Nさんへの手紙第3信 主体性の確立?

▼バックナンバー 一覧 2015 年 7 月 23 日 四茂野 修

 時代の流れに乗ってただ流されていけば、やがて訪れる悲惨な破局の中でニーメラーや伊丹のような後悔を噛みしめることになる――近頃そんな思いにしばしばとらわれます。でも、津波のような巨大な力で押し寄せるこの時代の動きを押し 返すことなど、できるのでしょうか。
  問題はそれだけではありません。前回紹介した伊丹万作の文章は、戦争に協力した映画人を追放する呼びかけに勝手に名前を使われたことへの抗議・批判として 書かれたものでした。時の権力者によってだけでなく、それに抗する側からも人はだまされそうになるのです。だまされないということは、そう簡単なことでは ありません。
 実は私のこの思いは、ずっと昔のある体験とつながります。私事になって恐縮 ですが、少し書かせてください。

 私が高校生の頃、同じ高校の先輩から次のような話を聞かされました。
  「人類社会は奴隷制から封建制へ、そして資本制へと歴史的に発展してきた。 この資本制社会は必然的に社会主義社会へと発展し、誰もが平和に幸せに暮らせる素晴らしい社会が到来する。ところがこの必然的な流れを無理やり押しとどめ ようとする反動勢力が、人々をウソでだまし、妨害をしている。そのようなウソにだまされず、反動勢力と闘い、歴史の必然的な流れを進めるのが正しい生き方 だ。君もそのような生き方を一緒にしてみないか。」
 ベトナム戦争が次第に激しさを増していた頃で、日本政府が戦争に加担するなか、何かをしなけ ればいけないと思った私は、どこか心の底にひっかかりを感じながらも、彼らとしばらく行動を共にしました。やがていくつかの問題で対立して彼らから離れた のですが、その最大の理由は彼らの言う「歴史の必然性」というものが嘘くさく 感じられたからです。「日本共産党の指し示す方向こそ、歴史の必然性にもとづく正しい方向だ」という議論の仕方への違和感に耐えられなくなったのでした。

  その頃、イギリスの作家、ジョージ・オーウェルが書いた『カタロニア讃歌』 を読みました。1936年に発足したスペインの人民戦線政府に対し、ヒトラーに支援されたフランコ将軍が反乱を起こします。これに対して世界中から数多く の若者が「奴らを通すな(ノー・パサラン)」の合い言葉の下に義勇兵としてフランコ軍と戦う人民戦線の側に参加しました。その中の一人だったオーウェルが 自分の体験を綴った本です。『大地と自由』(ケン・ローチ監督)という映画にも描かれていますが、人民戦線の中でソ連の支援を受けて勢力を増したスターリ ン派は、主導権を握るために内戦のさなかに自派以外の者に銃を向けたのでした。オーウェルは命からがらスペインから脱出します。私がスターリン主義という ものを実感をもって知ったのはこの時でした。
 さらに1956年に起きたハンガリー動乱をめぐるイギリス共産党機関紙『デイリー・ワーカー』の特 派員ピーター・フライヤーの記録(『ハンガリーの悲劇』)を読んだことが追い打ちをかけました。「労働者の祖国」と言われたソ連の戦車が、ハンガリーの労 働者を大量に殺戮したのです。フライヤーの書いた記事は『デイリー・ワーカー』への掲載を拒否され、フライヤーはイギリス共産党を離れます。
 ベトナムを侵略したアメリカやそれに加担する日本の政府がわれわれをウソでだましているのと同じように、ソ連や日本共産党もまたウソでわれわれをだましている――それが当時私の抱いた思いでした。

  同じ頃に近所の古本屋で梅本克己の『過渡期の意識』を見つけました。本棚にあったこの本を何度も手に取りながら、ポケットの中の金と見比べていると、店の 親父が「こっちにもっと安いのがあるよ」と言って奥から別の一冊を持ってき てくれました。後から考えると二冊とも同じものだったに違いありません。学生服姿で一見して高校生とわかる私に、親父が同情してくれたのだと思います。
 買ってはみたものの、西田幾多郎も田辺元も読んだことのない私には、とても歯がたたない内容でしたが、この本に強く惹かれるものを感じたのは、上に述べたような体験があったからです。
  この本で「主体性」という言葉に出会いました。「だまされないためには主体性が必要だ」と思いました。ではどうしたら主体性を持つことができるのでしょう か。梅本はその答を書いていません。「主体性の秘密を解き明かし、それを自分のものにした時、だまされることのない確固とした自分ができるはずだ。それま で修行・求道の道を行くほかない」 ――当時の私はこう考えました。『過渡期の意識』に出てくる梅本の「過渡」という言葉が自分にぴったりするように感じられました。

