読み物麻原彰晃と私

▼バックナンバー 一覧 2011 年 10 月 31 日 魚住 昭

 昨秋からパソコンに釘付けになり、画面の文字を追う作業を続けている。オウム真理教の麻原彰晃の評伝を書くためだ。
 
 パソコンには彼の裁判資料や説法、関係者の証言など膨大なデータが詰まっている。その中には世に知られていない獄中での麻原の言葉も含まれている。
 
 それらを解析していくと検察が作った事件の構図とは異なる真相が見えてくる。中でも地下鉄サリン事件のどんでん返しは衝撃的だ。仏教を下敷きにした麻原の「人類改造計画」のスケールの大きさにも目を瞠る。
 
 私が麻原に関心を持つのは個人的理由がある。彼と私は同じ熊本県八代市出身だ。私が4年早く生まれただけで、同じ時代に同じ空気を吸って育ってきた。
 
 麻原は地下鉄サリン事件より7年前の講演で「小 さい時は死にたくない、死にたくないなと思っていました。何で人は死ぬんだろうと一人でよく泣いていました。なぜ、すべては終わるんだろうかと」と語っている。
 
 これが「生死を超える」(彼の主著の表題)という彼の宗教的遍歴の原点だろう。弱視のため6歳で家を出され、熊本市の盲学校に入ってからの孤独が、彼の宗教志向を一層強めたであろうことは想像に難くない。
 
 私も彼と同じように幼いころ死の恐怖に脅えた。いずれ両親や自分が死ぬと思うと怖くてシクシクと泣き続けた。ただ私は健康で、偶々両親の愛情に包まれて育ったから、やがて死の恐怖から逃れられたのだと思う。
 
 その私の両親も2年前に母が郷里で死に、父は今年5月に鎌倉の病院で死んだ。父は母を亡くして以来衰 弱し「もう(この世から)退散したい」と漏らしていたから、重体の知らせを受けた時もさほど驚かなかった。
 
 病院に駆けつけると、父は酸素マスクをつけてベッドに横たわっていた。私の顔を見て微かに笑ったが、容態は悪化していった。肺炎のため父は水に溺れる時のようにあえぎ、呻き続けた。「何とかこの苦痛だけでも薬で抑えられませんか」と医師に聞くと、「その薬を投与すると回復の見込みがなくなります。それでよければいつでも…」という答えが戻ってきた。
 
 私は迷った。医師は言外に父は助からぬと言っている。ならば早く楽にしてやりたい。だが、奇跡的に回復する可能性を考えると、遂に決断できなかった。
 
 その夜、父はしきりに何かを訴えようとした。息が苦しくて言葉が出ない。ボールペンを震える手に握らせ、紙を胸の前に差し出すと、必死に何かを書こうとしたが、途中で力尽き、ボールペンを落としてしまった。
 
 それから3日後、父は逝った。私は鎌倉で葬儀をし、遺骨を郷里に持ち帰るつもりだったが、姉から意外な事実を聞かされた。父が「自分が死んだら、母ちゃんの葬式の時と同じ(郷里の)お寺さんに頼んで、同じお経を読んでもらってくれ」と言い残していたというのである。
 
 私の知る父は仏教とは無縁だった。死後の世界も信じていなかったはずだ。なのになぜ?と当時は思ったが、後になって考えるとその訳がわかった。
 
 恐らく父は母の没後、孤独に苛まれる日々を過ごすうち、幼いころ馴染んだ宗教的風土に回帰し、仏教に救いを求めるように なったのだろう。とすれば死の間際に父が言おうとしたことも察しがつく。母が待つ「あの世に行きたいから、早く死なせてくれ」と言いたかったのだ。
 
 父の遺言通り、郷里で葬儀を済ませ、東京に戻るため私は鹿児島本線の電車に乗った。窓外には夕靄に覆われた田畑が広がっていた。この風景は麻原の心にも刻まれているはずだ。
 
 そう思ったとたん身震いした。麻原の思想を説き明かすには、私が封印してきた死の恐怖と向き合わねばならぬと気づいたからだ。そんなことが意気地なしの私にできるだろうか。確たる自信は未だにない。それでもパソコン相手の作業をやめるつもりはない。これが私の選んだ仕事なのだから。(了)
 
(編集者注・これは週刊現代「ジャーナリストの目」の再録です)