読み物清武英利さんはなぜナベツネ体制に異を唱えたか
人間はストレスが溜まりすぎると眠れなくなる。私も今までの記者人生で一度だけだが、不眠症になった経験がある。
1990~91年、共同通信社会部の遊軍記者だったときのことだ。ちょうどバブルの崩壊期で経済事件が続発し、私は連日深夜まで取材に追われた。
とくに91年6月、読売新聞が「野村証券が法人損失百六十億円穴埋め 債権を高値買い戻し」という大特ダネを放ってから、後追い取材に忙殺された。
帰宅は午前1時か2時。風呂に入ってやっと眠れたかと思うと、明け方には宿直デスクからの電話で叩き起こされた。
「おい、読売に抜かれてるぞ」
そんなことが度重なるうち私は不眠に悩まされるようになった。同時に「抜いた」「抜かれた」で身心をすり減らし ていく事件取材に嫌気がさし、《もっと他にやるべき仕事があるはずだ》と考え込むようになった。
それから5年後、私は共同通信を辞めた。辞めた理由は色々あるが、煎じ詰めれば、不眠症になるストレスに耐え切れなかったということだろう。
こんな個人的な話から始めたのは他でもない。読売新聞社会部の国税担当として損失補填など数々の特ダネ記事で私を不眠症にした張本人に会ったからだ
清武英利。昨年末、渡邉恒雄会長に反旗を翻し、読売巨人軍代表を解任された人物である。
私は清武さんが社会部デスク時代に通称「清武班」を率いてナベツネさんの“圧政”に粘り強く抵抗していたことを知っていた。だから初対面に関わらず単刀直入に思いをぶつけた。
「これから始まるナ ベツネさんとの裁判がどうなろうと大した問題じゃない。それよりナベツネ独裁体制の終わる日が何年か先にはやってきますよね。ポスト・ナベツネ体制をどう作るか。それを話し合うとき、清武さんが職を賭して訴えたことが必ず良い影響を与えるでしょう。『個人商店型の経営はもう無理だ』とね。あなたは既に読売情報コンツェルンに自由の風穴を開けたんです。それは大変なことじゃないでしょうか」
私の言葉は清武さんにストレートに届いたようだった。調子に乗って私はしゃべり続けた。
「大抵の人たちはあなたがなぜ突然記者会見して渡邉会長を告発したのか、その真意を測りかねていますよね。でも僕には分かる気がします。なぜなら僕も社会部の記者だったから…」
新聞社や通信社の 社会部は日常的に人の死に密接に関わるセクションだ。時には自分が書いた記事が人を苦しめ、自殺にまで追いつめることがある。
いくら社会正義のためだとは言え、報道対象の自殺や、その遺族の嘆き悲しみは重い衝撃となって心にのしかかってくる。
せめてもの償いにできるのは、相手の社会的地位の如何に関わらず、批判すべき行為は遠慮なく批判して誰も特別扱いせぬことだ。そう決意することで辛うじて精神の平衡を保つ。しかし実際には上層部からの圧力で思い通りにいかない。
「清武さんが現場指揮した第1勧銀の総会屋への利益供与事件では宮崎邦次元会長が自殺しましたよね。あなたが書いた『会長はなぜ自殺したか』(読売新聞社会部著・新潮社刊)を読むと宮崎元会長の自殺が根深いところであなたの今回の行動を規定しているような気がする。第1勧銀のコンプライアンス違反を徹底的に暴いた自分が、いざ巨人軍で同じようなコンプライアンス違反に手を染める。それがどうしても我慢できなかったのではないですか」と私は聞いた。
すると清武さんは下を向いてポツリと言った。「宮崎会長だけじゃない。第1勧銀に続く大蔵省の接待汚職や利益要求で大蔵官僚や新井将敬議員など計6人の自殺者がでてるんです」
やはり清武さんは想像していた通りの人だった。誰もがナベツネ体制に屈服していく中でこんな気骨のある記者が残っていたのだ。それを目の当たりにして救われたような気がした。(了)
(編集者注・これは週刊現代「ジャーナリストの目」の再録です)