ホロウェイ論その14 安全を目指す「もう一つの労働運動」

▼バックナンバー 一覧 2011 年 5 月 11 日 四茂野 修

 前回、ジョン・ホロウェイの労働運動批判へのを紹介しましたが、そこで引用した『クラック・キャピタリズム』の日本語訳が出ました。高祖岩三郎・篠原武雅両氏が訳し『革命 資本主義に亀裂をいれる』という標題で河出書房新社から出ています。私たちが「行為」と訳した doing を「為すこと」、「する力」「させる力」と訳した power to と power over を「為す力」「課される力」とするなど、一部に訳語の違いがあります。また、私たちが選択した「です・ます」調ではなく、「だ・である」調の訳文になっている点で、やや印象が違うかもしれませんが、この訳書により一段と煮詰まったホロウェイの考えを多くの人が読めるようになりました。
 
 新著で展開されている議論は、前回触れた抽象的労働と行為(高祖・篠原訳では「為すこと」)の敵対的二重性が中心に据えられています。その上でホロウェイは「抽象的労働が行為の力を閉じ込めておくことができなくなればなるほど、抽象的労働に立脚する運動、つまり労働運動は私たちの現存する世界に対する怒りを閉じ込めておくことがますますできなくなるのです」と述べています。この抽象的労働と行為とは、労働現場では実際にどのような形をとり、そして労働運動はそれをどう扱っているのでしょうか。
 
 今回は、ホロウェイの議論を念頭に置きながら、鉄道の安全をめぐってJR総連が20年余にわたって模索してきた新しい労働運動の方向を考えてみたいと思います。
 

◇「責任追及」と「原因究明」

 
 JR総連の鉄道の安全をめざす取り組みを特徴づけているのは「責任追及から原因究明へ」というスローガンです。やや先走って言えば、このスローガンをホロウェイ流に表現すると「抽象的労働の支配から創造的・目的意識的行為へ」となります。まず、JR総連がこのようなアプローチをはじめた発端から話を進めましょう。
 
 JRが発足して間もない1988年の暮のことでした。中央線東中野駅に停車中の下り電車に後続の電車が追突し、乗客一人と運転士が死亡するという事故が起きました。亡くなった運転士は組合員で、事故原因は運転士の居眠りと考えられました。JRになってはじめて乗客に死者を出したこの事故を前に、当時JR東労組の中央執行委員をしていた私は、組合がこの事故にどう向き合うべきか考え込みました。
 
 通常、事故が起きると職場に「安全第一」などの標語が掲げられ、「規程の遵守」「基本動作の励行」が叫ばれます。でも、このような精神主義的な方法で果たして事故が防げるでしょうか。事故に向き合う際の出発点がどこかズレているように感じられてなりませんでした。どうしたらよいかわからないまま、現場の組合員の意見を聞きました。驚いたことに、組合員から一様に帰ってきたのは、1メートルのオーバーランや1分の遅れに対してまで行われる「日勤教育」への不満でした。「自分たちは日々神経をすり減らして安全を確保している。運悪く偶然が重なってミスをしたからといって、日勤教育でさらし者にされ、見せしめにされるのはたまらない」という声が、職場には充満していたのです。
 
 執行部内の議論で「厳罰主義を改めるべきだ」という意見が出ました。それを聞いたとき、ふと「事故を起こしたらなぜ罰せられなければならないのか」という疑問が頭をよぎったのです。それまで「事故を起こせば処罰」は当たり前のことで、それに疑問を持ったことがありませんでした。鉄道の現場ではそれが常識だったのですが、どうもここに問題があるように思えました。
 
 経営協議会の場で私は「組合員は事故を起こさないよう一生懸命努力している。それでも事故は起きる。酒を飲んでいたなどというケースを除いて、原則的にミスをした者を処罰すべきではない。処罰があれば、組合員は真実を語らなくなり、事故の本当の原因がわからなくなってしまう。処罰するのではなくミスの原因を明らかにするよう努力すべきだ」という趣旨の発言をしました。自信や裏づけがあったわけではありません。これだけは言っておかなければならないという使命感のようなものに促されたのです。
 

◇黒田勲氏との出会い

 
 確信がもてなかった私は、事故と安全の問題をめぐって、実際にはどのような議論があるのか文献に当たって調べました。その中で出会ったのが黒田勲氏の書いた『ヒューマン・ファクターを探る』(中央労働災害防止協会、1988年)という本です。こんなことが書かれていました。
 

