読み物ネット時代の潮流に進路を見失うメディア 海保ビデオ流出報道に欠けた、ある「視点」

▼バックナンバー 一覧 2010 年 12 月 13 日 辰濃 哲郎

 尖閣諸島沖で、中国漁船が海上保安庁の巡視船に衝突したビデオが「YouT ube」(ユーチューブ)に流出した。この事件をめぐる論点は多岐にわたり、 重層的だ。
 中国との外交問題だけではなく、中国人船長の釈放問題、捜査機関の情報管理の問題、さらにはビデオを公開するかどうかの情報開示の問題、「告発者」であるか否かの問題、この事件をどう報じるかのメディアの問題など、さまざまな角度からのアプローチがありうる。
 作家で元外務省主任分析官の佐藤優氏は朝日新聞11月12日付のオピニオン 欄で、ビデオを流出させた海上保安官を「同情にも賞賛にも値しない」と、厳しく批判している。その理由の一つとして、「海保は武力を行使できる公務員」と位置づけ、「統制が取れていない行為を認めることの危うさを、国民は肝に銘じておくべき」という。
 1932年、当時の犬養毅首相が暗殺された5・15事件で、首謀した海軍将校らは軽い処分に留まった。このことが後に二・二六事件につながっていったことを引き合いに「二・二六事件以降、政治家も論壇人も軍事官僚を恐れ、日本は戦争へとなだれ込んでいった」と歴史の教訓を説いて、この問題の本質の一端を見事に指摘している。
私も、この海上保安官の行為を英雄視するつもりも賞賛するつもりも、まったくない。だが、この事件をメディア論として考えると、佐藤氏の指摘とは、やや違った側面が見えてくる。ある意味で、マスコミのあり様が試された事案でもあった。ところが、この間の大手全国紙の論調を検証してみると、メディアにとって、もっとも大切な視点を忘れてしまっているような気がしてならない。
 

流出ルートの解明を促す社説

 尖閣諸島沖で海保の巡視船と中国漁船が衝突したのは今年9月7日の朝だった 。翌日には中国人船長が逮捕された。その船長が、中国への配慮からか、処分保留のまま釈放されたのは9月25日だ。
 当初から、海保が撮影したビデオの公開を求める声は強かった。だが政府は、これも中国への配慮からか、公開を渋った。約7分に編集した映像を、ようやく衆参両院の予算委員会理事らに公開したのが11月1日だった。その直後の11月4日夜、ユーチューブに問題となった約44分間に渡るビデオが投稿された。
 新聞各社は、5日付夕刊で流出したビデオを報じる記事を1面や社会面などで大展開する。一夜明けた6日付朝刊で、この事件に対する社の見解を示す「社説 」が掲載された。 朝日新聞社説は、「仮に非公開の方針に批判的な捜査機関の何者かが流出させたのだとしたら、政府や国会の意思に反する行為であり、許されない」としたうえで、「政府は漏洩ルートを徹底解明し、再発防止のため情報管理の態勢を早急に立て直さなければいけない」と機密漏洩対策を促すとともに、流出経路の解明を求めている。
 毎日新聞の論調も、「漏洩を許したことは政府の危機管理のずさんさと情報管理能力の欠如を露呈するものである」と厳しい。「国家公務員が政権の方針と国会の判断に公然と異を唱えた『倒閣運動』でもある。由々しき事態である。厳正な調査が必要だ」と、朝日同様、調査を促す。
 
