わき道をゆく第119回 「大部分ハ東京ニ送ラレタ」

▼バックナンバー 一覧 2017 年 10 月 12 日 魚住 昭

 千葉県市川市の江戸川沿いにある里見公園は、戦国時代に里見一族が北条氏と戦って敗れた古戦場として知られている。
 土曜の午後、その里見公園の隣にある総寧寺を訪ねた。上海の「阿片王」といわれた里見甫の墓があると聞いたからだ。
 人気のない境内の奥の墓地に入って探したら、すぐ見つかった。こじんまりした墓石に「里見家之霊位」と刻まれ、側面には「岸信介書」とあった。
 たしかに岸の字だ。少し丸みを帯びていて優しげで、しかも繊細である。岸がその政治人生でしばしば見せる、激しさや冷酷さは少しも感じ させない。
「字は体を表す」とか「書は人なり」 というけれど、岸にはその格言は当てはまらない。彼はつねに千変万化する。善人なのか、悪人なのか。鵺のようで捉えどころがない。
 一方の里見はどうだったのだろう。彼は戦後の1965(昭和四〇)年、69歳で亡くなった。われらが先達、草柳大蔵は『実録・満鉄調査部』(朝日新聞刊)で里見をこう描いている。
〈五尺五寸ほどの痩せた男である。頭の頂点が尖っていることのほかは、何の変哲もない風貌をしている。むしろ柔和である。路傍の地蔵尊や野際の石小法師の前をとおるときは、必ず足を停めて掌をあわせる。物静かな語り口であり、周囲の人が「どうして生きているのか」と訝るほど食事を摂らない〉
 さすが草柳である。里見の人間像が眼前に浮かぶ。里見はアヘンで中国に途 方もない害毒を垂れ流したが、彼自身は私利私欲とは縁遠い、恬淡とした男だったらしい。
 草柳によれば、里見は上海・虹口の乍浦路に面したピアス・アパート3階に住んでいた。6畳と3畳の二間しかない家で、秘書はおかず、「おちかさん」という身の回りの世話をする女性が通いで来ていた。
 乗用車はビュイックの中古車で、しばしば藍衣社(=蒋介石直属の秘密結社)の狙撃の的になったが、運の強い男で、かすり傷ひとつ負わなかったそうだ。
 総寧寺の墓石のわきには友人の筆になる小さな墓碑銘が建っていた。そこに刻まれた語句が里見の生の核心を見事に捉えているような気がした。

 凡俗に堕ちて 凡俗を超え
 名利を追って 名利を絶つ
 流れに従って 波を揚げ
 其の逝く処を知らず

 里見と岸の間にはいったいどんな交流があったのだろう。岸は戦後になって『岸信介の回想』(矢次一夫・伊藤隆との鼎談・文藝春秋刊)でまずアヘンについてこう語っている。
〈満州国ではアヘンの吸引は厳重に禁止したけれど、陰で吸っているのはいたでしょう。(中略)いずれにせよ満州ではアヘンを禁止し、生産もさせないし、吸引もさせなかった〉
 読者はすでにおわかりと思うが、この発言は著しく事実に反する。満州国は表面上はアヘン根絶を目標に掲げたが、熱河地方ではケシの栽培を奨励した。それでも足りない分は華北などから輸入し、アヘンの専売で莫大な利益をあげていた。
 岸がつづけ て語る。
〈しかしアヘンを扱ったものとし て里見という男のことは知っています。ただ私が満州にいたころは里見は上海で相当アヘンの問題にタッチしていて、金も手に入れたのでしょうが、満洲には来ていないから私は知らない。里見を知ったのは帰国後で、満映にいた茂木久平の紹介です。里見が死んで墓碑に字を書いたことがあるけれど、これも茂木に頼まれたからです〉
 茂木久平とは、満州の「夜の帝王」甘粕正彦が理事長をつとめる満州映画協会の東京支社長だった男である。どうやら岸は、里見とはそんなに深い関係はなかったと言いたいらしい。
 たしかに岸と里見の直接的な交流を示すデータはほとんどない。唯一、佐野眞一さんの『阿片王 満州の夜と霧』(新潮社刊)に、戦後、里見の秘書役をつとめた男の証言が出てくる。
 岸は満州から帰国後の1942(昭和17)年、翼賛選挙に立候補して当選した。秘書役によれば、このとき里見は、岸に200万円(現在の約16億円相当)を提供した。「鉄道省から上海の華中鉄道に出向していた弟の佐藤栄作(後に首相)が運び屋になって岸に渡したんだ。これは里見自身から聞いた話だから間違いない」という。
 しかし、これは残念ながらまた聞きである。真偽の判断はつかない。それより東京裁判に提出された里見の宣誓口述書を読んだほうが、戦時中の岸と里見の関係のバックグラウンドを知る手掛かりになりそうだ。
〈私即ち李鳴(=里見の中国名)事里見甫は良心にかけて次の事が真実である事を誓います。
 一九三七年九月又は十月私は新聞記者として上海に参りま した。私はそれ以前天津に居ったのであります。
 一九三八年一月又は二月に楠本実隆中佐が私に特務部(=支那派遣軍参謀部の一部)のために多量のアヘンを売って呉れるかどうか尋ねました。彼は此の阿片がペルシャから來る途中にあると云いました……〉
 里見はこの後、ペルシャ産アヘンで得た利益は約2000万ドル(現在の日本円で数兆円相当)に上ること、その利益は特務部(後に廃止)がある間は特務部に、それがなくなってからは興亜院(占領地の政務・開発にあたる日本の機関)に支払われたこと、1939年の末ごろには蒙古産アヘンも販売し、その大部分は中華航空機で運ばれたことなどを語っている。
 問題は興亜院などに支払われた金がその後、どこに行ったのかだ。里見は知 っているはずだが口をつぐんで いる。私はいろんな文献にあたるうち、『阿片吸煙禁止処理経過事情』という文書に突き当たった。宣誓口述書と同じく東京裁判の検察側証拠として提出されたものだ。
 そこには〈売上金ノ大部分ハ東条内閣ノ補助資金、及議員ヘノ補助金ニ割当テラレル為東京ニ送ラレタ〉という衝撃的な記述があった。以下次号。(了)
(編集者注・これは週刊現代で連載した「わき道をゆく」の再録です)