<「誤った動作」の対応は、「誤らないようにする」という精神的対策では絶滅させることは困難である。それは、「誤まろうとして実施している」動作はまずないであろうから、他の作業者に対して「誤まらないようにせよ」という精神的安全教育は効果があるとは思われないし、また、浸透もしていかないであろう。かえって、自分には関連のないことであると考えられてしまう。「誤まった動作」の背後にある、誰でも共通に陥るであろう要因を探り出して、その背後要因に対策を講じなければならない。今までのヒューマン・ファクターに起因する事故や災害への対策が、その的確性を欠く最大の原因は、一歩踏み込んだ背後要因の追究が行われなかったところに問題点があったといえよう。>

 

<人間の能力は変動しやすく、一生懸命に仕事をしていても、ときとしてミスを犯す動物である。ミスの背後要因を追究し、それを排除する努力をするのが、管理者の役割である。ときには自分自身の考え方が作業者のミスを誘発する原因になっていることも知る必要がある。>

<ヒューマン・ファクターの問題は、その原因を追求する科学的発想以前に…、行政も企業も管理者もマスコミも、責任追及へと走る傾向がある。>

<技術者が自分の行動に責任を持つのは当然であるが、一生懸命にやって犯す誤りを、処罰によって防止することは不可能である。かえって、事故に至る可能性のあるヒヤリ・ハット体験をフィード・バックする事故予防の芽をつんでしまい、ヒューマン・ファクターの問題を潜在化させてしまう傾向を生ずる。>

 
 私はさっそく連絡をとり、羽田の日本航空の建物で黒田氏とお会いして、その場でJR東労組が計画していた安全シンポジウムへの出席をお願いしました。自衛隊航空医学実験隊隊長(空将)という経歴にもかかわらず、黒田氏は労働組合からの突然の要請を快諾し、パネリストを引き受けてくれました。1989年の秋のことでした。それ以来、2009年に亡くなるまでの間に黒田氏からは実に多くのことを教えていただきました。とくに、JR各社の事故の分析と対応をめぐって、各方面の専門家を交え、数えきれないほどの議論を重ねてきたことはかけがえのない財産となりました。
 

◇薬害エイズ問題

 
 黒田氏の名前が広く知られるようになったのは、総合研究開発機構(NIRA)に設置された「薬害等再発防止システムに関する研究会」の座長を務めた時からではないでしょうか。以下は1997年に出された同研究会の中間報告の一部ですが、10年以上も前に出されたものだというのに、今進行中の福島第一原発事故までも射抜く鋭い指摘がここにはあるように思います。
 
<まず、薬害エイズの経緯を点検した結果、政策決定において、『患者中心の医療』を最優先することが重要であるということ、人知を越える事態に直面した時に、積極的な情報の公開が必須であるということを改めて確認することになった。各々が実行されていた場合には、薬害エイズにおける発生の未然防止と被害拡大の阻止に大きく寄与し、また、科学的究明の進展に応じて対応策の変更が可能となったであろう。>
 
<薬害エイズを構造分析によって解析すると、国民が求める政策が実現されなかったのは、産官学医に元々構造的問題が存在したが、関係者間に存在する、いわゆる利権に基づく癒着によってその短所が増幅された結果であったことが明らかになった。現状でも、営利第一主義の製薬企業、ことなかれ主義や情報・知識の抱えこみ等の体質を持つ厚生省、経営至上主義、臨床薬理軽視の医療現場が存在する。これが、治験、研究費、新薬の審査制度、薬価制度、天下り、厚生省の審議会等を介して産官学医の間に癒着を生じさせたと考えられる。一方、国民には自ら判断するための情報が不足しており、医師への過剰な依存姿勢があった。これらの関係が、患者不在の医療をもたらし、医療現場で発生した情報の解釈や知識の適用を歪め、不適切な行政判断、ひいては薬害を導いたと考えられる。>
 
 「人知を越える事態に直面した時に、積極的な情報の公開が必須である」「営利第一主義の企業」「ことなかれ主義や情報・知識の抱えこみ等の体質を持つ行政」「経営至上主義に犯された現場」「研究費、許認可、天下り、審議会を介した癒着」といった指摘には黒田氏の強いイニシアティブが感じられます。今後行われるであろう福島第一原発事故の検証にも、このような幅広い背後要因の構造的な分析が求められると思います。
 

◇命令と服従

 
 行政が天下りなどを通じて影響下に置かれ、学者が研究費を通じてコントロールされることを考えれば、癒着構造の中心にあるのは「営利第一主義の企業」でしょう。現場の内部告発を行政が密かに企業に伝えてしまうような癒着構造の下では、現場は萎縮します。労働者の良心は抑え込まれ、事故の危険を感じても経営者の命令に服従し、破局への道を突き進むことになるのです。
 
 これは東京電力に限ったことではありません。日本中の大企業のほとんどすべての職場で起きていることです。尼崎で死者107名を出す悲惨な事故を起こしたJR西日本もそうでした。JR西日本の職場実態については、『甦れ! 労働組合』(社会評論社・2005年)で紹介しましたから詳しくは触れませんが、「日勤教育」による懲罰と経営に批判的な組合への攻撃が、事故という破局へ向かう道を準備したのです。
 
