わき道をゆく第116回 タカ派・岸信介の知られざる顔

▼バックナンバー 一覧 2017 年 6 月 23 日 魚住 昭

「昭和の妖怪」岸信介と、「魔王」北一輝をめぐる旅の途中である。今回、立ち寄ったのは渋谷区の南平台。かつて岸首相の私邸があった場所だ。
 その私邸はとり壊され、今は青瓦と白壁の大型マンションが建つ。周辺には教会や大使館や豪邸が軒を連ねる。喧騒とは無縁の高級住宅街だが、60年安保の当時は連日デモ隊が押しよせ、岸邸前の道は洗濯板みたいに凸凹になったそうだ。
 むろん警官隊が厳重にガードした。それでも岸邸にはねじって火をつけた新聞紙や石が投げ込まれた。岸首相は外 に出られず、退屈すると孫たちを呼びよせた。当 時6歳の安倍晋三・現首相も新聞社の車にそっと乗せてもらい、祖父宅に行った。以下は『美しい国へ』(安倍晋三著・文春新書)の回想である。
〈子どもだったわたしたちには、遠くからのデモ隊の声が、どこか祭りの囃子のように聞こえたものだ。祖父や父を前に、ふざけて「アンポ、ハンタイ、アンポ、ハンタイ」と足踏みすると、父や母は「アンポ、サンセイ、といいなさい」と、冗談まじりにたしなめた。祖父は、それをニコニコしながら、愉快そうに見ているだけだった〉
 往時の岸家を彷彿とさせるような文章だ。それにしても、と私は思う。岸ほど不思議な政治家はいない。彼は東条内閣の商工相として開戦の詔書に署名し、戦時の経済を仕切った男である。
 戦後、A級戦犯容疑で巣鴨プ リズンに 3年拘束された。不起訴になったといえ戦争責任は重い。ところが岸は連合軍の占領が終わった翌年の1953年には代議士になり、たった4年で首相になった。国民をあんな悲惨な目に遭わせておいて、どの面さげてと言いたくなる。
 しかし、である。岸が首相在任中にやったのは安保改定だけではない。最低賃金法と国民年金法を成立させた。とくに年金法は、公務員や大企業の社員しか恩恵にあずかれなかった公的年金の受給対象を全国民に広げる画期的なものだった。
『岸信介回顧録―保守合同と安保改定―』(廣済堂出版刊)で彼はこう振り返っている。
〈岸内閣の時代に社会保障や福祉の基礎がつくられたということが、私のイメージに合わないというか、私になじまないような印象を受ける ら しいが、そういう評価の方がなじまないというべきで、私にとっては意外でもなんでもない(略)あたり前のことをしただけなのだから〉
 タカ派の親玉としか見られなかった岸が目指したのは弱者に優しい社会民主主義だった。富の再分配による格差の是正である。としたら、岸はいつ、どのようにして社会民主主義を志向するようになったのか。
 岸は山口県・田布施の地主の家に生まれた。曽祖父は伊藤博文らと交友があり、岸は幼いころから吉田松陰の「君臣一体」の皇国思想を吹き込まれた。
 日本最難関の入試を突破して第一高等学校に入るのは1914(大正3)年。『岸信介―権勢の政治家―』(原彬久著・岩波新書)によれば、岸は一高の自由な校風の中でかなり広範囲な濫読に明け暮れ ている。
 イプセン 、トルストイ、ドストエフスキー、ゲーテ、シラーなどの小説類、ヘーゲル、ニーチェ、ショーペンハウエルなどの哲学書を翻訳で読み、和書では西田幾多郎、夏目漱石から歌集、歴史ものに至るまで手当たり次第に読んだという。
 原彬久・東京国際大名誉教授は〈岸の広濶な教養の土壌がこの高校時代に培われた〉と指摘し、その〈知的土壌〉が、彼を国粋主義や右翼的思想の〈狂信性からある程度引き離し〉たのだろうと言う。慧眼である。
 岸という変幻自在の政治家は幅広い教養と、深い理解力を抜きに考えられない。彼は飛び抜けた頭脳の持ち主で東大法科では我妻栄(後の民法学の泰斗)と成績トップの座を争った。
 当時の東大の憲法学は、天皇機関説(主権は国家にあって天皇は国家の最 高機関であるとする説)の美濃部達吉と、天皇主権説を唱える国粋主義者・上杉慎吉の激しい確執があった。
 松陰の皇国思想に馴染んでいだ岸は上杉門下に入った。だが、上杉の天皇絶対主義とは一線を画した。それを端的に示したのが森戸事件への岸の対応だ。
 1920(大正9)年1月、東大助教授・森戸辰夫はロシアの無政府主義者クロポトキンの思想を経済学部機関誌に紹介したため休職に追いこまれ、起訴された。
 大学では社会主義の学生運動団体・新人会が森戸擁護にまわり、上杉が率いる国粋主義の興国同志会が森戸排斥を叫んで両会は真っ向から対立した。
 岸はこの事件を機に興国同志会を脱会した。上杉に運動を抑えるよう頼んだが、聞き入れられなかったからだ。岸の証言 。
〈興国同志会を牛耳っていた人々は融通のきかない、頑固一点張りの考えだった。われわれは思想の進歩とか、新しい考え方というものも理解したうえで、反駁するなら反駁すべきなのに、頭から一切理解しないのだ。これには僕はついていけない〉
 岸はもともと私有財産制に強い疑問を持ち、私有財産制を否定するマルクス的社会主義にある種の共感を持っていた。
 私有財産制限を説く北一輝の『国家改造案原理大綱』に出合ったのもこのころだ。原名誉教授は〈北の社会主義論が岸の国家論に影響を及ぼし、岸の国家論が北の帝国主義的社会主義論と重なっていくサマは鮮やかである〉と語っている。
 ただ天皇制打倒に傾く北とちがい、岸はあくまで国体(=天皇制)護持だ。 し かし上杉のように神聖化され、絶対化された国体ではない。岸が求めるのは国民と苦楽を共にする天皇だった。
 同年夏、岸は東大を卒業し農商務省に入った。「これからの政治の実体は経済にあり」という確信がそうさせたらしい。
 こうして私有財産制への強い疑問と天皇絶対化への反発、そして国粋主義を併せ持った風変わりな官僚が誕生する。彼はやがて革新官僚のリーダーと呼ばれるようになり、北の言葉通り「青春の血をもって日本の歴史を書く」ことになる。(了)
(編集者注・これは週刊現代に連載された「わき道をゆく」の再録です)