Nさんへの手紙第4信 抵抗とヒューマニズム
前回、主体性は確立されるものではなく、貫こうと努力し続けるものだと書きました。主体性を貫くとはどういうことなのか、今回は現実に即して考えてみようと思います。
私は国鉄が分割民営化に向かう激動期に動労本部に就職したのですが、当時は東京地本委員長で最後には本部委員長になる松崎明さんの影響下で労働運動を経験することになりました。JR移行後も、JR東労組の委員長、会長を務め、さらに国際労働総研の会長、共同代表になった松崎さんから実に多くのことを教えられてきました。今後様々な 場面で松崎さんの話が出てきますが、こうした歴史によるものですので、ご勘弁ください。
その松崎明さんが主体性について強い口調で語ったことがあります。JR発足直後、JR各社に生まれた新組合がまだ旧労組の寄り合い所帯だった頃のことです。動労の地本書記長を集めた会議で次のような発言をしました。
〈目的を確定しなければだめです。目的を確定して、このような目的のためにどうするかという手段・方法を考えるべきです。目的は与えられていませんから、 自らが設定すべきです。その目的を設定するために、どんな困難があっても最大の努力をすべきです。そういうことを放棄すると、相手にお任せするという依存的スタイルが出てくるのです。主体性の放棄です。〔…〕主体性ということをしっかりと踏まえてやってもらいたいのです。〉(1987年4月の動労全国書記長会議の挨拶)
おそらく、動労の出身者が他の組合に引きずられ、動労の培ってきた運動や組織の質が失われてしまうことを危惧したのでしょう。この発言には伏線があります。その3年ほど前に松崎さんは動労役員の質について次のように語っていました。
〈決定された枠内では指導性を発揮できるが、自分自身が判断を迫られると判断できない人が圧倒的多数です。…日常的に 生起する諸問題に対して、自分自身で判断することがほとんどできないほどです。指導的な部分の圧倒的多数がほとんど判断できないのです。ある程度の解釈はできるが、判断できないのがわれわれの現実です。〔…〕ここを突破しようというのが、いまの私たちの共通の課題です。〉(1984年5月の書記学習会での講演)
「指導的な部分の圧倒的多数がほとんど判断できない」というのはなんとも厳しい言い方です。実際にどうだったのかはよくわかりませんが、松崎さんが相当な危機感を持っていたことは間違いありません。
JRの発足に際し、このように動労の役員に「自分で考えろ」と厳しく突き放した松崎さんですが、それからしばらくして、JR東労組の委員長としてその運動の基本を 「抵抗とヒューマニズム」あるいは「ヒューマニズムと抵抗」という言葉で表現しました。
〈ファシズムに対するレジスタンスには重要な意味がありました。〔…〕ファシズムに対する抵抗としてやったのだから大変な犠牲を強いられました。人の生命を動物以下に軽んじて殺戮を繰り返す者に対する抵抗というのは莫大な犠牲の上においてしか成り立たなかったのです。これはまさにヒューマニズムのための闘いでした。
自らの行為として行われる抵抗というのは、ヒューマニズムがなかったらできません。よこしまなことを考えている連中に、自己犠牲の精神で、場合によったら命まで捨てて何かをやろうなんていう気があろうはずがありません。おいしいところだけを取ろうとしている、そういう薄汚れた諸君にヒューマニズムがわかってたまるかと言いたいわけです。
だから、現在の段階において「ヒューマニズムと抵抗」をこの労働組合運動の 基本に据えようということは、そんな生っちょろいことではありません。まず自らが自分と闘い、自分自身を変革し、そのことを通じて組織を従来の対立型または協調型のものから新しいものへ転換させるという努力を今われわれはやっているわけです。〉(1989年10月「JR東労組89政策フォーラム」講演への補論)
これは「主体性」を松崎さん流に噛み砕いて表現したものだと私は思っています。
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抵抗は不正に怒ることから始まります。不正に怒るのは、人間としての温かい心があるからです。カネや地位に目のくらんだよこしまな人たちは、自分の利益が損なわれることには怒りますが、不正に怒ったりはしません。自分の利益のためには平気で非人間的なこともやる人 たちですから、当然と言えば当然でしょう。この人たちは抵抗とも主体性とも無縁です。
不正に怒り抵抗するところから主体性が生まれ、主体としての歩みがはじまります。ところが、その努力はたちまち様々な障害に直面します。まずぶつかるのは常識の壁です。不正に怒り、立ち向かおうとすると、まわりからはこう言われ ます――「世間なんてもともとこんなものだ」「いつまで子どものようなことを 言ってるんだ、いいかげんに大人になれ」「家族の将来を考えたらどうなんだ」。悪意を持つ人からは「あいつは過激派だ」「やり過ぎだ」といった非難が浴びせられるでしょう。
私たちは世の中の常識に囲まれて育ってきました。小さな子どもの頃から家庭でも学校でも常識が叩き込まれます。いつの間にかその常識が自分の価値観を形成し、それに従って物事を判断するようになります。戦争中に育った子どもは軍国少年の価値観を植え付けられ、軍人にあこがれました。大量消費の時代に育った子どもは、巧みな宣伝に踊らされるまま次々と新製品を欲しがります。誰も時代の空気の中で育ち、その価値観に染まって生きているのです。非人間的な現実に抵抗すれば、この常識(そしてその上に成り立つ 世論や支配的な理論、さらにはそれらを生み出す社会の構造)と衝突せざるをえません。ここで大事なのは、そのとき非人間的な現実への怒り、心の叫びを決して投げ捨てたり圧し殺さないことです。
