わき道をゆく第154回 政治と検察(その4)

▼バックナンバー 一覧 2021 年 2 月 2 日 魚住 昭

 今回からは、敗戦後の日本で行われた司法制度改革について語ろうと思います。なぜ、これが重要かと言うと、戦後日本の「政治と検察」の関係はこの司法制度改革によって決定づけられたと言っても過言ではないからです。
 実は、私は1996年に共同通信をやめてフリーになった翌年に『特捜検察』(岩波新書)という本を上梓しました。その本を書く過程で戦後の司法制度改革について取材をしました。改革にかかわった元司法官僚や老弁護士らを訪ね歩いたり、国会図書館で資料を漁ったりしました。
 今から四半世紀も前の話ですから、記憶は曖昧になっているのですが、幸いなことに『特捜検察』には当時、私が知り得た事実を記しています。まずはその要点を紹介しながら、戦後検察の成り立ちをふり返り、そのうえで司法制度改革の内容に踏み込んでいこうと考えています。
 東京・永田町の国立国会図書館の憲政資料室には、敗戦国日本に君臨した連合国軍総司令部GHQの占領記録があります。1952年4月の占領終結後、米軍が本国に持ち帰り、ワシントンの国立公文書館に保管されていたものです。それを国会図書館が十数年がかりのプロジェクトを組んでマイクロフィルムに収めた。全文約3000万ページに及ぶ膨大な資料です。
 私はこの占領記録を読み進むうち、1948年の昭和電工事件をめぐる東京地検とGHQの極秘折衝記録を見つけました。GHQ高官どうしの手紙や、内部報告書を含め英文タイプで数十ページ。初めて日の目を見る戦後史の貴重な資料でした。
 昭和電工事件は特捜部発足のきっかけにもなった戦後最大級の疑獄です。経済安定本部長官の来栖赳夫、前副総理の西尾末広、後の首相で当時大蔵省主計局長の福田赳夫らが逮捕され、芦田均内閣が崩壊し、その後まもなく芦田自身も逮捕されました。片山内閣、芦田内閣とつづいた社会党・民主党・国民協同党の連立政権が幕を閉じ、代わって民主自由党の第二次吉田茂内閣が登場しました。それから1993年に自民党が分裂するまで、保守政権は45年間切れ目なくつづきました。
 実は、昭和電工事件には後の裁判でも解明されなかった大きな謎が残っています。事件の「陰の主役」といわれるGHQ高官の正体です。作家の松本清張は『日本の黒い霧』でこう語っています。
「昭電の裁判記録にはGHQ関係の高官の名前が一つも無い。厖大な捜査調書から、アメリカ人の名前を片端から、抜き取ってしまったからだ。そのヌキ取りの命令者が誰であるかは、知る人ぞ知るである」
 前首相ら政界要人がつぎつぎと逮捕されるなかで、捜査の網をすり抜けたGHQ高官とは果たして誰でしょうか。国会図書館のGHQ占領記録から、その謎を解く重大な場面が浮かび上がってきます。
 昭和電工事件の捜査が進む1948年8月11日、東京・日比谷の米軍東京地区憲兵司令部。司令官のC・S・フェランが東京地検次席検事の馬場義続に語りかけました。
「ミスター馬場。私が関心をもっているのは事件にかかわった占領軍関係者のことだ。問題の所在を確認するため、いくつか確認させてほしい」
 こんな言葉で始まる司令官の問いに、馬場は現在の物価で一億円前後に相当する賄賂を受け取ったGHQ幹部らの名前をつぎつぎに明らかにしていきます。
 しかし、清張が言うように後の裁判記録では、GHQへの巨額の賄賂の痕跡は見事に消し去られました。公判に提出された昭和電工側の調書にはこう書かれています。
「進駐軍関係ノ方ニハ御馳走シタリ物ヲ差上ケタリ致シマシタカ現金ヲ差上ケタ事ハアリマセン」
 いったい誰が、何のために、GHQ中枢の犯罪をもみ消したのでしょうか・・・・。 事件の経過をふりかえってみましょう。警視庁捜査二課が日本有数の化学肥料会社・昭和電工をめぐる巨額の政府融資疑惑の内偵をはじめたのは、敗戦から2年後の1947年暮れでした。翌1948年、衆院の不当財産取引調査特別委員会でも昭和電工疑惑の追及が本格化しました。
 東京地検は1948年5月末、警視庁捜査二課と合同で港区の昭電本社を家宅捜索。押収した社長秘書のメモを手がかりに6月7日、この秘書と商工省の技官を十数万円の贈収賄容疑で逮捕し、さらに6月23日、昭電社長の日野原節三を贈賄容疑で逮捕しました。
 日野原は山梨県出身で東京帝大卒。当時43歳。民主党総裁芦田均のパトロンといわれた鉄道工業会長の菅原通済の妹と結婚し、菅原を後ろ盾に経済界をのしあがってきた男です。毎朝4時半に起きて5キロのジョギング。それから車で取引先や政治家宅を2、3軒回り、午前8時過ぎに出社するエネルギッシュな経営者でした。
 当時、食糧増産に不可欠な化学肥料など重点産業への政府融資は、復興金融公庫(復金)を通じて行われました。復金融資を受けるには大蔵省、商工省などの審査の上にGHQの許可が要りました。日野原は復金有志を引き出すためGHQや政官界相手に派手な接待を繰り広げました。愛人の芸者に買い与えた邸宅を専用会場にしつらえ、そこに客を招いてドンチャン騒ぎ。社員の平均月給が2000円足らずの時代に、接待や贈り物に何十万円もの金が一晩で費やされたといいます。
 この間、復金から昭和電工への融資は1947年9月に5億3500万円、同年12月に12億8400万円と一年で18億円(現在の物価で千数百億円)余りに膨れあがりました。GHQや政官界に大がかりな賄賂工作が行われた疑いは濃厚でした。

