わき道をゆく第135回 革新官僚・岸と全体主義の挫折

▼バックナンバー 一覧 2018 年 10 月 16 日 魚住 昭

 前回は近衛新体制運動について書いたが、今回はそのつづきである。主として参考にさせてもらう文献は『昭和史講義―最新研究で見る戦争への道』(筒井清忠編・ちくま新書)である。
 日米開戦直前の日本を熱病のように覆った近衛新体制運動には次の2つの側面があった。
 政治面ではナチスのように強力な新党樹立を目指したが、これは観念右翼から「新党は幕府的存在だ」と非難され、頓挫した。代わりにできたのが、当初の目標とはほど遠い大政翼賛会だったことは前回述べた。
 一方、経済面では「資本と経営の分離 」を目指す運動が進められた。これは私益を求める資本家から企業の経営権を切り離し、国が必要とする生産を行わせようとするものだった。
 それだと資本主義を否定することになりはしないかと思われるだろうが、その通りである。当時の日本の経済官僚や軍人たちの考え方は、ソ連型の計画経済やナチスの国家社会主義の影響を強く受けていた。
 1939(昭和14)年秋、満州から帰国して商工次官になった岸信介もその一人だ。岸はまもなく陸軍「革新」派のリーダー武藤章軍務局長とともに月曜会という集まりを作る。
 月曜会には逓信省の奥村喜和男、大蔵省の毛里英於兎、迫水久常、商工省の美濃部洋次ら統制派の官僚が加わった。月曜会のネットワークは商工次官の岸や、武藤ら陸軍幹 部が後援する強力なものだったので、ここに集う官僚は「革新官僚」として脚光を浴びるようになる。
 その典型が毛里である。彼は満州国での実務経験から、日本国内での計画経済の遂行と東亜共同体の結成を主張した。また、そうした仕事を担う官僚をナチス用語で「フューラー」(指導者)と呼び、日本国内でのナチス的指導者原理(=指導者への絶対服従)の確立を唱えた。
 近衛の女婿・細川護貞の『細川日記』(中公文庫)の昭和19年3月30日の項には「毛里氏夜来る」として毛里の発言と細川の感想が記されている。
〈国家が凡ゆる国民の消費生活まで統制する方式が理想なりと。之が為には、列挙主義の自由を廃したる憲法を作らざるべからずと。彼(=毛里)はマルキストと其軌を一 つにする者なり〉
 毛里の思想がナチズムかマルキシズムかはともかく、全体主義なのは間違いない。彼のいうフューラーは、人間の生活の隅々まで支配する超人のような存在だ。民衆はその超人に従いさえすれば幸福になれる。
 しかし、このフューラー=革新官僚が目指す「資本と経営の分離」路線は、観念右翼や財界人、自由主義的な一部の政治家たちの「アカ」批判を浴び、やがて後退を余儀なくされる。
 それを象徴する出来事が1941(昭和16)年初めに起きた岸の商工次官辞任である。
 原彬久著『岸信介―権勢の政治家―』(岩波新書)によれば、その前年末、企画院が高度国防国家体制に向けて「経済新体制確立要綱」を立案した。
 資本と経営の分離、私益追求の否定、企業 への政府監督権の強化などを盛り込んだ「経済新体制確立要綱 」案の作成に商工省側からは岸が関与した。
 しかしこの作業中、大臣の小林一三(阪急電鉄創業者)がインドネシアに出張中していたため、岸は独断で事を進めた。帰国してそれを知らされた小林は「要綱」案を「アカの思想」として公然と批判した。
 こうした経過の延長線上に企画院事件が起きる。企画院の調査官らが共産主義活動に関与したとして治安維持法違反で逮捕された事件である。小林は、その元凶が岸であると主張して直接、岸に辞職を求めた。
「辞めろ」「辞めない」の応酬が小林と岸の間でつづく。岸の抵抗は徹底していた。小林が、風邪で欠勤中の岸邸に押しかけ辞表提出を迫った。が、岸は小林との面会を拒み、寝室から筆談で「辞職」をはねつけた。
 岸は第二次近衛内閣の 組閣時に近衛から「君が大臣だと思っている」とおだてられていた。それを頼りに近衛に進退を相談すると、近衛はこう言った。「そうですね。やはり大臣と次官が喧嘩してもらっては困りますから、そういう場合には次官にやめてもらうほかないでしょう」
 岸は辞任した。閣議決定された経済新体制確立要綱から「資本と経営の分離」という言葉が消え、「適性ナル企業利潤」も認められるなど当初の革新色は大きく後退した。経済新体制運動で残ったのは各種の個別の経済統制だけだった。
 では、その経済統制はどうなったか。岸は東条内閣の商工相に就任して、鉄鋼などの重要産業ごとに統制会を作らせ、統制会側の創意と工夫による生産増強と効率化を目指した。
 が、岸の縁戚で日産コンツェ ルン総帥だった鮎川義介は戦後、日本工業倶楽部編の『財界回顧録』にこんな談話を寄せた。
〈(統制会は)本当の統制ではない。統制のイカ物だ。(略)ただ政府のいうように形式だけ整えたのだ。官僚は頭はいいし数字を並べたり図面を描くことはうまいが、自ら仕事をしたことがないから、本当に中の方まで神経が通っていないのだ〉とバッサリ切り捨てこう語る。
〈ソ連ほどの徹底した統制をやって、きかない奴は首切ってしまうぐらいの勢いでやったなら成功したと思う。どうせやるなら、それくらいのことをしなければ出来ない。それができぬくらいなら、われ勝ちにやる自由主義の方がまだましだった〉
 結局、中途半端な経済新体制運動は、政治面での新体制運動と同じく失敗に終わった。 岸も戦後、巣鴨プリズンで記した『断想録』で「此の事(=経済新体制の確立)が出来なかった事は我敗戦の一つの原因を為したものと云ってよからうと思ふ」と振り返っている。
 ここで新体制運動が政治・経済両面で失敗した根本理由を考えてみよう。答えは簡単だ。国体(=天皇制)が強力新党を阻み、明治憲法のもう一つの柱、私有財産制が経済新体制をはねつけたのである。岸の心に燃え盛っていた全体主義的国家の理想はこうしてついえた。(了)
(編集者注・これは週刊現代に連載した「わき道をゆく」の再録です)