わき道をゆく第181回 現代語訳・保古飛呂比 その⑤
嘉永元年戊申(音読みでぼしん、訓読みでつちのえ・さる。原注・弘化五年三月に嘉永元年と改元)=西暦1848年 佐佐木高行 十九歳
正月
一 この月元日、三ノ丸で新年のお祝いの言葉を申し上げた。
(魚住注・以下の二行は解読が難しいので、例によって原文を表記し、私がわかる範囲で注釈をほどこす)
但シ例年ナレ共、今年ヨリ何事モ舊ニ復ス、久シク御省略ノ處、豊熈公御家督別テ御節倹ニテ
【上記の文章はやさしいようで正確な意味をつかむのが難しい。「但シ例年ナレ共」は、なお例年のことだが、という意味だと思うが、何が例年のことなのだろうか。新年の行事のことなのか。それとも「何事モ舊ニ復ス」こと自体なのか。新年の行事であれば、「例年」とは、年々行うことが古くから定められているという意味だろう。であれば、中断されていた新年の行事が「今年ヨリ何事モ舊ニ復ス」つまり、今年から以前の状態に戻ったことになる。確かに毎年一月の佐佐木日記を見ると、この年以前の元日に行事が行われたという記述がない。一方、この年以降の元日には行事が行われている。すると「久シク御省略ノ處」は、恒例の新年行事が長い間、省略されていたと解せられる。
次に、「豊熈公御家督」の「御家督」は何を指すのだろうか。百科辞典マイペディアには「家督」は「古くは本家,分家を含む一門の首長をさし,戦いには一門の統率者として臨み,本家の嫡子が代々相続した。しかし室町以降,一門の団結がくずれるとともに,家督は各家の家長を意味するものとなり,さらに転じて,江戸時代には家産をさすものとなった」とある。とすると、「豊熈公御家督」は豊熈公が藩主の地位を受け継いでから、「別テ御節倹ニテ」、つまり、とりわけ節倹されて、と解するのが妥当かもしれない。これまた私の当てずっぽうなので間違っているかもしれない】
諸士(家臣一同)はいずれも身の程に応じ、知行高二百五十石以上はつねに馬一匹と従僕を召し連れるよう、また、年頭などの礼式の節は、小身の家臣であっても従僕一人を召し連れるようご沙汰になったので、特に記載しておく。
太平の世の中に慣れて武備を怠ることのないよう、二百五十石以上は馬をつなぎ置くこととなり、十中八、九は困り果てた。長瀬某の狂歌にこうあった。
来年の春より馬を甲斐庵寺(魚住注・甲斐=飼い)
それで家中がひん/\/\(魚住注・馬のなきごえ=貧)
一 正月十一日、御馬御乗初め(=武装した家臣団が馬に乗って疾走する土佐藩の年頭行事)の節、父上の名代をつとめた。
なお、これまでは藩主の代替わりなどのご祝儀事がないと、知行高百石以下の家臣は御乗初めに参加できなかったが、この年から何事も分限(=身分あるいは能力)に応じて勤めることになり、惣馭(惣はすべてを意味し、馭は馬をあやつること。全員騎乗の意か)となる。
一 同十六日、御船御乗初めが行われるはずのところ、太守さま(豊熈公)がご病気のため、延期された。注①
【注①御船御乗初め。平尾道雄著『土佐藩』によると「陸軍行事として乗初式(=御馬御乗初めのこと)があった。毎年正月十一日に行われる閲兵の儀式で、山内氏の長浜在城時代からの古例とされ、これに対して海軍には船乗初めの儀式があった。これは山内一豊の浦戸入城を記念するもので、正月八日がその日とされていたが、のち将軍家の忌日を避けて正月十六日に変更された。平和な時代の経過するにしたがって、城や兵制のもつ意義はしだいに薄れていったけれども、騎馬武者の乗初式や関船・小早船の船乗初めは藩政末期に及ぶまで儀礼として実施されたものである」という】
一 同二十五日、従弟の原平三郎と一緒に御船御乗初めを拝見しに行った。
