけれども。そこのところからの強い思いがあの激しい取り調べのなかでの完全黙秘になった。人格的に侮蔑され、怒鳴られ、理詰めでこられ、情に訴えられ、取調室の中で警察官は泣く、怒鳴る、ありとあらゆることをやる。あそこのところで黙っていられるというのは、これは尋常な魂の力ではない。その魂の力とぶつかった時にあなたは勝てる自信があるか。だから彼女と同じくらいの魂の力を持ってやらないと、彼女の魂から出ているところのオーラにたたきつぶされる−−こういう理屈ですよね。もしこの事件が裁判員裁判だったとしたら、裁判員は、彼女と同じくらいの魂の力をつけていかないと、魂の力で負けてしまいますよ。
安田)彼女は、思想犯ではないでしょ、戦士でもないし、兵士でもないし、スパイでもない。詐欺師のおばちゃんだった。看護学校を卒業して、子ども4人と夫と一緒に暮していて。その人が1998年の7月末に事件が起きてから、延々いじめられている。そういうダメージを受けているなかで逮捕される。10月初めに逮捕されて、朝から晩まで取り調べられて、子どもたちは、施設に収容される。人質にとられたようなものですよ。夫も逮捕されて、夫はこう言ってるぞと切り返し尋問を徹底してやられる。もう四面楚歌です。10月4日から始まって12月の末まで、毎日の取り調べを、彼女は耐えた。いままでの僕の経験から言うと、普通だったら、どこかで自白させられてしまうはずなんです。1通くらい自白調書があったり、わけのわからない調書があるものなんです。ところが何もない。調書さえない。 林さんが言うには、男の検察官と女の検察官がいて、女性の検察官が自分に手柄をとらせてくれって、すがるように言うんだそうです。警察官は警察官で、強面で来る。逆に彼女はその警官の顔を殴りつける。私は、いままで出会ってきた人間と違う形を見るんですね。その中に。だから無実だ云々というのではなくて、精神の強靭さというだけでは収まらない何かが彼女にはあるのかなと思う。
宮崎)いまの話を聞いて、僕も同じようなことを考えました。たぶん吐かされるためにいろんなことをされたんだろうなと思いますが、彼女の態度に母性をみます。ものすごい母性を。いるんですよ。関西のおばちゃんに。私の母親なんかもそうでした。子どものためなら自分を犠牲にするという女性が。
安田)いまでこそ、いろんな人から手紙が来たり、マスコミの寵児になりつつあるわけですが、この前までは、面会に来る人間さえいない。彼女は長い間、接見禁止だったから、その間、子どもさんとも会えなかった。もうひとつ違うことは、子どもさんから夫まで全員が彼女の無罪を確信しているんです。林真須美の子どもであることを隠さない。彼女と同じくらいの強靭さを子どもも夫も持っているんです。
佐藤)それは彼女の強靭な魂の力が共鳴しているわけですよ。そこで彼女を支援する人たちが増えているというのは魂の戦いにおいて、彼女が勝っているんですね。ギリシャ哲学の考え方ですが、魂というのは身体から一定の距離、放れることができるんですよ。ギリシャ語でプシュケーと言いまして、プネウマというのが霊なんですね。日本は霊魂という概念があるから、霊と魂を一緒に捉えがちですが、ギリシャ人の理解では、霊というのは神様が吹き込んだ命の原理で個性がないんです。それに対して魂というのは個性があります。ですから、肉体から一定の距離、放れることができると考えるんです。現代的なかたちでいうと、その人が発信している言葉、その言葉によって人に影響を与えるということです。それを魂が放れるというかたちで古代人は考えた。だから彼女の発する言葉には人間の深層心理を揺さぶる力があるんですよ。「やってない」と。そういうひと言の。表情という身体言語、いろんな人に出した手紙、その行間から伝わるもの。それら全てが彼女の表現ですよ。そこに尋常ならざるものがある。
宮崎)私の母親を見て感じるのは、かつての母親だったらやれる。がんばれる。たぶん、自分と他人という、自分の共同体と他者との関係が相当はっきりしていたわけで、守らなければならないものはわかっていたわけです。林さんは、他人は守ってくれないということもわかっているところで身につけたものが相当あるのではないかと思います。
佐藤)彼女の人生の核において、たぶん、ふたつのことがあるのでしょう。ひとつは、人に言えないようなものすごい苦労をしている。そのときに国が守ってくれなかった。これがふたつめ。そのふたつのことがあるから、本質において反国家的であるように思えます。
宮崎)ただ、林さんが黙秘を貫いたことがよかったのかという問題が残ると思うんです。僕の周りにはアウトローがいっぱいるわけですが、彼らが、おかしいな、地裁の段階で黙秘したらやばいで、アホやなと言うわけですよ。それには理由があるんやろと、言うんです。あの段階で林さんが黙秘したのは、何か理由があるんじゃないかという簡単な問題意識を誰か提起しなければならなかったのではないかと思います。
安田)その点は弁護士の間でも、弁護活動のあり方としても、重要な問題です。昔から左翼の弁護の中では無罪は黙秘、有罪は喋って謝れと。それは左翼の弁護士の美学だったんです。有実の人も無実の人も分け隔てなく一生懸命、弁護してきた弁護人からすると、無実の時こそ無実を叫べ、有実の時はしゃべるなと。なぜやったかなんて自分ではわかりっこない。やったことはやったことで認めて申し訳ございませんと謝って余分なことは言わない。しかしやってない場合はやってないとハッキリ言わなければいけない、というのが、僕たちの感覚なんです。どうもそのズレが起っていてね、いろんな事情があったと思うんですけどね。黙秘することは誰もが危ういと思っていた。黙秘することで悪くとらえられるし、実際にいろんな場面で林さんに不利に働いた。裁判所は黙秘すれば当然、有罪ですからね。どんな場合でも、この人は黙秘したからやってないと思う裁判官は誰一人いません。
