フォーラム神保町第16回「個別社会とメディア」
勉強会レポート
国家と個人、国家と「社会」を考える時、国家と個人の中間組織として存在する個別社会。その社会的な意味を明らかにすべく、柄谷行人氏の講演は宮崎学氏の著書『法と掟と』を入口にして始まった。 家族、村、組合といった集団である「個別社会」の内部では、人々は相互扶助的であり独特の規範“掟”を共有するが、「封建的=身分的中間勢力」にもなり得るという両義性を持っている。しかし、“法”を規範とする国家に抵抗する力を持つので、真の民主主義社会には不可欠な存在であることがわかる。
興味深いのは、進歩主義者といわれる丸山真男氏でさえも、封建的中間勢力でもある「個別社会」を、国家に対向する自主的集団として評価していた点だ。メディアの中にいる自分としては、日ごろ社会的に善悪二元論によって否定されがちな既得権益団体、各闘争団体、思想団体などに対して、まずは「個別社会」という観点で捉え直し、多面的に検証することも必要だと改めて考えさせられた。
そして「公共(=国家)的な問題」を他人事ととらえ、関心事はただ「家(=私的領域)」の内部に限る日本人の、全体社会への関心の薄さを和辻哲郎氏が指摘した昭和初期と、様々な社会問題に対して静寂さを保つ現代の日本国民の精神背景が変わっていないことにも驚かされる。加えて、個人でありながら「国家」から自立して社会的なアソシエーションを作ろうとする人が少ないとする丸山氏論に和辻氏論を当てはめて考えた時、日本の急激な中央集権化によってつぶされて来た「個別社会」の存在が浮かび上がる。
特に90年代からは市場主義、新自由主義勢力によって、政治的中央集権が強まり「個別社会」は排除・解体され、いまや個人と国家だけが残った。その結果、国民は「具体的個別社会を切り捨てた、抽象的個人」化し、国民一人一人の顔が見えない世の中になってしまったのだ。
佐藤氏との対談の中では、柄谷氏がかつて挑戦したNAM(資本に転化しない経済活動)のように「現状を変えるために具体的に行動すること」と「失敗の意味を検証すること」に大きな意味があることを学んだ。そして現代の官僚・資本家が君主化した専政政治に対抗して台頭しつつある右翼勢力の示威行動の背景にも、それらへの強い抑制力をかつて発揮した「個別社会」勢力の衰退があることに気づかされた。
対談を通して大きな希望を感じたのは「沖縄・久米島」の話である。佐藤氏によれば、この島ではポランニーの人間経済が実践されており、島民一人一人の顔が見える相互扶助・分配経済が機能しているらしい。まさに成熟した「個別社会」を体現しているといえよう。
すぐに国家に頼るという姿勢ではなく、まず自分たちの社会で解決する方法を探そうとする一人一人の自立意識に立った「個別ネットワーク」を形成することが、この閉塞社会を打開する第一歩であることをお2人から学ぶことができた。
(角川書店 書籍第一編集部 江沢伸子)