わき道をゆく第127回 「早期終戦のため・・・?」

▼バックナンバー 一覧 2018 年 3 月 23 日 魚住 昭

まず、何はともあれ、前回の終わりにちょっとふれた椎名悦三郎(後の自民党副総裁)の嘆願書の内容をご紹介したい。
 椎名は冒頭「以下の私の証言を読んでもらえれば、彼(岸信介)を覆っている戦犯疑惑の暗雲は完全に吹き払われてしまうはずです」と英文で述べ、GHQに岸の釈放を求めている。
 嘆願書で椎名が最も強調したのは、戦時中の商工行政を司る閣僚だった岸が東条内閣打倒を決意するまでの経緯である。
 読者もご承知のように、日本の近代で東条英機ほど権力の座を独占した政治家はいない。彼は首相と陸相を兼ね、後に軍需相と 参謀総長も兼任した。
 しかも彼は人命より「一億玉砕」を選ぶ軍人だったから、彼の独裁があと1年続いていたら本土決戦が行われ、何百万人 もの犠牲者が出ていただろう。
 その意味で東条内閣の瓦解は歴史の分岐点だった。岸がそこで決定的な役割を果たしたのは間違いない。が、私が知りたいのは彼が倒閣に踏み切った理由だ。岸の側近中の側近、椎名の嘆願書にヒントがあるかもしれない。つづきを読んでみよう。
「(商工相の岸が主管した)軍需生産計画は、ただ陸軍と海軍の高圧的な要求に従って策定されたものでした。日本の貧弱な工業生産力の下で、それを実行に移すため、岸はありとあらゆる種類の困難に直面しました」
 陸海軍が求めたのは米軍に対抗できるだけの飛行機や艦船の生産である。だが、どう頑張っても日本にそんな力はない。戦況は悪化の一途をたどった。
 生産力増強のため、1943(昭和18)年秋、商 工省と企画院を統合して軍需省が創設された。東条が軍需相を兼ね、岸は無任所国務相兼軍需次官となった。椎名の語りがつづく。
「岸をとりまく情勢は軍需次官になっても同じでした。いや、もっと憐れむべき状態に陥りました。陸海軍の要求は日本の工業に壊滅的な影響力を持っていたので、それをうまく調整するため軍需省を作ったのですが、軍需省自体が関係各省の妥協の産物だったため中途半端で要領を得ないものになりました」
 軍需省で最も重要な航空兵器総局は実質、陸海軍の指揮下に置かれ、次官の岸が口をだす余地はなかった。椎名は言う。
「一方、陸海軍間の軋轢があらゆるところで表面化し、省内の業務は陸海軍によりガタガタにされました。何の経験もない将校らの介入で混乱の 極みに達したのです。こうした経験から岸は、軍事独裁制が救いがたく、ただ破壊と災厄をもたらすだけだと思い知り、嘆きました」
 実際、軍需省の新設は失敗に終わったらしい。陸海軍の間の軍需物資をめぐる醜い争いを激化させただけだったようだ。
 軍需省誕生から7カ月後の1944(昭和19)年6月、東条内閣瓦解のきっかけとなるサイパンの戦いが始まった。
 民間人も含め数万人が死んだ戦闘は翌月9日、米軍のサイパン占領で終わる。以来、国会には東条不信任の声がわき起こったとして、椎名はこう語る。
「岸はかつて衆院議員(軍需次官就任時に法の規定で辞職)だったので、議員に大勢の友人がいました。議員辞職後も交友はつづいていたので岸は衆院の状況を熟知しており、 それゆえ衆院が過去数年で最も深刻な状態に陥っていると感じざるを得ませんでした。この最悪の状況を脱するには、内閣総辞職しかないと彼は決意したのでした」
 以上が岸の心境に関する椎名の説明だ。一方、岸本人は晩年の『岸信介の回想』(文藝春秋刊)でこう語っている。
〈サイパンを失ったら、日本はもう戦争できない、という私の意見に対して、東條さんは反対で、そういうことは参謀本部が考えることで、お前みたいな文官に何がわかるかというわけです。しかし実際にサイパンが陥落したあとでは、B29の本土への爆撃が頻繁に行われ(略)もうできるだけ早く終戦する以外に道はないと思った〉
 椎名の記述と岸の回想は別に矛盾してはいない。が、岸の叛乱が本人の言うごとく戦争 の早期終結のためなら、当然椎名は聞いていたはずで、GHQに対する最も有力なアピール材料として使っただろう。しかし、椎名の嘆願書にはまったく触れられていない。なぜか?
 視点を変えて衆院側から東条内閣末期の状況を見てみよう。当時の代議士で、後に法政大教授になる中谷武世の『戦時議会史』(民族と政治社刊)によると、戦局悪化に伴い、衆院には中谷や赤城宗徳(後の防衛庁長官)を中心に東条内閣打倒を目指す議員集団が生まれた。
 中谷は〈東条幕府打倒のキメ手〉として〈代議士仲間に最も信望があり、重臣層にも信頼され、陸海軍部内の特に中堅層にも気受けのよい岸国務大臣を動かす以外ない〉と判断し、赤城と二人でせっせと岸を訪ねた。
〈聡明な岸は無論我々の肝の中 は知り抜いて居る〉ので、特に改めて倒閣のことを説得する必要もなかったと中谷は言う。
 岸への働きかけは、赤城も回顧録に〈わたしと中谷武世君は、ひそかに岸大臣を訪問し、閣議の席上、東條さんの意図に反して、内閣不統一に陥れ東条内閣を退陣に導くより外に道なしと力説した〉と記している。
 ここで注目してもらいたいのは中谷と赤城らが〈東条幕府打倒〉に走った理由だ。彼らは戦争の早期終結のため動いたのではない。逆に〈東条では戦争に勝てない〉から、勝てる体制作りを目論んだのである。
 東条内閣が倒れた後のことだが、中谷と赤城らは岸を黒幕とする護国同志会を結成する。事実上の岸新党の旗揚げだ。中谷によれば、同志会に集まった三十二人の議員は「聖戦完遂」を スローガンに掲げ、鈴木貫太郎の「終戦内閣」(1945年4月成立)打倒を目指した。
 幸いにも護国同志会の目的は達せられなかったが、読者は岸の行動の不可解さに戸惑いを覚えられただろう。岸の真意は一体どっちにあったのか。戦争の早期終結か、それとも聖戦完遂=本土決戦だったのか。(了)
 【編集者注・これは週刊現代に連載した「わき道をゆく」の再録です。参考・『岸信介―権勢の政治家―』(原彬久著・岩波新書)、『私の履歴書 第四十八集』(日本経済新聞社刊)】