ホロウェイ論その7 自由な社会という幻想

▼バックナンバー 一覧 2009 年 12 月 17 日 四茂野 修

 私たちは自由な社会に生きていると教えられてきました。たしかに憲法では思想・信教の自由、表現・結社の自由、職業選択の自由など、様々な自由が保障されています。でも、実際の私たちの生活はどれほど自由でしょうか。
 
 私たちは人生のうちで最も力の充実した時期を会社に雇われて過ごします。そして一日のうちの一番活動的な時間帯を会社で働いて過ごします。この人生の一番貴重な時間を、私たちは自由に使うことができるでしょうか。会社では上司の命令に従わなければなりません。「嫌だ」と言ってみても、「業務命令に従えないのなら、辞めてもらいます」と言われれば、すごすご引き下がるしかないのです。会社との間の労働契約には、業務命令に従うことが含まれています(契約の範囲を逸脱した業務命令に従う義務はありませんが、通常それを拒否をするのは勇気のいることです)。
 
 仕事を終え、会社の門を出て、はじめて私たちは自分の時間を自由に使うことができるのです。でもそれは、明日の勤務が始まるまでのことです。青空の下で好きなように時間を過ごすのは、週末だけに許された楽しみです。明日の、あるいは来週の労働に備えるリフレッシュの時間にだけ自由が許されているのです。労働し、生産しているときに自由はありません。能力主義、成果主義が叫ばれ、人事労務管理が厳しくなるにつれて、労働の不自由さは増大し、残業や休日出勤でリフレッシュの時間は短くなっていきます。
 
 なんで私たちは人生の一番貴重な時間を、他人から命令されて、窮屈な思いをして生きなければならないのでしょうか。「何を突然言い出すんだ。そんなことは当たり前じゃないか。社会っていうのは、そもそもそういうものなんだ。無駄なことを考えず、しっかり働くんだ。それ以外に幸せな人生なんてあるわけないだろ」――どこからか、そんな常識の声が聞こえてきます。
 

◇ 監獄に象徴される社会

 
 会社に勤めて働くということが、もともと窮屈なことだったのは間違いありません。フランスの哲学者フーコ―が工場の起源について一つの例を紹介をしています。
 
 その施設には400人の収容者がいます。「その人たちは毎朝5時に起きなければなりません。5時半には身繕いを終え、ベッドをかたづけて、コーヒーを飲み終わっていなければなりません。6時に義務労働が始まり、終わるのは夜の8時15分で、途中に昼食のための1時間の休憩があります。8時15分に夕食と、集団での祈り」。日曜日には施設内の礼拝堂でミサがあり、宗教的な教育が行われ、監視つきで散歩が許されます。これが施設から外に出ることのできる唯一の機会です。「給与はもらっておらず、年総額40フランから80フランに定められた代価を受け取るのですが、それも施設を出るときにしか与えられません」(ミシェル・フーコー「真理と裁判形態」ちくま学芸文庫『フーコー・コレクション6』127-8頁)。
 
 これは19世紀はじめ頃のローヌ地方の織物工場の描写です。フランス南東部では同じような環境の下で4万人の織物女工が働いており、同様の工場はスイスやイギリスにもあったそうです。フーコーはこれを「しばしば実現されてしまうという悪い傾向をもつ資本家のユートピア」と呼びました。19世紀末の日本の工場も似通った状態だったことは、『女工哀史』や『ああ野麦峠』に描かれているとおりです。
 
 フーコーはこうした工場のモデルになったのが、一望監視装置(パノプティコン)によって囚人を監視する監獄だったと述べています。
 
〈一望監視装置は一社会のユートピアであり、実のところ、われわれが今経験している社会という権力のタイプの、実際に実現されたユートピアなのです。このタイプの権力は掛け値なく一望監視方式と名づけることができます。われわれはその一望監視体制が支配している社会に生きているのです。〉(同上103頁)
〈監獄が不可欠になったのは、それが実は19世紀に作られたあらゆる閉じ込め施設の集約的、模範的、象徴的形態だったからにほかならない、私にはそう思われます。実際、監獄はそのすべてと同形です。社会的一望監視体制とは、まさに人間の生を労働力に変えることをその役割としていたのです…〉(同上144頁)
 
 フーコーによれば、現代社会はこの一望監視体制の下に置かれており、「人間を生産装置に固定して、彼らを生産のエージェントに、労働者にする」ための「微視的な、毛細管状の、政治権力の網状組織」に覆われているのです。
 
