佐藤優の文章教室序章:なぜこの課題に取り組むことになったか

▼バックナンバー 一覧 2024 年 7 月 22 日 佐藤 優

「文章教室」を開設するにあたって。
 今般、「魚の目マガジン」に「佐藤優の文章教室」というコーナーを開設することにしました。私は同志社大学で、学長直轄の「新島塾」、野口範子生命医科学部教授が責任者をつとめる「サイエンスコミュニケータ養成副専攻」などの講座で、学生の指導を担当しています。
 学生の論文、レポート、発表用原稿などには、優れた内容のものがあるので、それをこのコーナーで、私のコメントを付して紹介します。
 本コーナーの開設を認めてくださった魚住昭氏に深く感謝申し上げます。

2024年6月、佐藤優


「自助論」「学問のすすめ」「生きづらい明治社会」に関する論文

同志社大学グローバルコミュニケーション学部
1回生 中村薫泉
2023年11月28日

佐藤優コメント:

 同志社大学グローバルコミュニケーション学部2回生の中村薫泉(くるみ)さんが1回生のときに書いた論文です。受験勉強のときスタディアプリで社会科を教える伊藤賀一先生が、スマイルズの『自助論』を勧めていたので、それを読んだら、その自助努力論に強く影響されたとのことです。

 そこで私から明治時代に中村正直が『自助論』を紹介したことと福澤諭吉の『学問のすすめ』の論理が共通していることを指摘し、さらにそれを批判的に考察した慶應義塾大学の松沢裕作先生の『生きずらい明治社会』を併せて読むことを勧めました。その結果がこの論文に現れています。自分史に引き寄せて先行思想を吸収するというアプローチも優れています。(2024年6月14日記)


1. 序章:なぜこの課題に取り組むことになったか

1.論文を書くことになったきっかけ

 人生には思わぬ出来事がある。そのほとんどが外部からの働きかけによって起こるように思えてならない。筆者が大学1回生の時期に論文を執筆することになるとは夢にも思っていなかった。

 日常的には意識していないが、時間には2つの種類がある。1つ目は、過去から未来に流れていく時間だ。ギリシア語のクロノス(chronos)で、英語ならタイム(time)になる。2つ目は、ある出来事が起きる前と後で、歴史(そこには当然、人生も含まれる)の意味が変わってくるような時間だ。ギリシア語で言うカイロス(kairos)で、英語ならばタイミング(timing)である。人は思いがけないタイミングで変化し、成長していくのだという現実を筆者は、今、実感している。

 この論文のテーマは、教師から与えられたものである。しかし、高校までの定期試験や大学入試問題と異なり、模範解答が想定されているものではない。筆者が主体的に課題として与えられたテキストに取り組むことによって、何かを生み出さなくてはならない。テキストが客体であり、筆者は主体という二項対立の枠組みの中で処理される課題だ。だから、このまえがきでは、まず、この二項対立の一方の項である筆者がどのような性格の人間であるかについて説明したい。

2筆者に関して

 筆者は中学受験を経験し、中高一貫校へ入学した。しかも進学先は筆者の第一志望校ではなかった。言い訳のように聞こえるかもしれないが、受験の直前に、当時通っていた進学塾の塾長からプレシャーをかけられた。このことがマイナスに作用したというのが、試験当日に十分なり力を発揮できなかった主要因だったと思っている。「進学したい」と1ミリも思っていなかった中学へ通わざるを得なくなったことは苦痛以外の何ものでもでもなかった。思春期前で自我が確立していない時期に行われる中学受験は、親(現実的には母親)との二人三脚になる。志望校に合格できなかったことが、親の期待、努力、愛情を踏み躙ったことのように思え、入学式でさえ明るい顔をして写真を撮ることができなかった。

 中学の授業も退屈だった。アルファベットの学習から始まる英語の授業は幼少期から、この言語に触れてきた筆者にとっては時間の無駄で、耐え難かった。もっとも、そのときに英語で筆者に話しかけてくれた先生が、その後、恩師になった。([i]*)先生は挑戦することの楽しさや感謝することの大切さを教えてくれた。

 内部進学で高校に進み、もう一人大切な先生と巡りあった。この先生は私が部長を務めていたユネスコ国際研究部の顧問であり、英語の担任でもあった。課外活動においても沢山面倒を見てくれ、時には厳しく、誰よりも成長の場を多く見届けてくれた。([ii]*)。学習面においては、難関大学への進学実績を多数上げている中高一貫校には劣るものの、教師との出会いに関しては、恵まれた環境だった。ここに記した以外にも高校時代に筆者は多くのことを学んだ。この中高一貫校で通ってことが、筆者の人格形成に間違いなく、プラスの面でもマイナスの面でも大きな影響を与えたと心の底から思っている。

3新島塾

 これまでの人生を振り返って、筆者は周囲の影響を受けやすいと感じている。今回、この課題論文に取り組むことを決めたのも佐藤優先生との出会いがあったからだ。佐藤先生と知己を得たのは以下の経緯からだ。2023年4月に筆者は同志社大学クローバルコミュニケーション学部に進学し、高校の時代のような課外活動([iii]*)に参加したいと思っていた矢先に新島塾の体験参加の案内があった。同志社大学には、植木朝子学長が塾長をつとめる新島塾という独自の教育機関がある。植木先生は、新島塾の目的についてこう述べている。

