月刊日本保守論壇は、何故、かくも幼稚になったのか?(2)

▼バックナンバー 一覧 2009 年 6 月 3 日 山崎 行太郎

保守論壇の「沖縄集団自決裁判」騒動に異議あり!!!
……保守論壇は、何故、かくも幼稚になったのか?   
山崎行太郎

■『ある神話の背景』は歴史的実証性批判に耐えられるか?

さて、渡部昇一の文章には、実はもう一つの問題点がある。それは、

 ≪そして曽野綾子さんが足を使って綿密な取材をした結果、ついに赤松大尉が集団自決」命令をしたという事実はどこからも出てこなかったのです。≫

と書いている部分で、渡部昇一は、曽野綾子の『ある神話の背景』の登場で「沖縄集団自決」に関するすべての問題が一挙に解決したかのように錯覚し確信しているようだが、むろん錯覚である。後述するように『ある神話の背景』はなかなか面白い本だが、歴史的実証性という点では問題だらけの本である。
 『ある神話の背景』を熟読して行くと、曽野綾子が自慢する沖縄渡嘉敷島の現地取材による情報はあまり多くなく、ほとんどの重要な情報や資料や文献が、生き残った赤松隊長や赤松部隊関係者からの聞き取り情報や、赤松隊作成の『陣中日誌』であることがわかる。たとえば、曽野綾子は、沖縄の取材先の現地の旅館で、「手榴弾配布」を最初に証言した当時の兵事主任・富山真順という人物から取材していることが明らかになっているが、富山真順の名前は『ある神話の背景』には一回も登場せず、しかも後に、家永教科書裁判の法廷では、「そういう人物は知らない」と嘘の証言までして、富山真順との接触を否定しているが、その理由は、富山真順が、曽野綾子の取材に対して、「軍命令はあった……」に近い証言、つまり自決用の「手榴弾が配られた……」という証言を行ったからだと思われる。富山真順は、証言者としてはかなり問題のある人物らしいが、少なくとも法廷でこう証言しているのは事実だろう。

≪玉砕場のことは何度も話してきた。曽野綾子氏が渡嘉敷島の取材にきた1969年にも、島で唯一の旅館であった『なぎさ旅館』で、数時間も取材に応じ事実を証言した。あの玉砕が、軍の命令でも強制でもなかったなどと、今になって言われるとは夢にも思わなかった。事実がゆがめられていることに驚いている。法廷のみなさんに真実を訴えるためにも、わたしの証言を再確認する次第である。≫

 曽野綾子が「会ったこともない」「知らない」と言う人物の証言である。それにしても、曽野綾子は、何故、富山真順との接触さえ否定するのだろうか。むろん私がここで確認したいのは、富山真順が嘘を言っているか曽野綾子が嘘を言っているかというようなことではなく、二人が取材を通じて接触したという事実である。いずれにしろ、当然のことだが、曽野綾子が、自分に都合のいい資料やデータだけを収集し、富山真順証言のような都合の悪い情報は排斥した上で、沖縄戦の歴史を記述しようとしていることは明らかだろう。逆に、曽野綾子が決定的な資料として頻繁に引用し、議論の根拠として活用しているのが赤松隊員の一人(谷本小次郎)が、戦後になって書き上げた『陣中日誌』という資料であることも、『ある神話の背景』を熟読するまでもなく明らかであろう。しかし、この『陣中日誌』は、赤松隊が「沖縄集団自決」の当事者としてマスコミに大きく取り上げられ、世間の批判や非難の目が、赤松隊長や赤松隊隊員に向けられていた頃に書き上げられ、昭和45年に、赤松隊員や曽野綾子等に配布されている。むろん、執筆者は赤松隊員であり、戦闘の現場にいた当事者なのだから、『陣中日誌』の内容がまったくのフィクションということではないだろうが、そうだからと言って、曽野綾子のように、これこそ決定的な歴史資料の出現であると即断するもの問題だろう。この『陣中日誌』とは、いわば、赤松隊長や赤松隊員の「名誉回復」という目的をもってまとめられた、一種の政治的な意図をもった「謀略文書」の一つなのであって、純粋な意味での『陣中日誌』ではない。しかるに曽野綾子は、沖縄タイムスの『鉄の暴風』などに関しては、かなり辛辣な「資料批判」を展開し、「伝聞情報」を元にしているが故に資料的価値はないと断罪しているわけだが、この『陣中日誌』に対しては、そもそも資料的価値があるのかないのか、というような物書きとしての初歩的な疑いすら持たず、これぞ最後の決定的な資料と確信(錯覚)し、全面的に信頼し依存した上で、沖縄側の資料やデータ、証言を批判、罵倒する論拠として活用しているが、しかし実は、この『陣中日誌』には明らかな加筆修正があることがわかっている。曽野綾子の『ある神話の背景』の中で、赤松嘉次自身が加筆の事実を告白しているのだ。沖縄現地の少年をスパイ疑惑で処刑した話の部分である。

