読み物悪いヤツなら殺していいのか? 裁判員による付審判裁判が始まる奈良警官発砲事件
電話の声が弾んでいた。七年前、警察に命を奪われた高壮日さんの長兄からだった。「これって、滅多にないことらしいやないですか!」
わずか三カ月前、壮日さんの遺族は民事裁判(国家賠償請求訴訟)で敗れたばかりで、帰路に向かう沈痛な表情は見ていて痛々しかった。その時の様子とは別人のようだ。私も予期せぬ報告に、興奮気味に言葉を返した。「良かったですね。本当に凄いことですよ」
東京の新聞ではほとんど報じられていなかったので、私はすぐにインターネットで確認したが、関西では一面に記事を掲載した新聞もあったようだ。〈警官発砲〉男性死亡 警官二人を付審判と決定 奈良地裁(毎日jp・二○一○年四月十六日付)
記事は、次のように報じていた。
奈良県大和郡山市で〇三年、警察官が窃盗容疑で追跡中の乗用車に計八発を発砲し、助手席にいた東大阪市の高壮日さん(当時二八歳)が死亡した問題で、奈良地裁(一谷好文裁判長)は、同県警の警察官二人を特別公務員暴行陵虐致死と同傷害の罪で審判に付す決定をした。決定は起訴と同じ効力を持つ。同致死罪の一人は、付審判決定を受けた事件では全国で初めて裁判員裁判で審理される(後略)
付 審 判
一般的にはあまり聞き慣れない「付審判」という制度だが、「準起訴手続き」とも呼ばれている。「準起訴」というくらいだから、通常の事件のように検察が起訴するわけではない。
日本では、起訴するかしないかの権限と裁量は検察官が握っている( 起訴独占主義)。だが、これに当てはまらないケースもある。
二○○一年七月に起きた「明石花火大会歩道橋事故」では、検察が不起訴にしていた明石署副署長に対して、検察審査会が起訴議決し、強制起訴されることになった。これまで検察審査会の決議は検察に対して拘束力がなかったが、法改正により〇九年五月から決議が強制力を持つようになった。
ただし、付審判制度が検察審と異なる点は、官憲の犯罪を対象としている点だ。付審判は警察官や検察官、刑務官など特別公務員の職権濫用罪を理由として請求が行われる。
例えば、職務質問中や取調べの時に、警察官から暴行を受けたとする。暴行を受けた人がケガをすれば特別公務員暴行陵虐致傷罪、ケガが原因で亡くなれば致死罪に問われることになる。
ところが、被害者が検察に刑事告訴しても不起訴にされてしまうことが少なくない。同じ捜査機関どうしという意識から生じる庇い合いから、身内に甘い対応になりがちなのである。検察が起訴しなければ、刑事裁判は開かれない。暴行を受けた被害者は救済されず、泣き寝入りということになる。そこで、官憲による処分の不公正さを正すために被害者が直接、裁判所に公判を求めることができる制度が設けられている。これを「付審判請求」といい、この司法手続きによって、裁判所が審判に付す必要があると判断すれば「付審判決定」ということになる。
しかし、付審判制度はこの国の刑事司法において、もはや形骸化しているといって過言ではない。戦後、付審判請求はおよそ一万八○○○件起こされているのだが、これまで裁判所が認めたのはわずか二一件だ。認容率は○・一パーセント程度である。
しかも、ようやく裁判が開かれたとしても約半数が無罪になっている。一般の被疑者の場合、検察官が起訴すれば九九・九パーセントが有罪になる。このため、多くの人々が冤罪に苦しめられている。裁判所は、警察官など特別公務員に限っては「無罪推定」という刑事司法の原則を遵守しているわけだ。こんな不公平が許されていいのか。
高壮日さんに対する発砲事件でも、遺族は警察官らを刑事告訴したが、奈良地検は不起訴にした。直ちに付審判請求を行い、今年四月十四日の付審判決定で二人の警察官が起訴された形になる。うち一人が暴行陵虐致死罪に問われたため、この警察官については裁判員裁判の対象事件になる。
ともかく、壮日さんの遺族および弁護団は、針の穴を通すような第一関門を突破したわけだ。付審判手続きとともに、裁判員裁判という二つの制度の存在意義が問われる機会になる。この事件は、戦後司法において重要な位置づけとなるのはまちがいない。
壮日さんは友人とともに窃盗行為をしたことで警察に追われることになり、車で逃走の末、銃弾を浴びる。三人の警察官が計八発の弾丸を車に撃ちこんでいるが、うち二人の警察官が発砲した三発が壮日さんらの頭部に命中した。友人に重傷を負わせ、壮日さんを死に至らしめるという悲劇的な結末となった。
遺族としては「壮日が悪いことをしたのは事実だが、なぜ撃たなければならなかったのか」との思いが拭えない。発砲しなければならないような必然性が、本当にあったのか。
事件の経過については、私はこれまで週刊誌などでレポートしてきた。重複する部分もあるが、改めて事件の発端から説明しなければなるまい。警察官の階級は、いずれも事件当時のものである。
逃 亡
大和路を南北に走る国道沿いで、八発の銃声が響いたのは、二○○三年九月十日のことである。
その日は、朝から雨が降っていた。
当時、二八歳だった高壮日さんは、建設会社の作業員として働いていた。いつものように朝六時ころ起床した。七時前には自宅を出て、工事現場へと向かう。ところが、十時半ころ「雨で(仕事は)中止や」と言って帰宅してきた。ほどなくして、友人から遊びに誘われたのか、着替えて再び家を出た。
あの日、雨さえ降らなければ、友だちに誘われさえしなかったら……。母親の金順得さん(七二歳)は、いまも悔やまれてならない。
午前十一時ころ、壮日さんは自分より二歳年下の友人、青山悟さん(当時二六歳)と落ち合った。壮日さんは、青山さんが運転する乗用車(セドリック)で出掛けた。二人は、同じ中学校の先輩と後輩の間柄だった。
二人はまず、午後一時ころ天理市にあるパチンコ店の駐車場で〝車上荒らし〟の手口で現金三万円とクレジットカードなどを盗み出した。警察は、壮日さんのほうが年上だったこともあって、主従関係では壮日さんが上位にあったと見ていた。実行役は青山さんで、見張り役が壮日さんだったとしている。
実は、壮日さんには犯意がなかったようだが、その点については後述する。
さらに天理市から西へ向かって、午後四時半ころ、橿原市のパチンコ店の駐車場でも同様に駐車していた車を物色し、現金約十万円の窃盗を犯してしまう。五時過ぎ、パチンコを終えて駐車場に戻って来た男性が、自分の車が荒らされていることに気づく。