<同志社大学では、良心教育を継承しながら、文系と理系の垣根を越え、総合知を備えた次の時代を担う人物を養成するための新しい教育プログラムとして、「同志社大学新島塾」(以下「新島塾」)を2019年度に開校いたしました。新島塾では、学生の皆さんの意欲と能力を在学中に可能な限り伸ばし、社会の様々な分野で活躍する有為な人物を輩出することを目的としています。そして、それぞれの学問分野の専門性を身につけるだけにとどまらず、リーダーシップとフォロアーシップを兼ね備えた人物の養成を目指しています。

 いかに時代が移り変わろうとも、人に寄り添って真摯に意見を汲み取り、全体を見渡して、他者や組織を最善の方向に導くことができる人物は、多様性と寛容に満ちた豊かな社会を築く上で欠かせない存在です。

 新島が「人を植ゆる」という言葉に託したもの、「人一人ハ大切ナリ」という言葉に込めたものが、新島塾にはあると信じています。

 新島塾のプログラムは、いずれも骨のある熱い取組になるはずです。塾生の皆さんが互いの「良心」を信頼し合い、真剣で自由な、そして人格的な知的交流を重ねることで、互いに切磋琢磨できるものと大いに期待しています。>(https://next.doshisha.ac.jp/neesima/about/message.html、2023年9月15日閲覧)

 詳細を見てみると自分が挑戦したことがない分野「読書」を中心に知的基礎力を養うカリキュラムだった。筆者のこれまでの読書法は、気に入った本を繰り返し何度も読むというもので、自分の興味に適う偏ったものしか読んでいなかった。新島塾では人類学、宗教など、機会がなければ読まないような作品を精読する必要があった。これらの課題を消化できるかどうかは未知数だったが、勇気を出して取り組んでみることにした。

 率直に言うと、新島塾の扉を叩いた時点では、何を勉強するのか明確に分からなかった。中学時代に恩師と出会ってから興味があることには、怖じ気づいて自己抑制せずに挑戦すると決めていたから参加することにした。

 4ヶ月の事前学習の集大成として3泊4日の集中講義があり、多くの課題量と知識に圧倒されながらも意識の高い塾生仲間たちと討論し、新たな視座を得ることができた貴重な時間を過ごした([iv]*)。

 4日間の合宿で一番大事だと感じたのは「自分たちが置かれている状況をできるだけ実証的かつ客観的に把握し相対化することによって、初めて自由に考えることができる」ということだ。これだけ情報が氾濫しているときに何が正しいかを判断することは難しい。だからこそ、一面的な見方が社会を覆っているときは、自分が納得するまで考えることが本当に大事になる。また読書を通して自分で考えるための知的武装をする必要がある。最終日の講義ではチームとして活動するために何が大事かということを本音で語り合うことができた。筆者自身の経験からも意見を述べることができた。この合宿で佐藤先生から読書の重要性を学び、「自分がどう考えるかだけではなく、相手がどう考えるか」という他者の内在的な論理を知る訓練が必要であると指摘され、そのための具体的訓練として400字詰め原稿用紙換算で60枚程度の課題論文を執筆することを勧められた。この課題を消化することには意味があると考えたので、応じることにした。

 これまで筆者は物事を感覚で捉える傾向が強かった。論理や読書とは疎遠な人生を送ってきた。今回の課題論文を書くにあたって、まずテキストを正確に読み、その内容を把握する。その上で理解した内容を自らの言葉で表現できるようにしたい。新島塾の事前課題([v]*)を通してだいぶその能力は身についたと思っているが、さらにスキルアップできるよう取り組んでいきたい。

4課題図書

 今回、佐藤先生と相談して、課題論文で扱う本は以下の3冊だ。

  サミュエル・スマイルズ (竹内均訳) 『スマイルズの世界的名著 自助論』三笠書房(知的生きかた文庫)、2002年

 福澤諭吉(伊藤正雄訳)『現代語訳 学問のすすめ』岩波現代文庫、2013年

 松沢裕作『生きづらい明治社会――不安と競争の時代』岩波ジュニア新書、2018年

課題論文の対象となる本をこの3冊に絞ったのは以下の理由からだ。

 第一の理由は、筆者自身の興味がある本を精読したいからだ。それがスマイルズの『自助論』だ。筆者は、この本を大学受験勉強の過程で知った。スタディサプリで伊藤賀一先生[vi]が全世界の若者のやる気を引き出す本として紹介しており、当時受験勉強のやる気が低迷していた筆者には、この本がとても輝いて見えたからだ。今は受験勉強から解放され、自分のしたいことを周囲の影響を何も気にせず挑戦できる環境にいるからやる気の低迷とは無縁な生活をしている。だが2024年に私は留学を控えており、今後数多くの挫折を経験するだろうと予測している。その時に自分を支えてくれる指標になる本があればいいなと思い『自助論』を精読することにした。また大学に入ってから、LGBTQ +の問題、高等教育が社会的差別の構造に組み込まれているという問題、英語に関しても植民地支配と結び付いた「ピジンイングリッシュ」の流通など、簡単には理解できない事柄が少なからずあることを知った。

