東郷和彦の世界の見方第二回 ウクライナ和平の動向(その2)
1月20日トランプ氏は「アメリカの未来を自分の力で作り変える」という強烈な就任演説をしたうえで、正式に大統領職についた。ロシアとウクライナへの言及はなかったが、「他国の国境を守るために際限なく資金を提供した」と前政権を批判し、「我々の力は、すべての戦争を止める」と述べたことにより、「即刻停戦」への意思を滲み出させたということであろう。
プーチン大統領は、安全保障会議の席上から新大統領への祝意をのべた。「トランプがこの勝利を勝ち取った勇気を称え」「ロシアとの直接の接触を再開したいとの意向を無条件で歓迎し」、「ウクライナ危機の根本的原因を除去し」、「短期の停戦ではなく、すべての関係する住民と民族の正当な利益が考慮される長期的平和をめざしたい」「もちろん私たちはロシアの国益をまもるべく力を尽くす」と発言した(大統領府ホームページより)。タイミングも内容も、ロシアとして繰り返してきた考えを熟慮の上述べたものと思う。
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プーチン大統領が、アメリカにおける政治変化を見定め、考え抜いた発言をしたのはこれが初めてではない。私は、2024年11月5日にトランプ大統領の当選が確定した直後の11月7日のバルダイ会議での発言をすぐに思い出した。この会議は、毎年秋にロシアで開催される国際情勢に関する大会議で、プーチンは最後の日に総括的意見を発表し、更に様々な聴衆からの質問を聴取する。
プーチンは、大統領選出の確定直後にタイミングを合わせてこの大会議をセットし、冒頭の発言の中でNATOのウクライナへの拡大について厳しい批判を展開した。ところがその後の聴衆との議論の過程の中で、司会者のフヨードル・ルキヤノフから、「ウクライナの中立性が確保されれば、国境について議論が行われると理解してよいか」という質問がでた。プーチンは「ウクライナの中立性が達成できなければ停戦は実現できない」と再度明確に言いきるが、国境については明示的には発言しなかった。
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さてここに、12年にわたりBBCのモスクワ特派員を務め、今はリガ在住で鋭い論評をだしているレオニード・ロゴージン(Leonid Rogozin)という人がいる。彼は永年養ってきた嗅覚で、プーチンにとりロシアの安全保障の確保は「交渉する余地のない絶対条件」だが、領土の処理については幾分の柔軟性があることを喝破し、プーチン・ルキヤノフのロシア語のやりとりを分かりやすい英語にして解きほぐす見事な論評を「インテリニュース」というウェブ雑誌の11月7日号に投稿した。
いまヨーロッパでウクライナの正義をどこよりも強く主張しているのはイギリスであり、例えば最近最も耳目をひいたのは、1月16日の「英ウクライナ100年協力協定」である。私は、そのイギリスのBBCで長期の訓練を受けたロゴージン氏に関心をもつようになった。彼は最近更に鋭い論考を重ね、1月9日、The Ideas Letterというウェブ雑誌に、「ウクライナの縁(Edge)の闇(Darkness)」という論評を掲載し、トランプが出てきても来なくても、ウクライナはもはや戦争を終わらせるしかないという、ウクライナにとっては悲痛な現地ルポを報道している。
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さて、ここで少し予期しない出来事がトランプ側から発生した。1月20日夕刻、ホワイトハウスにもどった後のプレスからの質問に対し、トランプ大統領が、プーチンについてかつてない批判的な発言をしたとの報道が、1月21日付けのニューヨークタイムズを始め世界中をかけめぐったのである。
私が入手した最も正確な発言記録は、モスクワ在住のアメリカの政治分析家でMGIMOの博士号を取得した、Andrew Korybko氏によるので、21日の同氏のニュース・レターからトランプ発言を引用しておきたい。
「ゼレンスキーはディールをしたいと言った。プーチンがしたいのかわからない。私は、彼はディールをすべきと思う。しないことで彼はロシアを破壊する。ロシアは大きな混乱をかかえている……。私はプーチンとはうまくやっており、彼はディールをしたがっていると希望している」
更に1月23日の日経電子版は、トランプ大統領が22日のSNSで「いますぐこの馬鹿げた戦争をやめろ。すぐに取引しないなら、高水準の関税、制裁を科す以外に選択肢はない」とプーチンに警告したと報じている。
自分の見るところ、安保会議でプーチンが述べたことは、バイデン政権の下でなくなってしまった対話の再開を喜び、喜んで対話をしたいというもので、このプーチンを相手に「早くディールを」という圧力をかける言辞が何処からでてくるのか。論理的積み上げを好むプーチンの思考法と直感的な結論を好むトランプの差異からくるのか。いずれにせよ、プーチン・トランプの方向性に本質的矛盾はないと思う。慌てずに事態を注視することとしたい。
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しかし、Korybko氏が書いたことで一点気になる点がある。トランプは「百万のロシア兵と70万のウクライナ兵が死んだという数字を我々はもっている」と言ったというのである。細かいことだが、この数字はちょっと気になる。ウクライナ戦争の惨禍について重要な基礎データになる「双方の兵士の死傷者数はいくらなのか」について、私たちは何を知っているのか。
この問題は、そう簡単に答えが出ない。一般論として、双方とも自国の死傷者は少なめに、敵国の死傷者は多めに公表する傾向がある。ウクライナ側には、西側からの支援を多くするために、自国の死傷者を多めに発表する傾向もあるかもしれない。けれども、これまで発表された数字の概略はおおむね以下のとおりだった。頭に入れておいた方が良いと思うので、以下に若干の整理をしておきたい。
死傷者計算の対象期間:2022年2月24日から。
1.ウクライナ発表によるウクライナ側の死傷者
2024年2月までの死者:3万1000; | 2024年12月までの死者:4万3000 |
2024年12月までの傷者:37万 |
2.ウクライナ発表によるロシア側死傷者
2024年12月までの死者:19万8000 | |
2024年12月までの傷者:55万 |
3.ロシア国防省発表によるウクライナ側死傷者
2024年12月までの死傷者:100万 | |
内数としての2024年:56万 |
事態の目前の変化を追うとともに、次回は、いまのウクライナの状況をもう少しくわしく述べておきたい。