わき道をゆく第148回 日本会議とNHK番組改変(3)
名著の誉れ高い『増補 戦後の右翼勢力』(勁草書房)の著者・堀幸雄氏の言葉を借りるなら「軍服姿の右翼」から「背広姿の右翼」への変身である。
その大衆運動の戦略を描いたのが、いまの日本会議を事務総長として取り仕切る椛島有三氏だ。彼は谷口思想の心酔者で天性のオルガナイザーだった。長崎大学在学中に全共闘や共産党系の民青に対抗して民族派学生運動を組織し、自治会の主導権奪還に成功した経歴を持っていた。村上さんの回想。
「椛島さんは長大を出て、上京して一途に日本青年協議会(生長の家の学生OB組織)で民族派の運動をやっていた。彼は名誉栄達や金を求めず、面倒見もよかったから学生たちから尊敬されていた。彼が一声かければ動く若い人が全国にたくさんいた。その彼が『日本を守る会』事務局に入ってくれたので、彼と二人三脚で運動を進めたんで す」
ちなみに当時の日本青年協議会委員長は今の安倍首相側近の衛藤晟一参院議員。書記長が椛島氏、政策部長が今の日本政策研究センター代表で首相ブレーンの伊藤哲夫氏。3人とも日本会議の中核メンバーである。
村上さんの証言によると、椛島氏は大衆運動のいろんな戦略や戦術に長けていた。各地で人手が必要なときは日本青年協議会傘下の学生らを動員した。
たとえば「守る会」は1977年秋から元号法制化を求める地方議会決議運動を始め、翌年10月までに全国1016市町村の議会決議を達成して政府に圧力を加えるのだが、この「地方から中央へ」という戦略を考え出したのも椛島氏だった。
こうした地方の動きに呼応する形で1978年7月、「守る会」を中心に「元号法制化実現国民会議」が作られる。議長に石田和外・元最高裁長官が就き、音楽家の黛敏郎が代表委員の1人になった。椛島氏は国民会議の事務局長として戦略を考え、さらに世論を盛り上げるため全国47都道府県にキャラバン隊を派遣した。
自民党や民社党、新自由クラブによる超党派の国会議員連盟も作られ、同年10月、日本武道館に2万人を集めて総決起国民大会が開かれた。動員の中心になったのは生長の家や佛所護念会、世界真光文明教団、明治神宮や神社本庁といった「守る会」に結集した宗教団体だった。
翌79年6月、全国的な気運の高まりの中で元号法案は国会を通過する。右派三十余年の宿願が「守る会」(+日本青年協議会)のわずか2年の運動で解決されたのである。椛島戦略 の効果は絶大だった。以来、椛島氏をはじめとする日本青年協議会の面々、つまり谷口雅春の思想を核に育った人々が”隠れた主役”となって右派の運動をリードしていく。
元号法制化に成功後、せっかくできた国民会議を解体するのはもったいないという声が各界から上がった。そこで1981年春から各地の生長の家の支部を拠点にして「日本を守る県民会議」を次々と立ち上げ、その地方からの盛り上がりを受ける形で同年10月、政財界、学界などの代表者たちからなる「日本を守る国民会議」が誕生した。
事務局の顔ぶれは「守る会」とほとんど同じだった。2つの組織はそれから16年後の1997年に合併して日本会議が生まれることになるのだが、合併2年前の95年、彼らの力の大きさを見せつける出来事が起きる。
この年、自社さ連立内閣の村山首相は戦後50年決議の採択を目指していた。が、連立与党の自民党は決議推進派と慎重派に分かれていた。慎重派を後押ししたのが、椛島氏らが率いる「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」である。
「守る会」と「国民会議」は前年4月「終戦50周年国民委員会」を立ち上げ、戦争謝罪決議の反対署名をはじめていた。その年秋には「国民委員会」の呼びかけで各地の県議会などで戦没者追悼の決議が相次いで行われ、翌年3月、「国民委員会」が謝罪決議反対署名506万名分を集めて国会に請願した。
そんな状況下で森喜朗幹事長や加藤紘一政調会長らが何とか与党間の合意を取りつけようと奔走した。当時すでに「参院のドン」と呼ばれていた村上さんの回想。
「焦点は、決議で先の戦争が侵略戦争だったことを認めるかどうか、そしてアジア諸国に対する植民地支配に言及するかどうかでした。自民党五役は、私を除いて皆決議をやるべしと主張していた。私は侵略戦争だと認めるなんて断じてできないと突っぱねていた」
交渉が大詰めを迎えたのは95年6月6日夜だった。どんな内容なら慎重派が了承できるかと加藤政調会長らが文案作りを繰り返した。その文案を衆院役員室で「これならどうです」と村上さんに提示する。彼はそれを参院幹事長室に持ち帰る。
幹事長室は、椛島氏をはじめ日 本青年協議会(=後の日本会議の事務局)の関係者らに占拠されていた。彼らは文案を見て「いや、これじゃ駄目だ」「この文言はああだ、こうだ」と言う。村上さんは加藤政調会長のもとに引き返し「こんな文案じゃ受け入れられない」と伝える。その繰り返しで夜が更けていった。
最終的に加藤政調会長らが提示してきた文案はこうだった。