≪「実を申しますと、陣中日誌にを主に書きました谷本(候補生)も、私も、そのことについては、まったく、この前沖縄へ慰霊祭に行くまでは知らなかったんです。(中略)ちょうど陣中日誌の印刷準備にかかっていた時でした。その事実がわかった以上、いくらこちらの記憶にないことでもいれねばいかん、ということで、谷本が後から付け加えたのですが、……」≫(『ある神話の背景』)

 この赤松発言は重大である。というのは、この赤松発言によって、一切の加筆も削除もないという『陣中日誌』の歴史的実証性に疑問が出てくるからだ。ちなみに、『陣中日誌』の執筆者(谷本小次郎)は、次のように、『陣中日誌』の中に書いているのだ。

≪(前略)私、本部付として、戦闘詳報、命令会報を記録し、甚だもつて僅かの戦闘のみしか参加せず、誠に汗顔の至りでございますが幸いに、基地勤務隊辻正弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三陣中日誌(中隊指揮班記録による四月十五日より七月二十四日迄の記録、第三中隊長所有)を資に取りまとめ、聊かの追加誇張、削除をも行わず、正確な史実を世代に残し、歴史は再び巡りて精強第三戦隊たりと誇れることを念願します。(中略)戦死の概況は記述調査官により、復員時援護局へ提出済のものであります。以上の如く沖縄現地に在る渡嘉敷戦闘概要は、全く史実に反し記述しあることを、現地の村民の方々からも聞き及んでおります。 昭和四十五年八月十五日 元海上挺進第三戦隊本部付谷本小次郎≫

 そもそも、「聊かの追加誇張、削除をも行わず……」とわざわざ書き加えて弁解しなければならないというところに問題がある。つまりこれは、明らかに自作自演の戦後版『新訳・陣中日誌』なのである。僕は、この『陣中日誌』の中身や、谷本小次郎の「断り書き」が「嘘」で「虚偽」だと言うつもりはないが、逆にここに、「嘘」や「虚偽」、あるいは「書き換え」や「書き加え」「削除」はいっさいないと言いきることもできないだろうと思う。谷本が、「基地勤務隊辻正弘中尉殿が克明に書き綴られた本部陣中日誌と第三陣中日誌……」「を資に取りまとめ……」と書いていることからも明らかなように、谷本執筆の『陣中日誌』は第一次資料ではなく、「昭和四十五年」の時点で、第一次資料から引用・編集・再構成して出来上がった第二次資料であることがわかるだけでなく、さらに「以上の如く沖縄現地に在る渡嘉敷戦闘概要は、全く史実に反し記述しあることを、現地の村民の方々からも聞き及んでおります。」とあることからも分かるように、この『陣中日誌』の執筆意図が、赤松隊の「戦争犯罪」の自己弁護、自己正当化にあることは明らかであろう。ところが、この『陣中日誌』を手にした曽野綾子は、それを疑った気配はまつたくなく、逆に、執筆者である谷本小次郎の「但し書き(まえがき?)」を読んだ感想として、

 ≪これは唯一の、「手袋は投げられた」という感じの文章ではないだろうか。≫

と書いている。「手袋は投げられた」とは、決定的な資料が出たという意味だろうか。曽野綾子が、いかにこの『陣中日誌』という資料を全面的に信用し、そして依存している
かが解るだろう。いずれにしろ、この『陣中日誌』が、加筆修正の疑いから、客観的な歴史資料としてはあまり信用できないとすれば、この『陣中日誌』に全面的に依存している『ある神話の背景』も、そして「曽野綾子発言はすべて正しい」とする「曽野綾子神話」も、あまり信用できないということになるわけだが、むろん、保守論壇の面々で、こういうテキスト・クリティークに基づく問題提起をしたものは皆無である。

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