わき道をゆく第180回 現代語訳・保古飛呂比 その④
弘化四年丁未(訓読みでひのとひつじ、音読みでていび。西暦1847年) 十八歳
正月
一 この月二十六日、(豊熈公の御代)父上が御褒詞(ほめたたえる言葉)を賜る。(魚住注・次は御褒詞の文面。例によって誤訳の可能性も)
先だって奇特の書面を差し出した件につき、(太守さまが?)御覧になって奇特に思召された。よって右の御褒詞を申し聞かせる。なお書面の趣旨は考慮なされる等々とおっしゃっておられる。
養徳院さま(豊熈公)は明君にあらせられて、身分の低い者のことばにも耳を傾けると言っておられたが、格別建白等をする者がいなかった。父上が昨年、建白書を差し上げたところ、このように仰せられた。ありがたいことである。
四月
一 この月、今枝甚左衛門の次女と婚礼。同十九日に離別。実のところ、(次女は)去年の十二月十三日から(我が家に)越して来ていた。
(参考)
一 同二十七日、太守さま(豊熈公)が江戸から帰国され、お城に入られた。
なお、太守さまは異国船対策や藩内巡視などのため、早めに帰国したいとの(幕府への)お願いをしたうえで、通例よりお早くお城に戻られた。
(魚住注・次の記述は土佐藩の異国船対策に関するものだが、江戸時代の武家特有の用語がたくさん出てくるので、解読が難しい。よって、私がわかる範囲で注釈をつけながら原文を少しずつ紹介していく)
一 此月二十八日、藩ニテ左ノ通リ、
異国船為御手当、外輪御物頭拾二人御差備、
【異国船御手当=異国船対策=のため、外輪物頭十二人を御差し備え、と読むのだろう。物頭は武士の格式で、家老・中老に次ぐ中間管理職クラス。では外輪とは何か。藩の行政機関は近習(きんじゅ)と外輪(とがわ)に分かれ、前者は内政官、後者は外政官。平尾道雄著『土佐藩』によれば、「前者は内政官として藩主の江戸参勤に側近する者に近習家老があり、側用役や内用役・納戸役がこれに付属し、その勤務を監察するものに近習目付がある。(中略)後者は外政官として執政の任に奉行職二人または三人が家老のうちから選任せられ、月番をもって政務を担当するのである。その下に仕置役を置いて参政の任に当て、その付属機関には民政方面に町奉行・郡奉行・浦奉行があり、徴税官としては免奉行、営繕関係には普請奉行と作事奉行、会計事務には勘定奉行や銀奉行、林政官には山奉行があり、船奉行は造船や航海を管掌した」。ということは、異国船対策のため、外政に携わる物頭十二人を指名し、備えさせたという意味だと解していいのではないか】
甲浦(かんのうら)・佐喜浜・室津・上川口・清水・三崎浦々役家被立置、一人宛交代ヲ以定詰、尤甲浦ハ御殿ニ詰メ、
【甲浦・佐喜浜・室津は室戸岬近辺の海岸集落、上川口・清水・三崎は足摺岬近辺の海岸集落を指す。役家とは、領主による夫役を負担する上層農民のこと。彼らを甲浦など六カ所に「立て置かれ」とあるから、異国船の出没を監視する役として配置したのだろうか。つづいて「一人宛交代ヲ以定詰」は外輪物頭十二人を甲浦をはじめとする六カ所に「一人ずつ交代で常駐させた」の意か。最後の「尤甲浦ハ御殿ニ詰メ」の「尤」は「もっとも」と読み、「御殿」には 「近世、将軍や諸大名が各地に設けた、宿泊、休憩のための施設」(精選版日本国語大辞典)という意味がある。甲浦は徳島県との県境近くにあり、高知城からかなり遠いので、藩主が巡見する際の宿泊・休憩施設が設けられていたのではないか。そこに外輪物頭が詰めたと解釈できるのではないか。いずれにしろ土佐藩が「外輪物頭」や「役家」を動員して警戒にあたったのは、高知県東部海岸の室戸岬と、西部海岸の足摺岬だという点をまず第一に押さえておきたい】
且又(かつまた)御家老中ヘ年番固場所取切被仰付、手詰(手結?)ヨリ種崎迠(まで)固場(かためば)赤岡、翌申年三月ヨリ固場前浜被仰付、
【年番は一年ごとに交代して勤番すること。固場所=固場は海岸防備の拠点。家老たちが一年ごとの交代で海岸防備の拠点を取り仕切るよう命じられたという意味だろう。種崎~手詰(手結?)は、高知城に直結する浦戸湾の入口から東へのびる海岸線で、その拠点として最初は赤岡(手結~種崎の中間地点)が、翌年三月からは前浜(同じく手結~種崎の中間地点だが、赤岡より少し西へずれた位置にある)が指定されたということだろう】
一明組深尾内匠組・山内下総組・柴田備後組・山内左織組、浦戸ヨリ宇佐浦迠固場長浜、翌申年三月ヨリ浦戸ヨリ仁ノ村迠ト御差替、
二明組深尾弘人組・山内昇之助組・桐間蔵人組・福岡宮内組、
右二場所ヘ一組宛順番ヲ以テ相守候様被仰付、
【深尾内匠ら八人の名前を冠した組が列挙されているが、彼らはいずれも土佐藩の家老である。では一明組、二明組とは何か。参考になる記述が『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』にある。「もと土佐には何組、何組といふて、すべて十二組ある。之を御馬廻組と称して、家老がその組頭となる。尤も一明組と二明組は、家が断絶した為に組頭も家老ではなかつた。外に扈従組と云ふのがあるが、これは旗本である。又御留守居組は平士の下級にて十二組扈従組の以外の者だ。この十二組の中に、一組二十人位づつ郷士を組入れた。郷士は総計八百戸あつた。組以外の者は、小組郷士というて、郷士頭が支配した」。つまり一明組、二明組は家老より格下の者に率いられた御馬廻組集団ということになる。