宮崎)懲役何回か経験してきた人間は、あれ(黙秘)はヤバいでという、そういう感覚ありますよね。
佐藤)私も逮捕された時、最初は黙秘でいこうと思ったんですが、弁護士からそれはやめたほうがいいと言われました。検事にも言われた。黙秘はやめたほうがいい。とくに特捜事案に関しては、容疑者に対して、検察官の「この野郎……」という感情が強まるので、黙っていると、とんでもない物語を作られてしまいますから。
安田)黙秘すると、より証拠を作られる。彼らはいくらでも証拠を作ることができるんです。逆に、やってないと言ったら、なかなか証拠をねつ造できません。そんなことすると必ず反論されて、潰されてしまいますから。
宮崎)裁判員制度を取入れて、民主主義的な裁判を行うというのであればね、林真須美さんの判決について、裁判所としての責任問題も明確にしなければならないと思います。裁判所としてはこの犯罪についてよく分かりませんけれども、死刑が相当ですとはっきり言うべき義務があるはずです。
安田)有罪というのはなぜやったかも含めて有罪なんです。ところが、判決は、この人(林被告)が犯人なんだから、動機が分からなくてもかまわないと言っている。しかし動機というのは犯人であるかどうかを決める有力な事実なんです。動機が分からないというのは、事件の見立てが間違っているということです。
佐藤)動機すら解明できないんだったら、捜査能力が弱いということですよね。
宮崎)捜査能力が弱いということだから、差し戻すべきなんですよ。もう1回やり直してこいと。
安田)次に問題となるのは、動機が分からなくて量刑ができるのかということなんです。あの事件、犯人を本当に死刑にできるかということが問題です。裁判所は未必の故意だと認定しているわけです。未必の故意というのは、故意と過失の中間くらいの話。殺そうとは思っていない。でもこれをやると人が死ぬかもしれないなというくらいの話。殺してやろうというのと本質的に責任の重さが違います。
佐藤)スーパーに行って豆腐に針を入れておいた。それ飲み込んで人が死んじゃったと。安田)この事件ではそれくらいしか認定できていないんです。しかも動機も解明できていない。それなのに極刑を出す。量刑のいい加減さ、これくらいやっておけば、社会は納得するだろう、世間が大騒ぎしたんだからこれくらいやっておけばいいだろうと。しかし、動機なんて考える必要ないと最高裁はわざわざ判決書に書いている。こんな判決見たことない。裁判員裁判が始まる前に手本を示したんだと思いますよ。
佐藤)一方で、同じ裁判体が防衛医大の教授に対して無罪を出しておいて、こんな感じでやるんですよと2つの見本を示したんですね。
安田)防衛医大の裁判の場合は評議の面白さ、ダイナミズムを示した。この最高裁判決は誰もが喝采した。裁判官の判断が綺麗に分かれているんですから。5人の裁判官のうち、職業裁判官が有罪と無罪に分かれ、弁護士出身の裁判官が有罪と無罪に分かれて。学者出身の裁判官が無罪の方に流れたから勝ったわけで。相撲でぎりぎり土俵際でうっちゃりやった。ゲームとしては面白い。裁判員裁判が始まれば、みなさんも自由闊達に議論できるんですよ。議論というのはこれだけ大切だし、評議というのはこれだけ重いし、それが面白いんですよということを示した。林さんの裁判は、もうひとつの見せ物だった。それを裁判員裁判が始まる前に終わらせた。裁判員裁判が始まってしまうと、どうして事件を起こしたのか、動機に対する疑問が出てくることになるのが見えていますから。 さらに今回の裁判で、異常に感じたのは、私たち弁護団の言うことを何一つ聞かずに、裁判所が公判日時を一方的に決めてきたんです。事務所に電話が来て、スタッフに伝言するんです。決定を今日送ったことを伝えてください、と。私と電話で話そうとしないんです。それくらい今回の裁判にたいする裁判所の姿勢は、おぞましい限りです。
魚住)裁判員制度導入に関して、「これからはミリメートルのモノサシをセンチメートルに持ち替えないと、一般の人はついてこられない。それでも長さはちゃんと測れるのだから」と竹崎博充・最高裁長官が言いましたよね。精密司法といわれていた、これまでの刑事裁判のありかたを変えるということですよね。この発言を聞いて、そんなこと言っていいのかと思いましたけど。
安田)裁判員制度はそうでもしないと成り立たないんでしょう。ですから“市民”が判断しやすいように、公判前整理手続で難しい証拠や、ややこしい証拠は全部捨てられてしまって、3日、4日で簡単に裁判をやってしまう。結局、評議は裁判官のリードになるでしょうし。声の大きい人間に従うことになるでしょう。
宮崎)だいたい人が人を裁くのはおかしいんです。人とは間違いを犯すから人なんでね、人を裁けるのは神様しかいないんですよ。この国は神様が多いんですよって言ってるようなものですね。私は、裁判員制度に反対だけど、裁判員になったら、全部無罪します。こんな腐ったところで人を裁くことはできない。腐ったリンゴの中に腐りやすいリンゴを入れたって同じことだよと言って。
佐藤)ですから、裁判員制度の呪いについて考えてみたいんです。人が人を裁くとどうなるか。とくに、不当な判決を出すと人の怨霊が怖いのではないか。ましてや無罪を主張している人を裁けるのか。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の怪談に「はかりごと」という話があります。怨霊の怖さがよくわかる話なので、それを導入にしてみましょう。
(次回に続く)