社会で一般に受け入れられている事柄の中に少なからず「嘘」があると思う。その「嘘」を見破るには学知を積み重ねて「わからない」事柄について考え続け、少しでも「わかる」ようになっていく必要があると思う。その観点から、開国によってわからないことだらけの世界に投げ込まれた明治時代の日本人に影響を与えた『自助論』を精読する必要があると考えている。

 第二の理由は、授業の内容や教師、友人との意見交換を通じて生まれた問題意識を明確にするのこれらの本を精読することが資すると考えるからだ。このカテゴリー(範疇)に該当するのが福澤諭吉『学問のすすめ』と松沢裕作『生きづらい明治社会』である。この2冊は、努力と格差が生み出す問題に関心がある筆者にとって有益だと佐藤先生が紹介してくださった。

 現代でも生まれた場所が少し違っただけで180度世界が違うことを小学生の時に知り、衝撃を受けた。『学問のすすめ』の中にある「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと云へり。 其有樣雲と坭との相違あるに似たるは何ぞや、人は生まれながらにして貴賤貧富の別なし」[vii]という有名な一節があるが筆者はこの認識には同意できない。ジニ係数、相対的貧困率を見れば日本は先進国の中でも格差が大きい国である。そして世界には生まれた時から何一つ不自由のない生活を送れている人もいれば三食食べることができない程貧困に苦しんでいる人もいる。『学問のすすめ』を『生きづらい明治社会』と併せて読むことによって、明治時代の人々の考え方や時代の流れを理解してみたい。なぜ『自助論』と『学問のすすめ』が明治時代に流行したのみならず、令和時代の今になっても読まれ続ける古典となったのかについて、掘り下げて考察してみたい。

 論文を書く上で本の内容をまとめ、自分の考えを論じていかなければならない。読書をしている段階で本の内容を全て肯定するのではなく、自分の立場に置き換えながら考えてみたい。新島塾の合宿で感じた問題の一つとして、他の塾生と似たような意見を持っているから発言をすることができないという場面が何度もあった。結果に辿り着くまでの思考過程が異なっていても、最終的な意見が同じだと発言する意味を見いだせなくなり、不完全燃焼で終わってしまったことが悔しかった。その反省を今後に活かす手段として、この3冊のテキストの読解にあたっては、1つの事象を別の角度から考えてみるという姿勢で取り組んでみたいと思う。言い換えると批判的思考の訓練をすることだ。批判的思考とは「当たり前」とされている事柄について多角的な側面から問い直すことだと筆者は考えている。批判的思考は知識、判断力、問題解決能力、および個人の成長に対してポジティブな影響を与える重要な総合的能力ある。結論が一致しているからといって、思考の過程を問わずにいると、議論は深まらない。特に筆者は、意思決定過程における討論の質の向上に関心があり、今回の課題論文の作成に当たっても、自己の内面での対話を怠らずに思考を掘り下げていきたい。

序章:スマイルズ『自助論』について

この本はサミュエル・スマイルズ(Samuel Smiles 1812年12月23日-1904年4月16日)によって1859年に出版された自己啓発書の古典である。個人が自分自身の成功と成長を実現するために必要な原則とアドバイスを提供するもので、19世紀のイギリスを舞台にしている。スマイルズは19世紀のスコットランド出身の作家、医者、社会改革家で、自己啓発運動の先駆者の一人として知られており1812年に生まれ、1904年に死去した。彼は多くの作品を発表し、その中でも最も有名なのは「自助論」(Self-Help)である。「自助論」では個人の努力と自己責任が成功の基盤であると強調し、社会的な階層にとらわれずに自己向上を追求することの重要性を訴えた。当初エディンバラで医院を開業したが、後に著述に専念するようになった。1859年にジョン・マレー社から出版した『Self-Help』は、1866年江戸幕府留学生取締役として英国に留学した中村正直が1867年発行の増訂版を入手し、1871年『西国立志編』の題で邦訳し、明治維新まもない日本で出版した。その思想は福沢諭吉『学問のすすめ』とならび近代日本の進展に大きな影響を与えたと言われている。筆者にとっては勇気を与えられた一冊であった。以下より竹内均訳の引用を踏まえながら「自助論」がどのような本なのかを記していきたい。([viii]

 「人間は、読書ではなく労働によって自己を完成させる。つまり、人間を向上させるのは文学ではなく生活であり、学問ではなく行動であり、そして伝記ではなくその人の人間性なのである。」([ix])スマイルズは読書のための読書を認めていないことが読み取れる。今の経済学においては限界効用説が主流であるが、本書では労働価値説を軸としており実際の生き方に即して説明している。新島塾にて知識武装をする必要があると言った旨の講義をして下さった西泰志先生からも武装するために必要なのは読書であるが、自己を完成させる(最も良い状態に自分自身を導くこと)要因として生活が重要部分を占めているとおっしゃっていた。にしても、全てを経験する必要はなく、文学に関してはSFやミステリーなど様々な代理経験が可能である。筆者は自己を完成するにあたり、継続して学ぶことが大事だと考えている。生活していると臨機応変な対応が求められる。その状況に適した答えがあるはずだし、それを実際に体験し、吸収していくことが学ぶことに繋がり、ひいては自己を完成させていくのだろうと考える。座学ももちろん大事だが、人間としての総合力を育んでいくのはやはり具体的な経験だ。

