キリスト教神学中級講座 「フリッチェとの対話」第9回 神学総論9 帰納法と理神論
フリッチェは、神学における帰納法の起源についてこう説明する。
<2.この学術的理想とは反対に、およそフランシス・ベーコン、ならびにデカルトからカントまでの近世では、まったく別個の学術的理想が作り出されていた。まずは初めに設定するのではなくてコントロールする、演繹するのではなくて帰納しようとし、しかも〈現実的に真であるもの〉であり、単なる首尾一貫したものではないものに演繹しようとする批判的な理想である。帰結に対する真理、単なる形式的な正当性に対する物質的な真理といった図式では近世の学術はスコラ学と対立している。この理想が神学に押し入る(中世後期の唯名論において宗教改革を伴って、イギリスの理神論では最もラジカルに、そしてブルトマン学派(*1)においても同様に自由主義、新自由主義神学において)場合では、学術研究の目的がもはや、いわゆる神学的結論における教義学的洞察を《増やす》ことではなく、表面から核心へ、もしくは歴史的偶然から理念へ、外面的〈乗り物〉から内面的本質的なもの、または神話からケリュグマ(*2)、体系から実存的慰めと主張へ批判的に戻ることである。体系を拡充する代わりに、体系は批判的な真理質疑に耐える本質的なものへと収縮される。>(Hans-Georg Fritzsche, Lehrbuch der Dogmatik: Teil1: Prinzipienlehre Grundlagen und Wesen des christlichen Glaubens, Evangelische Verlagsanstalt Berlin. Ost-Berlin, 1982, S.32)
帰納法は近代的な思考だ。しかし、帰納法だけでは、神の存在が確実であるとは言えない。そこで、演繹法との妥協が必要となる。このようにして生まれたのが理神論だ。すなわち、世界を創造する「最初の第一撃」だけを神の働きとする。そして、この世界に起きるすべての出来事は帰納法によって証明できると考えるのだ。
理神論が想定する神は、作業仮説に過ぎず、人間を支配する生きた神ではない。この点についてフリッチェはこう指摘する。
<この学術理想にとって〈本当の真理〉への問い、単純な意味での真理への問いほど重大で重要なものはない。人は受け継がれたテキスト、聖書のテキストを〈正当に評価〉しようとするのではなく、テキストに掲載されたものが真理であるか否かを知ろうとする。
この学術性のイメージが、プロテスタント神学から二度と追い払われてはいけないということが否定されるべきではない。《知識》の明言として本当ではない明言が、《信仰》の明言としてはいまだ本当であり得ると思い込むまで長きにわたって真理概念をこじ付け解釈することによって、真理への批判的な問いかけを弱めることがあってはならない。二重の真理など存在せず、〈何が真理なのか〉、換言すれば〈学者でなく「州管理者や教区委員」であるのなら、真理とは何なのか〉といった冷徹な官僚主義のプラグマティズムほど嫌なものはない。(ハルナックの引用、七六頁を参照)。他方、批判的真理質疑が極めて大切なものでも、神学における学術研究の《理想》にもなってはならない。そうなると神学研究が破壊的になり、何でもかんでも文句と粗探しに陥ってしまう。そしてシステムの削減に関しては、これは体系の構築とまったく同様に任意に、そして関心事に規定されて ―― 聖書の意図から逸れて ―― 起こり得る。これを示しているのはハルナックの『キリスト教の本質』(本書、一九五頁参照)だけではなく、ストア哲学(*3)と実存主義の間で若干奇妙に動く ―― プロテスタント的なものが欠けているような ―― 数人の脱神話的、神学的実存主義者の〈決断〉の宗教性でもある>
理神論で考える神は、人間の理念型になる。それは人間の願望が投影された疎外された神だ。ここでキリスト教信仰は実存主義的な決断に還元される危険がある。フリッチェは、カール・バルトの影響を受けているので、信仰を決断ととらえるアプローチに批判的なのである。
<何が核心と表層であり、何がケリュグマと神話であるかを実際に知るために、伝統的な善において常に問題を一掃するプログラムをどれだけ肯定したところで、真理熱愛者と批判的取捨それ自体よりも、まずはそれによって詳しい学術理念のための決め言葉が与えられるところの〈理解〉が必要である。しかしこれに対しては後述する(第四番以下)。批判的学術理想には現時点では以下のことがまだ論評される必要がある。
