わき道をゆく第129回 一億ことごとく特攻隊となって

▼バックナンバー 一覧 2018 年 5 月 16 日 魚住 昭

 さて戦争末期に岸信介が何を考え、どう振る舞ったかという問題に決着をつけなければならない。それができれば「昭和の妖怪」と言われた岸の正体も自ずと見えてくるのではないか。
 と思いながら永田町の国会図書館で文献を漁っていたら『岸信介と護国同志会』(東中野多聞著・史学雑誌1999年9月号)という論文に巡り合った。
 20ページの短い論文なのだが、著者の東中野さんは戦中政治史を専門分野とする優れた研究者らしい。さまざまな資料を駆使して戦争末期の岸の行動を解き明かしていた。私は夢中に なって読みふけった。
 冒頭、東中野さんは、東条内閣の打倒に踏み切った理由についての岸の言葉を掲げている。
 サイパン陥落で空襲が激化し て軍需生産がままならなくなり、早期終戦しか道がないと思ったという、例の回想である。
 東中野さんは〈この岸の回想を、従来の研究はほぼ額面通りに受け入れてきた〉と述べ、次のような疑問を投げかける。
 岸らの〈反東条運動が、結果として東条内閣を打倒し、日本の終戦を早めたことは疑いない。だが岸を中心とする反東条運動は、実際に早期終戦を目指していたのであろうか〉と。
 前にふれたが、戦争末期の衆院には岸に近い議員約30人がいた。彼らは岸と連携して東条内閣を倒し、翌1945(昭和20)年3月、事実上の岸新党=護国同志会を結成する。東中野さんによれば、護国同志会の政策大綱は次の通りだった。
〈一、憲法に格遵(=謹んで従う)し議会の権能を昂揚し国民 の忠誠心を戦争政治に直結し以て必勝不敗の体制を確立す。
 二、戦争政治の全面的刷新を断行し以て戦力の飛躍的増強と国土防衛の完璧を期す。〉
 少しわかりにくいが、ポイントは議会の力を強めて「国民の忠誠心」を結集し、「戦力の飛躍的増強」を図ることだ。それにより「必勝不敗」の体制を作るということだろう。
 この政策大綱は、前に紹介した護国同志会の元幹部・中谷武世の証言と一致する。中谷によると、護国同志会の政策は「大東亜戦争完遂」で、それが「政策のすべて」だった。
 では、彼らは具体的にどうやって「戦力の飛躍的増強」を実現しようとしたのか。東中野さんは、護国同志会は「陸軍、海軍、軍需省の三者が別々に行っていた軍需生産を一元化しようとしていた」 と指摘する。
 そのため大本営に「戦時生産統営本部」を設置して陸海軍に準ずる地位を与え、軍・官・民が一体となった「生産軍」の創設を構想していたという。
 と同時に護国同志会は、それぞれの地方に「護国義勇軍」を組織し、その力を集めて強力な国民政党をつくることを目指した。実際、メンバーの大半は帰郷して何らかの政治活動を行い、岸もこの年の4~5月、「防長尊攘同志会」を結成するため山口県内を動き回った。
 5月10日には山口市で防長尊攘同志会の発会式を開いて自ら総裁に就任した。5月18日には、下関市の英米撃碎市民大会で講演後、防長尊攘同志会下関支部の結成会を開いた。岸の精力的な活動ぶりは当時の県知事の業務日誌にも残っている。
〈4月10日火( 来訪者)岸信介…八木代議士(後の岸の後援会長、護国同志会メンバー)…
 5月9日水(来訪者)岸信介…山口市長…
 5月10日木防長尊攘同志会発会式に参列(山口市第一公会堂午後一時)…〉
 そしてこれが最も重要なデータなのだが、防長尊攘同志会の結成前夜、岸は地元紙「防長新聞」にこんな談話を寄せている。
〈欧州における戦争はドイツの全面降伏によって終末を告げいよいよ日本は独力をもって米英撃滅戦を戦ひぬくことになった。(略)真裸となって御奉公に邁進するものは皆同志である。玄関先に敵が攻め込んでゐるのにくだらぬ過去の詮索や人物評などに時を費す時では絶対にない。(略)何れにしてもこの難局を打開する途は全国民の忠誠心を結集、一億悉く特攻隊となって 戦ひ抜く一本道しかない〉
 これはどう見ても、迫りくる本土決戦に対して県民の奮起を促す談話である。岸が戦後に回想したような「早期終戦論」はかけらも見られない。護国同志会の「大東亜戦争完遂」論は岸自身の考えでもあったと判断して差支えないだろう。
 東中野さんも、岸らは「戦争継続を可能とする(略)生産体制・決戦体制の確立を政治目標とし、早期終戦にはむしろ反対する側面を有していた」「反東条運動を行ってはいたが、早期終戦を目指していたわけではなかった」と結論づけている。
 岸は戦後、自分が護国同志会の「黒幕的存在」だったことを認めた上でこう語っている。
「同志会の諸君は最後まで戦うということだったけれども、私はサイパンの敗戦で日本の戦力はがた おちになり、ほとんど昼夜といわず、B29の空襲があり(略)戦争は早くやめなけりゃならないという意見だった」
 が、そもそも政治集団の路線と、その指導者の考えが正反対なんてことはあるだろうか。岸が戦後に語った「早期終戦のための東条内閣打倒」話は、GHQによる戦犯追及逃れと、戦後政界への入場券を得るために作られたストーリーだろう。
 とすれば、岸が東条を見限った真の理由は何だったのか。
 要因として考えられるのは人事をめぐる東条との軋轢である。1944(昭和19)年春、東条は軍需次官兼国務相の岸をさしおいて、製鉄部門だけを管理する大臣に財閥出身の藤原銀次郎を指名した。それが岸のプライドをいたく傷つけたらしい。
 後に岸は「藤原という人が適 任とお考えなら、藤原さんを軍需次官国務大臣になさい。私はやめさせていただきますという申し出をしたのが、そもそも東條さんと意見が衝突する初めの段階ですよ」と述べている。
 だが、これはきっかけだ。最終的には、サイパン陥落で東条時代の終わりを察知した彼の嗅覚と政治判断力が叛乱を決意させたと言うべきだろう。(了)
【編集者注・これは週刊現代に連載した「わき道をゆく」の再録です。参考『岸信介の回想』(岸信介・伊藤隆ほか著。文藝春秋刊)】