わき道をゆく第115回 「青春の血で日本史を書くんだ」
週末、目黒不動尊(天台宗・瀧泉寺)に行った。ちょっと見たいものがあったからだ。
東急目黒線の駅から徒歩15分。初夏の陽射し浴びて、なだらかな坂を上り下りしながら私が考えたのは、明治生まれの二人の男のことだった。
北一輝(1883~1937年)と、岸信介(1896~1987年)。北は2・26事件の首謀者として処刑された革命家だ。岸は言うまでもなく元首相で、安倍晋三首相の祖父でもある。
岸は北より13歳若い。北とは生い立ちも性格もちがう。別世界の人間だ。似ている点を強いて挙げるとすれば、その尋常なら ざる能力のために北が「魔王」と呼ばれ、 岸が「昭和の妖怪」と呼ばれて、周囲から恐れられたことぐらいだろう。
目黒不動は徳川三代将軍・家光ゆかりの寺である。入口の案内板によると、サツマイモで有名な青木昆陽の墓もあるらしい。
でも、私が見たいと思っているのはそれではない。北一輝の碑と墓だ。なのに案内板には記載がない。寺務員に尋ねると「お墓ならありますが」と言って、境内から百数十㍍離れた道路沿の墓地を教えてくれた。
墓地の奥の方に北の墓はあった。正面に「北一輝先生之墓」とあり、側面に夫人と長男の名も刻まれていた。それにしても拍子抜けするほど普通の墓である。「魔王」を連想させる部分はない。逆徒の遺族の暮らしは苦しく、贅沢な墓を作る余裕がなかったのか。それとも世間の目への遠慮 がそうさせたのか。
数㍍先には、北のかつての盟友で「大アジア主義」を唱えた大川周明(東京裁判で東条英機の頭を叩いた人だ)の墓もあった。こちらも戦前・戦中の彼の華々しさに比べると、忘れられたように地味な墓だった。
さて次は北の碑を探さなければならない。墓地の管理人らしきおじさんに聞くとこの墓地にはないと言う。「どこにあるか知ってそうな人に聞いてくるから木陰で待っててください」と彼は言った。私は「そこまでしてもらわなくとも…」と言ったのだが、親切なおじさんは自転車でさっさと行ってしまった。
数分しておじさんは帰ってきた。気の毒そうな顔で「寺の人にも聞いたんだけど、やっぱり北一輝先生の碑は知らないということでした」と言った。
念 のため、私も寺の境内をひと回りしてみたが、見当たらない。引き揚げる前にダメを押すつもりで大本堂にいた寺務員の男性に聞いてみた。すると「それだったら、この大本堂の下の斜面にありますよ」という意外な返事が戻ってきた。
行ってみると、あった。青木昆陽の巨大な碑の隣の、奥まった林の中にあったから気づかなかったのだ。考えてみれば寺の一部の人しか知らなかったのも無理はない。歴史好きならともかく、一般人にとって北はもう忘れられた存在なのだ。
私は高さ4㍍前後の碑に近づき、目を凝らした。大川周明の「歴史は北一輝君を革命家として伝へるであらう」で始まる墓碑銘がびっしり刻まれていた。そのなかで大川は、北が「世の常の革命家」ではなく、「専ら其門を叩く一 個半個の説得に心を籠めた」と述べていた。
そう。その門を叩いた人のひとりが若き日の岸だった。原彬久・東京国際大名誉教授の『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書)によると、たった一度だが、岸は東大の学生時代に北に会い、
〈此の北氏は大学時代に私に最も深い印象を与へた一人であつた。而して北氏は後に二・二六事件の首謀者の一人として遂に銃殺されたのであるが、辛亥革命以来一生を通じて革命家として終始した。恐らくは後に輩出した右翼の連中とは其の人物識見に於て到底同日に論ずることのできぬものであつた〉
これだけで、岸の北への傾倒ぶりがお分かりだろう。岸と北との関係は、戦後の保守政 治のあり方にも影響をもたらす重大事なので、ふたりの出会いに至る経緯をざっとご説明しておく。
北は1916(大正5)年、中国革命に身を投ずるため上海に渡った。が、志を果たせなかった。生活も困窮した。そんな北を見かねた上海の日本人医師が彼の生活の面倒を見た。
1919(大正8)年、東京で大川周明らが政治結社・猶存社を結成。その指導者として北を迎えるべく、大川が上海に赴いた。折から北は〈食物は喉を通らず、唯だ毎日何十杯の水を飲んで過ごし〉、〈時には割れるような頭痛に襲はれ〉ながら日本革命の指針『国家改造案原理大綱』を執筆中だった。
その最後の巻八を書き始めたとき、思いがけなく大川の来訪を受けた。北は大川の招請を天意と信じて帰国を決意し た。
書きかけの原稿は、彼の帰国前、大川らの手で秘かに日本へ運ばれ、ごく限られた支持者たちの間で回読された。岸もまた当時、秘密裏に出まわった『国家改造案原理大綱』を手に入れ、夜を徹して筆写した。
大綱の概略は①天皇の名で戒厳令を敷いて華族制度を廃止し、治安警察法や新聞紙条例などの廃絶で国民の自由の回復を計る②皇室財産を国家に下付し、私有財産を制限する③大資本を国有化し、私企業の純益を労働者に配当する―などだった。
北は一方で世界の領土再分割も説いた。「不法ノ大領土ヲ独占」する国に対しては戦争する権利を持つとして、オーストラリアやシベリア取得のための開戦は「国家ノ権利ナリ」とした。
岸はこの『国家改 造案原理大綱』について〈当時私の考へて居た所と極めて近く組織的に具体的に実行方策を持つたものであつた〉と後に述べている。
岸と北の思想は融合し、後に岸が辣腕をふるう統制経済や満州国経営で具体化する。晩年、岸は北との出会いを原彬久名誉教授にこう語っている。
〈彼は隻眼の人です。炯々とした片目で僕を睨みつけてね。こちらは大学の制服を着ていたと思うんだが、北一輝は辛亥革命のあの革命服を着ていた。そしてこういうんだよ。「空中に君らの頼もしい青春の血をもって日本の歴史を書くんだ」〉
(編集者注・これは週刊現代に連載された「わき道をゆく」の再録です)