批判的学術性の変化した進行方向とは、神学の全論題範囲の変位、すなわち教義学と形而上学から歴史と聖書解釈への変位が一致する。そしてこの論題変位は、このような意味での批判的真理問題よりも遥かに強く遂行されているものである。その変位をカント的な意味で批判的に呼ぶことはできる。なぜならそれは我々の視点をカントがこのような意味での形而上の問題から主観、道具、認識の根源へと逸らすことと一致しているからである。カント以来、哲学においては形而上学から認識論と哲学〈史〉が生まれたように、神学は神と〈神事〉に関する〈学術〉から宗教的人間、歴史的キリスト教、もしくは神について何かを知ろうとするテキストと文献の学問へと変容している。批判的学術理想 ―― 本来の認識の客観から広い意味での主観と根源に論点を投影すること ―― の外見上の兆候では神学に無理強いされた進行方向の限界と弱点が示されている。それは、自分自身と取り組み、歴史知識と一体化し、そして際限のない方法論と原則論の討論で消耗してしまう危険にある。それによって余りにも大胆な脱神話化する火急の危機が言わば内包されてはいるが、火急の危機の代わりに〈基礎問題〉の無数の前哨戦と際限のない討論において膨れ上がる慢性的な危険が現れる>
コペルニクス革命(*4)以降、アリストテレス哲学の形而上学を神学が維持することは不可能になった。神学から形而上学を排除し、合理的に教義学を再構成しようとすると、それは聖書の解釈学になってしまう。しかし、解釈は解釈者の立場性から離れることはできない。理性の立場からすべての人を納得させることができる聖書解釈は不可能だ。その結果、複数の聖書解釈が存することになる。その結果、教義学も価値相対主義から逃れられなくなる。
脚注)
*1【ブルトマン学派】
ドイツの新約学者ルドルフ・カール・ブルトマン(1884-1976)に学び、その神学的主張を継承し修正・発展を目指す現代神学者の一群を指す。
ブルトマンは、共観福音書が成立する以前のさまざまな伝承を研究した。これらの伝承が、最初期のキリスト教団によって、どのように結び付けられ、あるいは変化したのかなどを、伝承の内容、性質によって分類し、各福音書の成立へと至ったのかを示した。こうした研究を背景に、新約聖書的宣教の「非神話化」を提唱した。
非神話化とは、聖書理解の方法のひとつ。新約聖書は成立当時の神話的表象の形式によって書かれているので、現代人の理解になじまない。新約聖書の文章を神話的表象から解放し、その背後にある聖書の使信の本質的な意図を抽出して解釈しようとする試み。
*2【ケリュグマ】
原始キリスト教会の宣教者(kēryx)が宣教する(kēryssō)福音の内容を意味する。また、宣教・説教の行為そのものも指す。現代の歴史的・批判的聖書研究において用いられる学術語。
フリッチェが「神話からケリュグマ」と書いているのは、たとえばブルトマンがイエスに関する歴史的研究の限界点を、ナザレのイエスの活動・死・復活について語る原始キリスト教の宣教者による宣教、つまりケリュグマだとし、それ以上は遡れない(それ以上遡ろうとすれば神話になる)。このような言説を踏まえていると考えられる。
*3【ストア哲学】
紀元前4世紀頃、キプロスのゼノンが創始したギリシャ哲学の一派。論理学・自然学・倫理学による哲学を体系化。ローマ時代になってキリスト教との交渉が起き、影響を与え合う部分があった。ストア哲学の「運命」の思想はキリスト教の摂理の信仰に近く、また、万民平等の学説は、キリスト教の万民同胞の教えと近接するようになった。新約聖書で哲学、哲学者といわれているのはストア派を指している。
*4【コペルニクス革命】
ポーランド出身の天文学者ニコラウス・コペルニクス(1473-1543)は、地球その他の惑星が太陽の周囲を巡っているという地動説を唱えた。当時常識であった地球を中心に天が回っているという天動説を覆し、次代の科学革命の嚆矢となった。
18世紀の哲学者カントは『純粋理性批判』において、主観が客観に従うのではなく、客観が主観に従い、客観を構成するのは主観であると考えたことを「コペルニクス的転回」と称した。