 「私が信頼しているのは君一人だけだ。君は私の精神にほんとうの意味で影響を与えている。確かに、日常のこまごました問題ではいろいろな人のお世話になっているが、私の考えの根本や行動の指針について、君ほど大きな影響を与えた者はいない。」([x])スマイルズは一人の信用できる人間を持つことの重要性を示している。自分の手で未来を切り開くと言っても、一人では不可能である。筆者も上記の考えに賛成である。導入部分で記した通り、筆者は中学時に今の恩師と出会い、生きていく上で大事なことを教わった。人間は社会的な動物であり、他人の援助や支えなしでは生きていけないことは周知の事実である。しかし、助けや援助は自然と舞い降りてくるものではなく、他人の意思によるものである。だからそれらが貴重なものであること、当たり前のことではないことであると認識し、感謝の言葉を適時伝えることが大事だと思う。自身にこのようなインスピレーションを与えてくれるような人と人生の早い段階で出会えたことは何よりの幸運であり、疑いもなく多大な影響を受け、現在時点における筆者の人格を模っている。今後これ以上の出会いがあると期待している。しかし、『自助論』にもあるように自分の幸福や成功については、自分自身が責任を持たねばならない。特別な援助者も本人の助けにはなるが、最終的には自らが自らに対して最大の援助者になっていく必要があるとスマイルズは述べている。

 「芸術家の偉大な作品を見ても、そこに忍耐強い努力と長年の修業の跡を感じとれる人間は少ない。確かにそれらの作品は、最も簡単にごく短い期間で作られたように思える。だがその影には、想像を絶するほどの作者の苦しみが横たわっているのだ。」([xi])ここでスマイルズの論点を整理するには“型破り”と“デタラメ”の違いを論じておく必要があるように思える。まず“型を破る”には守破離[xii]でいう守を知る必要がある。要するに逸脱するには基本や型を身につけなければならないということだ。一方デタラメは、思いつくままにいい加減なことを言ったりしたりすることである。筆者も芸術や表現の完成には長い時間を要することは幼少期から楽器を続けてきた身だから理解できた。バイオリンを初めて弾いた時は姿勢を保ち続けることが難しく、音さえ出なかった。一日練習を怠ると三日分技術が後退すると言われ、継続することが何よりも上達への道である。音を鳴らし、曲を奏で、相手の心を動かすまでの技術を獲得するには膨大の時間が必要なことは目に見えている。“忍耐強い努力と長年の修業の跡を感じとれる人間は少ない“のはこの過程を経験したことがない多数の人にとっては当然である。なぜなら苦労の果てに勝ち得たものこそ本物であることを知らないからだ。バイオリンに置き換え考えてみても心を掴むような演奏をする人は一音一音、細部までこだわって自分の音を追求した努力が垣間見えるし、音色に曲に対する気持ちを乗せて演奏していることが伝わる。私も大学時代では音楽に限らず様々な芸術にふれ、美的センスを磨いていきたい。

 「善と結びかない権力は、それがどれほど強力なものでも国家の致命傷となる。また、善と結びつかない知識は、単なる悪魔の化身と成り果ててしまうのだということを。」([xiii])スマイルズは善の意識を持つことは単純に権力や知識をつけることよりも大切なことだと述べている。しかし、ある権力者にとっての善が他の人にとっての善とは限らないし、善と悪は一概に述べることができない。第二次世界大戦時のヒトラー独裁政権を鑑みても分かるように、絶大な権力を持っていようと結果的に国が崩壊した。知識も同様のことが言えるのではないかという認識を示す文章である。“善と結びつかない知識”とは何かを考えることは難しかった。筆者の見解として「善」とは、道徳的に正しい、良い、善良な、利他的な行動や特性を指す言葉と考えている。一般的に、善の行動や特性は社会的に価値のあるものと見なされるが知識自体は中立的であり、道徳的な性質を持たない。知識は単に情報や理解を示すものであり、それ自体が善や悪ではない。だから善悪の区別はその知識が使われる用途、人によって性質や形を変えるのだろうと考えた。

以上が自助論の前半部分にあたるが、前半を通して強調されたことは努力、忍耐、意志である。筆者自身の経験からこの3つのうち1つでも欠けたら成長していくことは難しいと考える。努力を続けることは苦痛が伴い、挫折もたくさん味わうことを意味するがその苦労を跳ね除ける強い意志や忍耐を兼ね揃えていればどの困難にも立ち向かっていけるのではないかと思う。筆者がスマイルズに助言するならば楽しむことも大事だと伝えたい。

