わき道をゆく第118回 「満州」と岸を支えたもの

▼バックナンバー 一覧 2017 年 9 月 8 日 魚住 昭

 アカデミズムの世界で広くその名を知られる京大人文科学研究所の山室信一教授は、私の高校時代のクラスメートだ。
 といっても彼は飛び切りの秀才。私は部活が命の体育会系だったから、一緒に遊んだ記憶はない。私が今もかすかに覚えているのは、小柄なわりに頭が大きくて、生真面目な顔をした山室君の学生服姿である。
 その山室君の労作『キメラ—満洲国の肖像 増補版』(中公新書)を読んだ。13年前に初版が出たとき、ずいぶん話題になったから、すでに読まれた方も多 いにちがいない。
 今ごろになって言うのも失礼だが、一読三嘆。中国東北部の大地に忽然と現れて消えた幻の国の本質に迫 った傑作だった。
 私は半世紀前の熊本でこんな立派な仕事をすることになる人と机を並べていた。と思うだけでちょっぴり誇らしくなった。
 本の中には最近、私が追いかけている「昭和の妖怪」岸信介も登場する。とくに興味深かったのは、増補版で新たに加筆された「補章」の記述だった。
 山室教授は、満州国政府で岸の忠実な部下だった古海忠之(前回登場したアヘン取り引きの責任者である)の言葉を引きながら、こう述べている。
〈総務庁次長を務めた古海忠之は「満洲国というのは、関東軍の機密費作りの巨大な装置だった」とみていますが、満洲国のみならず、陸軍がアジア各地で広汎な活動ができたのも、満洲国が吸い上げる資金をつぎ込めたからだといわれています。基本的な資 金源はアヘンでした〉
 山室教授によると、アヘンは満州国の財政を支えただけでなく、機密費の主な資金源になった。そのため満州や蒙古各地でケシを栽培させたほか、ペルシャなどから密輸した大量のアヘンを満州国に流し込んだという。
 それが莫大な利益を生み、軍の謀略資金になった。関東大震災(1923年)直後、無政府主義者の大杉栄ら3人を殺したとされる元憲兵大尉・甘粕正彦が、満州で「影の皇帝」といわれるほどの権勢をふるったのもそうした裏金があったからだ、と指摘して教授はこう語る。
〈甘粕はまた中国人労働者を満洲に雇い入れる斡旋事業においても、裏金をつくり出していました。岸信介にしても一介の官僚でありながら、甘粕の特務工作に対してその当時の額面で一 000万円(卸売物価の上昇率からみて現在の八〇億〜九〇億円にも相当します)を手渡したりしています〉
 ただし、甘粕はこれらの資金を着服したりはせず、満洲国から華北や蒙彊へ日本が進攻していくための特務工作に使用したといわれている。だから〈満洲国はそうした「第二の満洲国」造り工作の策源地であり、資金源であったということになります〉と教授は解説する。
 なるほど、そう考えると、関東軍が陸軍中央の統制を無視して暴走を繰り返した理由も分かってくる。彼らは満州でアヘンという打ち出の小づちを手に入れた。だから中央の顔色をうかがう必要がなかったのだ。
 それにしても、岸から甘粕に渡されたという1000万円は眉に唾をつけたくなるほど巨額のカネである。ホ ントだろうか。
 山室教授が根拠にしているのは、戦後になってからの古海の証言だ。その全容は『新版 昭和の妖怪/岸信介』(岩見隆夫著・朝日ソノラマ刊)に収録されているのでご紹介しておく。
 古海によると、岸が満州国政府の高官だった1930(昭和5)年代後半、岸と甘粕を中心に古海らを加えて約10人が会を作っていた。会の名はなかったが、そこでアジア政策をどうするか、日本での情宣活動はどうあるべきかが話し合われた。
 会は単なる懇談に止まらず、具体的な行動もとった。日本内地の新聞の乗っ取りを企てたり、甘粕による排英工作(=英国勢力をアジアから駆逐する謀略工作)を支援したりした。その意味では会というより一派と呼んだほうがふさわしかった。
 古海 が言 う。
〈甘粕という人はたくさんのカネを持っていたが、使う方もバカ大きくて、そういう意味では、ケタ外れのスケールをもっていましたね。大量の工作資金を必要とするのに、甘粕は決して自分で資金づくりをしない。そのため、随分私どもも甘粕のために資金作りをしたものです〉
 当初、甘粕には満洲国総務庁の機密費を支出していた。ところが、1937(昭和12)年に大蔵省出身の星野直樹が総務長官になって「機密費の流用はまかりならん」ということになり、甘粕は資金の調達に困ってしまった。そのため甘粕から頼まれた古海が岸に取り次いだ。「甘粕が困っている。一千万円必要だといっている」
 古海が言うと、岸が答えた。
「何か担保はないか」
「鉱山の採掘権を持っている 」「そうか。採掘権さえあれば大丈夫だ。それくらいはたいしたことではない。いままで一度も鮎川から搾ったことがないから、あの男から取ってきてやる」
 岸はあっさり資金調達を引き受けた。鮎川とは新興財閥・日産コンツェルンの総帥・鮎川義介(岸の縁戚)のことだ。日産は1937年末、岸らの誘致で本社を満州の新京(現・長春)に移転し、社名を満州重工業開発に変更した。古海が言う。
〈岸さんは鮎川に甘粕の採掘権を1000万円で売りつけたわけです。甘粕は満州建国の功労で関東軍からあちこちの鉱山の採掘権をもらっていたのです。その後、鮎川は岸さんの斡旋で甘粕にカネを出し続けていました〉
 額が真実かどうかともかく岸は膨大なカネを自由に動かしたようだ。『岸信介—権 勢 の政治家—』(岩波新書)の著者・原彬久東京国際大名誉教授は〈岸は同僚官僚はもとより、民間人、それもいわゆる満州浪人、無頼漢に至るまで彼のそばに来るものには惜しげもなくカネを与えたといわれる〉と記している。
 私が気になるのは、岸の豊富な資金がアへンの密売によって作られたものだったのかどうかだ。その謎に迫るには、上海の「阿片王」里見甫の証言に耳を傾けなければならない。(了)
(編集者注・これは週刊現代に連載した「わき道をゆく」の再録です)