ホロウェイ論その11:沖縄の叫びと抑止力論の葛藤

▼バックナンバー 一覧 2010 年 5 月 18 日 四茂野 修

 アメリカ政府の要求と基地撤去を求める沖縄の叫びの間で、鳩山首相の普天間基地移設問題への対応は揺れています。メディアはこうした鳩山政権の動揺に批判を強め、内閣支持率は低下しました。しかし、今メディアをにぎわす鳩山政権批判に、私は強い疑問を感じます。
 

◇ 岸信介首相と鳩山由紀夫首相

 
 これまでアメリカ政府の要求と国内世論の板ばさみにあった首相は、何も鳩山首相だけに限りません。50年前にさかのぼれば、岸信介首相は日米安保条約の改定をめぐって、米軍基地の自由な使用を強硬に主張する米政府と、再び戦争へ引き込まれることを恐れる世論のはざまに立たされました。
 
 そのとき岸首相が選んだのは、アメリカ側の要求を受け入れながら、都合の悪い部分を密約とし、国民に隠すという姑息なやり方でした。そしてこの選択がその後の日米同盟関係を方向付けました。今年3月、外務省によって機密解除され公開された外交文書や、「有識者委員会」の報告、そして国会での参考人質疑を通じて、50年間隠され続けてきた密約の中身が公の場で明らかにされました。そこで明らかになったのは、核兵器を搭載した米艦船、航空機の立ち寄りを容認し、朝鮮半島で戦争が再発した場合には事前協議抜きで在日米軍が出撃することを認めてきた事実です。それ以来、社会の同意のないまま、政治指導者の独断でアメリカの世界戦略の一端を忠実に担う外交・安全保障政策が継続されてきたのです。
 
 この流れは沖縄返還をめぐる交渉過程で佐藤栄作首相に引き継がれ、返還時に撤去した核兵器を、有事の際にはいつでも沖縄に持ち込むことがこっそり合意されました。ニクソン大統領と佐藤首相の署名のあるこの「合意議事録」が昨年末に発見されたことは大きく報道されたので知っている人は多いと思います。こうした密約外交により、主権者である国民の知らないまま、日本に核兵器が持ち込まれ、米軍は全世界への出撃基地として沖縄をはじめとする在日米軍基地を自由に活用してきたのです。歴代自民党政権によるこうした負の歴史を無視した普天間問題の議論は、現実離れしたものと言わなければなりません。
 
 ここでちょっと考えてみましょう。もし鳩山首相が岸首相以来の伝統的なやり方を踏襲していたら、おそらく今のような非難は浴びなかったと思います。都合の悪い部分を密約で処理し、成果だけを宣伝すれば、メディアの扱いはだいぶ違ったものになっていたはずです。ところが鳩山首相はこの手法をとりませんでした。私はまずそれを高く評価したいと思います。負の歴史を断ち切ったことの意義は計り知れません。そして矛盾の真っ只中に身を置き、無手勝流とでも呼ぶべき姿勢で問題に臨んだことで、結果的かもしれませんが根深い問題の所在を社会全体に明らかにしたのです。そのことによって、社会が直面している問題を社会が自ら討議し、決定する可能性が開かれたのではないでしょうか。
 
 密約によって真相を隠し、社会をだまして処理する政治と、矛盾を矛盾として明らかにし、社会全体の討議の中で解決の道を模索する政治とを比べたとき、どちらが憲法のうたう主権在民の精神に適うかは明らかだと思います。一方には、これ以上の基地負担を認めないという沖縄の叫びがあります。他方には米軍基地機能が損なわれることは一切認めないというアメリカ政府の強硬な姿勢があります。そこにある解きがたい矛盾を密室の協議で乗り切れば、そのツケは必ずまた戻ってきます。社会全体の徹底した討議をバックに、アメリカ政府との透明で対等な交渉で問題の決着を図り、その評価を歴史に委ねるべきです。オープンな討議を通じて問題を解決しようとすれば、そこに混乱や紆余曲折が生じるのは当然であって、それこそが民主主義のプロセスではないでしょうか。
 

◇ 情勢論と存在論

 
 たしかに鳩山首相の発言にはブレがあります。沖縄で語った「日米同盟や抑止力の観点から、すべてを県外というのは現実的に難しい」という認識は、私も問題だと思います。この点をめぐっては、佐藤優さんが語る「情勢論」と「存在論」の違いという視点が重要な意味を持つと私は考えています。雑誌『世界』6月号で佐藤さんはこう言っています。「東京の大多数の国会議員、官僚、新聞記者、有識者は、抑止力理論を前提にして、中国、北朝鮮の日本に対する脅威に対応するためにはどこに米海兵隊を配置すればよいかという問題設定をしています。これは情勢論です。これに対して沖縄のエリートと民衆は、沖縄と沖縄人が名誉と尊厳をもって生き残るためには、何が必要で、何が必要でないかという存在論から問題を設定しています」。
 
 一方に他人の足を踏みつけている人がいて、他方に踏みつけられている人がいるとします。踏みつけられた人は、痛みに耐えかねて、その足をどけてくれと言います。踏みつけている人は、俺がここに足を置いているのはこれこれの理由があるのだから、我慢しろと言います。「存在論」というのは「足をどけてくれ」という叫びだろうと私は思います。存在論に立てば、現状は否定し変革しなければならない深刻な問題をはらんでいます。ところが「情勢論」は、現状に順応して生きるように説教します。「いつまで友愛革命なんて夢を見ているんだ」と。