 労働者は企業内で様々な規則や業務命令に縛られています。たとえ自分の仕事に疑問を持っても、管理者から業務命令と言われれば従わざるをえません。仕事中にミスをし、会社に損害を与えればその責任を追及されます。命令に抵抗したり、ミスをした者は懲罰を受け、様々な不利益を被ります。労働者は「黙って言うことを聞け」「言われたとおりに働け」と日々体に叩き込まれるのです。
 
 労働者のなかには、このような労働を賃金を得るための苦役として割り切る者もいます。しかし、より良い仕事をしたいという思いが完全に失われるわけではありません。人間の行為はそもそも創造的で目的意識的なものでした。企業で雇われることでそれが他人から命じられる労働に封じ込められても、時にそこから自発的な行為が溢れ出します。
 
 あるいはこう言えるのかもしれません。企業の中で行われる労働にも、当初はそれなりの自由裁量の余地が残されていました。それが時代とともに削り取られ、次第に息の詰まる管理の下に封じ込められてきたのです。こうした管理の強化に対する抵抗として、自発的行為への衝動が様々な場で噴き出すのです。
 
 東中野事故に直面した時、「日勤教育」への不満として噴き出したのは、自発的行為を求める衝動だったと思います。これを私たちは、自ら事故原因を究明し、そこから再発を防ぐ対策を見つけ出す運動に結びつけました。事故原因について、一番よくわかるのは事故の起きた現場で働く人たちです。懲罰の恐怖でその声が隠されてしまえば、見当違いのアリバイ的な対策が打ち出されてきます。そうした現実の根本的な転換を私たちは目指しました。
 

◇猛反発した経営者

 
 この安全をめざす運動はJR総連全体にも波及していきました。また、当時のJR東日本経営陣はこの組合側の提起を受け入れ、1990年秋には労使共催で国際鉄道安全会議を開きました。世界30カ国の鉄道労使を前にJR東労組は「責任追及から原因究明へ」の転換を訴えました。ところが、この会議に猛反発した経営者がいたのです。JR西日本で当時副社長をしていた井手正敬氏です。「安全は経営の課題」「労働組合がかかわるべきことではない」と、この会議をボイコットしたのです。
 
 JR西労組の委員長だった大松益生委員長も、会議への参加を突然キャンセルします。そして半年もたたない翌年2月に「JR総連からの断絶」を表明し、JR総連の分裂が強行されました。続いてJR東海でも分裂の動きが公然化し、当時の葛西副社長は「労使対等は労働条件についてだけ」とJR総連の安全を求める運動を批判しました。これらの経過も『甦れ! 労働組合』に書きましたので、参照いただければ幸いです。
 
 こうした経営者の激しい反撥は、ある意味で当然かもしれません。彼らからすれば、安全は完璧に練り上げた計画をマニュアルや規則に従って労働者に実行させることで達成されるのです。つまり経営者が構想したものを、労働者はひたすら忠実に実行すべきなのです。そして現場労働者がマニュアルや規則に違反しないよう、しっかり監視し、違反があればそれを厳しく処罰することが安全のための絶対条件だと考えられるのです。
 
 「責任追及から原因究明へ」という私たちの主張はこれを真っ向から否定したものですから、経営者からの激しい拒絶反応が返ってくるのは当然でしょう。私たちは事故が起きたとき、労働者のミスの背後に何があったかを考えます。背後要因を詳しく調べていくうちに、同じ状況では誰もが同じようなミスを犯す、いくつかの要因の絡み合いが見えてきます。その環となったものを取り除くことによって、同種の事故が防止できるのです。私たちにとって安全とは、起きた事故や不具合からこうやって学び続けることなのです。これは同時に奪われた自発性を労働に取り戻す闘いでもあります。
 
 「責任追及」の背後には、命令と服従によって行われる抽象的労働の現実があります。「原因究明」の背後には、創造的で自発的な行為を求める労働者の思いがあります。この敵対的な対立をはらんだ二重性のなかで私たちは働いているのです。JR総連はそこで、雇用・賃金・労働条件の改善(それをホロウェイは「抽象的労働に立脚する運動」と呼びました)に埋没することなく、「抵抗とヒューマニズム」を理念とした「もう一つの労働運動」をめざしました。その核心にあったのが「責任追及から原因究明へ」を掲げる安全の追求です。
 
 人間は間違いを犯します。人間の知識は有限で、この世にはまだ分らないことがいくらでもあるのです。資本の論理に突き動かされるまま、無理な成長を追い求める経営者たちは、このあたりまえの事実が見えなくなり、労働者を無理やり駆り立てて破滅への道を突進します。それを押しとどめるところに、労働運動の役割があるのだと私は思います。