また「浦戸ヨリ宇佐浦迠」は高知城に直結する浦戸湾の入口から西へのびる海岸の防備線を指し、「固場長浜」はその中間にある拠点。翌年三月からこの防備線の西端が宇佐浦から仁ノ村に変更されたのだろう。
結局、高知城の守りは浦戸湾入口から東西二方面にのびる海岸防備線が最重要視され、そこを家老に率いられた御馬廻組集団が固めたということになる。最後の「右二場所ヘ一組宛順番ヲ以て…」は、家老たちが一人ずつ交代で自分の部下たちを指揮して固場の警護にあたるよう命じられたという意味と思われるが、「右二場所」がどこを指すのか。全体の文脈からすれば、浦戸湾入口から東西にのびる二つの海岸防備線・あるいはその拠点を指すと思われるが、断定する自信はない。とにかくこの海岸防備に関するくだりは難解で、私の解釈が間違っているところがかなりあると思われる。他日、正確を期したい】
九月
一 この月二十六日、藤並大明神(原注・祭神は一豊公)のお祭りで花台(=山車の台上に人形や歌舞伎の場面を飾り付けたもの)がお屋敷の前を通る際、ご隠居さま(原注・豊資公)が桟敷(=祭りの行列の見物などのため、道路に面してつくった仮設席)にお出でになってご覧になるので道路が通行止めになった。ところが「中山左近馬両人ニテ」(この箇所だけ原文表記。注①)花台の下に密かに乗り込み、道路を通ってしまった。そのことが自然に世間に漏れ、不束な行為ではないかとの疑いがあるとして支配頭(注②)から(藩庁に)お伺いを立てたところ、祭日のことであり、そのうえご隠居様は目障りにならなかったと言われたので、このたびはお咎めなしで、今後気をつけるよう申し聞かされた。酔ったうえでの不祥事であり、恐縮した。実は往来止めに対して不平のあまり、わざとやったことだった。
中山という男は大変な酒狂人で、時々抜刀などする癖がある。皆が彼を恐れ、神祭などの酒席に同行する人はいない。しかし、自分と同行の時はおとなしくしている。
【注①中山は姓、左近馬は名で、中山左近馬という一人の人物のことを書いていると思われるのだが、ならば「両人ニテ」というくだりは不要のはず。としたら中山と左近馬は別人である可能性が考えられるが、左近馬は姓ではなく、名だと考えたほうが自然。ならば一人は姓を書き、もう一人は名だけを書くというのも不自然。正解わからず。
注②支配頭の意味を辞書で調べたのだが、なかなか見つからない。ただ、日本大百科全書(ニッポニカ)の「組頭」の説明に「戦国時代から江戸時代の武士の役職。戦国時代から江戸時代には、武士は、軍事のための番役(=代わる代わる順番に当たる勤務)を課せられ、番頭(ばんがしら)に支配されたが、番役はさらにいくつかの組に分けて編成された。その各組の長を組頭といい、番頭の下で組下の武士の統轄にあたった」とある。さらに『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』には、次のようなくだりがある。「(豊信公は)上下疎通、言語開放といふことを新太守としての立場とせられた。九月九日、御家老中有役の面々を召されて、夫を宣言された。自分等も支配頭の宅で、その思召を拝承したが、其の大意は……従前は献言などを致す場合は、支配頭へ申出る等、種々面倒な手続があつたが、スッパリ夫を廃して仕舞ひ、御近習目付へ直接申出る。もし近習目付が出勤して居ない時には、御用役迄、御用役が詰刻中ならば、直に二ノ丸(=本丸に隣接した城主の館)へ罷出で苦しうないといふことになつた」。この佐佐木の口ぶりから推測して、支配頭=組頭と考えてもいいのではなかろうか。間違っているかもしれないが】
一 当時、従弟の原平三郎、ならびに池田傳之進・平瀬貫吉と、毎月六回ずつ、軍書の回読をし、しきりに勤王論を唱えた。されど池田・平瀬はそれほどでもなく、平三郎と自分の二人がことに慷慨した。
平三郎は最も高山彦九郎先生(=江戸時代中期の尊皇運動家。京都の二条大橋で御所に向かって拝跪した奇行で知られる)を仰慕した。
十二月
一 この月二十五日、奥頭取物頭格・原増右衛門の長女と婚礼した。(注③)
【注③物頭が家老、中老に次ぐ格式で、中間管理職クラスであることはすでに述べた。その物頭の中でも奥頭取というからにはトップクラスに近かったのでは。私の推測だが】
一 この年、「御人指ヲ以テ」(藩主による演武者の指名によって、の意か。あくまでも私の推測だから間違っているかも)槍術をご覧になるというので出勤した。
一 同年、鎗術を再びご覧になった際、出勤した。
一 同年、歳末より家事向きのことはことごとく父上から委託された。
もっとも自分は昨年末より家事に関わっていたが、父上は本年より一切御取り扱いにならなくなった。それなのに積年の困窮により負債がかさみ、極貧窮となって苦心惨憺した。
(続)
【魚住より読者へ。今回はいろいろ調べることが多くて、あまり先へ進みませんでした。自分の無知・無教養を思い知らされる日々です】