ホロウェイ論その12 時代の変化にのまれた指導者の運命
鳩山由紀夫首相が辞任し、菅直人新首相が誕生しました。普天間基地移設問題があらわにした矛盾のど真ん中に立ち続けてくれることを鳩山前首相に期待した者として、残念な結果となりました。今の日本が抱える最も深刻な矛盾を、政権のトップとして一身に背負い続けることがどれほど困難であるかは想像を絶します。ですから安易な批判は慎まなければなりませんが、結果として官僚の敷いたレールに乗せられ、基地撤去を求める沖縄の叫びと衝突し、辞任を余儀なくされたことは、残念と言うほかありません。
◇ ドイツ農民戦争
鳩山前首相の運命をまるで予言したような言葉があります。
〈こうして彼は、必然的に、あるディレンマのなかに立たされることになる。彼になし得ることは、彼のこれまでのすべての行動、すべての原則、そして彼自身の党の現在の利害と矛盾する。そして彼がなすべきことは実行できない。一言で言えば、彼は、自らの党、自らの階級を代表するのではなく、運動がその支配のために熟しているある別の階級の利益を擁護せねばならない。そして自らの階級には空文句と空約束を、そしてこの別階級の利益が自階級の利益であるという断言を、与えざるをえない。このように厄介な立場に陥った者はみな滅亡を余儀なくされた。〉
これはフリードリッヒ・エンゲルスが『ドイツ農民戦争』のなかで、急進的な指導者の陥る悲劇について論じた一節です。ここにある「彼自身の党」「自らの階級」を、政権交代を支えた国民の声、「別の階級」を旧政権時代から引き続いて力を振るう官僚・財界・大手メディアと読み替えれば、現在の状況に実によく符合します。鳩山前首相は「最低でも県外」という「空約束」をする一方で、「日米同盟や抑止力の観点」という旧政権の観点を国民の利益だと断言し、「厄介な立場」に陥り、辞任を余儀なくされたのですから。
エンゲルスが描いた農民戦争の頃のドイツも巨大な変化の真っ只中にありました。1517年にマルティン・ルターがヴィッテンベルク城教会の扉に95か条からなる抗議文を掲げて宗教改革ののろしを上げます。カトリック教会の腐敗に対する批判は、やがて教会とその権威に支えられた領主たちへの農民の鬱積した不満と結びつきます。1524年から25年にかけて、ドイツからスイス、オーストリアを含む広大な地域を舞台に、30万人が参加したと言われる巨大な農民蜂起が起きます。
農民たちが掲げた12か条の要求からは、彼らの置かれた状況を読みとることができます。教会に対しては、司祭の選挙と罷免を地方自治体に委ねることとともに、家畜への十分の一税を廃止し、穀物への十分の一税は司祭の俸給のほかは貧民の救済などの目的に充てることを求めています。領主に対しては農奴制の廃止、地代の軽減、入会権の保障、私的に占有している公有地の返還、恣意的な司法や行政の排除などを求めました。要するに農民は、教会や領主に農民の生活を圧迫する行為をやめるよう求めたのです。それは生きていくための、やむにやまれぬ民衆の叫びでした。
蜂起した農民は修道院や僧院、領主の城を襲い、要求の実施を求めます。領主たちは当初劣勢に立たされましたが、やがて連合を組み、体制を立て直します。強力な軍を差し向け、農民軍を各個撃破するとともに、指導者を懐柔して偽りの講和を結び、次々と農民軍を解体したのでした。蜂起は失敗に終わりました。2年間の戦闘を通じて、処刑された無数の指導者を含め、10万人の農民が犠牲になったと言われています。
日本では自民党政治が続く中で、とりわけ小泉新自由主義改革によって貧困と格差が拡大し、限界集落やシャッター通りに示される地方の衰退が進行しました。これに対する怨嗟の声が昨年8月30日の投票所の反乱を引き起こしました。この民衆のなかから湧き起こった反乱は政権交代という形をとり、16世紀ドイツの農民のエネルギーにも匹敵するうねりとなって日本を覆いました。そして総指揮官の役割を期待されたのが鳩山前首相だったのです。
ドイツの農民軍がそうであったように、反乱を起こした日本の民衆も、内部には様々な矛盾を抱え、統一した方針もない、雑多な勢力の寄せ集めです。これに対して旧与党政治家・官僚・財界・大手メディアからなる旧勢力は、蓄えてきた財力・知力・武力(警察・検察)を活用して反乱に立ち向かってきました。策謀がめぐらされ、政治的な意図をもった捜査と宣伝が企まれました。その手法が功を奏して、新勢力内部に幾重にも亀裂が生じました。普天間基地移設問題で旧勢力は、アメリカの政府と軍の強硬な態度をも活用して(そうすることを懇願したとも考えられますが)、鳩山前首相から他の選択肢を次々と奪い取り、辺野古案への回帰に誘導したのです。反乱軍は混乱し、士気阻喪に陥り、内部対立を起こして総司令官が辞任することとなりました。
◇ 組織や制度やシステムがもつ惰力