〈資本主義システムはわれわれの生活にずっと深く浸透しています。19世紀に設定されたような形のこの体制は、人間を何か労働といったものに縛り付ける、ひとまとまりの政治的技術、権力の技術を作り上げる必要に迫られていました。人間の身体と時間とが労働時間と労働力に転化されるような、そして実際に剰余利潤になるべく使用されうるような、そのためのひとまとまりの技術です。〉(同上146頁)
 

◇ 会社は株主のもの

 
 会社のなかには民主主義も入ってきません。私たちは選挙の際に好きな候補に投票することができます。気に入らない政権を選挙で追い落とせることも経験しました。でも、ひとたび会社の門をくぐると、経営者を選ぶ選挙はありません。悪徳経営者を追い出す手続きについては、就業規則のどこにも書いてありません。経営者を選ぶのは株主総会であって、従業員ではないからです。また、従業員の大多数が望んだからといって、企業はその方向に進むわけではありません。むしろ、配置転換とか、リストラとか、従業員の望まない方向に進むことのほうが多いでしょう。経営方針を決めるのは経営者であり株主だからです。たとえ従業員全員が声を一つにして何かを求めたとしても、「経営権に関わることであり、口出しは許さない」と言われれば、それで終わりです(それでもなお、声をあげようとする者は徹底的に隔離され、排除されてきました)。
 
 つまり、私たちは会社では経営者や株主の命令に服従させられているのです。ホロウェイはそのことを「自分自身が企てることを実現する能力を奪われ」た状態と言い、私たちは「〈させる〉力を行使する者たちが企てたことを実現するために毎日の時間を使わなければならなくされ」ている(『権力をとらずに世界を変える』66頁)と説明しています。会社で〈させる〉力を行使しているのは、経営者であり株主なのです。
 
 「仕方がないじゃないか。会社は株主のもので、従業員のものではないんだから。賃金を貰っているのだから、言われたとおりに働くのは当然だろ」――常識の声が私たちを説得します。確かに法的には会社の建物も、土地も、機械もすべて株主のものです。経営者はそれを管理し、利益を上げる責任を株主に負っています。でも、私たちの心には何か納得できないものが残ります。会社の立派な建物は、私たちが何十年も一生懸命働いた果実ではないでしょうか。長年、丹念に手入れをし、使い慣れてきた機械は、自分の身体の一部のように思えます。私たちの労働がなければ、今の会社はなかったはずです。
 
 蓄積された労働の成果は株主のものとなり、株主(経営者)の命ずるままに私たちは働かざるを得ません。なぜならこの世界では「行為の手段にありつくには、自分がもつ何かをすることができる能力を売るしかないのです。売る相手は、行為の手段を『所有』している者です。労働力を売る者たちは自由だといっても、自分たちの行為をほかの者の指図に従属させることからは逃れられないのです」(同69-70頁)
 

◇ 「資本の忠実な召使」

 
 ここまでは、聞き覚えのある議論だと思います。核心問題はその先にあります。株主や経営者を資本家と呼ぶことにしましょう(この点をめぐってはいくつかの難しい議論がありますが、ここでは触れません)。資本家も、この社会の主人公ではないのです。ホロウェイは次のように述べています。
 
〈資本主義社会の主体は資本家ではありません。決定をおこない、何をなすべきかを定めるのは、資本家ではないのです。それをおこなうのは、価値です。資本すなわち蓄積された価値なのです。資本家が『所有』しているもの――資本――は資本家自身をわきに押しやってしまうのです。資本家が資本家でありうるのは、資本の忠実な召使いであるかぎりにおいてのことなのです。所有権そのものの意義は後景に退いてしまいます。そうなれば、資本はそれ自体で動くダイナミズムをえて、社会の指導層は、単に資本のもっとも忠実な召使い、もっとも卑屈な廷臣になるしかありません。それは、資本家だけではなくて、政治家にも、役人にも、大学教授などにも、同じようにあてはまることです。行為の流れの破砕は、もっとも不条理な結果を引き起こすところまでいっています。〈させる〉力は、その力をもつ者から離れているのです。〈する〉ことは拒まれ、みずからを否定するものに結晶しています。その結晶が価値であり、それが世界を支配しているのです。〉(同76頁)
 
 カール・マルクスが『資本論』で述べたことを、ホロウェイは「行為の社会的流れ」という視点から説明します。次回は、そこを詳しく見ることにしましょう。