まだ19年しか生きていない身なので達観したことは言えないが、やはり楽しんでいる人にはどう頑張っても勝つことができないことを痛感している。「一番になりたい」「誰にも負けたくない」などの闘争精神は人間の大きな原動力となり、成長の過程を支える主たる要因となるが一時的な目標が叶ってしまえば、その気持ちは薄れてしまう。俗にいう燃え尽き症候群だ。一方、挑戦自体を楽しんでいる人はどうだろうか。「努力している自分が好き」「今頑張っている対象物に興味があり、極めたい」などのポジティブな感情は外的刺激であろうが自発的な感情であろうが長持ちしやすいと感じる。大学に入り、オタクと呼ばれることもあるような熱中できる事柄を持つことがどれだけ大切なことかを学んだ。特に異文化の人たちと話す時話のネタになったり、その人たちとの共通点にもなれたり、自分の専門性を深めてくれる。だから「好き」で止まらず、少しでも深掘りして知っておくだけで役に立つ場面が多いのではないかと思う。だからこそ、自分が何に興味があって、何をワークライフとしていきたいかについて常にアンテナを張っておき、情報を収集できるよう、努力を継続していく必要がある。前半にあたる最後の文章で「強者と弱者の違い、偉人と取るに足りない人間との違い、その人間が旺盛な活力と不屈の決意を持っているかどうかにかかっている。ひとたび目標が決まったら、あとは勝利か死のいずれかしかない。そう断じ切る決意が大事なのだ」と記述がある。この覚悟があれば結果はついてくる。たとえそぐわない結果であっても努力の過程が消されることは無いと思う。

 「特に若者は、人生の幸福や繁栄が他人の助力や後ろ立てではなく、自分自身の力によって勝ち取られることを、しっかり自覚しなければならない。」([xiv])スマイルズは個人の成功はあくまで自分自身で掴み取ったもので他人の後ろ盾ではないと自己責任論を強調している。筆者はこの意見には反対だ。なぜなら幼い頃から自身の成功は自分の力だけでは成立しないことを両親から教えられたからだ。だからこそ自分が成功した時は周りへ感謝することを忘れず、謙虚に過ごしていくことを大切にしている。本文ではこれと対になることを述べている。新たな視点を獲得でき、筆者にとっては新鮮だった。前後の文脈を読み、スマイルズが何を伝えようと考えてもやはり自分の信念は変わらなかった。個人の成功には必ずと言っていいほど他人が関わっているし、一人で成功することなんて不可能に近い。周囲の人に助けを求め、引き寄せ、成功に導いたのは個人の能力によるものだと思うがこの文章には少し語弊があると思う。協力してもらったからには感謝の気持ちを持ち続け、自分の力で成功できたと驕らないことが次の成功への近道にも繋がるのでは無いかと考えた。

 「失われた富は勤勉によって元通りにできるかもしれない。失われた知識は勉学によって補充でき、失われた健康は節制や薬で取り戻せるかもしれない。だが、失われた時間だけは永遠に戻ってはこないのだ。」([xv])本文では時間の重要性について他の対象物と比較しながら説明している。今日、2023年09月29日 大学のCommunicative Performanceの授業で先生が全く同じことを言っており、感動したため引用することにした。来年の2月から留学を控える私たちにお金の心配はする必要がないと教えてくださった。なぜなら10代という貴重な時間はお金で買うことができないからである。経験や健康はお金を積めば自分のものできるし、何歳になってもやり直しが効く。お金が不足すれば借りることも可能だしその後、個人の努力次第で巻き返しが可能だ。しかし時間だけはどう足掻いても手に入れることができない。佐藤先生もおっしゃっていたように大学生時代の一時的に借金をしてでも投資することで将来何倍にもなって自分の元へ利益となって還ってくる。何十倍にも膨らむ価値を目の前の都合で台無しにするほど愚かなことはない。私自身、留学先の生活で必要なお金は両親に借金をしてでも惜しみなく使う予定である。そこで発見した何かがトリガーとなり、将来に繋がる可能性があるし、2度目はないかもしれない留学生活を存分に楽しみたい。

 「与えられた境遇の中で粘り強く前進する勇気を持たず、もの笑いの種になるとも知らずに社交界の栄華を追い求め、浮草のような上流社会の一画を占めては虚栄心を満たそうとするのである。」([xvi])スマイルズは中身を磨かずに、他人からどう見られているかということだけにしか興味がない人間のことを否定的に捉えている。筆者も上記のような人間は得意ではないし、スマイルズと同感である。この思考はZ世代である私たちに強く認識させるべきだと思う。いわゆる“上流生活”を渇望し、うわべだけを取りつくろい、中身がどうであれ見てくれだけは体裁を整えたがる人が増えている。代表的なものがインスタグラムを中心とするSNS発信だ。承認欲求が強い傾向にあり、他人から羨ましがられることに快感を覚える人も一定数いる。見せかけの成功で他人の関心を集めようという野心から、どれほど多くの浪費と破綻が生み出されているかを理解していない。人間の美徳が踏み躙られ、巻き添えを食らう周囲の人間の存在にすら気づくこともない。性格は顔に出る、生活は体型に出る、本音は仕草に出る、というように人間の本質は細部に宿るものである。人生の若い時期に得た習慣は悪に対する免疫になり、自分を守ってくれるものとなる。良い習慣が身につけば個人の振る舞いは一段と立派なものになっていくに違いない。