常識や世論、支配的な理論に流されることのない主体性は、歴史の必然性をつかんだり、主体をめぐる未知の論理を解き明かすことによって得られるものでは ありません。主体性は静止した状態、到達した境地のようなものではなく、非人間的な現実に抵抗し、挫折を繰り返しながら問われ続けるおのれの姿勢なのです (安全性についても同様のことが言えます)。それは次々と試練にさらされ続ける終着点のない過渡なのです。
非人間的な現実への抵抗によって切り拓かれる過渡において、抵抗の原点を捨てず、常識やその基盤である社会への実践的・理論的批判をあくまでも誠実に追 求し続けること――私は今「主体性」をこのようなものと考えています。
2015年5月27日
追伸1 過渡の中での討論
手紙を書き終えてから、ぜひ言っておきたいことがまだあったのを思い出しま した。長くなって恐縮ですが、付け加えます。
主体性を貫こうとする努力は個人の中で完結するものではありません。同じように努力する者、過渡にある者同士の討論を通じて深められ、前進します。互いに過渡にある者同士ですから、そのうちの誰かが絶対的な真理に到達しているなどということはありえません。混乱し、悩む者同士がお互いに助け合って前へ進 む討論です。ですから、私たちの語るどんな理論も、今後さらに修正を要する仮説でしかありません。討論している一方がすべて正しく、他方がすべて間違っているということはないのです。
ここから、過渡にある者同士の討論の中で順守されるべきいくつかの原則が浮 かび上がってきます。その第一は、相互に真摯に、誠実に議論を進めなければならないという当たり前のことです。相手を様々なレッテルによって断罪するよう なやり方は、議論とは言えません。
第二は、批判と非難や攻撃を区別しなければならないということです。ときどき、批判を受けると非難され、攻撃されたと思い、感情的になる人がいます。それは、その人が他者を批判する際に、相手を敵と見なし、やっつけようとしていることの反映です。批判は非難や攻撃とは別物です。相手を認め、尊敬するから、相互に高めあうために批判をするのです。
第三に、批判は外在的なものであってはなりません。自分が正当だと思っている抽象的な原則を並べて、そこから外れていると相手を責めても、相手の論理の内に入り込むことはできず、議論は成り立ちません。難しいことですが、相手の土俵に入り、相手の議論、その根底にある論理をとらえ返し、そこに 欠落していることや矛盾点を指摘することを心がけるべきです。つまり内在的な批判が必要 なのです。
第四に、討論をしても対立が解けない場合には、別個に進むことをお互いに認め合うべきです。過渡にある者同士の討論ですから、抜き差しならない対立が生じることもあります。その際には、当面、違う考えを持って進むことを互いに認 め合うべきです。間違っても相手を排除し追放しようとしたり、果ては「せん滅」しようなどと考えてはなりません。そのような発想は、過渡にあることを忘れた自己絶対化の反映なのです。
こうした原則を皆で確認し合うだけで、より実りある討論が可能になると思っ ています。
追伸2 常識による被限定と抵抗による能限定
もう一つ言い忘れたことを付け加えます。梅本克己は、どうすれば「被限定を能限定に転ずる」ことが可能かを問い続けました。社会によって限定(規定)された存在である人間が、社会を変革し歴史を創ることがどうして可能なのか、その論理を唯物論の中で提示するようマルクス主義者に求めたのでした。
梅本の問いを、労働者が資本制社会によって限定(規定)された存在なら、資本主義を否定する階級意識をどうすれば持つことができるのかと言い換えることができると思います。これはマルクス主義者を長い間悩ませてきた疑問でした。
ドイツ社会民主党のカール・カウツキーは、正しい認識を持ったインテリゲン チアの党による指導が労働者の階級意識を保障すると主張しました。「外部注入論」と呼ばれるこの理論は、レーニンに受け継がれ(後に「背教者」とまでカウ ツキーを批判したレーニンにも、です)、レーニンは労働者は自力では労働組合的意識しか、つまり現状の改良を求める意識しか持ち得ないと論じました。この 「党による階級への指導」という命題は、後にスターリンによる専制の正当化に用いられることになります。
このやっかいな問題は、先ほど述べたことをふり返れば容易に解決されると思います。社会からの「被限定」は、労働者が常識に従うことによって実現します。そしてその常識は、この資本制社会を平穏に生きていくためのものとして形成されます。他方、この社会が労働力の商品化、労働の疎外の上に成り立つ資本制社会である限り、様々なきっかけから労働者は疑問を持ち、怒り、抵抗します。この両者のせめぎ合いの中で労働者は生きているのです。つまり、資本主義 の否定は結論として外から与えられるものとしてではなく、労働者が抵抗によって切り拓かれた過渡の中で自ら紡ぎあげていくプロセスとして理解されるべきな のです。
松崎さんの語った「抵抗とヒューマニズム」は、この両者がせめぎ合う中で、 労働組合に結集して闘うことにより「被限定」を「能限定」に転換する道を示していると思います。これは、ジョン・ホロウェイの『権力を取らずに世界を変える』を読む中で気付かされたことです。