ホロウェイ論その13 労働組合は中間団体たりうるか?

▼バックナンバー 一覧 2011 年 4 月 28 日 四茂野 修

 今も継続する福島第一原発の事故は、日本の第二の敗戦かもしれません。小中学校で使われていた原発関連の副読本が訂正されると報じられました。そこには「大きな地震や津波にも耐えられるように設計されている」(中学校向け)とか、「地震が起きたとしても、放射性物質がもれないよう、がんじょうに作り、守られています」(小学校向け)と書いてあったそうです。敗戦のとき、作家の三浦綾子が体験した、教科書に墨を塗らせるのと同じことが繰り返されようとしています。
 
「まず修身の本を出させ、何頁の何行目から何行目まで消すようにと、わたしは指示した。生徒たちは素直に、いわれたとおり筆に墨を含ませてぬり消していく。誰も何もいわない。なぜこんなことをするとのかとは、誰も問わない。/…教科書は汚してはならない。大事に扱わねばならないと教えてきた。その教科書に墨を塗らせる。わたしは、墨を塗る生徒たちの姿を見ながら、かつて、日本の教師たちの中に、このような作業を生徒にさせた者がいたであろうかと思った。昨日まで、しっかりと教えてきた教科書の中に、教えてはならぬことがあった。生徒の目に触れさせてはならぬ箇所があった。教師にとって、これほどの屈辱があろうか。」(『石ころのうた』)
 

◇ 日本の第二の敗戦――原発翼賛体制の終焉

 
 原発推進の誤った国策が国民に大変な危害を加える結果になりました。被害者は住み慣れた家から避難を強いられた人だけではありません。また野菜が売れなくなった農民だけでも、魚が売れない漁民だけでもありません。何兆ベクレルという単位で放射性物質が環境に放出され、気体や微粒子、水溶液の形で日本全土から世界の隅々にまで拡散したのです。汚染された空気や水から、汚染された土壌で育った作物から、汚染された海で獲れた魚から、放射性物質は容赦なく子供たちの身体に侵入します。そして体内の組織に取り込まれ、放射線を内部から発し続けるのです。やがて子供たちの間で甲状腺がんや白血病が増えてくるのは避けられないでしょう。その数がどれほどになるかは、まだ誰にもわかりません。しかも誰が発症するのか、発症してもそれが福島の放射能によるものかどうかすらわからないのです。こうした恐怖にこれからずっとさらされ続ける子供たちこそ最大の被害者です。
 
 子供たちは学校で原子力発電が安全でクリーンなエネルギーだと教えられてきました。そのことはテレビや新聞、雑誌で一般国民にも繰り返し訴えられてきました。もちろん、それに異を唱え、原子力発電の危険性を指摘する人もいましたが、その数は圧倒的に少なく、政府や電力会社の巨額の費用を投じた宣伝の前に「反対」の声はかき消されていたのです。事故を経た今日の時点から振り返ると、これまである種の翼賛体制が日本を覆っていたことが見えてきます。
 
 翼賛体制の下では、為政者の進める「聖戦」とか「原発推進」という国策に、社会のほとんどすべてが疑問を持たず、付き従う状態が生じます。たしかに戦中と現在で形はだいぶ違います。治安維持法、特高警察、拷問といった野蛮な手段は表に現われず、それに代わってメディアを巧妙に使った洗練された宣伝に重点が置かれるようになりました。とはいえ、学校教育やメディア、御用学者を用い、異論を唱える人たちを系統的に排除するという基本骨格は、昔とさほど変わっていません。「原子力発電は安全です」「原発は必要です」という言葉が繰り返されるうちに、人々はそれに疑問を持たなくなりました。「最も簡単な概念を何千回も繰り返すことだけが、けっきょく覚えさせることができるのである」(『わが闘争』)というヒトラーの魔の教えは今も生き続けているのです。
 

◇労働組合の社会的責任

 
 翼賛体制は最終的に社会に大きな危害をもたらします。では翼賛体制がつくられるのを防ぐにはどうしたら良いのでしょうか。良心にもとづく個人の抵抗は尊いものですが、残念ながら巨大な力の前にその声はおしつぶされてきました。個人の抵抗だけでは限界があるのです。そこで浮かび上がるのが中間団体の重要性です。社会の中には国家のほか、同業組合や宗教団体のように独自の存在基盤と価値観をもつ様々な団体が存在してきました。これらが、独自の価値観をもって為政者をチェックすることで、専制政治や翼賛体制が社会を一色に染め上げるのを阻んできたのです。個人では抗えない強い流れにも、同じ価値観の下に結束した団体なら抵抗することができるのです。
 
 労働組合は有力な中間団体の一つと考えられてきました。だから戦争に向けた翼賛体制をつくりあげるのに、当時の政府はあらゆる傾向の労働組合を解散させ、産業報国会に統合することが必要でした。今は労働組合が存在します。それなのに「原発推進」の翼賛体制が許されてしまいました。それはなぜなのでしょうか。
 
 震災の打撃によって発生した福島第一原発の事故は、どんどん深刻化していきました。翌日には1号機の原子炉建屋が爆発で吹き飛びます。その瞬間をとらえた映像が海外メディアで放映されているのに、日本では「爆発音がして白煙が上がった」というわけのわからない報道が繰り返されていました。そんな時、一番頼りになったのがネットで中継された原発技術者による解説でした。以前、原発の設計にかかわった技術者たちが、反省の思いを込めて、起きている事態の意味と深刻さを語ってくれたことが、状況を知る上でとても役に立ちました。
 
