戦後日本が失ったもの:新しいアイデンティティを求めて第一回:水村美苗と「本格小説」
さて、プリンストンでの講義と研究は、2006年をもって終わり、それから、私は、台湾の淡江大学、カルフォルニア大学のサンタ・バーバラ校、韓国のソウル大学で、教鞭をとりながら、研究活動をしてきた。
2007年末に日本に帰り、テンプル大学ジャパン・キャンパスに席を持った。その中で、私の関心は、次第に、六年の海外での講義と研究の中で徐々に見え始めた、現在の日本社会のありように向けられるようになった。
日々の報道の中では、日本は、世界同時不況と格差社会と少子高齢化の矛盾の中であえいでいた。確かに、横においてはいけないと思うような、深刻な問題が、たくさんあった。
更に、世界の中で日本を眺めれば、相対的には豊かな日本で、豊かさの中に生じている亀裂の深刻さを、十分には把握できていないという問題があるように思われた。目前の問題に、マスコミをあげて、関心をよせながら、国の抱える根本問題に向けて、思考が深化していかない。
明治からの富国強兵路線を突っ走り、敗戦の焼け野原のなかでほとんど総てを失い、今度は富国平和路線を突っ走ってきた日本は、なにか大事なものを見失ったのではないか。その大事なものを再発見することによって、今の日本にとっての、喫緊な課題が見えてくるのではないか。
この問題に対する、切り口は人によってちがう。
もちろん、そうであろう。
今の日本の根本問題ということになれば、人それぞれが、これまで経てきた経験と思索によって、それぞれ異なる回答を出す。
しかし、そういう各人の問題意識を皆で持ち寄って議論することによって、日本が進むこれからの方向性の大筋が、見えてこないだろうか。
それでは、私のこれまでの人生の中から、私が自分の感性と思考の中から、まず言えることは、どんな問題なのだろう。
私は、いつしか、そういったことを、この「フォーラム神保町」で、昨年私が主催した、「日本の歴史問題」に出席した人たちに、話していたのである。
2009年の年が明けたころ、そのうちのある聴講生と懇談している時だった。
「東郷先生、先生は、水村美苗って作家、知っていますか?」
ぎょっとした。
私が、水村美苗氏の隠れファンであることは、誰にも話したことはなかったはずである。
「はい。知っていますよ」
「最近、彼女は、『日本語が亡びるとき』っていう本を出して、これ、けっこう評判になっているんです。その中に、先生がこの前言っていたのと、まったく同じこと、書いてあったんですよ」
仰天した。
私が、この聴講生氏に語ったと同じことを、水村美苗氏が言っているって、どういうこと?
「もうしわけないけれど、どこの所か教えてくれない?今度、ぼく、本を買うけれど」
私が、アマゾン・ドット・シーオー・ジェーピーのユーザー・マーケット(新刊は、発売間もなくすぐに売り切れていた)で、「日本語が亡びるとき」を入手するよりも早く、優秀なその聴講生は、「日本語が亡びるとき」の該当箇所をメールで送ってくれた。
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水村美苗「日本語が亡びるとき」(筑摩書房、2008年10月31日初版)311ページ:
安吾は結論づける。「日本人の生活が健康でありさえすれば、日本そのものが健康だ」!
日本人がみな安吾のように、いくら文化財など壊しても「我々は……日本を見失うはずはない」と思っているうちに、日本の都市の風景はどうなっていったか。建築にかんしての法律といえば安全基準以外にないまま、建坪率と容積率の最大化を求める市場の力の前に、古い建物はことごとく壊され、その代わりに、てんでばらばらな高さと色と形をしたビルディングと、安普請のワンルーム・マンションと、不揃いのミニ開発の建売住宅と、曲がりくねったコンクリートの道と、理不尽に交差する高架線と、人が通らない侘びしい歩道橋と、蜘蛛の巣のように空を覆う電線だらけの、何とも申し上げようのない醜い空間になってしまった。散歩するたびの怒りと悲しみと不快。
法隆寺が残っているのは喜ぶべきことだが、私たちふつうの日本人の生活に関係あるのは、ふつうの町並である。安吾が「法隆寺をとり壊して停車場をつくるがいい」と言ったとき、かれは鉄道の駅のようなものを指して言ったのであろう。だが、安吾が偶然使った「停車場」という言葉は、あたかも半世紀後の日本の町並みを暗示しているように聞こえる。それは車社会となり、家が壊され空き地ができるたびに、その空き地という空き地がコイン式の有料駐車場へと変わっていっている今日の日本の町並みにほかならない。戦火を免れた京都も、日本人は自ら壊し続け、西洋人が腰を上げて保存せねばならない恥ずかしい都となってしまった。
「日本人と日本文化は絶対、大丈夫」と河合隼雄(はやお)が保証しても、
都市の風景も文化の一部である。日本文化は「絶対、大丈夫」ではなかったのである。
日本人は信じないだろうが、日本語も同様である。