60年代を考える〜私の情念のその後ノート第一回
<私は何故今’60年代論を書くのか>
今まで私は、’60年代論よりも’40年代論のほうに興味があった。それは、この国の官、政、財と国民の関係の基本形が’40年代に完成し、それが45年の敗戦によっても壊されることもなく現代まで生き続けていること。
そして、この基本型が「純化」し現代社会の閉塞状況=砂漠化をもたらしている根源ではないかということ。
この二つの問題意識から’40年代論への深い関心を持っていた。
ところが、ある個人的な事情から、(それは、後述する「久しぶりの早稲田」という小文の中で明らかにしてある)’60年代論をまず考えようと思うにいたった。
しかしいざ’60年代論に取り組んでみると私自身がこの時代に直接かかわっていたため、感情が入り乱れ実にやっかいなものとなった。そのため、作業が遅々として進まなかった。
それでも、ちょっとした機会に’60年代について書いた小文はある。
この「魚の目」ではまずその小文を示し、何故私が今’60年代論を書くのかを明らかにし、私の’60年代のいいかげんきわまりない足跡を再検証するために作っていた「ノート」を公開することとした。このノートの読み方は、資料に即して、次回から解説する予定である。