戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第一回:水村美苗と「本格小説」
そうして、半年くらいたった、冬の寒さの厳しい、ある日だった。
本棚と長いすと勉強机がちょっと雑然と置かれた大矢先生の居間にお邪魔して、お手製のコーヒーを飲みながら、話をしている時だった。
先生は、最近の日本の文壇で話題になっている話をいくつか話してくれた。その中で、水村美苗というここ数年注目されてきた作家が、「本格小説」という題名の小説を最近出版し、これが、論壇の話題になり、日本の近代文学の中で、小説とは何かという根本問題について大きな問題提起をしているという話をしてくださった。しかも、水村氏の最初の小説は、「続・明暗」といって、あの夏目漱石の「明暗」のその後の発展を描いたもので、「本格小説」の前に書いた小説は、「私小説」というそうであった。
なんだか、難しそうだった。
文学も、漱石も、近代文学における「私小説」の位置づけも、決して興味の無いテーマではなかった。しかし、ようやくライデンでの生活が落ち着いてきて、当面は、戦後の日本外交史について、英語で本を書くことに没頭していた私にとって、ちょっと遠い話題ではあった。
だが、その次に、大矢先生が言った言葉は、私の注意をひいた。
「水村美苗さんの、「本格小説」のプロットは、エミリー・ブロンテの「嵐が丘」なんです」
「嵐が丘」は、私の中で、忘れていた記憶のオルゴールを、奏で始めていた。
「はあ〜。だから、「本格小説」っていう標題になったのですか?」
なにか、わけのわからないことを、その時、私は言ったように思う。
それは、1955年から56年、私が、外交官をしていた両親につれられて、初めて生活を送ったオランダでのことだった。
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父東郷文彦は、外務省では、アメリカ畑の仕事を中心にしてきたが、1950年台の前半は、戦後日本が国際経済社会に復帰するための交渉を担当し、1954年、初めての在外勤務として、オランダはヘーグの大使館に赴任した。
当時、小学校四年生だった私と、私の双子の兄の茂彦は、母いせとともに初めての外国生活をすることになった。
まだ敗戦の国土の荒廃が、あちこちに残っていた時代のことである。石と、レンガと、街路樹と、遠い空とによってつくられ、何世紀も前から変わらぬ姿を残しているヨーロッパの風景は、子供心にも、強烈な印象を与えた。
言葉のほうは、まずは、さっぱりであった。
日本人学校など、どこにも、存在しない時代のことである。
オランダ語を勉強しても将来どうなるかと考えた母は、フランス語を教えるインターナショナルな小学校に私と兄とを入れ、1954年の秋から、私たちは、そこに、通い始めた。
もちろん、最初は、まったくのちんぷんかんぷんだった。
それでも、友達は、徐々にでき、楽しい小学生生活が始まった。
しかし、読む本の関心は、圧倒的に、日本語の本になっていたのである。
在外への赴任が近いことを考えた母が、小学校の前半、国語の家庭教師の先生をつけてくれ、国語だけは、一年ほど先の勉強をしていたことが、見事に決まったのだと思う。とにかく、オランダで生活を始めたころは、日本語の本を読みたくてたまらない状況になっていた。
一番の愛読書は、講談社の、「(少年・少女用の)世界名作全集」だった。日本から、お気に入りで持ってきたのが、「ロビンフッド物語」「三銃士」「岩窟王」「アーサー王物語」「二都物語」などなど、その中の一冊が「嵐が丘」だった。
「もう、早く寝なさい」としかりつける母の声の下で、ふとんの中に本を持ちこみ、ベッドサイドのランプをふとんの中に入れて読みふけったのが、オランダはヘーグの家であり、そのうちの一冊が、「嵐が丘」だったのである。
詳しいプロットは、覚えていなかった。しかし、イギリスの田園の荒涼とした風景と、そのヒースの荒野で、キャサリンとヒースクリフが育んだ熱狂的な愛と、その恐ろしい結末は、子供心に、消し去ることのできない印象を残していた。
「そうですか〜」
私は、大矢先生に述べた。
「今度、日本から取り寄せて、読んでみます」
このころには、私も、アマゾン・ドット・コムというシステムが、世界中に根をはって、読みたい本を、あっという間に読めるようになっていることを知り、覚束ない手で、PCから本の発注をするようになっていた。
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正確に、いつ「本格小説」を読んだのか、記憶がはっきりしない。
たぶん、ライデンを離れ、2004年の秋から2006年の夏まで滞在した、プリンストン大学だったと思う。
読んで、圧倒されてしまった。
とにかく、面白かったのである。
大矢先生から最初に聞いた、近代の小説のありかたに関するちょっと難しそうな話は、まったく、ふっとんでしまった。
「嵐が丘」で記憶していた、キャサリンとヒースクリフの暗い情念と荒野の光景すら、ふっとんでしまった。
その代わりに、敗戦国日本が、どうしようもない貧しさと欠乏の中から、徐々に立ち直り、その中で、町並みが変わり、風景が変わり、人間と人間の絆が変わっていく様が、鮮やかに、浮かんできた。
そして、「よう子ちゃん」という名家の出の少女と「たろう」という中国からの引きあげ貧困家族の出の異彩の少年が、数奇な運命にもてあそばれながら、その愛をそだて、最後には、悲劇的な結末に向かって一挙に雪崩落ちていく様が、息もつかさずに、迫ってきた。
戦後の日本、私が育ってきた戦後の日本の近代化の光と影の中で、何人かの男女の生と死が鮮やかに描かれ、それは、私たちの時代の条件と、私たちの時代の感性を描ききって、あまりがなかった。
「なるほど、本格小説か」
講義の準備とペーパー書きの中で、いつ母に「明日朝は学校でしょ。もう寝なさい」とどなられるかと、びくびくしながら読んだ「嵐が丘」のように、私は、「本格小説」を、読み急いでいた。
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