戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第一回:水村美苗と「本格小説」
私が、初めて、水村美苗さんという名前を聞いたのは、2003年の冬、オランダのライデン大学で、勉強の日々を送っていた時だった。
当時私は、まだ、心身ともに、相当にぼろぼろの状態だった。
2002年の春に34年勤めた外務省から退官を余儀なくされ、外務省での最後のポストになったオランダの友人たちがつくってくれた、ライデン大学での研究・教鞭のポストに飛び込んでいた。
しかし、退官の諸事情(このあたりは、拙著「北方領土交渉秘録:失われた五度の機会」の冒頭に述べた)によって、心の傷はうずいていた。本当に少数の友人を除いて、もう日本の方とは、会いたくない気分だった。
大学から自転車で15分くらいの場所に、オランダ特有な長屋形式のアパートを借りた。
週に二、三回大学に通う以外は、ほとんどを、屋根裏部屋にしつらえた勉強部屋で、慣れないパソコンを前に、検索と読書と執筆に時間を過ごす毎日だった。
そんなある日、2002年の秋の初めだったと思う。
「ピンポーン」と玄関のチャイムが鳴った。
当時私がどこに住んでいるかは、ほんの僅かの人にしか、知られていなかった。私が世界のどこに住んでいるかは、日本のマスコミが発見したら、まだ、ニュースになる時代だったので、突然の来訪者のベルは、一瞬ギクッとさせるものがあった。
でも、ドアを開けないわけにもいかない。
心がちょっと凍るような気持ちでドアを開けてみると、丸顔の日本人が立っているではないか!
ああ、とうとう、プレスが来てしまったか、と思った瞬間、先方は、破顔一笑、「ライデン大学の大矢です」と述べた。
「ああ~、大矢先生だ!」
もちろん、一瞬遅れて、すぐに、全部、思い出した。
ライデン大学日本学部で日本語を教えている二人の日本人の先生のうちの一人が大矢先生で、オランダ大使時代にライデンを訪れていた間も、何回かお話したことがあった。
先生は、大使を辞めた私がどうなってしまったか心配していたと述べ、自分のいるライデン大学に来られたことを知り、どうしてよいのか迷ったけれど、とにかくお訪ねした、自分の住所はここからすぐそばにあり、よければ、時々雑談したり、自分が定期的に通っているプールにでも、ご一緒しませんかというお話だった。
そこまで踏み込んで考えてくださる方に、心を閉ざす理由は、まったくなかった。感謝・感謝であった。
それから、二週間に一回くらい、一緒に、近所のプールに泳ぎにいったり、少し離れた大矢先生の長屋アパートを訪問して、コーヒーを御馳走になったり、時には、大矢先生のオランダ人の奥様の手料理に預かって夕食をともにしたり、穏やかで、心を洗うような時間をともにするようになった。
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