 その時、強く感じた疑問があります。東京電力の労働組合にも、原発にかかわってきた人が数多くいると思います。いま何が起きているかを、他の誰よりもよく知る人がいたはずです。それなのに、この技術者のような行動を、労働組合はなぜとれなかったのでしょうか。
 
 翼賛体制を防ぐには、中間団体が独自の価値観をもって行動することが不可欠です。政府・企業が進める国策に迎合せず、現場で働く者の観点からそれをチェックし、評価し、見解を公表するのが中間団体としての労働組合の役割だったはずです。「原子力村」という言葉を最近耳にします。国と電力会社を中心に、政治家や学者やメディアを巻き込んで原子力発電を推進するためにつくられたネットワークを指すようです。残念なことに、しばしば労働組合もその一員にカウントされています。
 
 労働組合が原発推進の翼賛体制に組み込まれてしまっているというのが世間の認識になってしまいました。この現状について「組合リーダーは何をやっているんだ」と非難をぶつけてみても、あまり効果は期待できません。労働組合を翼賛体制に駆り立てる構造的な要因にメスを入れる必要があると思います。
 

◇ホロウェイの労働組合批判

 
 ジョン・ホロウェイは、昨年出した『クラック・キャピタリズム(資本主義に割れ目を入れる)』という本のなかで、労働組合を批判的に論じています。社会的なつながりの中で行われる自発的・創造的な人間の「行為」と、価値の生産のための「抽象的労働」とを対比し、後者の「抽象的労働」の上に築かれる労働運動の問題が指摘されています(ちなみに、「抽象的」とされるのは、社会的必要を満たす人間の創造的な行為が、価値増殖、つまり会社の利益の増大という目的に適うよう、管理され、ゆがめられ、抽象化されるからです)。
 
〈産業資本主義の初期段階以来、資本家に雇われた労働者は、より良い労働条件、より高い賃金、労働時間の短縮などを求め、闘うために団結しました。その典型的な組織形態が労働組合です。労働組合は階層的な上下関係を持ち、多くの場合官僚的です。抽象的労働が、まず第一に行うのは雇用のための闘いです。より良い雇用条件、より高い賃金、より多くの雇用のための闘いであり、失業に反対する闘いです。これらの闘いは重要です。というのも、それは世界中の数十億の人々の生活水準に影響するからです。しかしこの闘いは資本主義の支配を再生産し、私たちの「行為」を見知らぬ他人のコントロールに従わせ、「行為」を「労働」に抽象化し続けることに疑問を持ちません。〉
 
 「抽象的労働」はカール・マルクスが『資本論』のなかで商品の分析に用いたカテゴリーです。これをホロウェイは受け継いでいます。
 
〈マルクスは、そこで、商品から始め、役に立つものとしての商品(使用価値)と交換のためにつくられた物としての商品(交換価値)の矛盾した性格から展開して、この矛盾の背後に、労働というものが、有用労働もしくは具体的労働(それが使用価値をつくりだします)と抽象的労働(それが、交換の際に交換価値として現われる価値をつくりだします)との二面的な性格をもっていることを見つけ出すのです。〉(『権力を取らずに世界を変える』220頁)
 
 原子力発電の現場で働く労働組合員は、これまで電力会社が繰り返してきた事故隠しや、労働者の被曝の実態を見て、疑問を感じ、批判を持ったはずです。今回の事故のなかで、責任を感じている者もいるはずです。しかし、それを口にすれば会社ににらまれ、昇給にひびき、へたをすれば職を失うかもしれません。その恐怖が彼らの口を重くしているのでしょう。今回発言している技術者にしても、退職して企業を離れてようやく公然と批判的な見解を口にすることができたのだと思います。
 
 企業の中にいる限り、このコントロールから逃れることはそれほど困難なのです。企業の中では、自発的な「行為」は、他からコントロールされた「抽象的労働」に席を譲り、命令と服従の体制のなかでおしつぶされるのです。労働組合がより良い雇用と賃金だけを求めている限り、この壁を突き破ることは困難なのかもしれません。でもここで絶望するわけには行きません。政府や企業が国策として進めた原子力発電の破綻が明らかになった今、自発的で創造的な「行為」が甦る可能性が生じているのです。
 
〈労働運動からは常に反資本主義の闘いがあふれ出し、「もうひとつの労働運動」が存在しました。資本主義に対する闘争は常に労働運動に内在し、立ち向かい、のりこえる( in, against and over )ものでした。近年は、立ち向かい、のりこえることがさらに重要になっています。抽象的労働が「行為」の力を閉じ込めておくことができなくなればなるほど、抽象的労働に立脚する運動、つまり労働運動は私たちの現存する世界に対する怒りを閉じ込めておくことがますますできなくなるのです。抽象的な労働の危機は労働運動の危機です。〉
 
 そうです。「抽象的労働」ではなく、人間としての心を持った「行為」を基礎に労働組合とその運動を組み立てなおすことが、いま問われているのです。そこからはじまる「もうひとつの労働運動」こそ翼賛体制に立ち向かう中間団体たりうるでしょう。
 

*   *   *

 
 しばらく中断していたホロウェイ論を再開します。労働組合をめぐる問題をさらに掘り下げていきたいと思います。