フォーラム神保町東郷ゼミ/熱海合宿「天皇誕生日に皇室を考える」

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開催日時:2009年12月23日(水) 〜24日

「別のアプローチを知る」

天皇(及びその制度や歴史)をめぐる話を聞いたり目に触れたりするたびに、とても気になるのは、その主張するところの「これが正しい天皇なのだ」という意見に付随する独断性というか、固執性というか、あるいは排他性、攻撃性といったようなものです。
 
今は小林よしのり氏に代表されると思いますが、同じ保守という陣営の中にあっても、きっと当人らは同じとは思っていないのでしょうが、天皇を見るまなざしが尊王と共通しているにもかかわらず、意見を少しでも異にするものへの視線は敵意に満ち、口からは罵詈雑言がこれでもかと続きます。これでは、スポーツに例えると人気球団の周りで柄の悪い応援団が喧嘩をしているように見えてしまいます。たとえそんな状況でもまだスポーツならば、でも俺はこう思うと好きなことを言えます。しかし天皇という存在は政治にも歴史にも文化にも宗教にも長く深く、多様に複雑に関わってきます。専門家の専門用語を駆使した意見にはなかなか素人が割って入る隙はありません。なんとなく良い印象を受けた専門家に盲従するか、あるいは批判的に見ようとして揚げ足を取るか、本筋と関係ないところでの足の引っ張り合いに自ら参加をしてしまうか。なかなか入り口が見つけられない感じがします。
 
これまで自分が抱いていた印象は以上のようなものでした。しかし別のアプローチがあるのだなあと教えられたのが、1年前の皇居参拝と夏に行った伊勢神宮のお参りです。
 
そこで、目や耳や皮膚などの身体感覚で天皇の多様性を少し感じることが出来ました。これは自分には大きな収穫でした。きっと、こんな風に感じることが出来るようになったのも、歳をとったからだと思います。伊勢の森の中を歩いていてその静寂さに本当に心が澄み渡りました。来てよかった。と感謝しました。
 
その上で先日の講義だったのですが、やはりなかなかまだわかりません。皆さんの意見にいちいち感心しているばかりです。ですが、神道を考える際にひとつのイメージとして、参拝の風景や伊勢の森がイメージとして自分の中で定着しました。文献を読みつつも、それだけに固執することなく、神道にかかわる現場を覗いてみることも自分が学んでいくには有効なのではないかと、そんなことを2009年の先生の講義で発見しました。
 
(大久保範生)

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