ホロウェイ論その10:魔法をかけられひっくり返った逆さまの世界

▼バックナンバー 一覧 2010 年 3 月 24 日 四茂野 修

 この社会では、身の回りのあらゆるモノに値段がついており、所有者がいます。誰のものでもないのは空の星や海の水、空気や雲や雨や風、それと野生の動植物くらいのものでしょう。それ以外の、生活の中で日々接するモノにはみな所有者がいて値段がついています。黙って持って行けば窃盗罪でしょっ引かれ、裁かれることになります。
 

◇ 壁の向こうの商品世界

 
 店頭に並ぶ商品を手に入れるには、代金を払わなければなりません。商品と私たちの間には、ショウケースのガラスだけではなく、何か目に見えない壁が立ちはだかっており、私たちはカネを払うという手続きをして、はじめて壁の向こうの商品を手に入れることができるのです。
 
 幼児はそんな仕組みを知りませんから、欲しいものがあれば、すぐ手に取って口にくわえてしまいます。カラスも店先の商品を、平気でさらっていきます。ということは、この壁は自然がつくったものではないということです。この壁を物理的に破ることなら誰にでもできます。ですから石川五右衛門の言うように「浜の真砂は尽きるとも、世に盗人の種は尽きまじ」ということになるのです。
 
 壁を破る者が社会的な制裁を受けるという仕組みに支えられて、この壁は存在を保っています。つまり、これは人間が歴史の中でつくった壁なのです。でも、だからといって、この壁がもろいわけではありません。失業者が、街にあふれる商品に取り巻かれて餓死するほどに堅固です。豊かな国々であきれるような浪費が行われる一方で、世界の人口の三分の一が貧困と飢餓にあえぐほどに堅固なのです。
 
 この壁の向こうにある商品世界を論じた本のなかで、もっともよく知られているのはマルクスの『資本論』でしょう。『資本論』の冒頭には、「資本制生産様式が支配している社会の富は、巨大な商品集成として現われ、個々の商品はその富の原基形態として現われる。われわれの研究は、それゆえ商品の分析から始まる」と書かれています。そして、続く段落には「商品は、さしあたり、われわれの外にある対象である」と、商品世界が壁の向こうにあることが示唆されます。
 
 商品はもとはといえば人間がつくったものです。それが、カネを払わなければ人間のもとに戻ってこないというのは、考えてみればおかしなことです。家で食事をするたびにカネを払うようなことはありません。縄文人たちは、おそらく狩や漁の獲物を皆で直接分かち合っていたでしょう。ホロウェイは、共同体のなかでお互い同士認めあい、協力しながら行われる人々の営みを「行為の社会的流れ」と呼びました。そして、資本主義社会ではこれが壊され、壁の向こうに商品世界がつくられるのだと言っています。
 

<私が椅子を造るとします。行為の社会的流れの観点からすれば、そこには椅子のつかのまの客体化があることになります。このとき、椅子は、使うということを通じて(行為を通じて)、集合的な流れにたちまち統合されるのです。しかし、資本主義のもとでは、客体化はつかのまのものではなく持続的なものです。そこでは、私が造った椅子は、いまや私の雇い主の所有物としてあることになります。販売することができる商品なのです。>(『権力を取らずに世界を変える』125頁)

 
 マルクスは、商品世界が人間に敵対する不条理なものであることに気付き、その謎を解き明かそうと生涯を通じて悪戦苦闘しました。マルクスは『資本論』を書くより20年以上も昔にも、次のように書いています。
 

〈労働者が彼の生産物のなかで外化するということは、ただたんに彼の労働が一つの対象に、ある外的な現実的存在になるという意味ばかりでなく、また彼の労働が彼の外に、彼から独立して疎遠に現存し、しかも彼に相対する一つの自立的な力になるという意味を、そして彼が対象に付与した生命が、彼にたいして敵対的にそして疎遠に対立するという意味をもっているのである。〉(城塚・田中訳『経済学哲学草稿』岩波文庫88頁)

 

◇ 「物神崇拝」という比喩

 
 人間がつくり出したモノが自立した力を持って人間に敵対する事態を、マルクスは『資本論』で「物神崇拝」と呼びました。
 

〈これと類似のものを見いだすためには……われわれは宗教的世界の薄もやのかかった領域に頼らなければならない。その世界では、人間の頭脳の産物が、独自の生命を与えられて、おたがいの間に、また人間との間に関係を取り結ぶ自立したものとして見えてくるのである。商品世界では、人間の手の産物がそうである。これを私は、労働生産物が商品として生産されるや否やそれにまといつくところの、したがってまた商品生産と不可分であるところの、物神崇拝と名付ける。〉(『資本論』第1章第4節)