近くに止まっていたセドリックが急発進して走り去ったので、男性は一一○番通報し、車のナンバーと車種、色などを伝えた。
奈良県警本部の無線指令により、本部の機動捜査隊および橿原署が出動し、二人が乗るセドリックの捜索を開始した。三台のパトカーが赤色灯を点滅させ、サイレンを鳴らして追尾し、追うものと追われるもののカーチェイスが始まった。
途中、壮日さんたちが乗るセドリックはパトカーに挟まれ、いったん停止する。職務質問のためパトカーを降りてきた警察官を振り切って、青山さんはさらに逃走を図る。警察は追跡中に、セドリックに二人の人物が乗車していることを、すでに確認していた。
発砲現場となる大和郡山市内の交差点まで約二十キロ、およそ一時間半にわたる逃走劇が続いた。
国道二四号を北上(京都方面)するセドリックを停止させるため、警察は進行方向にある大和郡山市の下三橋町北交差点で周到な態勢を取っていた。
下三橋町北交差点は丁字路だが、まず、郡山署から出動した交通捜査車両(ワンボックスタイプ)が交差点に進入し、車を横付けに停止する。このため、国道の北行き片側二車線の行く手を塞ぐ形になった。
国道二四号は、京都市から奈良県を貫いて和歌山市まで結ぶ幹線道路である。夕刻の交通量の多い時間帯ということもあって、一般車両の渋滞ができ上がった。さらに、車列の最後尾から交差点方向にパトカーがサイレンを鳴らして進入する。二車線道路で停止状態になった一般車両をそれぞれ左右に車を寄せさせ、パトカーに道を譲らせた。
つまり、二車線道路の中央部分に車一台が通過できるスペースが空いたことになる。ここに壮日さんたちの乗るセドリックを追い込み、後方から追尾しているパトカーと挟み打ちにしようというわけだ。前後はパトカーに、左右は一般車によって遮られる。いわば〝袋のネズミ〟にする作戦を取ったのである。
銃 撃
警察の目論見通り、セドリックが車列の後方から交差点に向けて走行してきたのは、午後六時四○分ころのことだ。
セドリックは、前方中央部に停まっていたパトカーに追突した。だが、二人は逃げたい一心からか、なかなか逃走を諦めない。車ごとパトカーを押しのけようとしたり、激しく車を前進あるいは後進させたりして後方に停止していたパトカーにも衝突させた、と警察は主張している。このため、左右に停車中の一般車両にも衝突、あるいは接触した。
その間、すでに警察官たちはパトカーを降りてセドリックを取り囲んでいた。
警察官は、特殊警棒でボンネットを叩きながら怒声を上げた。「止まれ! ドアを開けろ!」
青山さんと壮日さんが応じないと見るや、警棒や警杖(長さ一メートル強の樫棒)を使って、フロントガラスを叩き割ろうとしたが、容易にガラスは割れなかった。
この時、後方のパトカーから降りてきたN巡査はすでに拳銃を抜いていた。しかも、拳銃の銃底で何度も窓ガラスを叩いて割ろうとしたというから、暴発の可能性もある危険な銃器使用というほかない。
ちなみに、セドリックのフロントガラス以外の窓ガラスには、スモークフィルムが張られ、車内の様子はサイドからは見えにくい。「止まらないと撃つぞ!」
N巡査は大声で連呼したが、なおセドリックは逃げようとした。そして、セドリックが急発進したため、身の危険を感じたというY巡査部長が声を張り上げた。「発砲、撃て!」
上司の号令とほぼ同時に、N巡査は威嚇発砲もしないまま、五発の銃弾を放つ。
一発目。運転席ドアガラスから撃ち込み、メーターパネルに当たった。二発目は、セドリックの右側(運転席側)のセンターピラーに着弾し、めり込んだ。三発目の弾丸は、フロントガラスから射入し、助手席のヘッドレストを貫通した。つまり、壮日さんの頭部すれすれに当たる。続いて四発目。セドリック右側の後部座席の窓ガラスを撃ち、今度は運転席のヘッドレストに命中した。さらに五発目は、リアガラスを撃ち、助手席のヘッドレストに着弾している。
まさに無観測による連続射撃と言うほかないが、二人の身体に命中しなかったことが奇跡とさえ思える。N巡査はいずれも青山さんの腕を狙ったというが、リアガラスや右後部座席からも撃ち込んでいることからしても、にわかに信じ難い。
N巡査が放った五発の銃声に触発されたのだろう。続いて、萩原基文巡査部長と東芳弘巡査長が、六~八発目となる計三発を放つ。この三発はいずれも助手席側から放たれ、壮日さんと青山さんの頭部に命中する。この萩原、東の両警察官こそが、今回の付審判決定によって〝被告人〟となる。
二人の警察官もやはり、青山さんの運転能力を失わせるために発砲したと主張した。助手席側のドアミラー付近から斜めに撃ち込んで、青山さんのハンドルを握る腕を狙ったというのである。
しかし、弾丸の軌跡は彼らの主張が矛盾していることを証明している。二人の警察官が放った三発すべてが助手席の窓ガラスの後方部分から撃ち込まれ、警察官の主張とはむしろ真逆の方向になる。しかも、約一メートルという至近距離から発砲しているのだ。
六発目は、萩原巡査部長の拳銃から発射された。弾丸は助手席のドアガラスを
貫通し、壮日さんの左後頭乳突部、すなわち左耳の後ろあたりに命中して、頭蓋骨内で止まった。
さらに、東巡査長がたて続けに拳銃の引き金を引き、七発八発目を撃つ。弾丸は壮日さんの左頸部に当たり、右頸部に達した。結果的に、この七発目の発砲によって壮日さんを死に至らしめることになる。
八発目は、青山さんの頭蓋骨と頭皮の間を貫通し、頭蓋骨を陥没骨折させて、右の首筋あたりで止まった。この時、セドリックは前に停車していたパトカーを押すような形で、時速五~七キロの不規則なスピードで前進していたといい、このため照準がずれた、と警察官は説明している。銃撃によって青山さんの運転能力が失われ、右側に停車していた一般車両に追突して止まった。
壮日さんの死
二人は直ちに救急車で病院に搬送された。壮日さんは、頸部骨折・損傷を負い、大和郡山市内の病院で弾丸摘出手術を受けた。さらに、奈良県立医科大学付属病院の救命救急センターに転送される。
壮日さんは五人きょうだいの末っ子で、生まれてまもなく父親を亡くしている。自宅で母親とすぐ上の兄と暮らしていた。壮日さんは韓国籍で、この日は韓国社会での旧盆に当たる祝祭日だった。
母親の金順得さんは、午後六時半ころ壮日さんに電話を掛けている。その時間帯は、壮日さんの乗った車がまさに交差点に差し掛かり、被弾する直前だった。
「お供え物の段取りをしながら、壮日の携帯に電話して『きょうは叔父さんたちも来るから、早う帰ってきなさい』言うたんです。そうしたら、女の子みたいなか細い声で『わかった。後で電話する』って電話を切ってしまったんです。その時はヘンな子やなあ、と思ったんです」
