わき道をゆく第155回 政治と検察(その5)

▼バックナンバー 一覧 2021 年 2 月 11 日 魚住 昭

 前回に触れた昭和電工事件のつづきです。東京地検の捜査で衝撃的な真相が明らかになっていきます。拙著『特捜検察』(1997年刊。岩波新書)の内容とダブりますが、どうかご容赦ください。

 昭和電工本社の家宅捜索が行われたのは1948年5月末でした。それから一週間後の6月2日、GHQ経済科学局(ESS)から民政局(GS)あてに次のような文書が送られています。
「昭和電工から入った連絡によると5月25日ごろ、東京地検の検事が昭和電工本社から相当量の帳簿類を押収していった。伝えられるところでは、この捜索は、衆院不当財産委が昭和電工の企業活動のある種の側面を調査対象として取り上げたことによるものだという。わが部局はそうした調査とは何のかかわりもないが、同社工場の操業には重大な関心をもっている」
 ESSは財閥解体など経済の民主化を積極的に推進したセクションです。大企業の分割、経営者の人選、政府融資の配分などで経済界に絶大な影響力を持っていました。
 一方のGSは政治・行政や法制度の民主化を進めた部局で、検察庁は事実上GSの指揮下に置かれていました。
 GSあて文書のなかでESSは、昭和電工の操業が帳簿類の押収で支障を来していることなどを長々と説明したうえで「帳簿類を昭和電工に返してやってくれ」と、GS経由で東京地検に要求していました。
 これはあからさまな捜査妨害です。もちろん東京地検は拒みました。帳簿なしに大会社の経理の実態を解明できるはずがありません。約一週間後に検察側の返答がGS経由でESSに伝えられました。
「現在、帳簿類の取り調べの真っ最中である。もしここで帳簿類を手放したら捜査は不可能になるので、ESSの要求には応じられない」
 そしてこの返答には、GSの意見としてこう書かれていました。
「帳簿がどうしても必要であれば、東京地検の厳重な監督下で(昭和電工の人間が)見ることができるから、そうしたらどうだろう」
 しかし、ESSはかんたんにはあきらめませんでした。後に述べるように日本政府を動かしてまで帳簿類を返却させようとした形跡があります。ESSがしめす昭和電工の帳簿類への異様な執着。その背後にはどす黒い思惑が潜んでいました。
 
 この年、極度のインフレと食糧不足が庶民の暮らしを圧迫しました。配給制の食糧の欠配が相次ぎ、怒ったデモ隊が、ヤミ取引を取り締まる東京地検にもムシロ旗を掲げて押し寄せました。検事たちの生活も決して楽ではありませんでした。栄養失調や過労で倒れる者が相次ぎました。背広も買えず、復員時の軍服で法廷に立つ検事もいれば、ランニングシャツ一枚で庁内を歩き回る検事もいました。
 後に「不世出の特捜検事」といわれる河井信太郎は当時、東京地検の刑事部のヒラ検事でした。バラック建ての地検の廊下を踏み抜いたといわれる巨体。線のように細い目。白髪混じりの頭。三五歳の若さと思えぬ貫禄でした。河井は退官後に書いた『検察読本』で当時のことを次のようにふり返っています。
「私はその頃他の事件をやっておったが、(昭和電工から押収した)帳簿を見てくれといわれた。私はいやだといった。人のやっている事件をあとから入って、帳簿にこんなことが書いてあって、この調べをすればこの事件は解明できますよなんていえば、先にやっている人は立つ瀬がないからいやだといったが、しまいには(最高検の)次長検事に呼ばれて『君、命令だと思ってやってくれ。検察の信用にかかわる問題だ』といわれて、命令ならやりましょうということで引き受けた」
 6月23日に日野原社長を逮捕して以来、捜査は壁に突き当たっていました。日野原が自供したのは、秘書のノートに書かれていた商工省役人への5万円の贈賄だけ。検察OBの弁護人に「絶対しゃべるな」といわれ、固く口を閉ざしていました。帳簿にも裏金の出入りがわからないよう複雑なカラクリがありました。日野原が使った工作資金もいくらかもわかりませんでした。
 帳簿類は約5㍍四方の警視庁の倉庫にうずたかく積まれていました。暑い盛りで服は汗でびしょ濡れ。河井信太郎は裸になり、帳簿類を縛った荒縄を事務官に一つひとつほどかせ、数字と格闘しました。河井は軍の経理を預かる主計将校でしたから帳簿調べには精通していました。
 解読作業を始めて約一カ月、河井は昭和電工の経理担当重役の鳥巣正之の机の中にあった封筒の束から一枚のメモを発見しました。
「四月十五日 3565万円。本日の支出300万円。本日の残3265万円」
 メモには鳥巣の判が押してありました。河井はこれは機密費を記録したものではないかとピンときました。帳簿に書けば証拠が残る。だが、毎日メモ一枚に金の出し入れを書き、前日のメモを破り捨てれば証拠は残らない。河井は鳥巣を調べました。
「あなたのところでは、機密費の出し入れはメモでやってますね」
 とたんに鳥巣の顔色が変わりました。
「あれ残っていましたか」
「君の引き出しから出てきたんだ」
 鳥巣はもうダメだとあきらめ、社長の日野原に計約1億5000万円(現在の物価で100億円以上に相当する)の工作資金を渡していたことを自供しました。
 河井が事件解明の糸口となるメモを見つけ出したのと同じころ、米軍関係者の犯罪を捜査する憲兵司令部も動き出していました。狙いはもちろんGHQ高官らの「収賄」疑惑の解明です。
 東京・日比谷の交差点に面した帝国生命ビルの米軍東京地区憲兵司令部。司令官(准将)のC・S・フェランは1948年8月11日、東京地検検事正の堀忠嗣と次席検事の馬場義続を呼びつけ、事件の捜査報告を求めました。
「OFFICE OB THE PROVOST MARSHALL TOKYO、JAPAN」(在東京憲兵司令部)という表題の文書に記された双方のやりとりをたどってみましょう。