歴史的な類比はこの辺までとして、ここで、旧勢力がいま保有する力について考えてみたいと思います。旧与党の政治家たちは、野党への転落によってかなりの力を失いました。その一方で、政権が変わっても財界は相変わらず経済への決定的な影響力を確保し続けています。彼等には当然、財力があります。さらに、長年培ってきた官僚とのコネクションがあります。広告を通じたメディアへの影響力も衰えていません。官僚はといえば、それぞれの担当する行政の専門領域に関して、今も知識と経験とコネクションを独占しており、これを背景に巨大な権限を保持しています。外部がどう変化しようと、それに動じることのない内的な論理をもって、したたかに行動しています(彼らのしたたかさは、6月4日に出された密約文書の廃棄をめぐる調査委員会の報告によく示されています)。これに加えて、官房機密費によって旧政権の懐に取り込まれたジャーナリスト、評論家、メディア関係者が大手メディアを今も牛耳っています。
旧勢力が有する力はこれだけにはとどまりません。長い間存続してきた組織や制度やシステムは、その内部に自分を維持する方向に働く強い力を持つようになります。その中にいる者は、この力に逆らえば不利益を被り、従えば評価されるうちに、いつしか順応的な行動を身につけます。「習い性となる」という言葉がありますが、人は順応的な行動を繰り返すうちに、性格や価値観までこの力に適合したものに変化していくのです。長年の自民党政治の下で日本の社会に定着した行動様式、価値観、常識、空気が今も多くの人を縛っています。旧勢力が自らを守るために動員する力の最大の源泉はここにあります。
置かれた環境やシステムによって形成された集団的価値観が、外的な存在のもつ力として現われ、人々の行動を縛り規制する現象をカール・マルクスは「物神崇拝」と呼びました。マルクスは商品、貨幣、資本の分析にこの概念を用いましたが、物神崇拝はそれらにとどまらず、社会のあらゆる領域に浸透しています。「抑止力」という言葉を前にして鳩山前首相は動揺し、「最低でも県外」という約束を反故にしましたが、私はそこにも物神崇拝の魔力が働いていたのではないかと思っています。「抑止力」といっても所詮それは軍事力を言い換えたものでしかなく、「抑止力を損なわない」というのは米軍の軍事的な機能の発揮を十全に保障することを意味しているにすぎません。ところが、密約で国民を欺いてまでアメリカ政府の軍事的な要求に応えてきた自民党政府のもとで、「抑止力」はいつしか触れてはならない聖域となり、逆らいがたい魔力を帯びるようになったのです。
物神崇拝の魔力から逃れる道はどこにあるのでしょうか。マルクスは商品、貨幣、資本のもつ物神的な威力の秘密を『資本論』を通じて解き明かそうと努力しました。誰もが常識として受け入れ、当たり前と考えてきた世界が、実は「魔法をかけられひっくり返った」「逆さまな」ものであることを、常識を体系化した(古典派)経済学への批判を通じて明らかにしようと試みたのです。この試みがまだ十分成功していないことは、『資本論』第1巻の刊行からやがて150年を迎えようとする現代においても、新自由主義という極端な姿をとった資本主義がなお猖蹶を極めていることから明らかです。しかし、叫びの前に立ちふさがる常識の隠された秘密を明るみに出すことによって、その魔力を封じるというマルクスの試みた方向は依然として正しいと思います。
「抑止力」は自民党政治のもとで形成された常識です。時代が変わるとき、常識は問い直されなければなりません。在日米軍の「抑止力」によって、これまで日本は外国からの侵略を受けることなく、平和が維持されてきたという、これまで信じられてきた常識が事実に即して検証されなければなりません。ほかにも問い直さなければならない多くの常識があります。たとえば「成長戦略」という言葉が一種の流行になっていますが、企業業績を回復させ、経済成長を実現することが、現在において果たして国民の幸せにつながるかどうかも改めて検討されるべきでしょう。「抑止力」とか「経済成長」という長らく日本社会を縛ってきた価値観を実証的に検証し、背後に隠された秘密を明るみに出すことが、民衆が政権交代に託した変化への期待を実現するうえで、いま不可欠な作業なのです。
◇ 叫びからの出発
ジョン・ホロウェイが『権力を取らずに世界を変える』で述べていることは、このような状況に置かれた私たちに多くの示唆を与えてくれます。私たちの行動と思考は、私たちが叫ぶところから始まります。投票所の反乱も私たちの叫びでした。ところが、叫びはすぐに壁に突き当たります。
〈私たちは体験を通じてつねに怒りをかきたてられています。しかし、その怒りを表現しようとすると、脱脂綿の壁にぶつかるような感じになります。私たちは、たくさんのもっともらしい反論にでくわすのです。〉(16頁)
このもっともらしい常識からの反論を前にして、すごすご引き下がるのではなく、おかしいと感じた世界になおも否定的に立ち向かい、そこからこの世界をもう一度とらえ返す永続的なプロセスを私たちは開始しなければなりません。
〈おそらく私たちにとって必要なのは、否定性を放棄することではなくて、反対に、叫びがもたらしてくれる見方から世界を理論化しようと務めてみるこのなのではないでしょうか。〉(30頁)
菅新首相の下で、投票所の反乱が今後どのような進行をたどるかを注目していきたいと思います。