自宅に親族が集まるなか、午後十一時のテレビのニュースは事件を伝えたが、まだ壮日さんの氏名が流れていなかった。親族らはテレビを見ながら「警察もやり過ぎちゃうか」などと、口々に言い合ったというのだ。
私服の警察官が訪ねて来たのは、午前零時を回ったころだった。「息子さんが重体で……」
深夜、突然の訪問に事態を察した母親と叔父は、促されるまま警察車両に乗り込んだ。兄たちも自家用車で病院へと駆けつけた。
しかし、ICUに入れられた壮日さんとは朝まで会えなかった。
十八歳も離れた長兄(五三歳)は、壮日さんにとって父親代わりの存在だった。感情を押し殺すようにして、長兄が当時を語る。「壮日は確かに悪いことをした。けど、何も殺すことはないやろ。他に方法はなかったんかと思います。病院で壮日はいろんな管に繋がれて、心臓だけ動かされているような感じでした。病院には毎日、刑事が見張り役みたいにして来てたんで、事件の時のこととかを聞きました。けど、何も説明してくれませんでした。ただ、年輩の人らは『あれはおかしい』『やり過ぎや』言うてくれました。これまで警察からは、きちんとした説明も謝罪も一切ありません」
およそ一ヵ月間、生死の境を彷徨う壮日さんの傍らで、母親の金順得さんは毎日付き添った。壮日さんの顔を拭いたり、手足を擦ったりしながら「早く目を覚まして」と声を掛け続けた。しかし、日ごとに壮日さんは痩せ細っていき、足先のほうからだんだんと冷たくなっていくのがわかった。
事件から二十五日目の十月五日朝、低酸素脳症により、壮日さんは他界した。
順得さんの哀しみは深く、癒し難い。「壮日は毎朝、早う起きて工事現場に通っていましたが、あの日は仕事が中止になったこともあって、友だちに誘われて仕方なく出掛けて行ったんです。車が欲しい言うて一生懸命働いていました。私にとってはええ子で、毎月のお給料から四万円ずつ私に渡してくれていました。できることなら、壮日を返してほしい。寝たきりのままでもいいから」
追い詰められた逃走車
事件直後から、奈良県警は「警察官の職務執行は適正だった」と、マスメディアを通じてコメントしていた。到底承服できない順得さんら遺族は、裁判に訴える決意を固めた。
事件から約二カ月後の十一月十三日、発砲を命じたY巡査部長、発砲したN巡査、萩原巡査部長、東巡査長の四人の警察官に対し、「助手席への発砲は違法」として殺人と特別公務員暴行陵虐罪で、奈良地検に告訴した。
しかし、二○○六年一月十一日、地検は警察の言い分だけを認めて不起訴処分にした。順得さんはこの処分を不服として、翌十二日に奈良地裁に付審判請求を提出する。
続いて二月七日、順得さんは奈良県と警察官四人を相手に、約一億一千八百万円の国家賠償請求訴訟を奈良地裁に起こした。
警察が発砲は「正当な行為」と主張しているのは、警察官や一般車両のドライバーに死傷者が出るのを防ぐための〝正当防衛〟という理由からだ。
交差点での拳銃使用状況を、奈良県警は次のように説明している。
警察官の制止命令に従わず、容疑車両は、複数の警察官が駆け寄る状況の下、猛スピードで前進・バックを繰り返した。自動車警ら隊員、橿原署員等が、警棒等で同車両のフロントガラス、運転席窓ガラスをそれぞれ数回殴打するも割れ落ちることなく、同車両は同様にして逃走を企てた。
容疑車両は、更に南方へ猛スピードで後退し、停車中のパトカー前部に衝突させた後、同警察官等に向け、轢過せんとする勢い突進してきたことから、自己及び他人の生命及び身体への危害を防止する手段として他に手がないと判断し、自動車警ら隊員のうち一名( N巡査) が「撃つぞ、止まれ」等と警告の上、容疑車両に数発発射した。( )内は筆者
これまで説明してきたように、警察はセドリックを前後のパトカーで挟み打ちにしようと企図した。セドリックが猛スピードで車を前後させたというからには、二台のパトカーの間には一定の距離がなければならない。
追尾していたパトカーの運転手だったP巡査部長(裁判時は警部補)は、国賠訴訟の法廷で、原告側代理人の質問に対して次のように供述している。
―あなたの指示でN巡査と東巡査長が車を降りて、窓ガラスを割ろうとしていたということですが、あなたは、その後、どうされましたか?
「私はNと東が降車してから、奈良50(追尾してきたパトカーの無線呼称)を前進させました。挟み込んで停止させようと思って前進させました」
―挟み込んでというのは、青山車(セドリック)をあなたの車とあなたの前にある車とで挟み込んで停止させようと、そういうことで前進させたということですね。
「はい、そうです」
―それで、あなたが前進していったときに、青山車は、どういう行動を取りましたか?
「私たちが前進したときに、青山車は橿原501(前方に停車していたパトカー)と一般車両に激突しました」
―あなたの調書では、それから、更に(セドリックが)アクセルを吹かせて(前方のパトカーを)押し出したということも書いてありましたけれども、そんな状況ですか?
「はい」
―その時点で、あなたは、奈良50から降りていますよね。
「はい」
―奈良50を降りたときの青山車との間の距離というのは、どれぐらいだったか覚えていらっしゃいますか?
「一五、六メートルぐらいだったと思います」
―青山車を挟み込んで止めようというのが、あなたの目的、意図だったわけでしょう?
「はい」
―そういう意図だとすると、奈良50から降りる必要はないと思うんですけれども。
「それは、青山車両が、前方の車両に激突した段階で、停車したと思ったから、降車して逮捕に向かったんです」……中略……
―あなたが青山車から一五、六メートル手前で降りたとおっしゃいましたが、それは、もう逮捕できると思ったから、車を止めて降りたということでいいんです
か?
「できる、できないというよりも、逮捕に向かわなければならない、応援に行かなければならないと思って、跳び出したのです」
―まだ一五、六メートルも間があるんだから、ずっと詰めて青山車両の真後ろに止めてから降りたほうが早いんじゃないですか?
「走っていっても、それほど変わらないと思います」
―でも、車のほうが速いのに決まっているじゃない。
「私は、ちょっとその辺は分かりませんけれども、ただ体が、そのように動いたということです」
―それは、何か理由があるからじゃないんですか?