 読売新聞も、漏洩した事実そのものに関しては「徹底的に調査するのは当然」と、流出させた人物の特定を促した。
 全国紙大手の3紙とも、「犯人捜し」を奨励している点では共通している。当時はまだ、ビデオをユーチューブに投稿した海上保安官は名乗りを上げていなかったが、ビデオを所持していた海保か検察が流出させたと考えられていた。
政府の意に反する国家公務員の秘密漏洩は、確かに国の信用を失墜させるものではある。ましてや日中の外交問題に発展していたこのビデオの公開問題は、民主党政権にとってアキレス腱でもあったはずだ。
 ここで各新聞社に問いたい。それではもし、このビデオがユーチューブではなく、マスコミに持ち込まれたとしたらどうするか。もちろん記事にすることになれば、「犯人捜し」を奨励した社説の論調でいけば、マスコミそのものが国家公務員守秘義務違反の捜査対象になる。
 朝日新聞社に04年まで23年間在籍した私は、その大半を社会部記者として過ごし、日ごろから、告発者と接してきた。国家公務員たる中央省庁の官僚や国立大学の職員、それに捜査機関である検察や警察内部の捜査員、さらには企業の内部情報提供者など様々だ。私たちは、こういった告発を「タレこみ」と呼んでいた。
 そのタレこみの動機は多様だった。社会的な義憤もあれば、政権や組織に対する不満もあった。なかには、同僚や上司に対する恨みやねたみもある。内部告発を受けて、私たちは取材に走り、事実が裏づけられ、報ずるに値する内容であれば、記事にする。
 
 だが、その記事が「秘密漏洩」として捜査の対象となったら、令状に基づく家宅捜索が新聞社に入ることになる。新聞社に家宅捜索が入れば、ネタ元の情報までごっそり持っていかれる。携帯電話も押収され、どんな政治家や官僚、あるいは検察官や警察官と接しているかも捜査当局に握られてしまう。
 マスコミに持ち込まれたらどうするか
 では、マスコミに持ち込まれた今回のビデオを、私が担当することになったらどうするか。①ビデオを持ち込んだ人物の身元の確認、②ビデオが本物であるかどうかの裏づけ取材、③報ずるに値するビデオかどうかの判断――。以上の3つの条件をクリアすれば、海保によって編集された映像であることを明記したうえで、記事として報じたと思う。  恐らく、ビデオを持ち込んだ海上保安官と何時間も話をすることになるだろう。編集される前のビデオを入手するすべはないか。どこで入手した映像か。巡視 船内のどこで、どのように記憶媒体に移したのか。また、それが事実であることを確認するために、海保に気づかれないように、現場を視認しなければならない。巡視船が、その時間帯にどこにいたかの裏づけも必要だ。恐らく裏づけ取材に1ヶ月近くはかかるだろう。
 
 ビデオの内容を報ずることに躊躇するとすれば、「報ずるに値するかどうか」を判断するときだ。これを報ずれば、反中国のナショナリズムを鼓舞することになりかねない。海保が都合のよい場面だけを取り出して編集している可能性もある。
 だがまた、録音テープやビデオは、事実を伝える何よりも強い「証拠」となる。背後にある思惑を排してそれを伝えることは、私たちの責務だと考える。ビデオの存在を知りながら、隠蔽してしまうことは、報道機関の自殺行為に等しいと、私は思う。
 この海上保安官は、映像を記録したSDカードをCNNテレビ東京支局にも送ったと話しているという。だが、送付した人間と接触できないのでは、事実の裏づけができないから、放映することは難しい。現にCNNは、コンピューターウイルスを警戒して、中身を見ないまま廃棄したと伝えられている。
 この原稿を書いているさなかに、機密を暴くことで有名なウィキリークスが、米国の外交文書を暴露した。機密の外交文書で、歴史的な意味を持つものであれば、報ずる価値はあるだろうが、外国の首脳を「無能」とか「うぬぼれ」などと揶揄する評価や、非公式な外交交渉での会話など客観性を担保できない資料を、報ずるに値する資料だとは、私は思わない。
 かつてはこういった機密文書はマスコミにもたらされ、きちんとした評価や裏づけ取材というフィルターを通して報じられていた。それがユーチューブやウィキリークスなどのネット媒体で、評価なしに公表される。この新しい事態に、既存のメディアは戸惑っているようにみえる。
 