〈(前略)世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行った【こうした】行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する(後略)〉
村上さんが口頭で伝えられた文案には【こうした】が入っていなかった。であれば、日本が「植民地支配や侵略的行為」を認めたことにはなら ない。その辺が極めて曖昧になるから参院幹事長室を占拠する連中も納得できる。村上さんはそう思ってOKサインを出した。じゃ、これでいこうと、その場でシャンシャンシャンと話がついた。
再び村上さんの回想。
「散会後に決議を成文化したペーパーをもらいました。その場で中身を確認しておけばよかったんですが、そうせず幹事長室に戻った。それで皆(日本青年協議会の面々)に『だいたいこっちの要望通りになったから、これで決めたよ』とペーパーを見せたら、皆が『何だ、これは!村上先生おかしいじゃないか』と言い出したんです」
村上さんが改めてペーパーを見ると、加藤政調会長らから口頭で伝えられた文案と明らかに違う。【こうした】がいつのまにか挿入されていた。これ だと日本が侵略戦争をしたことを認めてし まうことになる。
しかし、村上さんはついさっき役員会で了承し、その役員会は「村上からOKが取れた」と言って散会してしまった。今さら取り返しがつかない。村上さんがつづけて当時を振り返る。
「椛島さんらはものすごい勢いで怒った。私が彼らをペテンにかけたと言うんです。なかには私のネクタイをひっつかまえて怒鳴る者もいて、参院幹事長室は大騒ぎになった。とにかく目の血走った連中が『絶対阻止』を叫んで大勢押しかけて来ているわけですからね」
村上さんにしてみればペテンにかけられたのはむしろ彼だった。役員会で聞いた文案には確かに【こうした】はなかった。
進退窮まった村上さんはそこで決断した。「衆院が決議するのはもうやむを得ない。しかし参院では自 分が責任をもって決議させない。だから了承してくれ」と椛島氏らに言った。それでどうにかその場は収まった。
村上さんは約束通り、参院での戦後50年決議をさせなかった。参院の主導権は村上さんの手にあったから議員運営委員会の段階で封じ込めたのである。
これは極めて異例の事態だった。決議は衆参両院の全会一致で行うのが国会の習いだ。言ってみればそれが日本青年協議会の介入で覆されたのである。
日本青年協議会の母体だった生長の家は既に代替わりして政治と絶縁し、創始者・谷口雅春の「明治憲法復元論」を封印しリベラル路線へ舵を切っていた。
本来なら谷口思想を奉じる日本青年協議会は解体されるところだが、椛島氏らは教団を離れた後も協議会をつづけ 、「参院のドン」のネクタイを締めあげるまでの力を蓄えていた。そのバックになったのが、彼らが事務局をつとめる「守る会」と「国民会議」の組織力であることはいうまでもないだろう。
いま日本会議(+日本青年協議会)は、この夏の参院選後を見据えて憲法改正を求める地方議会決議や署名運動を大々的に進めている。その原動力になっているのは、戦前回帰を目指す谷口雅春の皇国思想と、椛島氏の「地方から中央へ」の大衆運動戦略だろう。
そんな日本会議の正体に関心が集まりだしたのは、昨年春、安保法制の国会審議が始まってからだ。日本外国特派員協会での記者会見でこんなやりとりがあった。質問者は英誌エコノミストのマクニール記者。答えたのは慶応大名誉教授の小林節さん( 憲法学)。
小林さんは例の憲法審査会で安保法制を「違憲」と言い切った3学者の1人である。もともとは憲法学会で改憲派を代表する存在だったが、安倍政権の解釈改憲については、立憲主義の根幹を揺るがすものだとして真っ向から反対していた。
マクニール記者「集団的自衛権行使を合憲としている憲法学者が3人おり、彼らは全員、日本会議に属している。それは何を意味している のか?」
マクニール記者の言う3人とは、菅官房長官が安保法制を支持する憲法学者として名を挙げた西修・駒沢大名誉教授ら3氏を指す。
つまりマクニール記者はこう訊いたのである。日本の憲法学会に数えるほどしかいない”合憲派”の顔ぶれを見ると、そろいもそろって日本会議の関係者だ。これはどういうことか。単なる偶然とは思えない、と。
小林名誉教授「私は日本会議にはたくさん知人がいる。彼らに共通する思いは第二次大戦での敗戦を受け入れがたい、だからその前の日本に戻したい。日本が明治憲法下で軍事5大国だったときのように、米国ととともに世界に進軍したいという思いの人が集まっている。よく見ると、明治憲法下でエスタブリッシュメントだった人の子孫が多い。 そう考えるとメイクセンス(理解できる)でしょ」
さすが小林名誉教授である。日本会議の本質を突いている。改憲が日程に上ろうとしている今、必要なのはこうした的確な分析だ。かつての私の体験が読者のメイクセンスにわずかでもお役に立てればと願いながら筆をおくことにする。(了)(編集者注・これは朝日新聞の『月刊ジャーナリズム』に書いた原稿の再録です)