〈過渡期は単に否定されるべき仮象でみたされているのではない。またそれは一度渡ってしまえばもはや用のない天国へのかけ橋のようなものでもない。過渡期はたえず繰り返される。〉

〈過渡期を批判するものは、自分自身のなかにひとつの過渡を呼びさますことができるものでなければならないであろう。〉

  それ以後、「こうすべきだ」と話しかけてくる人がいると、私は「あなたの言うことについて、断絶や飛躍のない論理でなぜそうすべきかを説明してください」 と求めました。残念ながら、納得のいく説明をしてくれる人には出会えませんでした。必ずどこかで話が「革命戦略」などに飛躍し、そこからなすべきことが導 き出されるのです。そのような飛躍を認めれば、結局のところ以前の経験を繰り返すことにしかならないと思いました。
 ただ「あからさまな不正を前 にして、沈黙し傍観することは、不正を認めそれに加担することだ」と言われたときは、その通りだと思いました。そこで自分が必要と判断した行動に参加しつ つ、その中で「主体性の秘密」を求め続けるという、他から見れば煮え切らない姿勢をとることになります。

  今から思うと、この姿勢は梅本主体性論に呪縛されたものでした。「歴史の必然性」を認めて共産党員となった梅本は、プチブル知識人がこの必然性を己の内に 取り込むにはどうしたらよいかと問うたのです。しかし「歴史の必然性」は、 神ならぬ人間には決してとらえきれないものであり、それを取り込むことなど所詮不可能です。つまり、梅本の問いは答のない問いでしかなかったのです。
  私がこのことを自覚したのはわりと最近のことで、黒田寛一の組織論を検討する中ででした。身近にいた人が革マル派によって拉致され監禁されて、暴力的に思 想改造が強要された時、あらためて私は、梅本克己を「わが師」と呼んだ黒田 寛一の書いたものを読み返しました。そのなかで『組織論序説』にあった次の言葉に強い違和感を覚えました。

〈プロレタリア的主体性の形成と確立、一切のブルジョア的汚物からの訣別と自己否定をとおして獲得されるべき共産主義者としての主体性の確立、これこそが、前衛党の革命性、その規律性と組織性を保障し貫徹してゆくための主体的根拠にほかならない。〉

〈マルクス主義の主体化を媒介とするプロレタリア的感覚の純化・革命化、革命的実践を媒介とする共産主義思想の感覚化、この両者の交互連関によって、プロレタリア的主体性・前衛性は確立されてゆく。〉

  自分に反対する者を主体性を確立していない未熟な者と断じ、その暴力的な思想改造を正当化する根拠に、党員を「 プロレタリア的主体性」を確立した者とするこの規定があると思ったのです。ここに言う主体性の確立とは、梅本が言った「一度渡ってしまえばもはや用のない 天国へのかけ橋のようなもの」で、それを渡り終えた自分に反対するような未熟な奴は、暴力を用いてでもこちらの岸に引き寄せなければならない、となったの ではないでしょうか。

 私はこの時から、主体性とは確立されるものでなく、生きている限り貫き通そうと努力し続けるものだと思うようになりました。そのように考える際に大きな示唆を与えてくれたのが「責任追及から原因究明へ」を掲げた鉄道の安全をめざす労働組合の取り組みでした。
  安全性の追求もまた、一度確立すれば終る一過性の取り組みではなく、永遠に続く努力です。安全性を確立したと思い込んだ経営者は、事故が起きるのはドジで マヌケな現場労働者のせいだと考えて責任を追及し懲罰を加えるのですが、本当に必要なことは事故の原因を様々な背後要因を含めて究明し、確実に取り除いて 行く不断の努力なのです。
 安全性を確立したとか、主体性を確立したと考えるのは、自分が全能の神になった と思い込むようなもので、愚かな思い上がりでしかありません。「歴史の必然性」をつかんだと思い込むのも同じことです。あくまでも過渡にある、多くの限界 を背負った人間として自分をとらえるところから出発すべきなのです。生きる中で遭遇する様々な場面で主体性を貫く努力をし、挫折を味わい、そこから 学んでまた前へ進むという、決して平坦ではない道を歩み続けるのが人間ではな いでしょうか。私はこの観点だけは決して踏み外してはならないと思っています。

 ついつい長くなってしまいました。この先は次回に回すことにします。

2015年5月6日