〈「どうしてそうナイーブなんだい」という人がいます。「社会を根本的に変革するなんてできやしないのがわからないのかい? この三〇年間に起こったことから何も学んでいないのかい? 革命について話したりするのはばかげたことだってことがわからないのか? それとも、あんたはまだ、あの一九六八年の青春の夢に浸っているのかい? 俺たちは、いまここにある世界とともに生きていかなくちゃならないんだし、この世界と折り合っていかなくちゃならないんだよ。」〉(『権力を取らずに世界を変える』52頁)

 
 ホロウェイがここで紹介したのも情勢論です。ホロウェイはその説得をふりきって、叫びをあげることが大事なんだと言います。「これは私たちの叫びなんだ。私たちの痛みなんだ。私たちの涙なんだ。私たちは自分たちの怒りを現実のなかに薄めてしまおうとは思わない。むしろ、現実のほうが叫びに道を譲るべきなのだ。…私たちは叫ぶ。ここにこそ私たちの出発点があるんだ」(同18頁)。佐藤さんの言う「存在論」とホロウェイの「叫び」は、沖縄の現実に即して見るとき、すっかり重なります。
 

◇ 常識をつくりだすもの

 
 人々はどうして「情勢論」を語るのでしょうか。「情勢論」を語る人たちに沖縄の叫びは聞こえないのでしょうか。ホロウェイはそうではないと言います。
 

〈(現実が生み出す)嫌悪や違和感が意識的もしくは無意識的に抑えられている可能性のほうが大きいのではないでしょうか。どうして抑えられているかというと、平穏な生活を守るためであり、あるいはもっと単純に、世界の恐怖を見たり感じたいしないように装うことで直接の物質的利益がえられるということからです。職を守るため、滞在許可を守るため、利益を守るため、高い評価を受けるチャンスを守るため、自らの穏健さを守るために、私たちは見て見ぬふりをするのです。…そういったものは、アフリカやロシアに、百年前に、自分とは無縁なところにあるのだとすることによって、私たち自身の否定的な体験は消毒されてしまうのです。〉(同30頁)

 
 沖縄の叫びに真剣に耳を傾けるなら、今の社会では平穏な暮らし、安定した地位、約束された将来を危険にさらしかねない葛藤が生まれます。なぜなら情勢論が圧倒的な力を持って私たちの周りを埋め尽くしているからです。これまでの自民党政治の流れに順応しながら形成された社会では、日米同盟、米軍基地は疑う余地のない前提条件であり、それを認めるのが常識とされているのです。
 
 心理学に「学習性無力」という言葉があるそうです。犬を檻に入れて不定期に電気ショックを与えると、初めのうち犬は一生懸命電気ショックから逃げようとしますが、やがて逃げるのを諦め、うずくまってしまうのだそうです。逃れられない不快な経験を繰り返すうちに解決への試みが放棄されるのです。これが「学習性無力」と呼ばれる状態です。英語ではそれをラーント・ヘルプレスネスというそうです。直訳すれば「身にしみた救いのなさ」ということでしょうか。
 
 おそらく常識というのはそうしてつくられるのでしょう。幼児が店のお菓子を手にとって口に運べば母親に叱られます。朝起きたら出勤するのが嫌になって会社を休めば、翌日上司からこっぴどく叱られるでしょう。叱られながら世の中はこういうものと思い知らされ、人はそれに順応するようになります。ここに常識が生まれ、その上に情勢論が組み立てられるのです。
 

◇ 内部化された「させる力」

 
 以前、力には「する力(パワー・トゥー)」と「させる力(パワー・オーバー)」があるとホロウェイが語ったことを紹介しました。この「させる力」は外的な強制の形だけで存在するわけではありません。常識を通して自分の内に取り込まれ、さらに強い力を発揮するのです。この点をホロウェイは次のように言います。
 

〈…「させる力」は私たちの内部に達し、「させる力」の再生産に能動的に参加させることを通じて、私たちを変えていってしまうのです。私たちの叫びが直面している社会関係の硬直化、「それが事物のありのままのありかたなのだ」という存在様式、それは、単に私たちの外(社会の中)にあるものではなく、同時に、私たちの内部に到達して、私たちの考え方、行動のしかた、私たちのありかた、私たちが私たちであるという事実のなかにまで入り込んでくるのです。〉(同144頁)

 
 情勢論として語られる「抑止力」論は、私たちの内部に働く「させる力」です。アメリカの世界戦略にひたすら追随する現状が、自民党流の密約外交によって固定化され、それが私たちの考え方、行動のしかたにまで浸透しているのです。マルクスならこれを抑止力物神崇拝と呼んだことでしょう。在沖米軍が担う「抑止力」という偶像は、アメリカの世界戦略に追随する自民党政府の密約外交によって生み出されたのです。
 
 沖縄に駐留する米海兵隊はイラク戦争で、多くの住民を殺傷した悪名高いファルージャ掃討作戦に投入されました。そのとき殺された数多くの子供たちが私たちにどんな脅威を与えたというのでしょうか。海兵隊の担う抑止力とは、誰の、誰に対する、どのような脅威を抑止しているのでしょうか——このように考えたとき、「抑止力」という皆が有り難がる偶像の魔力は霧のように消えうせるでしょう。
 
 沖縄の存在論的な叫びが普天間基地問題を解決に導く原動力でなければなりません。鳩山首相には、安易な解決に走らず、解きがたい矛盾のど真ん中に立ち続けることを期待します。移設問題では、これまで多くの時間が空費されてきました。アメとムチで結論を強引に押し付けようとした歴代政権のやり方に問題があったのです。たとえ時間がかかろうと、混乱や紆余曲折があろうと、これまで密約に隠されてきた外交・安全保障問題全般を含めて、全社会的な討議のプロセスを進めることが大切です。それが昨年の政権交代を意味あるものにする道だと私は思います。