現代の言葉第11回 歴史

▼バックナンバー 一覧 2013 年 1 月 12 日 東郷 和彦

2013年1月11日

 歴史を大切にしない民族はさみしい。

 残念ながら、日本民族は、歴史を大切にしてきた民族とはいいがたい。

 一見、私たちのまわりは、「歴史」に関する情報で溢れかえっている。本屋では、歴史書のコーナーには新刊本が並び、時代小説は固定客をとらえて放さない。テレビをつければ、歴史探訪で古き良き日本をたずねる番組は新鮮な映像をとどけ、NHKの大河ドラマは安定した視聴率を博している。秀作「小川のほとり」をはじめ、藤沢周平の映画の人気はおとろえないし、名勝史跡にいけば、解説書を手にした「歴女」がひきもきらない。

 けれども、私には、こういうあふれかえる情報は、失ったものを映像によってとどめようとする、あるいは、名勝史跡という「点」によって失われた「面」を回顧しようとする、さみしい試みのように思われる。

 本当に歴史を大切にするということは、そのような次元のものではないはずである。それは、実際の私たちの生活と風景の中に、歴史を残すということである。

 この問題は、江戸期から平成にいたる日本の近代化がはらんでいる根本的な問題であり、あまりにも根が深い。日本の近代史は、江戸期までの前近代としての高度の発展と、明治から終戦までの「富国強兵」としての発展と、戦後の「富国平和」としての発展という三つの大きな転換をとげてきた。その転換の度に、日本は、過去の全否定という恐ろしいエネルギーを使ってきた。その結果、それぞれの時代で、過去の時代の真に優れたものを壊して顧みなかった。日本がたどらざるをえなかった「近代化」の宿命である。

 けれども、もういい加減にしなければいけない。昭和の時代をもって、日本の近代化はある種の頂点をむかえた。グローバリゼーションの到来とともに、日本はもう一度過去と現在を総点検し、おのれの持つ自然と歴史の蓄積からポスト・モダンといってもよい独自の新しい社会を作る大きな機会をつかんだのである。その大事な時期に、私たちは、なぜか漂流し、歴史の破壊としかいえない生活風景を続け、その喪失の悲哀から逃れるために「映像」と「点」による、ブームといってもよい歴史情報の氾濫をひきおこした。

 対策はあると思う。

 まず、小学校からの歴史教育を徹底させよう。史実と文化を含めた歴史を子供のころからのDNAの中に残し、それを受けてこなかった大人たちも、歴史を再勉強しよう。

 同時に、生活の中にひそんでいる歴史の風景を、最新の技術によってほりおこそう。今までとはちがった私権の制限が必要である。その発想は、貧しく散乱した屋内を、そこにある伝統的な素材を生かしながら見事な住空間につくりかえる最近のインテリア・デザイナーのセンスである。それを屋内から、屋外に発揮する。回答は、あと一歩の所に来ているようにも思える。

 「教育」と「技術とセンス」、この二つが両輪となって、新しい時代の歴史の回復がなされると思うのである。

(2011年8月2日 『京都新聞』夕刊)