 ー8月11日午後1時ごろ、東京地検の堀検事正と馬場次席が司令部に来た。彼らは占領軍関係者がかかわった昭和電工事件の捜査状況について、彼らの捜査記録を参照しながら、以下の通り質問に答えた。
 フェラン将軍 「ミスター馬場、君はすでに同じ情報をGSに提供しているはずだ。ホイットニー将軍の部局(GS)が特に関心を持っているのは日本人の事件関係者についてだが、私が関心があるのは主に占領軍関係者のことだ。昨日、君が(憲兵司令部次長の)クロッカー大佐に話した情報はここに書いてあるが、問題の所在を明らかにするために何点か確認させてほしい。名前の挙がった数人の占領軍関係者のうち、まずヘティック氏について教えてくれないか」
 馬場「ヘティック氏は帰国するとき自分の家具を20万円で買ってくれと昭和電工に頼んだんです。昭電は20万円を支払った上に、世話になった謝礼として30万円を渡しています」
 ヘティックはESS化学班のスタッフでした。当時昭和電工は日本の硫安の約六分の一、石灰窒素の半分を生産していました。ヘティックはその化学肥料部門の担当者でした。この年の一月ごろ、GHQ勤務を終えて帰国していました。
 ヘティックに支払われた家具代金二〇万円はともかく、「世話になった謝礼」三〇万円は明らかに賄賂です。しかもいまの物価で二千数百万円に相当する大金です。司令部にはショッキングな事実だったでしょう。
 フェラン将軍「このメモを見るとヘティック氏への支払いのほかに昨年11月か12月、日野原が愛人のミセス小林を通じてニューズウイークのパケナム氏に200万円を渡したということだが?」
 馬場「その通りです」
 コンプトン・パケナムは米国の有名なニューズ・マガジン「ニューズウイーク」の東京支局長でした。日本生まれで日本育ち。日本の政財界に広い人脈をもち、GHQの「行きすぎた民主化政策」を厳しく批判して、米国の対日政策の転換に影響を与えました。
 馬場「われわれの捜査記録によると、そのほか昨年11月か12月、ESS科学班のロバーツ氏に200万円が渡され、同じ課の名前のわからない人物にも50万円が渡っています」
 ロバーツはヘティックとともに日野原のGHQ人脈の取っ掛かりになった人物です。日野原が昭和電工社長に就任する前1946年8月、GHQを訪ねたときに知り合って以来、飲み食いやゴルフをくり返す間柄になっていました。
 次いで馬場の報告は財閥解体を進めるESSの中核、反トラスト・カルテル課にも及びました。無名の日野原が昭和電工社長になれたのも、この課の強力なバックアップがあったからでした。
 馬場「(ロバーツと)同じころ、反トラスト課のウェルシュ課長に100万円が渡され、同課のブッシュ課長補佐にも50万円が渡っています。それから小林宅で氏名不詳の二人が50万円もらってます。以上が米軍関係です」
 E・C・ウェルシュは財閥解体の中心人物として勇名をはせたGHQの大物課長です。オハイオ大学大学院で経済学の博士号を取得。大学講師や臨時全国経済委員会、物価庁勤務を経て1947年、GHQの過度経済力集中排除政策を推進するためGHQ入りしました。
 馬場が明らかにした日野原とESS中枢とのただれた関係。もしこれが表面化すれば、日本でのGHQの権威が失われるだけではありません。総司令官ダグラス・マッカーサーに対する米本国の批判も強まったでしょう。(続)