なお、御船御乗初めは久しく中断されていた。そのため貴賎男女数百人が見物しに行ったので、御船路筋(御船が通る川筋?)が非常に賑わった。
三月
一 この月五日、嘉永と改元された。
一 太守さまが国許を発たれた。よって父上とともに山田橋弘小路へお見送りに行った。
豊熈公は近代の明君であらせられるので、家臣一同、公の早いご帰国をお待ちしており、見送りの人もことさらに多かった。
四月
一 この月七日、豊熈公が江戸表に着かれたとのこと。
一 同十八・十九両日、長曾我部元親二百五十回忌につき、友人と行く。
法会は吾川郡長浜村の禅宗雪蹊寺で行われた。元親の木像があった。また信親が豊後戸次川で戦死したとき、討ち死にした士卒の姓名を木札に書き、記念とした。実に懐旧の情が湧き起こった。注②
【注②。デジタル版日本人名大辞典+Plusによると長宗我部元親は「1538-1599 戦国-織豊時代の武将。天文(てんぶん)7年生まれ。長宗我部国親の長男。永禄(えいろく)3年家督をつぐ。天正(てんしょう)13年四国を統一。同年豊臣秀吉に攻められ土佐(高知県)だけの領有をゆるされる。秀吉の九州攻め,小田原攻め,文禄(ぶんろく)・慶長の役にも出陣。領内では惣検地をおこない,「長宗我部元親百箇条」をさだめた。慶長4年5月19日死去。62歳」。信親は元親の長男。元親・信親父子は豊臣秀吉の命で九州に出兵、天正十四年(1587年)末、戸次川の合戦で信親が戦死した】
五月
一 去年、太守さまは鎗術の演武を見られただけで剣術の演武は御覧にならなかった。その埋め合わせとして、この月三日、大学さま(=第十代藩主・山内豊策の六男豊栄)が太守さまの名代として剣術の演武を御覧になるというので、出勤した。
一 同十八日、仁井田浜でオランダ流砲術の試打があり、四、五人の仲間とともに見物した。
初めての試打だったので身分の上下にかかわらず見物人が多かった。同行したのは小原與一郎・前野常之丞・山田喜三之進等である。
オランダ流砲術は、現在の太守である豊熈公が藩に導入されたもので、それには藩内にも異論があった。近習(藩主のそば近くに仕える家臣)の者にもそれがために退役した人もあった。
砲術は、自分はまだ学んだことはないが、見物に行った。このころはもっぱら槍術・剣術などを学び、学問もした。なかでも保建大記を最も愛読した。そのころ自宅の門外を夜中に若い侍が「保建大記」と大声で呼んで嘲弄するに至った。注③
【注③。世界大百科事典第2版によると、保建大記は「江戸前期の儒者栗山潜鋒の著。2巻。1688年(元禄1)18歳のとき,後西天皇の皇子尚仁親王のために著したものであるが,水戸藩出仕後,広く一般の読者を対象として推敲を重ね完成。保元の乱(1156)から源頼朝の征夷大将軍就任(1192)までの政治の変遷を論じた史書。君臣の名分・道義を主題とし,為政者の道徳を政治の要諦とみて史論を展開,格調高い名文で長く読者に感銘を与えた。[鈴木 暎一]】
当時はその人の愛好する物件を、門前で呼び歩くことが流行した。はなはだしいときは、その人物が愛でる妾のことに及んだ。現に近所の五藤良右衛門は好色家なので、妾のことを呼び歩く声を夜ごとに聞いた。注④
また自分はそのころ中與鑑言も愛読した。保建大記の議論と比較して参考にした。中與鑑言の打聞(注釈書のことか?)は高橋喜平より借りた。この書は高橋氏の著述であって、他にはないものだ。注⑤
