キリスト教神学中級講座 「フリッチェとの対話」第8回 神学総論8 演繹法の限界

▼バックナンバー 一覧 2020 年 9 月 3 日 佐藤 優

 演繹的方法を神学に適用することで、中世カトリック神学は体系化に成功した。しかし、人間の救済に向けた聖書の使信が、そこでは正しく伝わらなくなった。演繹的なカトリック神学の問題点を3点指摘する。

 第1点は、聖書のテキストを演繹法にとって矛盾なく解釈することが不可能であるという事実で、第2は、神と人間の質的差異である。この2点についてフリッチェは以下のように説明する。

<この首尾一貫した演繹の学術的理想 ―― そして教会教導職によるその調整 ―― に対しては以下の三つの根拠が主張されることになる。《第一》には、聖書の文言と神学の基本的記述がその連関と趨勢とは不分離であり、したがってそれから一切がそれ自体で論理的に可能であり、神学的にも拘束力のあるような原理原則へと絶対化されてはならないと再度指摘される必要がある。この解釈学的異論には《第二》に神と人間の距離が決定的なものであるので、聖書の中で明らかにされた真理を三角法の課題のデータのように、もしくは全体連関が再構築される必要のある解決すべき事件の状況証拠のように理解するのは不可能であるという原則的神学的反論が対置する(《これ》は、いずれにせよ国家管理以前のアリストテレス後のカトリックの学術理想である)。これは人間界と神々の世界との間の原理原則的な類似を意味するであろう、ちょうど実際に存在の類比に関する理論、先述した学術的理想のための神学的基礎を意味するように。プロテスタント神学は、―― 〈所与の事実〉から、もしくは〈周知〉の連関から例えば贖宥論(*1)とか聖母マリア論(*2)の体系のように推論すると ―― 神学的研究課題のこうした理解を拒否している。しかも事実に即さない自然科学の学術概念による過度の影響、ならびに神の超越性の誤解とそこから人間による原理的認識可能性が結果として出てくるに違いないであろうところの内在する完結性とコスモスの統一に関する〈異教徒の〉世界像の影響としての理解も拒否する。プロテスタント神学は人間の場合においての方法で神がどのように振る舞い得るのか、またはしなければならないのかを(最初はカンタベリーのアンセルムスのクール・デウス・ホモ「なぜ神は人間になったか」で大掛かりに)推論する〈自然な神の認識〉が演繹される人間界と神の世界との《原則的》類似性を知らない。人間の言葉と神の現実性との《その時々》の類似が、―― 啓示の言葉に限定して ―― 主張され(る必要があり)得る>(Hans-Georg Fritzsche, Lehrbuch der Dogmatik: Teil1: Prinzipienlehre Grundlagen und Wesen des christlichen Glaubens, Evangelische Verlagsanstalt Berlin. Ost-Berlin, 1982, S.30~31)

 第3は、演繹法を基準とする神学が、牧会(*3)の現場において役立たないという現実だ。神学的にはスコラ学的な演繹法に基づく神学で思考しても、牧会の現場においては、それと無関係な経験が優先するというのがカトリック教職者の実態だ。この点について、フリッチェはルターのカトリック神学批判を紹介する形でこう述べる。

<《第三》に神学論の他に教会の(教職の)実践に注視する場合には、トマス的カトリック論理主義の拒否が想起される。連関の捏造が真理熱愛者、もしくは思弁的衝動によってだけではなく、同時に一切の可能な教育的心理学的、もちろん教会政治の〈業務〉(詳細は拙著『神学の構造タイプ』§8)によっても囃し立てられているという印象を受ける。教導職は連関の解明を調整する。異なったあり得る推定連関(理論)によって実際に最も重宝なものが選び出されるということである。この点において神学が不信心になろうとしない場合には、神学が教会的にあまりに有用過ぎてはならないという問題が本来の立ち位置を持つ。ルターがアリストテレスを「馬鹿アリストテレス」と呼び、理性が売春婦にショールを巻く理由を理解しようとするのならば、念頭に置く必要のある(今日ではマリア神学の形で、一六世紀には秘跡制度で、ルターの『教会のバビロン捕因について(*4) De captivitate babylonica ecclesiae 』を参照)〈教義政策〉のようなものが存在する。これは信仰と知識の対立よりも、理性が必要とするもののために理論を、論理的可能性を準備することとの関係の方が深い。教義史と神学史由来の理論が存在するのであれば、まずは論理的結論の学術的理念はキリスト教信仰告白に与えられ得る危険極まりない過度な影響の一つであるとする理論である>

 学術的に精緻な神学よりも、人間の救済に直接つながる信仰告白の方がはるかに重要とルターは考えた。

脚注)

*1【贖宥論】

贖罪論とも。時代や教派によって解釈が異なる。

最初期のキリスト教会では、パウロの見解を受け継ぐ場合が多かった。パウロの見解はおよそ以下のようになる。人間は皆、罪を犯して神の栄光を受けられない。イエスは神の義の確立のために「その血によって信じる者のために罪を償う供え物」(ロマ3:25)となった。その結果「万物をただ御子によって、御自分と和解させられました」(コロ1:20)。つまり、神と人間との(壊れていた)根源的関係が回復されたとする。

ローマ教会の贖罪論になったのが、トマス・アクィナスの説。キリストの贖罪は神の意志によるもの。人間は本来滅ぶべき存在であり、神はキリストの受難がなくても人間を救うことができたが、受難は人間の救済のために最も適当な方法であった。キリストの受難における功績と満足と犠牲と贖いによって、人間は救われたと主張した。

宗教改革者のルター、カルヴァンはともに刑罰(代償)説をとる。ルターは、人間が本来罪と悪魔の虜になっていて神の怒りの刑罰を受けるべきものだが、キリストは人間に代わり、自らの死をもってその刑罰を受けた。しかし、キリストは復活することによってそれらに打ち勝ち、人間の贖いと新生が完成されたと唱えた。

カルヴァンは、キリストの死は父なる神の宥めの供物として捧げられたとし、この犠牲によって償いがなされたと主張した。

*2【聖母マリア論】

カトリック教義学各論の一部門。聖母マリア論では主に、以下のことを扱う。マリアが神の母であることが、マリアのすべての卓越の原理・源泉である。マリアの特権として、無原罪懐胎、無罪、永遠の処女性、被昇天(マリアは、生涯の終わりに肉体と霊魂を伴って天国に上げられた)。マリアによる神へのとりなし、代願者(二次的仲保者)としての存在。マリア崇敬。

*3【牧会】(ぼっかい)

牧会には大きく2つの用法がある。①牧師が自分の仕える教会のためにする働き。説教や典礼行為を含む場合もある。②魂への配慮。個人の魂の問題を主に対話を通して、福音の力によって解決しようとする努力。牧師だけが行うのではなく、万人祭司の考えに基づき、教会員すべての任務だともされている。

*4【教会のバビロン捕囚について】

1520年に著されたルターによる宗教改革の3大文書のひとつ。この文書でルターは、ローマ教会の7つの秘跡(洗礼・堅信・ゆるし・聖餐・叙階・婚姻・癒し)について論じ、これらの秘跡が教皇庁によって哀れむべき捕囚の状態にあると非難した。

因みに、3大文書の残り2つは『ドイツ国民キリスト者貴族に与える書』『キリスト者の自由』。