「当然、逮捕するにあたっては、自分の体を使わないといけないわけですから、その思いもあって、ただ、もう無意識というか、無我夢中で走り出したということです」
―できるだけ、逮捕する相手に近付いて降りるのが普通でしょう。
「普通かどうかは分かりませんが、私は、そういう思いでした」( )内は筆者
P巡査部長はセドリックから一五、六メートルの距離でパトカーを停止させたと述べているが、一方の不審判請求に対して奈良県警側が提出した意見書によれば、この距離はさらに開いて約一九メートル後方に停止したことになっている。
原告側代理人を務める伊賀興一弁護士は事件後、間もないころから壮日さんの遺族と接して、弁護団の中心的な役割を担ってきた。伊賀弁護士は、こうした奈良県警の主張に強い疑念を抱いている。「そもそも奈良県警はパトカーで挟み打ちにしようとしていたわけですから、後続のパトカーとセドリックとの間に猛スピードで〝暴れ馬〟状態になるほどのスペースはなかったはずです。ところが、追尾してきたパトカーが一九メートルも手前で停止して、警官が駆け付けたと言い出した。そんな離れた距離にパトカーを止めて、慌ててセドリックに駆けつける必要性などまったくありません。非常に不合理な説明です。要するに、セドリックが暴走できるスペースが十分あったことにするためでしょう。百歩譲って、仮にその主張を認めたうえで計算しても、初速から一気に加速して出せるスピードは時速四○キロにも達しません。奈良県警は発砲を正当化するため、危険性を誇張しているのです」
実際、ケガをした警察官はいないし、周囲の一般車両の被害も小破あるいは擦過傷で済んでいる。
また、一般車両のドライバーの目撃証言でも、セドリックがほぼ完全に挟み打ち状態になっていたのは明らかだ。あるドライバーは二車線の右隅に車を寄せて止まっていた。真後ろに乗用車が、その後ろに四トントラックが止まっていたのを覚えている。そして、このドライバーのすぐ左後ろにパトカーが停止しており、そこへセドリックが激突した。
セドリックの後ろ、四トントラックの左側あたりに別のパトカーが来て止まった。このパトカーこそが「奈良50」であり、P巡査部長が運転していた車両であろう。とすれば、二台のパトカーの間のスペースはせいぜい車一、二台分しかなかったことになる。挟み打ちになった時点で、セドリックが暴走運転を行うことは、物理的に不可能だ。
P巡査長は法廷で、こうも述べている。「国産車だから運転席は右側にあるので、私は運転席側に回り込んだ」「私の周りには三、四名ぐらい(警察官が)いました」
萩原、東の両警察官は助手席側から発砲しているが、運転席側にも警察官はいたのである。しかも、両警察官によって最後の三発が放たれた後、「(警察官の)誰かはわからないが、運転席側の窓ガラスを手で剥がした」と答えている。つまり、N巡査が最初に運転席に発砲した一発目で、セドリックの窓ガラスの強度が劣化していたことを意味する。
どのように撃たれたか
今回、私は交通事故鑑定人の石川和夫氏に見解を求めた。「車のガラスで最も強度があるのはフロントガラスですが、窓ガラスも警棒などでは容易に割ることはできません。車のガラスは二枚の透明な合わせガラスでできていますが、その二枚の間にフィルムが挟まれています。交通事故などでフロントガラスに何かがぶつかっても、普通のガラスのようにバラバラに割れずに、蜘蛛の巣状にヒビが入っているのを見たことがあると思います。車のなかの人の安全と、ガラスがヒビ割れても前が見えるように、そのような構造にしているのです。
ただし、ガラスに一センチなり五ミリなりでも小さな穴が空けば強度は一気に弱まり、手で押しただけでも、ぐにゃりとなって簡単に壊すことができます」
P巡査部長は警察官の「誰か」がガラスを剥がしたというが、セドリックは衝突や接触などをくり返した。その衝撃で、すでに窓ガラスが剥がれ落ちていた可能性すらある。
そもそも、警察は交通事故などで車内に閉じ込められた人を救出するケースなどのために、ガラスクラッシャーをパトカーに常備していないのだろうか。警察官たちの証言によれば、「積んでいる車両と、積んでいない車両がある」というが、事件時、出動したパトカーはいずれもガラスクラッシャーを装備していなかったというのだ。
警察はセドリックを追い詰めていた。言うまでもなく、壮日さんらは武装していたわけではなく丸腰の状態だった。アメリカのような銃社会でもあるまいし、窃盗を犯した逃走車に銃弾を撃ち込むというのは、どう考えても正当化できるとは思えない。
最後の三発を放った萩原巡査部長と東巡査長は、法廷でどのような供述をしたのか。六発目を撃った萩原巡査部長は、「(青山さんの)ハンドルを持つ手から肘までの間を狙った」と述べ、「狙ったところに絶対に当たる、と確信していた」と言い切っている。
―実際には、助手席に乗っていた高壮日さんに弾が当たりましたよね。
「はい」
―そのことについて、今ではどう思ってるんですか?
「今から考えると、被疑車両の動きが一定じゃなかったということと、それと、発砲時点に、予想外の動きで被疑車両が前に出たためにずれたんだというふうに思っております」
―あなたは、そういう自己弁護の言葉しかここでは言えないということですか?
「当時外れた理由については、本当に分かりませんでした。その後、科学捜査研究所の所長さんの陳述書から、撃つ時の反応遅れがあって、それが至近距離だったら、まあ予想以上に大きく影響したのかなというふうに考えております」
萩原巡査部長は、ここで「反応遅れ」という言葉を使っている。照準が合った時点と引き金を引くタイミングに時間差が生じたという意味だろうが、本来、この二つの動作はほぼ同時でなければならないのではないか。発砲を躊躇ったというのなら別だが、二人の警察官は、最初にN巡査が五発を放ったことで、自分たちも強い意志を持って発砲しようとした旨、供述しているのである。
ちなみに、照準器について「照星」「照門」という言葉が使われるが、「照星」とはピストルの銃身の先にある凸型の突起物、「照門」は撃鉄側に付いている凹型の溝で、両者が一直線になるよう目標物に合わせる。
続けて、原告側代理人が、この「反応遅れ」という現象について問い質している。
―私の知見では、狙いを定めた時には、引き金を引いているんだろうということを聞いているんですが。
「照星、照門の被疑車両の動きと、そういう状況( 車の動きに合わせて小走りするなど) があって、今なら当てられることができるというタイミングで引き金を引いたということです」
―その引き金を引く時に、狙いを定めてるという、照準を定めているということがなければいかんわけやね。
「ずっと定めています」
―ずっと定めてんの?
「それが合わなければ照準が合いませんので、照星と照門というのがあるんですけども、その高さと幅が一緒になるよう合わせているという状況です」
―動いているものに対してあなたも動きながら、それがずっと定まっていたというふうに思いますか?
「その定めるのに、狙いを定めるということで、合った時点で撃つということです」
─だから、合った時には、引き金を引いたということでいいわけでしょ。「そうです」
―ところが、あなたの弾は、狙ったところには当たっていなかったということになるわけやね。
「そうです」 ( )内は筆者
続いて七発、八発目を撃った東巡査長は、発砲時、助手席側ドアミラー付近で萩原巡査部長と並んで立っていた。そして、やはり同様に運転手である青山さんの腕を狙って発砲したと証言している。
―照準を合わせるということと、引き金を引くという行為について、あなたのこの当時の行動を言ってほしいんだけれども、照準を合わせて引き金を引くまでに、あなたは、時間差置いているんですか?
「当時、どのように時間を置いたか、そこまでは覚えておりません」
―通常は、どうするものだというふうに思っていますか?
「通常の落ち着いた、例えば、射撃訓練であるとか、そういうことでよろしいですか?」―動いているものに対する射撃訓練で答えて下さい。
「照星と照門を合うようにした後、発砲します」
―それは合うた時点で引き金を引くのか、合うてから一呼吸も、二呼吸も置くのかということです。
「一呼吸も二呼吸も置くわけではありません」
―つまり、照準が合ったイコール引き金を引くという動作の一連というふうに伺っていいのか?
「そう断言することはできませんが、私の中では、照星と照門が合えばある程度の速度を持って引き金を引きます」
―今は反応遅れだと思うというふうに、あなたはお答えになったけれども、反応遅れの中身(意味)を言って下さい。
「反応遅れというのは、実際、自分の頭の中で撃とうと思った時間から引き金を引き、撃鉄が落ちて拳銃が発砲されるまでの時間です」
―照準点と着弾点がずれていることの原因として、あなたは、反応遅れだということで説明が付いたというふうに思っているわけ?