 「学校教育は、真の教育のほんの手始めにすぎず、精神を鍛え勉強の習慣をつけるという意味でのみ価値がある。」([xvii])学校教育は教育のほんの一部分であり、そこに意味を見出すことは少ないということを述べている。精神を鍛えるという面で努力、継続という言葉が挙げられる。筆者は努力が成果に繋がることはあるが、成果が出にからと言って努力してないとは限らないと考える。筆者は大学受験を通して、高等教育の意味について考えていた。文系選択だったため、数学や化学はなおさら、歴史を勉強する意味も自分なりの答えが出せていなかった。その意味を他人から教えてもらってもどこか腑に落ちないし、納得できていなかった。しかし本文を読み、部分的ではあるが納得することができた。「勉強の習慣をつけるという意味で“のみ”価値がある」は少し語弊があると思う。しかし、学校教育が真の教育の一部分であることには賛成する。中高生の頃は教えてもらうものが教育の全てだと勘違いしており、視野が狭かった。大学に入ってからは勉強と学問の違いについて考えたり、物事に宿る二面性にも着目したりするようになった。今まで面倒くさいが故に“考えること”を敬遠してきた筆者だったが、考えて自分の意見を持つ重要性を感じている。筆者がこのように努力を続けることができるのも学校教育があったおかげであり、今思い返してみれば今の土台となる要素は全て初等、中等、高等教育にて身につけたものだと思う。まだ明確な答えは出ていないが、考え続けることに意味がある。

 「人格教育の成否は、誰を模範にするかによって決まる。我々に人格は周囲の人間の性格や態度、習慣、意見などによって無意識のうちに形作られる。良い規則も役には立つが良い規範にははるかに及ばない。良い模範の中には実際の行動を通した教え、生きた知恵が含まれているからだ。」([xviii])人格といった抽象的で、時間の経過とともに形成されるものは無意識のうちに体得することが多い。だからこそ誰を模範にするかがとても大事だということをスマイルズは述べている。本文の見出しに良き師、良き友は人生最大の宝とある。私にも同様の経験があるため納得できた。繰り返しになるが人間は環境の子というほど周囲の影響を絶えず受け続けている。大学生活を送る中で良くも悪くも友達の影響を受けることは避けられないことだと痛感している。今何をしているかと友人に聞かれることがある。その時に論文を書いていると伝えると、「どういう内容で書いているの?」と興味を持ってくれる人がいる一方で「面倒だね」と言ってくる人もいる。筆者は自らの意思でアウトプットの力を身につけたいと思い、論文作成に取り組んでいるから正直、ネガティブな発言をしてくる人とは距離を置きたいと思ってしまう。なぜなら一緒の時間を過ごすと自身もそのような考え方が身についてしまうのではないかと怖いからだ。中学時代に今の恩師と出会うことができ、自らの軸をぶらさない大切さを知った。あのタイミングで出会っていなかったら今頃どうなっているのか想像すらできない。“人格教育の成否は、誰を模範にするかによって決まる”とはまさにその通りで良い人格を形成していくには巡り合う縁とチャンスを大事にすることが大事だと考える。

 以上が後半部分の抜粋と筆者の見解となるが、後半を通して強調されたことは時間、自己修養、人との出会いの3つである。筆者は自己修養も論文執筆の目的のうちの一つであるから、それを取り扱っている自助論と出会うことができて良かった。大学に進学するにあたって私は生活の質を高めたいと常に思ってきた。高める方法として読書が手軽にできそうだと思い、活字がそれほど得意ではなかったが電子機器を触る時間を本を読むように変えようと意識してきた。その結果新島塾と出会い、それを通してまた新たな学びや出会いがあり、人生がどう転ぶかわからないものだと実感した。文学、芸術にそれほど興味を示してこなかったがこれを機にある一つのことを様々な異なった視点から考えてみることの面白さを知り、文芸はもちろん、倫理、哲学、宗教のことも学びたいと考えるようになった。新しいことに挑戦することは時間と労力を使い、誰にでもできることではないことを頭に置きながらこれからも幅広いジャンルに挑戦していきたい。

 終わりに自助論を読んだ上での考察をする。初めて本をベースに論文を仕上げてみて、とても面白かったというのが正直な感想だ。通常の読書なら気にも留めないような他人の考えや成功例、失敗例など、立場を置き換えながら“自分だったら”という視点を忘れることなく読書をすることができた。佐藤先生に自己責任論についての意見を求められたのでまず、自助論を通しての論をここに組み込もうと思う。筆者は自己責任論には概ね賛成である。なぜなら、そぐわない結果や期待に反したことが起こると他の要因に責任転嫁する人間が心底苦手だからだ。失敗してもそこから得られるものは沢山あるし、成功だけが正解な世の中ではない。(多様な選択肢が認められつつある世の中の風潮に感謝したい)しかし、2冊目の本にも出てくるが貧困や社会階層など、個人の努力ではどう変えることもできない事象だってある。その点に関して自己責任論を押し通すのは無理があると考える。明治時代の人々は自己責任論が強く、自分の手によって未来を開拓していく意思があったため評判だけで爆発的なセラーとなったのだろうと推測した。


