わき道をゆく第128回 「東条暗殺」と「新党結成」 

▼バックナンバー 一覧 2018 年 4 月 13 日 魚住 昭

 引きつづき、戦争末期の岸信介の不可解な行動について考えてみたい。彼が東条英機との”抱き合い心中”に踏み切った理由は何だったのだろうか。
 岸の回顧によれば、早期終戦のためだ。サイパン陥落で日本全土の軍需工場が空襲対象になり、敗北は決定的になった。これ以上の無益な戦いはすべきでないと彼は主張したという。
 GHQの尋問にも、岸は「東条がサイパン陥落後も戦争続行を望んだので、それに激しく反対した」と述べている。
 ホントだろうか?いや、私は戦争の見通しについて岸が東条と争ったのを疑っているのではない。岸が軍需生産の惨憺たる状況から日本の敗北を予見していたことは疑いようがない。
 しかし、だ からとい って早期終戦論者 だったとは限らない。それだけ岸に終戦への熱意があったら、何らかの和平工作を進めた痕跡があるはずだが、今のところ見当たらない。
 一方、岸が継戦論者(本土決戦を唱える人々)だったことを示唆する材料はいろいろある。前に紹介した護国同志会(聖戦完遂を目指す議員集団)の黒幕だったこともその一つだ。
 さらに、東条内閣打倒や終戦工作に活躍したことで知られる海軍少将・高木惣吉の回顧録にこんな場面が記されている。
 1944(昭和19)年7月6日。約1カ月に及んだサイパン戦が日本軍守備隊の玉砕で終わる前日のことだった。高木は築地の待合で岸と対面した。岸が知人を介して「会いたい」と言ってきたからである。
 当時、高木グループの倒閣工作は、大詰めを迎え ていた。海軍大将の岡田啓介ら重臣たちの退陣勧告を東条が拒んだら、彼の車を交差点で待ち伏せ、拳銃で襲う手筈になっていた。テロ決行予定日は7月中旬だった。
 高木の耳には、岸や海軍少将の石川信吾らが同じ長州の寺内寿一(陸軍大将)内閣樹立を画策しているという情報が入っていた。倒閣という点では同じ方向を向いているらしい。が、岸は予想外の話を切り出した。
「最近は東条の悪い面ばかり表面化している。しかし東條に代わりうる者はC(民間)になく、B(海軍)もできぬ。またA(陸軍)にもない。だとすれば東条に、何とかして国力を結集して戦争をやらせるほかないと思うから、ご助力願えまいか」
 そう岸は述べたうえで①国民の納得する各界の第一人者を東条内閣に集め る②軍需生産はABCを軍需省に一元化する③陸海軍の統帥を一元化する―の3点セットを提案し、高木の意見を求めた。要するに内閣改造による延命策の打診である。
 倒閣にあと一歩までこぎつけていた高木は猛反発した。途中で空襲警報が鳴り、2人とも座布団を頭に乗せての珍妙な会見になったが、高木が〈暴言にちかい返事をしたので〉岸もサジを投げたようだったという。
 高木はその日の日記に〈岸国務相の肚はわからぬ。海軍の偵察なのか、それとも反東條の海軍を取り鎮めたという土産を作って東條の懐に入ろうとするのか〉と記し、こうつづけた。
〈今まで安藤(紀三郎)内相と岸国務相は東条内閣に見切りをつけていると専ら伝えられていたのに、今日のような提案を持ちだすのだか ら、政治屋の言動ほど当てにならぬものはない。岸氏が石川少将等と密かに寺内次期政権を工作してるのは事実のようだから、どちらに転んでも損しないという虫のいい両面作戦なのだろう〉
 岸の真意はともかく、彼の提案は「(東条に)国民の力を結集して戦争をやらせ」ようという継戦論に基づいている。すでにサイパンは事実上陥落しているというのにである。これは戦後の岸の回顧談と矛盾する。
 もしかしたら、岸は意識の表面で敗戦を覚悟しながら、幕末長州の尊攘思想(吉田松陰の尊王攘夷論に始まる)で培われた精神の深奥では本土決戦に突き進んでいたのかもしれない。
 築地会談から10日余り後、岸は辞任を拒み、東条内閣を退陣に追いこむことになる。それから終戦までの約1年 間の生活がGHQ尋問調書(1946年3月7日付)に記されている。
「東条内閣の退陣後、山口に帰り、無為に時をすごした。というのも父がわずかな金を遺していてくれたからだ。田舎での生活費はそれほど高いものではなかった。それに、恩給が生活費の足しになってくれた」
 これは少々事実とちがう。おそらく終戦前の自分の行動をカモフラージュするための供述だろう。実際には、岸は有楽町の毎日新聞社の一室に事務所を設けて政治活動をつづけた。
 翌1945(昭和20)年2月には政界の台風の目となり、衆院書記官長・大木操の日記に「岸一派」(護国同志会)の動きが頻繁に記されるようになる。
〈2月1日(木)曇
…岸一派も妙な存在なり。岸は満業(=満州重工業開発) からの慰労金を資金にして、義政会(鮎川義介の義)を作り、研究とか何とかの名目で人が集まってる。…相当各方面につながりを持ち、(略)岸を総理に担ぐことさえ真面目に考えている〉
 これは日産コンツェルンの総帥で満業の総裁だった鮎川をスポンサーに、岸が政権獲得に動き出したという意味である。
〈2月4日(日)晴れ
…昨夜帝国ホテルに岸が、藤山愛一郎、船田中、渋沢敬三…笹川良一、矢次一夫、浜田尚友、赤城宗徳等を集め、松岡洋右を総裁にして新党を作らんという会合があった…〉
〈3月17日(土)晴 薄曇
 …佐久間氏(=読売新聞記者) 岸に会見してきた、エライ意気込だ。先日石渡(=石渡壮太郎内閣書記官長)に会って護国同志会を結社として認めるのか、弾 圧するのか、何れかと問い詰めた。石渡は新党一つを認める示唆をしたらし。岸は弾圧されても、飽くまでやると云って帰った由〉
 このときの岸を動かしていたのは、自分の手で和平を実現するという希望か、それとも本土決戦への絶望的な情熱だったのだろうか。8月15日の終戦まであと5カ月である。(了)
参考・高木惣吉著『自伝的日本海軍始末記』(光人社刊)『高木惣吉日記』(毎日新聞社刊)、大木操著『大木日記―終戦時の帝国議会―』(朝日新聞社刊)