「一定の、それだけではないのかもしれませんが、今では、私はそのように思っています」
仮に「反応遅れ」があったとしても、当初狙った角度と、実際の弾道が二本の平行線の形になるのならまだしも、「X字」に近い形になることなどあり得ない。
銃器に詳しいジャーナリストの津田哲也氏に、意見を聞いてみた。「照準が合って引き金を引くまでに、確かに多少の時間差はあり得ます。しかし、それは人間の生理的な問題であって○・何秒の世界ですから〝反応遅れ〟などという概念はありません。重要なのは、射程の距離ですね。標的が何十メートルも先なら、銃口が数ミリでも狂えば弾道は大きくずれますが、一メートルという至近距離だとほとんどずれることはありません。弾は必ず真っすぐに跳びますから、運転手の腕を狙って助手席の人の頭部から頸部に当たっているとすれば、高さがちがいます。上下に誤差が生じているのだから、言い訳になりませんね。明らかにウソです。この事件は複数の警察官が発砲しているとのことですから、彼らの罪の意識も薄れたんだと思います」
いずれの警察官も「構え」の射撃姿勢で狙いを定めたと主張している。例えば、萩原巡査部長は、セドリックの動きに合わせて小走りで追いかけていたというが、発砲の際は「右足を大きく前に踏み出し、拳銃を両手で持って前方に突き出し、中腰の姿勢で構え」の姿勢を取った旨説明している。
原告側代理人の伊賀弁護士は、「今回の訴訟の特徴は、警察官が証言を変えるなど〝作り話〟が多過ぎること」と断言する。「五発を撃ったN巡査は、当初は『身をかわしながら』『飛び退きながら』などと、不安定な姿勢で撃ったと供述していました。セドリックが急発進や暴走をくり返すなど、現場が切迫した状況で、正当防衛であったことを強調するためです。ところが、今度は『構え』の姿勢で撃ったと主張を変えてきたのです。つまり、しっかり運転手の腕を狙ったということを言いたいわけで、壮日さんに対する殺意を否定するためなのです」
もはや、奈良県警側の論理は破綻しているかのように思えた。
国賠訴訟判決
今年一月二十七日、奈良地裁でこの国賠訴訟の判決言い渡しがあった。
壮日さんの母親の順得さんや長兄ら遺族は傍聴席真ん中の最前列に腰掛け、私は原告席側に近いほうの席に座った。
宮本初美裁判長が左右倍席裁判官とともに登壇すると、遺族は固唾を飲んだ。
宮本裁判長は、やや早口で主文を読み上げた。「原告の請求をいずれも棄却する。訴訟費用は原告の負担とする」
たったこれだけである。民事裁判の判決は刑事裁判とちがい、判決理由の朗読は裁判官の任意となっている。宮本裁判長は主文だけを読み上げると、さっさと引き上げた。
その刹那、私は横目で遺族の様子を窺った。放心したように正面を見詰めたまま、身じろぎもしない。しばらく立ち上がることもできなかった。原告側の弁護団からも「何なんだ、いったい」との声が漏れた。
判決後の記者会見で、順得さんは無念さを堪えながら、こう語った。「裁判で証言台に立った警察官の年恰好を見ながら、壮日が生きていればこのぐらいの年齢になっていただろうな、との思いが込み上げてきました。本当に悔しいです」
弁護団会議もすぐさま開かれ、判決文の検討が行われた。
敗訴とはいえ、この判決には特筆すべき点があった。それは、発砲した警察官たちの「未必の殺意」を認めたことである。つまり、発砲によって相手が死ぬかもしれない、死んでも構わないという判断のもと、警察官が引き金を引いたということを意味する。警察官の発砲に対して、裁判所が未必とはいえ「殺意」を認めるのは、異例のケースといっていい。
奈良地裁は、八発の発砲がいずれも至近距離から行われたことから、殺傷能力が絶大になることを重く見た。運転手のほかに助手席に壮日さんがいたことを考えれば、実際に発砲した以上、人を殺害する意図はなかったとしても、殺してしまう可能性を認識していたことになる。従って、N巡査、萩原巡査部長、東巡査長には、壮日さんに対する「未必の殺意」があったことを認めたのである。
しかし、その一方で警察官たちの「正当防衛」を認め〝発砲やむなし〟の判断を下したのが、この判決の曲芸といえる点だ。
警察の主張通り、セドリックが〝暴れ馬〟状態で、取り囲んだ警察官に向けて急発進をくり返す行為があったことを認めている。また、周囲の一般車両にも衝突、接触したことにも触れ、人の生命・身体に対して著しい危害を加えかねない切迫した状況にあった、と認定したのである。
そのうえで、警察官らの拳銃使用を回避させることは、正当防衛行為を中止させるも同然、とまで言い切る。要するに、この状況下で発砲しなければ、警察官としての任務遂行を放棄することになると述べるのである。だから、警察官たちの発砲は、警察官の武器使用の範囲を定めた警察官職務執行法七条の要件を満たし、いずれも適法で過失はないという論理展開なのだ。
警職法七条は、犯人の逮捕や逃走の防止、自分や他人に対する防護、または公務執行に対する抵抗を防止するため必要であると認められる範囲内で武器を使えることができる、としている。
重要なのは〝但し書き〟といわれる以下の記述で、警察官の武器使用に厳しい制限を設けている。
ただし、正当防衛または緊急避難に該当する場合、または長期三年以上の刑となるような凶悪犯と思われる者が、抵抗したり逃亡したりする時以外は危害を与えてはならない、と規定されているのだ。
今回のケースが、この〝但し書き〟の枠を超えているとでもいうだろうか。
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私は奈良地裁からの道すがら、弁護団の一人、石松竹雄弁護士にこう聞いた。
「きょうの判決は結局、悪いことをしたヤツは撃ってもいい、ということですね」
すかさず、石松弁護士も言い棄てた。「そうですよ。床屋談議、居酒屋談議と同じレベルのことを言っているんです」
十一人からなる原告弁護団には、二人の元裁判官が参加している。石松弁護士は、元大阪高裁の総括判事である。大阪の事務所に戻った石松弁護士に、元裁判官の立場から今回の判決をどう評価するか、見解を求めた。「事実認定があまりにも漠然としていて、非常に低レベルの判決です。
まず、警察官や一般市民への生命・身体への侵害、すなわち正当防衛をきわめて簡単に認めてしまっています。判決文には『急迫不正の侵害』という言葉が使われていますが、これは正当防衛が認められる要件です。まさに危険に直面して、他に取るべき手段がない場合に限られます。当時の現場で、そんな状況に置かれた人は誰一人いません。自動車が壊されるという状況は確かにあり、『財産権の侵害』で止まる次元です。ところが、そのことにはまったく言及がありません」
もう一人の元裁判官は、安原浩弁護士である。○八年に松山家裁所長を最後に退官し、弁護士登録後、石松弁護士の誘いに応じて弁護団に加わった。その安原弁護士が語る。「石松先生から事件の概要を聞いて、警察のやり過ぎと思わざるを得ませんでした。この事件は、『広島港沖シージャック事件』と同じなんですか? と問いたい」
