わき道をゆく第136回 万代までも伝え残さん
1945(昭和20)年12月15日、荻窪の荻外荘は夜更けまで友人たちの出入りが絶えなかった。主人の近衛文麿がGHQの逮捕指令により、翌16日、巣鴨プリズンに出頭することになっていたからだ。
近衛の娘婿・細川護貞の『細川日記』によれば、家族や側近の者たちは近衛がこの夜、自殺するのではないかと心配していた。近衛が風呂に入ると、その間に毒物がないかどうか、彼の衣服や部屋の中を探し回った。
しかし、妻の千代子は夫の死を覚悟していたらしい。次男の通隆(当時13歳)から毒物探しについて相談される と「あなたは皆さんと一緒に探されたらいい。しかし私は、お考えの通りになさるの がいいと思うから探しません」と言った。
午前1時ごろ、通隆は父のベッドに入り、いろいろなことについて語り合った。日本の将来が共産主義化されること、したがって国体護持が極めて難しいこと、しかし、近衛家に生まれた者はあくまで国体護持に努めるべきこと……。
午前2時ごろ、近衛は「僕の心境を書こうか」と言い、近衛家の便箋に次のように記した。
〈僕は支那事変以来、多くの政治上過誤を犯した。之に対し深く責任を感じて居るが、所謂、戦争犯罪人として、米国の法廷に於て、裁判を受けることは、堪へ難いことである……〉
午前3時ごろ、通隆は意を決して「明日は(巣鴨プリズンに)行って下さいますね」と訊いた。近衛は「ああ、そりゃ行くとも」と答えた。通隆が 「今日は親子で一緒に寝ましょうか」と言うと、近衛は「僕は人がいると寝られないから一人にしてくれ」と言った。
午前6時、千代子が近衛の部屋に燈があるのを見て、入っていったら、夫はすでにこと切れていた。体の温かみは残っていた。青酸カリ自殺だった。
かつて国民の期待を一身に浴びた近衛が、なぜこんな死に方をしなければならなかったのだろうか。岡義武著『近衛文麿―「運命」の政治家―』(岩波新書)から引用させてもらえば、長年の友人だった侯爵・有馬頼寧はこう記したという。
「近衛公が自ら死を選ぶだけの決心があるなら、其勇気を何故もつと早く出さなかったか。太平洋戦争が日本にとつて絶対に避けねばならぬと信じてゐた公が、又公の決心如何によつてそれが避け 得 られる状勢にあつたのだとしたら、何故其時に死を決してそれを阻止するだけの覚悟をされなかつたか」
これは戦後の日本人の多くが抱く想いだろう。日中戦争の勃発・拡大、日独伊三国同盟(1940年)の締結、対米戦争への道を決定づけた南部仏印進駐(1941年)など、いずれも近衛内閣時の出来事だった。
だが、それらは近衛の本意ではなかった。彼は軍部の圧力に抗って敗れたのだと戦後になって言われたが、本当だろうか?
私はそう思えない。近衛の思惑は土壇場の対米開戦回避を除けば、大筋において、軍部の思惑とそれほど変わらなかったのではないか。彼の遺稿『元老重臣と余』を読む限り、そう判断せざるを得ない。
この遺稿で彼は、国内対立で最も深刻なのは「持て る者」と「持たざる者」の対立であり、国際間では「持てる国」と「持たざる国」の対立だと述べる。
〈これらの対立を緩和するには、国際間にありては国際正義、国内にありては社会正義を、指導精神とすべし。/正義とは何か。結局分配の公平に帰す。(略)国際正義は世界領土の公平なる再分配まで行かなければ徹底せず。然れどもこれは空想なり〉
次善の方法として近衛は資源獲得の自由、販路開拓の自由などを挙げるが、これもまた経済的国家主義が盛んな時代では実現困難として、こう語る。
〈国際正義の実現するまでの間、所謂「持たざる国」の部類に属するわが国は、わが民族自体の生存権を確保しおかざるべからず。わが国の大陸政策は、この生存権確保の必要に本づく〉
つまり「 持たざる国」という弱者の立場に身を置いてみせることで自国の行為を正当化し、その犠牲になるアジア諸国の痛みから目をそらすのである。
近衛によれば、満州事変(1931年)は、列国の経済ブロックによる経済封鎖の〈暗雲〉が日本を覆おうとしたとき〈暗雲を貫く稲妻〉のように起きたものだ。1937年に始まった日中戦争も〈日本として辿るべき必然の運命〉だった。
近衛は〈運命〉という言葉で自らの〈政治上過誤〉を正当化しようとしたかのように見える。彼だって軍部の強硬姿勢に同調することの危うさを知らなかったわけではないだろう。しかし彼は、それを危ぶむ元老の西園寺公望にこう語っている。
〈一日も早く政治を軍人の手から取り戻す為には、まず政治家がこの運命の 道を認識し、軍人に先手を打って、この運命の道を打開するに必要なる諸種の革新を実行する外にない。(略)ただ軍部の横暴を抑えることばかり考えていても、永遠に政治家の手に戻って来ますまい〉
わかりにくい論理である。軍部のお先棒を担ぐことを正当化しているだけではなかろうか。
近衛の自死より約3カ月前の9月12日、岸信介は山口県の実家のラジオで自分にGHQの逮捕指令が出たことを知った。
後に、岸が巣鴨プリズンで書いた『断想録』によれば、彼も終戦以来、生か死かの問題を真剣に考えてきた。終戦直後は何度か死を決したこともある。
それでも死ななかったのは生に執着したからではない。今度の戦争が侵略目的ではなく、日本の生存のため誠にやむを得ないもの だったことを後世に伝えるのが、開戦の詔書に副書した自分の役目だと思ったからだ。
一高時代の恩師は「二つなき命に代へて惜しきものは/千載に朽ちぬ名こそありけれ」と暗に自決を勧める歌を送ってきた。 それに岸はこう返した。
名に代へて聖戦の正しさを
万代までも傳え残さむ
自死した近衛と、生きる道を選んだ岸。二人の明暗はくっきり分かれる。(了)
(編集者注・これは週刊現代に連載した「わき道をゆく」の再録です)