「知る権利」に舵を切ったものの

 各紙の社説が当初、「徹底的な調査」を求めたのも、重層的なこの問題に対応し切れていなかったからではないだろうか。
 社説というのは、毎日昼ごろに、その翌日付朝刊の掲載内容が決まる。論説委 員室で、テーマを選んで、どのように論ずるかの方針を議論する。突発的な事件が起きた場合は、それまでにわかっている事実を分析し、方向を見定める。各社の頭脳集団とも言える論説委員室ではあるが、こういった突発的な事故や事件のときは弱い。政治部、経済部、外報部、社会部など各部から選ばれた論説委員の力関係や、その会議に出席しているかどうかで結論が違ってくるからだ。しかも短時間での議論は、選択肢も限定的にならざるを得ない。
 今回、「もしマスコミに持ち込まれたらどうするか」というメディアにとって大切な視点は、各社の社説を読む限り、検討された形跡はない。
 海保が、国家公務員法の守秘義務違反などで告発したことを受けた毎日の社説が11月9日付に掲載されている。このころから、少しずつ各紙の論調が変化する。
「政府がまず取り組むべきは情報管理体制の再構築と、動画投稿サイトを利用した新しい手口の情報流出に対する有効な対応策を早急に考えることだ」としつつも、「罰則強化だけに傾斜するのは問題がある」と情報流出の罰則強化に釘をさしたのは、こういったマスコミへの持ち込みを意識したものかもしれない。
 そして、海上保安官が「投稿したのは自分だ」と名乗り出た直後の11月11日付朝刊の社説だ。3紙とも掲載されている。
 読売は、「捜査当局は厳正に捜査すべきである」と相変わらず捜査を奨励する一方、こんな配慮をみせ始めた。 「ただ、仙谷官房長官が言及している国家公務員法の守秘義務違反の罰則強化は 短絡的だ。公務員を過度に萎縮させ、行政の抱える問題を内部告発する動きまで封じることになれば、国民の『知る権利』が脅かされる」
 朝日の社説は、初めてメディア論を展開した。少し長いが引用する。
「インターネットが広まり、だれもが利用できる時代を迎え、局面は大きく変わった。これまでは社会に情報を発信する力は少数のマスメディアにほぼ限定されていた。メディアが表現の自由や報道の自由を主張できるのは、国民の『知る権利』に奉仕して民主主義社会を発展させるためとされ、その裏返しとしてメディアも相応の責務を負った。情報の真偽に迫り、報道に値する内容と性格を備えたものかどうかを見極める。世の中に認められる取材手法をとり、情報源を守る。
時の政権からの批判は言うまでもなく、刑事上、民事上の責任も引き受ける―― 。だが、ネットの発達によりマスメディアが発信を独占する状況は崩れた。情報が広く流通し、それに基づいて国民が討論して決める機会が増える。そんな積極的な側面がある一方で、一人の行動によって社会の安全や国民の生命・財産が危機に陥りかねない。難しい時代に私たちは生きている」
 
 つまり、新たな情報化時代を迎えて、情報発信のあり方が問われているという 認識を示し、マスコミというフィルターを通すことで初めて情報発信者としての責任を負うことができると主張している。同じビデオでも、マスコミを通して「告発」することと、今回のような野放図な投稿とでは意味合いが違うと説いているのだ。
 朝日は、この問題がメディアに突きつけられた時代のゆがみの一つであることに、気づいたのだと思う。そして守秘義務違反への捜査が、実は自分たちに向けられる可能性があることも。
 朝日が、いわゆるメディア論としてこの問題を論じたのはさすがだが、それでも歯切れが悪い。発覚直後の社説で振り上げた拳をどこへ降ろしてよいかわからず、揺れているようにみえる。
 

守秘義務違反追及の危うさ

 私たちメディアが問題にすべきは、法令違反かどうかではない。ましてや告発者の動機でもない。告発者が持ち込んだ素材や証言が事実であり、そしてなにより、世に問う価値のあるものかどうかに尽きる。それだけに、守秘義務違反の捜査を奨励する「犯人捜し」の論調は危険極まりないと、私は思う。守秘義務違反の追及に、マスコミは抵抗すべきだ。これを認めてしまうと、自分たちの日ごろの取材活動に重い足かせとなって跳ね返ってくる。
 そして、新たに成長しているネット社会にどのように対応するかの議論を始め るべきだ。ユーチューブやウィキリークスなどに流れた映像や資料を、後追いで掲載する機会は今後、増えていくだろう。マスコミが、そういった「告発」の受け皿たりえなくなったことも、真摯に受け止めるべきだ。
 
<たつの てつろう/ジャーナリスト。編集者注・これは「われらのインター」掲載レポートの再録です>