安原弁護士が例に挙げた「広島港沖シージャック事件」とは、七○年五月に発生した旅客船乗っ取り事件である。二○歳の青年が「ぷりんす」号の乗組員を人質に取って、ライフル銃を乱射。警察官らに重軽傷を負わせた。家族の説得にも発砲で応じ、瀬戸内海を渡った。最終的には、警察の狙撃手が射殺して人質を救出している。だが、この事件でさえ、射殺の妥当性について多くの議論が沸いた。「奈良の事件は、シージャック事件とは状況がまるでちがいます。壮日さんたちの車は、必死で逃げようとしているだけです。判決文の事実認定はかなり大雑把で、暴走をくり返したというけれども、具体的な根拠はなく、警察官たちの供述証拠だけで認めてしまっている。そもそも、警察官の職務はある程度危険が伴うものですから、彼らの正当防衛を認めるには、相当ハードルが高くなければならないはずです」
順得さんは二月五日、控訴した。
一方、刑事裁判のほうは付審判請求を行ってからすでに四年も経過している。弁護士の一人は「おそらく民事(国賠)の結果を待っているんだろう」と語っていた。つまり、今回の判決が踏襲されるのではないか、という観測だ。暗澹たる思いがした。
青山さんが語った真実
国賠訴訟の奈良地裁判決からわずか三カ月後、冒頭の壮日さんの長兄からの電話である。私は長兄との通話後、伊賀弁護士に電話し、付審判決定の書面を送ってもらった。
奈良地裁の一谷好文裁判長の決定理由は、明確だった。
助手席ドアミラー付近から青山さんの腕を狙ったという萩原巡査部長、東巡査長の主張を前提としても、発砲すれば壮日さんの身体に当たる可能性は高い。両警察官とも助手席に壮日さんが同乗していることを認識しており、なおかつ車は前進していた。
車は動いていたとしても低速度だった。それに、二人の警察官の拳銃発砲訓練は中級(五発撃って、一五メートル先の直径約二○センチの的に五発とも当てることができる)の腕前である。至近距離からの発砲だったことも考え合わせれば、二人の警察官の予想を超えて著しく弾道がずれたとは認められない。壮日さんは運転していたわけではないから、その能力を奪う必要はない。従って、壮日さんに命中した七発、八発目の発砲は違法、と判断したのである(反面、N巡査が放った一~五発目、および東巡査長が青山さんに命中させた八発目は正当防衛として適法とした)。
この決定をもって、二人の警察官は起訴されたことになる。
六発目を撃って壮日さんの頭蓋骨骨折の傷害を負わせた萩原基文被告(三四歳)は、特別公務員暴行陵虐致傷罪に、七発目によって壮日さんに致命傷を与えた東芳弘被告(三四歳)は同致死罪に問われることになった。
付審判決定後の公判では、弁護士が検察官役(指定弁護士)を務めることになる。ただし付審判の請求代理人、この事件では順得さんの弁護団は検察官役にはなれない。事件の利害関係者と見なされるからだ。通常は、裁判所が、地元の弁護士会が推薦した弁護士のなかから選任している。
今回も検察官役がすでに決まっている。主任の秋本譲二弁護士、増田周三弁護士、山口宣恭弁護士、戸城杏奈弁護士の四人だ。ちなみに、秋本弁護士は元検察官、増田弁護士は元裁判官である。付審判事件で指定される検察官役はほとんどが二名なので、四名も指定されるのは異例なことといえる。
付審判決定を受けて、請求代理人の伊賀弁護士が語る。「東被告は裁判員裁判ですが、萩原被告は通常の職業裁判官の裁判になります。二つの裁判が行われることになるからということもあるでしょうが、やはり四人は異例ですね。公判では、被害者参加制度も使って、請求代理人である私たちも関与していきたい。また、立証活動のため、検察官役に協力していきます。請求人が検察官役になれれば確かに利便性はあります。しかし、多くの人の観点からこの事件はやはり警察がおかしい、と理解して頂くことが重要だと思っています。
当時、周囲に一般車両が並ぶなか、本来ならば発砲できるような状況ではありません。すでに制圧状況下にあったのに発砲し、三発とも突き抜けずに命中させています。スモークフィルムが張られて車内は見えなかったというが、見えなければ撃てないはずです。二人のどちらに当たっても構わないという殺意を持って発砲したのはまちがいない。
青山さんの逮捕の時も殺人未遂で令状を取りながら、起訴は窃盗と公務執行妨害でした。警察の逮捕行為に違法性があったのです。この事件は、警察が組織的に違法行為を隠蔽しているといえます」
車を運転していた青山さんは、壮日さんが亡くなった日に病院を退院し、奈良県警に逮捕された。青山さんは自身の裁判で「手を上げたのに撃たれた」と供述したが、認められなかった。懲役六年の判決を受け、服役した。すでに社会復帰し、出所後すぐに壮日さん宅を訪れ、仏壇に手を合わせている。
私は今回、本稿を書くにあたって、青山さんにインタビューすることにした。
―発砲された時のことを聞かせて下さい。最初に五発撃たれていますよね。
「発砲されたことには全然気づかなかったんですよ。もう逃げるのに必死でしたから。警察官が銃を構えていたのは覚えてます。それを見て二人で手を上げました」
―二人とも手を上げたんですか?
「はい。壮日くんも起き上がったのがわかりましたから」
―起き上がった? 壮日さんは車内でどんな姿勢を取っていたんですか?
「リクライニングを倒して、足を踏ん張ってました。そうしないと、車の中が激しく揺れて堪えられんですから。警察が銃を構えてたんで、壮日くんも起き上がって手を上げたんです」
―それでも撃ってきたということですか?
「いや、自分は撃たれたという認識がなかったんです。気づいたら、壮日くんがぐったりリクライニングに倒れていて、(横になった人に触れる仕草をしながら)揺すったんだけど反応がなかった。そしたら、助手席から警察官が入ってきたんです。『おまえも撃たれとるから、黙っとけ(動くな、というニュアンス)』言われて」
―青山さんは、そんなに意識がはっきりしていたんですか?
「はい。救急車で運ばれる時、なかに女の警察官がいたのも覚えてます。意識がなくなったのはその後だと思います」
―パトカーで挟み撃ちになりましたよね。急発進したり暴走したりした?
「手を上げた時点で車は止まっていたと思います。警察は『車は動いとったし、手も上げとらんかった』言うんですが、アクセルは外していたと思う。動いていたとしても大したスピードではなかったと思います」
―病院ではどうでしたか? 調書とかはいつ取られたんですか?
「一人部屋の病室に入れられて、オカン(妻)に後で聞いたら、警察が三人は常にいた言うてました。調書取られたんは病院出て警察の留置場へ行ってからです」
―警察ではどんな取調べを?
「自分が言うてることは二言、三言なんですが、ほとんど調書ができ上がっていました。後遺症でしんどいし、自分もやけになっていましたから、もう何でもいいやって感じで」
―壮日さんのことについても何か聞かれましたか?
「警察は『壮日はもう死んだんや。壮日のせいにしといたらいいやないか』とか言ってました。(車上荒らしは)本当に自分が勝手にやったんですよ。『壮日くんは何も知らんかった』って、『(壮日さんは)先輩やし、ちがいます』言っても、警察はまったく信じようとしませんでした」
―壮日さんはパチンコ店の駐車場で〝車上荒らし〟をしていないんですね。壮日さんは車内で何をしていたんですか?