【注④。『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』に、より詳しい佐佐木談があるのでそれを併記しておく。「これは嘉永元年頃であつたが、軍書に就て面白い咄がある。当時土佐の家中では妙なことが流行して、其つ家の主人の好むことを、夜中悪口云つて、門前を売り声して歩く風があつた。譬へば主人が小鳥が好きなら『小鳥は――』酒なら『酒は――』と言うて歩るく。自分の近所に名高い好色家があつたが、若侍が『妾は――』といつて、屡々歩るくのを聞いた。自分も大分軍書が好きで、太平記や、保建大記などを読んて居たものだから、自分の家の前で、『保建大記は――』抔と、頻に呼んで歩いた。保建大記は、水戸の栗山潜峯の著であるが、土佐の谷秦山が是に打聞を付してある。自分はこの打聞の説が面白いので、始終愛読して居つたのだ。この書物と共に水戸の三宅尚齋の著した中與鑑言をも愛読した。これには土佐の高橋といふ学者が打聞を加へたので、夫を借覧したが、別に悪口も言はれなかつた。
注⑤。ブリタニカ国際大百科事典によると中興鑑言は「江戸時代中期の朱子学派の儒学者三宅観瀾の主著。論勢,論義,論徳の3編より成る。天明4 (1784) 年刊。建武中興における後醍醐天皇の事跡を論じ,その得失を批判したもの」】
一 この月、従弟の原平三郎が病死した。
同人は最も親しい同志だったので、ひどく落胆した。
六月
一 この月二十七日、早飛脚が江戸から到着。太守さま豊熈公の病が重いという知らせを受け、一同あまりのことに驚き入った。
一 同二十八日、太守さま長男の篤弥太さま(魚住注・当時二歳)が病死されたという情報が入ったので、それが事実かどうかお伺いするため出勤した。(魚住注。誤訳の可能性大なので原文を付記しておく「篤弥太様御病死ニ付、御伺トシテ出勤ス」)
右の際、三ノ丸で皆々が申し合わせをし、太守さまの御病気回復の「御祈祷」を差し上げるはずだったが、同日篤弥太さまが亡くなられたので、家臣一同言葉を失った。
七月
一 この月朔日(ついたち) 先日申し合わせた「御祈祷」を吉田次郎左衛門に頼み、本日できたので、早速差し上げた。(魚住注・「御祈祷」が具体的に何を意味するか不明)
一 同十二日、太守さまの弟君である式部豊惇さまが太守さまのご機嫌伺いのため、近々江戸に発たれる旨のお触れがあった。
一 同十九日、江戸表より大扈従の楠目保五郎が到着、太守さまがご危篤とのこと。
一 同二十日、ご機嫌伺いのため、父上の名代として三ノ丸へ参上した。
一 同二十一日、江戸からの使者・片岡九十九が到着、
太守さまがついに七月十日に亡くなられた旨、お知らせがあった。
太守さまのご他界、実は六月十六日との内実は承っていた。病名は脚気とのこと。
お悔やみのため、父子ともに登城するはずのところ、父上はご病気のため、一人参上した。
一 式部さま(豊惇公。豊熈公の弟)は(豊熈公の)御養子になられたため、御定式(=定まった儀式)や御忌服(=一定期間、喪に服すること)を受けられるとのこと。
一 同二十九日、式部さまが国許を発たれた。身内だけでお見送りするはずとのことで、父上はお城に出勤された。注⑥
【注⑥私はそう訳したが、間違っているかもしれないので、念のため原文を併記しておく。一 同二十九日、式部様御国許御発途、御見立テ親々計リ罷出候筈ニ付、父上出勤ス】
一 同日、養徳院さま(豊熈公の戒名)の亡骸を納めた棺が江戸表を出発、八月二十一日、大坂に到着。
同二十二日、養徳院さまの棺が御乗船、同二十四日、大坂を御出船、同二十八日、甲浦に御着船。
九月
一 この月三日、養徳院さまの亡骸を納めた棺が眞如寺に着いた。自分は「御道筋爾来の場所」(魚住注・具体的にどこを指すのか不明。半年前に豊熈が国許を発った際、山田橋弘小路で見送ったとあるので、そこを指すのか)に麻の上下(かみしも)でまかり出た。父上は病のため外出されなかった。例年の御送迎の際には馬廻組は麻の上下で、(馬廻組より格式の低い)御扈従組は羽織袴を着用と決まっていて、道中にはお供の者も立っていた。しかし、今回は棺をお迎えするというので、馬廻組も御扈従組も麻の上下着用となった。