[i] 先生は筆者のことを“生徒”ではなく“一人の人間”として扱ってくれ、英語に限らず、生活面における指導も熱意に溢れていた。英語を頑張ろうと思い直したきっかけを作ってくれたのも恩師である。彼は教師であるにも関わらず、夏休み期間は私たちよりも英語をよく勉強しており、結果で努力を証明していた。筆者は忙しいながらも目標や夢に向けて地道に努力している姿がとても新鮮に映り、これから勉強をしていく上でロールモデルにしたいと思えた。受験を終え、捻くれた部分のあった筆者は「努力」が形を変えて、他人を勇気づけ、インスピレーションを与えることを知った。そしてリーダーシップを期待される役職にもチャレンジしようと思い文化委員に立候補し、クラスの文化祭の統括を任されることになった。経験もなく、右も左も分からない状況だったが、恩師が最後まで支えてくれ、自分の役割を果たすことができた。クラスで何を大事にすべきか、リーダーが求められるものは何かということを学び、新しいことに挑戦することは楽しいことだと思えるようになった。そして「“ごめんなさい”と“ありがとう”は相手より先に言う」という当たり前のように思えてとても大事なことが現在筆者のバックボーンとなっており、恩師の言葉が今にも大きく影響している。

[ii] 筆者は高校二年生時に英語のスピーチコンテストに出場しており、月経にまつわるタブー意識をテーマに5分のスピーチを行った。先生が原稿を初めて知った時、「ハンマーで頭を殴られたような感覚になった」と言い、筆者のスピーチコンテストに出場する上での目標であった異性からの理解を深めることが部分的にではあるが、叶った。以来、大阪大学人間科学部の杉田映理先生とともにMeW projectの一員として活動してきた。先生や部員の協力を得、ワークショップを実施したり、月経のウェルビーイングの実現に向けて話し合ったりした。

[iii] ⅰ)三菱財団提供、認定NPO法人very50のプログラム“egg”に参加

⇒東京での宿泊研修 Entrepreneurship in the Global Ground

世界の事業家と全国から集まった高校生がタッグを組んでコロナで営業が落ち込む事業家さんの経営を回復させよう、というプロジェクト。「自立した優しい挑戦者を作る」という認定NPO法人very50のテーマをもとに筆者が彼ら、彼女らにできることは何か、ということをチームで約二か月間沢山ミーティングを重ねて考えた。筆者が所属したEグループは カンボジアで女性の自立支援を行っているハンドメイドジュエリーのブランドを立ち上げた事業家の担当となった。まず英語ができないと会話が通じないし訛りはきつくて意思疎通も難しい時もあった。しかし筆者はこのお店のコンセプトやバックグラウンドに惹かれてこのプロジェクトをしている。何とかこのブランドの経営を救いたいという一心で日本にいる私たちができることを必死に模索してきた。最終的には企業様と提携することができて、目標を達成できた。

 ⇒最後まであきらめないことの大切さを学び、自分の新たな弱みや強みに気づけた。

メンターさんとの1 on 1で研修中に見えた筆者の弱みについて言われたときに何故かわからないけど、悔しくて涙が出た。今思い返したら多分自分の中で自信を持っていると自負していたけれど、自分より優れている人を見ると無意識のうちに委縮していた。自分の中で昔から軸として持っていた「絶対的な自信」に対して客観的な視点から指摘されるいい機会だった。本当は凄くもろくて、周りに流されやすいし、自信なんてあまり持てない。そんな私が理想にすがりたいが為に「自信がある」と勝手に思い込んでいただけなのかもしれない。そんなことを考えると夜も寝れなくなって、次の日は倒れて救急車で運ばれてしまった。でも、そんな時にメンターに「くるみは十分他の人に劣らない才能と能力があると思う、だから自信もって!!」「絶対輝けるから」と言われた。その時に、「あ、自分はちゃんと能力もあるんだな、輝いていけるんだな」って勇気づけられた。

 ⇒EGGの研修を通して圧倒的な経験を積むことができたと思う。他の高校生ができない様な経験、例えば企業へ電話したりメールをしたり、営業を行ったり。今までビジネスに関する知識や経験が何もなかった私にとってこの期間はとても新鮮で目まぐるしいものであった。色んなフィールドで活躍してる多くの仲間の中で疎外感を感じながらも必死に食らいついた結果最終的に商談が成功した企業を私が見つけることができた事に拍手を送りたい。東京都内でエシカルやサステナブルな取り組みをしている企業を100社あげろ、と言われたときに、まず無理だと正直思ったし何回も心が折れた。でも筆者が見つけた企業で実際に商談もとることができたのは90社目ほどであった。本当に数が大事なんだなということと、最後まであきらめない事の大切さを身をもって体感できたと思う。

 ⇒仲間と成功を喜び合える幸せ。100社にメールや電話を送った時に冷たい態度であしらわれたり、逆に高校生ブランドとして厚く対応して下さったり、色々なことがあった。その中でタスクを終えることができた喜びや企業様からメールの返信が来た時のワクワク感、実際に商談がうまくいったときの感動。このような感情の大きな起伏は全力で取り組んでいることのあかしだと思うし、友達の笑顔を見ることができる当たり前の事に大きな幸せと誇りを感じた。こんな素敵な仲間がいる環境に身を置けていることを嬉しく思った。悪いことや良いことがあってもお互いを助け合ってゴールを目指す事に対して色んな側面が見えてしんどくなる時もあった。結果何が言えるかというと、挑戦する楽しさを今回一番身に染みて感じられた。