「マクドナルド食べてたんですよ。パチンコ店に行く前に、途中でマクドナルドに寄ったんです。駐車場では、自分が『ちょっと出てくる』って一人で車を降りたんです」
私は、予想以上に青山さんが被弾時のことを記憶していることに驚いた。
最初に五発を放ったN巡査の三発目。フロントガラスから撃ち込んで助手席のヘッドレスト右端を貫通させたが、N巡査は跳弾しないようにいずれも銃口をやや下げて撃ったと供述している。弾道は、倒したリクライニングと一致しないだろうか。
そして最後の三発。手を上げるために起き上がったところを撃たれとすれば……。青山さんの話は、辻褄が合うように思える。
青山さんによれば、少なくとも逃走劇の発端となった〝車上荒らし〟には、壮日さんは加担していなかったことになる。警察としては窃盗も逃亡時の暴走行為も指示役が壮日さんだったことにすれば、都合がいいのは明らかだ。しかし、青山さんは明確に否定した。
やはり、奈良県警は組織ぐるみで真実を闇に葬ろうとしているのではないか。
久留米発砲事件
警察官の発砲の違法性が問われた付審判事件は、過去にもある。例えば「福岡県警久留米署警察官発砲事件」がある。この付審判事件で検察官役を務めた川副正敏弁護士に、奈良の発砲事件について見解を求めた。
「小さな事件に過ぎないのに、警察は大捕物をやって、自分たちで事をどんどん大きくしていった。その末に撃ち殺したという印象を受けます。付審判決定がなされたことは歓迎すべきですが、国賠訴訟の奈良地裁判決の論旨はきわめて疑問です。警察の殺意を認めたうえで、警察官の正当防衛を認めているのは、危害行為と防衛行為の均衡という観点から考えて理解し難いところです。一連の経過から見て、直ちに銃殺しなければ、その警察官や周囲の者が殺されるといった切迫した状況があったとは認め難いと思います。警職法七条によって拳銃に限らず、警棒なども含めた武器の使用は例外として規定され、その但し書きによって相手に危害を加えることはさらに例外のケースとされています。つまり、拳銃を発砲して相手に傷害を与えることは、例外中の例外といえる行為なのです。実際、私が担当した事件でも警察官の『急迫不正の侵害』を防ぐ正当防衛は、争点になっていません」
川副弁護士が検察官役として担当した付審判事件とは、どのようなケースだったか。川副弁護士が法律雑誌に公判の顛末をレポートしているが、奈良事件との共通点も少なくないと思われるので、それを参考に紹介したい。
七九年四月二十日、A氏( 当時三八歳)は前妻とよりを戻そうとしたが断られ、逆上してしまう。殴る蹴るの暴行を加えて前妻を負傷させ、逃走する。前妻の父親からの通報で久留米署の警察官六人が出動する。市内の路上でA氏を発見したが、A氏は刃渡り約一二・六センチのナイフを振るって抵抗。一人の警察官の額に軽傷を負わせる。警察官たちは、警棒でこもごも殴打して取り押さえようとした。ところがA氏はすばやくその場から立ち去ると、近くのタクシー会社に逃げ込み、タクシーを奪って逃走する。その際、警察官が拳銃を前輪に向けて発砲し、タイヤをパンクさせる。別の警察官であるB巡査部長がタクシー運転手の協力を得て、助手席に乗り込んで追跡した。パンクのため走行不能になったA氏のタクシーに追いつき、B巡査部長は下車して運転席に駆け寄った。
すると、A氏は車内からナイフを突き出して抵抗するという状況が一~二分続いた。そこでB巡査部長は拳銃を取り出し、三○~四○センチという至近距離から右腕を狙って発砲した。弾丸は右上腕部を貫通し、ほぼ水平に左胸まで達する。肺動脈損傷による出血多量によって、救急車で搬送中に死亡した。
このケースでは、A氏の遺族ではなく、発砲を問題視した福岡県弁護士会がB巡査部長を特別公務員暴行陵虐致死罪で福岡地検久留米支部に告発している。やはり不起訴にされて、付審判請求を行う。福岡地裁久留米支部は棄却したものの、福岡高裁が逆転決定し、刑事裁判が開始された。
B巡査部長は、次のように主張した。
当初は特殊警棒を振るってナイフを叩き落とそうとしたがうまくいかなかった。そのうち、A氏が運転席のドアを開けて右足を踏み出し、車外に出て来ようとしながらナイフを何度も突き出してきた。B巡査部長は特殊警棒での応戦ではもはや不可能と考え、拳銃を取り出して「抵抗したら撃つぞ」と警告したが、A氏は抵抗をやめなかった。このままでは逮捕できないと思い、右肘を狙って発砲した。銃弾は右肘を貫通して、運転席床面に達すると思っていた、というものである。
ところが、B巡査部長に協力してA氏を追跡したタクシー運転手の証言で、B巡査部長が特殊警棒を助手席に置き忘れていたことが明らかになった。しかも、たまたま事件を目撃した市民の証言によれば「ドアが大きく開いたり、A氏が車外から身を乗り出したりする様子はなかった」といい、発砲後にA氏の乗る車に駆けつけたタクシー運転手は「A氏は普通に運転席に座り、両足とも完全に車内に納まった状態だった」などと述べている。実際の弾道もそのことを裏付けている。
福岡高裁はこうした矛盾点を重視し、B巡査部長の供述の信用性に問題があるとして、付審判決定したのである。
ところが、付審判法廷となった福岡地裁および福岡高裁は、いずれもB巡査部長の主張を全面的に採用し、無罪判決を言い渡す。
当時のA氏の具体的な姿勢を確定することもなく、このままA氏を車外に出して逃走を許してしまえば、一般市民への被害が拡大する恐れがある。その場でA氏を制圧する必要があった。B巡査部長がそのためには拳銃を発砲する以外ないと判断したのはもっともである、というのである。
川副弁護士が自身の経験を通じ、付審判事件の問題点を指摘する。「一番問題だったのは、被告人であるB巡査部長を有罪にする証拠がほとんどなかったことです。警察はB巡査部長を全面的にバックアップする体制をとっていました。A氏を公務執行妨害、殺人未遂罪などの犯人として捜査し、警察官に対する抵抗の激しさや悪質さを強調する証拠ばかり作成していました。その一方で、B巡査部長に対しては『無罪立証』のための夥しい証拠を集めて、裁判所に提出してきました。B巡査部長に不利な目撃証言は検面調書にしないなど、露骨な対応を取ってきたのです」
川副弁護士は、レポートの最後を射殺されたA氏の兄の談話で締めくくっている。その言葉は、壮日さんの長兄とも重なる部分もあって、胸を打つ。
弟は確かにワルだったかもしれない。裁判にかけられて死刑になるのなら仕方ないけれど、裁判にもかけられずに犬ころのように殺されるのはあんまりではないか。どんなに悪いことをした人間でも、きちんと裁判を受けた上で適正に処罰されるというのが法治国家ではないのか。
警察官は、死刑執行人になってはならない。
警官の弁護費用はどこから?