 
 マルクスは「物神崇拝」という言葉を、比喩として使っています。マルクスは比喩の力を借りて商品世界の異常さを描き出しているのです。
 
 日本では昔から、森の中の岩や巨木に霊が宿ると考えられてきました。人はそこにしめ縄を張り社をつくって供えものをし、霊を慰めました。さまよい出た霊が、ときには人を助け、またときには人に危害を加えると考えたからです。ちなみに私は、このような自然信仰を迷信として切り捨ててはならないと思います。そのような場所に立って厳かな気持になるのは、人智を超えた自然の営みに対して謙虚であれという先祖のメッセージがそこに遺されていると思うからです。
 
 そのことはさておき、この原始の森の出来事が、きらびやかな現代文明にあふれた大都会でも起きているとマルクスは言います。まるで霊が宿っているように、商品が生命を得て自ら動き回るのです。この商品に宿る「霊」をマルクスは価値と名付けました。商品は様々な有用物の姿で現れますが、価値という悪霊に取り付かれているのです。この悪霊は無限に自己を増殖させようとします。
 
 資本主義の下で行われる生産は、価値を増殖するために行われます。企業活動は利益を目的とし、経済政策は経済の成長を目的とします。企業が投下した価値以上の価値を生み出して利益をあげることが生産の目的になります。もちろん商品は人間のなんらかの欲望を満たすものでなければ売れませんが、この商品の有用性は利益追求の手段にされてしまいます。企業は、巧みな宣伝を用いて欲望をつくりだし、利益に結び付けるのです。
 
 生産の目的は、社会的な必要を満たすことから次第に逸れていきます。企業利益が、経済成長が、価値増殖が目的になります。そうなると、無駄なものでも、さらには有害なものでさえ、利益のために生産されるようになります。日々繰り返される宣伝によって人はそれが不可欠のものだと思い込みます。その一方で、労働はミヒャエル・エンデの『モモ』に描かれたフージー氏の場合のように、ますます味気ないものになっていきます。こうして自己増殖する価値、すなわち資本がこの社会の主人公になり、人々はその召使になるのです。
 

◇ 共同体の解体と近代的個人の誕生

 
 商品世界では、いかなる商品にも所有者がいます。所有者たちは、相互に他者として向かい合う関係におかれ、ばらばらな個人に分解されます。このことを『資本論』は次のように述べています。
 

〈物は、絶対的に人間にとって外的なものであり、したがってまた譲渡されるものである。この譲渡が相互的であるためには、人々はただ、黙って、かの譲渡されうる物の私的所有者として、また、まさにそれゆえに相互に独立する人格として、対応しあいさえすればよい。しかし、こうした相互に他者である関係は、自然発生的共同体の成員にとっては……実存しない。商品交換は、共同体の終わるところで、共同体がほかの共同体と、またはほかの成員と、接触する点ではじまる。〉(『資本論』第2章)

 
 資本主義の下で、人間は孤独な商品所有者として互いに向かい合います。ほかに売る物がなければ労働力を販売する労働者になり、彼の「する」力は商品として取引されることになります。人と人との関係は、契約にもとづいて商品を交換する関係になります。市場で結ばれる関係が人と人との関係全体に拡張されるのです。
 
 これが近代以降掲げられた自由・平等という理念の現実的な基盤です。人は自由な意志を持つ独立した存在として、平等な立場で向かい合い、合意にもとづいて取引を行います。一つ100円のパンは、誰が買おうと100円であり、人種や身分や性別によって差別されることはありません。また、誰も何を買うかを強制されることはありません。自由で平等な契約主体――これが近代的個人に与えられた唯一の規定であり、それ以外の要素は偶然的なものとして、あまり重要でない二次的なものとされます。
 
 このような個人が集まり、契約にもとづいて社会を構成したという社会契約の考えは、学校でも教えられる社会の公式的な見方です。しかし、自由な個人がある日、契約にもとづいて社会をつくったというのは神話にすぎません。資本主義の拡大により共同体が解体されていく歴史過程が生んだ資本主義の創世神話なのです。
 
 しかし、この神話は現実の力を持ちます。失業問題、貧困問題が深刻化するなかで「失業したり、ホームレスになるのは、その人が怠けていたからだ」という自己責任論をよく耳にします。労働契約を守らなかったから解雇した(された)のであって、非は失業者にあるというこの理屈は、ある商品が売れないのはその商品の質が悪いせいだという市場の論理の延長にあります。人間はただ労働力商品の販売者として扱われ、市場で結ばれた神聖な契約を破った者は万死に値すると宣告されるのです。
 

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 ホロウェイは、物神崇拝論を「マルクスの権力論の核になっていたもので、世界変革に関する議論の中心にあるもの」(95頁)と述べています。商品世界を支配する異常な論理が今日の社会や人間の思考に与えている影響について、次回もホロウェイの議論を追いながら検討を続けようと思います。