わき道をゆく第126回 「好運」をもたらしたもの
このところずっと岸信介にまつわる謎を追いかけている。 岸はなぜ、A級戦犯として起訴されなかったのだろうか。
東条英機内閣を倒して戦争終結に貢献したからだ。 と言いたいところだが、 岸の調書類を読むかぎりではちがうらしい。
前回ふれたように、岸の第1回尋問(1946年3月7日) を担当したG・サカナリ中尉らは、 倒閣の顛末を聴いたうえでなお「岸は被告席を飾るにふさわしい」 と報告している。
つまり東条内閣の閣僚としての開戦責任はそれほど重いということ だ。真珠湾奇襲への米国民の恨みは深 い。ついでに述べておくと、 サカナリ中尉らによる岸の人物評価も甘くない。
中尉らは「岸はおそらく(一貫した原理原則のない) 機会主義者で、自分に都合のいいようにものごとを利用する人だ」 と調書のなかで指摘している。
と同時に「岸の人脈は広い。財界、官界、軍、宮中にまで及ぶ」「 (岸らの満州)人脈は、 東条内閣期のものの考え方に直接的な影響を与えた」などと、 その後の岸研究の成果を先取りするような分析もしている。
この尋問から7日後の14日、 国際検察局捜査課の執行官であるバーナード少佐は、 モーガン捜査課長(FBI出身)に「 岸を東京裁判の被告第一グループに入れるべきだ」 という文書を送っている。少佐はその理由として次の点を挙げた。
「岸は(日独伊三国同盟を結んだ)松岡洋右外相の甥で( 国家総動員体制を作った)革新官僚たちのリーダーと目されていた。それに岸は、 満州という偽国家の法体系を作り、東条内閣の閣僚もつとめた。 しかも、彼は軍人でないのに、青年将校一派と密接な関係を築いていた」
バーナードの報告の翌日、国際検察局のキーナン局長が「 状況が許すなら、東条内閣の閣僚全員を被告にしてほしい」 と求めたことも前回ふれた。 つまり岸の起訴に直結するメッセージが捜査現場と、上層部の双方から送られたことになる。
が、結局、岸は起訴されなかった。そこに至る過程は粟屋憲太郎・ 立教大学名誉教授の『東京裁判への道』(講談社学術文庫) に書かれているので、それに拠りながら説明しよう。
A級戦犯被告の選定は、国際検察局の執行委員会(米国や英国、カナダ、 中国などの検事らで構成)で行なわれた。
まず1946年3月5日の会議で〈被告の数については、二〇名をこえず、一五名が望ましい〉とされ、〈この一五名に入れるには、 たんに戦争に賛成票を投じただけでは不十分〉だという指針が示された。
次に3月11日の会議で、開戦時の首相だった東条、外相だった東郷茂徳、第一次近衛・ 平沼内閣の陸相だった板垣征四郎ら計7人の被告が選ばれた。
さらに翌々日の会議では元満州国総務長官で企画院総裁・ 東条内閣書記官長だった星野直樹ら4人が被告に入れられた。
キーナンが東条内閣の全閣僚( この時点で残っていたのは岸ら8人) を被告に入れたいと言った3月15日には、すでに11人の被告が決まっていた。
粟屋名誉教授は、キーナンが突然こんなことを言ったのはGHQ最高司令官マッカー サーの意向があったのだろうと言う。
なぜならマッカーサーは当初から、宣戦布告なしの真珠湾奇襲の責任者・ 東条とその閣僚たちを米国単独の軍事法廷で裁くことに固執してい たからだ。
しかし、米国政府の意向はちがった。 ドイツのニュルンベルク裁判と同じように〈侵略戦争の計画・ 準備・遂行などを犯罪とする「平和に対する罪」〉 を中心にすえた国際裁判を開くことを目指していた。
マッカーサー方式だと対米開戦責任だけが問われることになり、 被告の範囲も限定される。
だがニュルンベルク方式ならば、 満州事変や日中戦争などさまざまな局面が対象になり、それぞれの局面を代表する被告が幅広く選ばれることになる。
国際検察局の内部にも以上の2つの考え方が混在していたらしい。 が、主流を占めたのは後者だったようだ。 キーナンの要請は受け入れられなかった。
4月17日まで断続的に開かれた会議では、先の11人に加え、 元内大臣の木戸幸一ら17人が被告に選ばれた。 開戦時の閣僚で新たに加わったのは元蔵相の賀屋興宣だけだった。
粟屋名誉教授は岸が選ばれなかった理由を二つ挙げている。
一つは、執行委員会が〈「平和に対する罪」 を主要な訴追理由として裁判を開始するにあたって、 なるべく多様な類型の被告を選ぶ方針をとった〉ため、〈 同類型とみなされた東条内閣閣僚の被告の数を減少させる結果をも たらした〉ことだ。
もう一つは、高級官僚として岸と似た経歴をたどり、 満州でも日本でも〈昇進が一歩、 先んじていた星野が被告に選定された〉ことが〈岸に「好運」 をもたらした〉のだという。そう、身もふたもない言い方だが、 岸は運が良かったのである。
ただし第一次起訴グループに入らなかったからといって、 岸の放免が約束されたわけではない。 GHQは第二次起訴があることを示唆していた。 情勢は流動的だった。岸の巣鴨プリズン暮らしはさらにつづいた。
1946(昭和21)年11月、 かつての満州国政府や日本の商工省で岸の側近中の側近だった椎名 悦三郎(後の自民党副総裁) がGHQに岸の釈放を求める嘆願書を書いた。
椎名は英文で、自分は「10年以上、部下として岸に仕えたので、彼のことを公私両面にわたって詳しく知っています」 と述べたうえで岸の戦犯容疑に根拠がないことを訴えた。
なかでも椎名が力を入れて描いたのは、
軍の横暴に苦しんだ末に内閣打倒を決意した岸の姿だ。 その記述には身近にいた者ならではの説得力があった。
だが私はそれを読んで、新たな疑問が湧いてくるのを感じた。 岸は、東条に反旗を翻したのは戦争の終結のためだったと言っているが本当だろうか。岸が倒閣に踏み切った理由は意外なところにあるのではないか。(了)