 GHQ幹部のなかで最も疑われたのが、民政局(GS)の次長チャールズ・ケーディスでした。ニューヨーク州生まれの法律家で当時42歳。ハーバード大で法律を学び、ルーズベルト政権のニューディール政策にかかわって、米軍の日本上陸直前、マッカーサーの要請で占領行政の要員に加わりました。
 ケーディスは憲法草案作成や農地改革、公職追放、財閥解体など占領初期の民主化政策のほとんどに辣腕をふるい、「日本民主化の旗手」「敗戦国日本に理想の火をともした男」といわれました。元部下のジャスティン・ウィリアムズは自著『マッカーサーの政治改革』でこう語っています。
「ケーディス、愛称チャックは……GHQ内ではおそらく、いちばん頭の回転が速かったのではないか。問題のあらゆる側面を素早くつかむ能力、対処すべき方向を打ち出す能力は、比類のないものだった。……決断力と信念をもって、彼はワシントンの指令を遂行し、西欧デモクラシーを日本に導入しようとした」
 そのケーディスが疑われた理由は、GSと芦田内閣の密接なつながりにありました。ケーディスらGS幹部はタカ派の吉田茂を嫌い、芦田連立内閣を強力にバックアップしました。その芦田が1948年3月の首班指名選挙で使った工作資金の一部は昭和電工から流れていました。GSー芦田内閣ー昭和電工の関係が注目され、その延長線上にケーディスの疑惑が浮かび上がりました。
 しかし、ケーディスは事件から約20年後、『週刊新潮』編集部のインタビューに疑惑を全面否定しています。
「昭電のときは、私も”三百万円もらった”というウワサを立てられた。私は憲兵司令部へ行き、私を含む民政局の全員を洗ってみてくれ、と要請したほどであった。また、検察庁に”特に黒幕を徹底的に探ってくれ”と要請したことも覚えている。(同じGSの)ハッセーはしきりに、”これは芦田失脚をねらう謀略ではないか”と疑っていた」
 民主化の旗手ケーディスをめぐる収賄疑惑。その真相はGHQ文書を読み進めていくと、しだいに明らかになっていきます。(続)