わき道をゆく第137回 生き残った岸の民族主義

▼バックナンバー 一覧 2018 年 12 月 6 日 魚の目

 そろそろ、岸信介とは何者だったかという問いに私なりの答えを出さなければならない。たぶんそれは、今の首相の安倍晋三とは何者なのかという問いにつながっていくはずだ。
 岸は、巣鴨プリズンで記した『断想録』で1941(昭和16)年12月8日の開戦時の模様をこう振り返っている。
〈十二月八日星野内閣書記官長より臨時閣議召集の電話が掛つて来たのが同日の未明四時頃であつた。首相官邸に各大臣の顔の揃つたのがまだ明けやらぬ午前六時頃であつた。我等は始めて真珠湾攻撃、馬来半島上陸、シンガポール爆撃等の報道 を聞いた。「真珠湾とは何処だ」と質問した某大臣があつた〉
 
 岸は海軍大臣による真珠湾の戦果の報告を〈昂奮感激の中〉に聞いた。 この後、宣戦の詔勅を審議する枢密院の会議に出席し、各大臣が詔書に〈副書〉したのは午前10時すぎだったと思うと述べ、こうつづける。
〈此副書に当りては余は手のかすかに震へるを覚えた。全く感激の極みであり、開闢以来未曽有の大戦に国運を賭する此の歴史的詔書に対する国務大臣の副書であつた〉
 岸には閣僚として開戦に反対すべきだったという悔いは微塵もない。無数の戦死者への負い目や責任感も感じられない。あるのは歴史的な詔書に署名したという胸の昂ぶりだ。岸にとって〈大東亜戦争〉は〈聖戦〉であり〈侵略戦争と云ふは許すべからざる〉ことなのである。
 この論理は、戦中に代議士32人が作った護国同志会(=実質的な岸新党)の「聖戦完遂」論と変わらない。戦後、 そのメンバーらが岸派に結集した。
 つまり岸の戦前と戦後は、思想においても人脈においても断絶していない。通奏低音のように一貫して流れるのは聖戦イデオロギーである。その辺りに彼が戦後政界で急速に復活できた秘密もあるのかもしれない。
 それにしても、わかりにくいのは、岸ほど怜悧な人が聖戦イデオロギーに固執した理由である。それを知るために、少し堅苦しいが、次の『断想録』の一節を読んでいただきたい。岸はあの戦争の原因を、遠因と近因の二つに分けている。
〈先進国の二世紀に亘る世界侵略に依る既得権益の確保を目指す世界政策が後進の興隆民族に課したる桎梏、之を打破せんとする後進興隆民族の擡頭、之れ其の遠因たり。日米交渉に於ける日本の動きの取れぬ窮境、 之れ其の近因たり〉
 後発の資本主義国である日本が、欧米の先進列強によるアジア支配を打ち破ろうとしていたことが遠因。日米交渉で米国側が無理難題を吹っかけてきたことが近因、つまり開戦の契機になったと言うのである。
 岸は大東亜共同宣言(1943年)などを見よと言う。〈万民万邦をして其の所を得しむ〉という理想は言葉だけでなく誠意をもって実行すると約束したもので〈日本の存する限り、大和民族の此の地上に在る限り〉光り輝くとして、こう語る。
〈而して吾々は過去に於て未だ曾て所謂侵略戦争を為したるの歴史を有せず。現在も然り。又将来も断じてあるべからず〉
 岸の先進国VS後進興隆民族という捉え方は、前回ふれた近衛文麿の「持てる国」VS「持たざる国」論と基本は同じだ 。両者の対立にのみ目を向けることで、その踏み台になるアジア諸国の痛みを無視している。
 彼が近因として挙げた〈日本の動きの取れぬ窮境〉はそもそも満州事変以来の日本の中国侵略がもたらしたものだ。近衛は「僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した」と自らの過ちを認めて死んだが、岸にはそうした自省もみられない。
 岸が言及した大東亜共同宣言に至っては、ここで言うのも恥ずかしくなる虚言の羅列である。「万邦共栄」「世界平和確立」などの美名のもとにどれだけ多くのアジアの人々が悲惨のどん底に叩き込まれたことか。
先日亡くなった三笠宮崇人親王(昭和天皇の末弟)が、陸軍参謀として派遣された中国の戦地で「略奪暴行を行いながら何の皇軍か。現地の一般民衆を苦しめながら聖戦とは何事か」と軍幹部以下数百人を叱責した。
 が、岸はそうした事実に目を向けない。幼時から長州という風土で叩き込まれてきた選民思想に回帰し、『断想録』に〈吾は日本人なり。日本人として生き、日本人として死なんのみ〉〈戦敗は日本国民が選ばれたるものとして立ち上るべき天の試練である〉と記す。
 結局、3年に及ぶ巣鴨プリズン暮らしで岸を支えたのは吉田松陰ゆずりの民族主義だったのかもしれない。以前紹介した故船戸与一さんの『満州国演義』に松陰の言葉があった。
 松陰は欧米へ の対抗策として大略「隙に乗じてカムチャッカ・オロッコを奪い、琉球を諭し、朝鮮を責めて貢を奉らせ、北は満州の地を割き、南は台湾・ルソンの諸島を収めて進取の勢いを示せ」と書き残した。
 日本の近代はその通りのコースを歩み、1945年の破局を迎えた。船戸さんは物語のクライマックスで「結局は民族主義の問題だった」として登場人物に次のように語らせていた。
「(明治維新後も)松陰の打開策は生きつづけた。民族主義は覚醒時は理不尽さへの抵抗の原理となるが、いったん弾みがつくと急速に肥大化し覇道を求める性質を有する。日本の民族主義の興隆と破摧。たった九十年の間にそれは起こった」
 しかし敗戦で砕け散った民族主義もやがて息を吹き返す。その政治的象徴となっ たのが「憲法改正」を唱える岸だった。
 岸が目指したのは単なる条文変更ではない。国家の基本法作りを米国の主導権に委ねた屈辱を歴史から消し去ることだ。だから条文変更より、改憲そのものが自己目的化する。
 安倍晋三は政治的象徴としての岸の身代りだ。人々は安倍の中に、岸が戦前から戦後に橋渡しした民族主義を見出し、喝采する。たとえ、それが〈弾みがつくと急速に肥大化し覇道を求める〉としてもである。(了)
 《編集者注・これは週刊現代に連載した「わき道をゆく」の再録です。参考文献・『岸信介―権勢の政治家―』(原彬久・岩波新書)『岸信介の回想』(伊藤隆ほか著・文藝春秋刊)》