ⅱ)スピーチコンテスト

このテーマを選んだのは筆者自身、月経に関して強い問題意識があるからである。

親しい友達が生理痛が酷くて休めないことを男性の先生に素直に言えないことに疑問を感じた。このような「言いにくさ」に始まり、女性が月経に関する悩みなどを女性のみで抱えてしまう問題、”生理”がタブー視される問題について調べて発表し、この経験が2022年6月に大阪大学主催のSDGsイベントでMeWプロジェクトと繋がった。7月のTEAMEXPOでは運営側として参加させてもらった。現在(高校3年生時)、高校には生理用品無償ディスペンサー設置に向け、大阪大学とタイアップし、MeWプロジェクトの一員として活動している。英語のスピーチで表現できたことが日本語では上手く表現できず、言語文化間の差異に気づかされている。

筆者は暗記することがとても苦手で、どのようなプレゼンの時もメモを必ず使っていた。だから5分のスピーチはとても辛かった。撮影は7時間ぶっ通しで行われた(コロナで動画提出だった)。途中諦めそうになったが、一度やると決めたことは最後まですると決めていたのでやり通したら結果がついてきた。

[iv] 私は新島塾で学んだことが大きく分けて3つある。

1トッド氏「後戻りすることは追いつくことよりも難しい」という言葉

2佐藤先生「主観、客観というけどこの立場は普遍的なものではない」という言葉

3西先生「読書をしないと自分の頭で考えるという力はつかない」という言葉が印象に残った。

1つ目のトッド氏の言葉を自分自身に置き換えて考えてみた。私はある目標を立て努力を続けることは好きだし、得意な方だと思う。成長したい、強い自分になりたいというモチベーションさえあればどこまででも頑張れる気がする。だが、過去を振り返るのはあまり得意ではない。良いところでもあり、悪いところでもあるのが忘れやすいところがあるということだ。どれだけ嫌なことがあっても美味しいご飯を食べ、寝たら大抵のことを忘れられるが悔しいことや将来絶対に忘れるべきでない感情なども自分の中から消えてしまう。それをトッドは歴史学の観点からも似たことをおっしゃっていたからこれはもしかしたらどの分野においても同じことが言えるのではないかと思った。

2つ目の佐藤先生の言葉は自分の主観、客観という言葉遣いを考えさせられた。初めて聞いた時は何を言っているのか理解することができなかった。のちに先生からの解説があり、塾生とも話し、結論を出した。それは<自分の主観、客観が自己決定から生まれるとは限らない>ということ。トランスジェンダーについてどう考えるかという議題で討論を行った時、社会の多数派意見が客観的な視点となり得ることがわかった。だが、それは時代とともに移りゆくものであり流動的なものである。普段使うような言葉を改めて見つめ直すことの大切さが身に染みた。

3つ目の西先生の言葉は今まで読書をしてこなかった私には尚更響いた。レジュメにもある「読書は自分で考えるための武器」は新島塾が終わった今でも私の中で大事な考え方として生きている。Z世代は携帯や電子機器を見る機会が多く、本を読む重要性や自分の頭で思考することを諦めている人が多くいると思う。しかし、それをしないと世の中の情報を全て鵜呑みにしてしまう可能性がある。本も同様、本になっているからと言って全てが正しいわけではないことを学んだ。自分の知識を武装する手段として読書があるならば色々な考え方に触れ、柔軟な考えを持てるようになることは大事なことだと考えた。

[v] 事前課題は5つあった。

1トッド氏の著書を2冊読み、重要だと思う部分を各章ごとに3箇所抜き出し要約

2植木学長の著書を読み、中世の自然観をまとめること

3中世人へのマイノリティへの視線についてまとめること

4佐藤先生の著書を読み、中世のヨーロッパの価値観は、現代の価値観にどのような違いがあるかまとめること

5課題図書を読むこと

上記の課題全てにおいて自分の考えを表現することが求められ、1つ目の課題では人類学という触れたことのない分野の内容であり、読破することさえ難しかったがこの全ての課題を終えれたことは自信に繋がった。

[vi] スタディサプリとはパソコン・タブレット・スマートフォンで、オンライン上に配信された先生からの宿題や課題の提出、アンケート回答が行えるオンライン教材であるのと同時に小中高校生向けに、分かりやすいと評判のプロ講師の授業動画を配信するオンライン学習サービス。伊藤賀一先生はスタディサプリの社会科の先生である。

[vii] 福沢諭吉『学問のすすめ』岩波文庫 1942年 11頁

[viii] 出典https://www.kasikoikandora.com/profile#gsc.tab=0

[ix] ミュエル・スマイルズ (竹内均訳) 『スマイルズの世界的名著 自助論』三笠書房(知的生きかた文庫)、2002年 19頁 

[x] 29頁

[xi]  86頁

[xii] 守破離とは日本の茶道や武道などの芸道・芸術における師弟関係のあり方の一つであり、それらの修業における過程を示したものである。「守」は師や流派の教え、技を忠実に守り、身につける段階。「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。

[xiii]  112頁

[xiv]  133頁

[xv]  148頁

[xvi] 179頁

[xvii] 197頁

[xviii] 247頁