やはり検察官役を経験し、かねてから付審判制度を研究してきた三上孝孜弁護士にインタビューした。
「付審判事件の法廷は、通常の刑事事件の裁判と力関係がひっくり返っているのです。検察官役といっても名ばかりで、警察の協力を得られないどころか、被告人擁護のために組織的に検察官役に抵抗してきます。しかも、補充捜査のための直接指揮権がなく、正規の検察官に嘱託しなければならないのです。検察官の対応はといえば、私たち弁護士は招かれざる客であり、部外者扱いです。検察組織の支援を非常に受けにくいのです。実際に、警察、検察ともに私たちの実況見分に協力的ではありませんでした」
三上弁護士が森下弘弁護士とともに検察官役として担当したのが、「阪神ファン暴行事件」である。八五年、阪神タイガースが日本一になり、大阪の街は沸いた。しかし、一部の過激な阪神ファンが器物破損行為などに及んだため、大阪府警は警戒警備にあたっていた。
日本シリーズが終わった二日後の十一月四日夜、曽根崎署はたまたま車で見物に来ていただけの少年二人に対し、免許不携帯を理由に連行した。署内の会議室で一人の少年に対して平手打ちし、柔道技で床に投げつけた。少年は左耳の鼓膜が破れ、頸椎捻挫のケガを負った。
やはり付審判事件になったが、このケースは検察官役(少年側)が勝訴した。最高裁まで争ったが、暴行した警察官は懲役八カ月執行猶予三年の有罪が確定した。「私たちは暴行のあった曽根崎署内の会議室を、実況見分しようとしました。しかし、曽根崎署は被害に遭った少年の立ち会いを拒否したのです。結局、私たち検察官役だけで行ったのですが、写真撮影一つするにも警察はいろいろと制約をかけてくる。同行した正規の検察官に抗議しても頼りにならず、ただの傍観者でしかありませんでした。被告人となった警察官を有罪とする証拠がもともと乏しいなかで、裁判所は非常に高度な立証を要求してくる。裁判所が通常の刑事裁判でもそのくらい厳格な態度で臨めば、この世から冤罪事件はほとんどなくなると思えるほどです」
ここで、一つのエピソードが紹介される。
三上弁護士が被告人の警察官に「この事件の弁護費用はどこから出ているんですか?」と質問した。警察官はびっくりして天井を見上げ、言葉を失ったというのである。「弁護費用が府警から出ているのは、まちがいないと思います。刑事訴追された個人の警察官に対して、税金で弁護したとすれば公費の濫用にほかなりません。しかも、この警察官は起訴休職扱いにもならず、通常通り勤務していたのです」
さて、奈良県警は二人の警察官に対して、どのように対処するのか。三上弁護士は、奈良事件についてこう語った。「発砲は、明らかに警察のやり過ぎです。付審判事件が裁判員裁判になることは、非常に興味深い。検察官役は大変なご苦労を余儀なくされると思いますが、市民が証拠を吟味して一般常識で判断をすれば、いい結果につながるのではないかと思います」
母・金順得さん
私が奈良県警の警察官発砲事件にこだわるのは、いまや「悪いことをしたヤツは撃たれて当然。殺されても仕方がない」と言わんばかりの極論が喧しく、事件に対する冷静な視点が失われているように思えるからだ。
権力の横暴とは決して闘おうとはしないかわりに、自分より弱い他者に対しては徹底的に不寛容で、イジメ抜いて憂さを晴らす。人々は抑制心を失い、排外主義に拍車がかかっていく。先行き不透明な構造不況の下、鬱積したルサンチマンがはけ口を求め、付和雷同しながら膨張しているかのようだ。その矛先は、拉致問題や領土・領海問題などにかこつけて、在日韓国・朝鮮人にまで向けられるようになっている。
奈良発砲事件もまた、壮日さんの母、金順得さんが法に訴えたことをもって、一部の者たちから誹謗中傷の的にされている。まさに、ファッショの萌芽を見るような思いだ。
順得さんが母親に連れられ、韓国から日本に渡ってきたのは一~二歳のころだった。在日一世としては、最年少の世代に属することになる。二人の姉も一緒だった。順得さんは現在七二歳だから、一九四○年ごろのことだ。四○年には、日独伊三国軍事同盟が締結され、大政翼賛会も結成されている。日本軍は重慶戦略爆撃を継続するなど、日中戦争は泥沼化していった。朝鮮総督府が、日本に住む朝鮮人に対して創氏改名を強要したのも、この年からだ。
仕事のため、ひと足早く渡日していた父親と伯父の後を追うようにして、順得さんらは海を越えた。大阪・京橋近くに暮らし、父親は馬車引きで荷物の運搬作業に従事し、伯父はメガネ工場で働いていた。順得さんは幼いころから家の内職を手伝った。順得さんが幼少時を振り返る。
「三、四歳のぐらいから押しピン(の円盤部分)をトンカチで叩いて、針の部分が突き出るようにするんです。親は逃げ出さないように外からカギを締めて出掛けていきました。でも、子ども心にも面白い仕事でしたよ(笑)。それから、機関車が通ると石炭を落としていくんですが、線路によく拾いに行きました。お風呂屋さんに持って行けば買ってくれるからです。小学校に上がる齢になっても、(一家が)食べれるようにするんが先で、学校には行かせてもらえませんでした。小学校がすぐ近くにあって、家の横が小学生の帰り道になってたんです。学校へ行ってる子らから、よく『チョーセン人、チョーセン人』言うて苛められました。十二歳ぐらいからは箱屋さん言うんですが、牛乳石鹸を入れる箱を作る工場で働くようになりました。その時は、私のほかは日本の人ばかりでしたが、みんな私にようしてくれました」
結局、一度も学校へは通えないまま、十八歳で見合い結婚。以後、夫との間に男四人、女一人の五人の子どもをもうける。末っ子の壮日さんは七四年に生まれたが、当時、鉄工所で働いていた夫はその八カ月後にガンのためこの世を去った。順得さんは、父親の顔を知らない不憫さもあって壮日さんを尚更かわいがった。「だからこそ、壮日が死んだ時の状況や真相を知りたいんです」
私は、これまで七年間にわたる壮日さんの遺族および弁護団の間断なき闘いに敬意を表したい。その結晶が、検察官役に指定された四人の弁護士の方々にとっての序章となる。今後も付審判法廷において、さまざまな局面で困難が待ち受けていることが予想される。しかし、警察の捜査の改善、延いては警察組織の民主化へつながる歴史的事件として、戦後司法史に力強く刻印してほしい。
官憲の暴虐に苦しめられてきた人々、哀しみに堪えながらも必死に生き継いでいる人々のために、切に願う。
裁判資料、新聞各紙のほかに下記の文献を参考にしました。
三上孝孜・森下弘著『裁かれる警察―阪神ファン暴行警官と付審判事件』(日本評論社 一九九六年)
三上孝孜著『被告人は警察―警察官職権濫用事件』(講談社 二○○一年)
日本弁護士連合会人権擁護委員会『付審判(準起訴)制度調査研究報告書』(二○○四年七月)
『自由と正義』一九九二年七月号「特集・付審判制度の問題点と改善策」
『自由と正義』一九九八年十二月号~九九年一月号「警察官のけん銃発砲と付審判(前・後編) 川副正敏」
(かめいようじ・じゃーなりすと、編集者注・この原稿は「われらのインター」掲載レポートの再録です)