一 同四日、豊熈公の亡骸は眞如寺を出て、御山に埋葬された。
小八木仲衛と瀧口直意が髪の毛をそり落とし、仏門に入った。二人は元服前の若い小姓(=扈従)のときから養徳院さまに仕えていた。これまでのしきたりにより、百日後には再び頭髪をのばしはじめ、還俗する。
一 同十八日、太守さま(豊惇公)と縁組みされた三条の姫君さま(公卿・三条実万の娘、数姫のこと)が亡くなられたとのこと。
一 豊惇公が家督を継がれたという吉報があり、同日、その旨のお触れがあった。(魚住注・これまた誤訳の可能性があるので、念のため原文を記しておく。「一 御家督被為済候御吉左右有之、同日御触有之候事」)
一 同十九日、江戸からの飛脚が着いた。
今月二日、式部さま(豊惇公)が江戸表に着かれた。同六日、老中の戸田山城守(忠温)さまの御宅へ出頭されるはずだったが、(江戸までの)道中より少々体調を崩されていたので、山内遠江守(豊賢・土佐新田藩主)が名代となり、首尾よくつとめを果たされたという吉報が届いた。この日から豊惇公を太守さまとお呼びすることになった。
一 同二十三日、江戸より早飛脚が到着した。
太守さまが「御村取」(=弓を削ってバランスを整えること。弓の手入れの一種)をされたとのこと、(つまりそうした作業ができるほど健康状態が改善したという知らせだったが)実は豊惇公は当月十八日の申の刻(午後4時ごろ)に亡くなられていた。
豊惇公と、その婚約者の姫君が同じ日に亡くなられるとは、恐ろしさで身がすくむ思いである。
一 当時、太守さまの御実名に差し支えがあり、高春と改名された。(魚住注・どういう差し支えがあったのか不明)
十一月
一 この月、豊信公が豊資公(第十二代藩主。豊熈の父)の御養子となられ、同二十六日、豊信公が国許を発たれた。
十二月二十日、江戸到着、同二十八日、御家督の相続を仰せつけられた。
式部豊惇公は長々の病気のため隠居を仰せつけられるようにというお願いはすでに幕府の承認を得ており、豊惇公は隠居、よって右の通りの家督相続となった。
ただし右のお触れは翌年になって出た。注⑦
【注⑦。この山内家の家督相続の過程は少々複雑なので平尾道雄著『土佐藩』の記述を借りて整理しておく。「(第十三代藩主の豊熈の)体質は必ずしも強健でなく、嘉永元年(1848)七月十日、三十七歳で世を辞した。
豊熈の配偶は薩摩藩主島津斉彬の妹(名は候子)であったが嗣子がなく、弟豊惇(第十四代藩主)が家督を相続した。しかも江戸に出て将軍に謁見し、襲封の礼も述べないうちに九月十八日に急病死したのである。二十六歳であった。嗣子もまだ定まらず、幕府の相続法によれば、山内家断絶の処置も考えられた。そのために親戚や重臣は協議してその喪を秘し継嗣を選考したが、豊惇の弟豊矩はすでに分家の麻布山内の養嗣となっているし、その次の弟豊範は余りに幼年である。そのほか一門諸公子のうち資質と年齢ともに最適のものとして選ばれたのが南邸山内豊著(第十二代藩主豊資の弟)の嫡子豊信(第十五代藩主。容堂)であった。すなわち豊惇の隠居、豊信の養子相続を幕府に請願し、同年十二月二十七日にその許可を受け、翌年二月十八日になって豊惇の喪を発表したのである。この裏面運動は公然の秘密として進められたもので、親戚にあたる薩摩の島津斉彬をはじめ筑前福岡の黒田斉溥、津の藤堂高猷、宇和島の伊達宗城など有力諸侯の尽力があり、ことに島津斉彬は山内豊熈内室の実兄であったばかりでなく、幕府の老中阿部正弘とは政治的に深く相容した関係だったので、この相続運動はなんの支障もなく成功させることができた】
(続)