わき道をゆく第182回 現代語訳・保古飛呂比 その⑥
魚住より読者の方々へお断り。これまで(原注○○)とか(魚住注○○)といった表記をしてきましたが、読みづらいかと思われるので、これからは著者側がつけた原注の場合は[]とし、訳者である私が文意を解説したり、補足したりする際は()で表記することとします。
嘉永二年 己酉(音読みできゆう。訓読みでつちのと・とり) 佐佐木高行 二十歳
正月
一 この月元日、(藩においては家臣からの)御礼(の儀式)を受けられたが、父子とも病気につき出勤せず。ただし、(公的な御礼の儀式は行うものの)家臣間での私的な祝賀はしてはいけないという趣旨のお触れがあった。
一 同六日、女児が誕生、千勢と名付ける。
母は原増右衛門の長女・多尾。注①
【注①多尾は奥頭取物頭格・原増右衛門の長女。高行と前々年の十二月に結婚している】
一 同十一日、毎年恒例の御馬御馭初めは、豊惇公の隠居(実際には前年九月十八日に死去)、豊信公の家督相続のお願いを幕府に出している最中なので取りやめになった。
ただし、この取りやめのお触れは、昨年十二月二十八日の豊信公の家督相続前に出されていた。
一 同十二日、豊惇公をご隠居様、豊信公を太守さまとお呼びするとのお触れ。
一 昨年中より、小原與一郎・島村孫八(この後の記述を読めばわかるが、島村は島崎の誤記とみられる)・土居忠之丞などと毎日六回?、随筆書を会読する。注②
【注②原文は「日々六回随筆書会読ス」。会読とは、何人かの人が集まって読書し、議論することだが、合宿でもしないかぎり、日に六回も集まって会読するのは難しい。とすると、会読を毎日つづけて計六回やったという意味か。現時点では意味不明】
小原は勤皇家。島崎は篤実で役人としての才能がある。二人は時々、勘定奉行などをつとめたことがあり、土居は平凡な人である。いずれも自分より二十五、六歳から三十歳ほど年長なので、大いに勉強になった。
さてまた、島崎氏は養徳院さま(第十三代藩主・豊熈公)の御納戸役(藩主の調度や衣服の出し入れを管理する役)を勤めた。その島崎氏が言うには、私(佐佐木高行)の曾祖父である忠三郎さまは天明の御改革の際、すこぶる功績があったが、靖徳院さま(第九代藩主・豊雍公)が早く亡くなられたため十分な御賞与を頂戴できなかった。そのことを養徳院さまはお心にかけておられて、おいおい(佐佐木家の子孫を)お取り立てなされるかと思っていたら、同公も亡くなられた。はなはだ残念であると。これは正月ごろ、島崎氏が内々に話してくれたことである。注③
【注③。『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』で高行はこう語っている。「自分の曾祖父に忠三郎高光といふ方があつた。恰も天明年間のことで、土佐もまた大飢饉であつたが、其時(天明七年)抜擢されて、勘定奉行になつた。いふ迄もなく経済の役だ。これが山内家に仕へて以来本役に就いた始めである。藩公は九代目靖徳院豊雍公であつて、山内家中興の御方と称せらるゝ程の御聡明で、当時国政疲弊して言路塞がり、上意下に通ぜず、下情上に達せず賄賂公行し、窮民塗炭に苦しむといふ有様であつたからして、是儘ではいかぬといふので、幕府に請うて、十カ年を限り、参勤交代の儀式を、十万石の資格でなさるゝといふことにされ更始一新の政を布かれ、朝夕の食餉より、衣服に至るまで、太守公自ら節倹せられ、凡ての冗費を省き、文武を奨励し、屡々政庁に出で、庶政を聞き、孝子貞婦には、自ら其家に到りて褒賞せらるゝといふので、数年ならずして、秕政頓に革まり、財庫も亦漸く回復して参つた。然るに残念なことには、公は御短命で、改革を宣せられてから三年目に、御年四十で逝去せられた」】
(参考)
一 この月朔日(ついたち)、太守さまが月次御礼(つきなみおんれい。諸大名が原則として毎月一、十五、二十八日に江戸城に行き、将軍に謁見すること)を申し上げられた旨を拝承した。
一 同十日、昨年より江戸表に詰めていた御奉行の山内昇之助殿が土佐に着いた。
一 同十三日、太守さまが兵庫助と改名されたとのこと。
一 同二十五日、太守さまが(将軍に)御礼を申し上げられたとの(正式な)お知らせが(江戸から)あり、(登城して)御祝詞を申し上げた。
(参考)
一 同二十六日、今月十七日、ご隠居様のご病気が重くなられたことを知らせる使者として大扈従の小谷善五郎が江戸から到着した。
一 同二十八日、昨年から江戸表に詰めていた御奉行の山内太郎左衛門殿が到着した。
一 同二十九日、お見舞いのため、家臣一同が三ノ丸へ参上するはずのところ、父子ともに病気につき出勤せず。
三月
一 この月朔日夜、江戸からの伝令使(原文は御使母衣)原半左衛門が到着。
ご隠居様(豊惇公)が先月十八日に亡くなられたとのことで、よって三ノ丸へ家臣一同が出仕、自分も父とともに登城してお悔やみを申し上げた。
ただし、実のところは、養徳院さま(豊熈公)が亡くなられたのに引きつづき豊惇さまも亡くなられた。家督相続をどうするか異論があり、家臣一同は申すに及ばず、それ以下の者たちまで心配していたところ、豊信公の相続と決まり、一同安心した。そして、幕府に対する根回しや諸手続も済んだので、表向きの逝去のご沙汰があったのである。
一 同二十二日、ご隠居さまのご遺骸が着いた。よって父上とともに山田橋の例の場所に麻上下(かみしも)を着用してまかり出た。
落髪(=髪をそり落として仏門に入ること)したのは佐野斧弥太。御児扈従(元服前の若い小姓)の時分から(ご隠居さまに)仕えた人である。百ケ日まで落髪(し、以後は髪を伸ばして還俗)するのは先例の通りである。
一 同二十三日、ご遺骸は眞如寺山へ葬送され、(葬儀は)滞りなく済んだ。
(参考)
一 同二十日、江戸において老中・戸田山城守(忠温)さまが来臨され、太守さまが家督を継がれて初めてご帰国のお暇をいただかれた。この際、(戸田山城守を通じて将軍から?)いただいたものは先例の通り。もっとも、家督を継いで初めてのことなので御刀を拝領した。
一 同二十六日、二十七日、二十八日、眞如寺で法要が行われ、父子ともに二十七日の四ツ時(午前十時ごろ)より出勤した。
四月
一 この月九日、この日より諸士(=多くの侍)は月代(さかやき=前頭部から頭頂部にかけての頭髪をそり上げた部分)を剃った。
というのも、(ご隠居さまの)満五十日忌が済んだためで、先例の通り。
(参考)
一 同二十二日、太守さまが江戸を発たれるはずだったが、同二十七日までご延期。
閏四月
一、この月朔日、太守さまが家督を継がれて初めて(将軍から?)御巻物・御腰物・御馬等を拝領されたことと、かつ、家督をつがれてから初めて御手傳役を仰せつけられたことについてご祝詞を申し上げるため、三ノ丸へ参上した。
御手傳は大名にとって迷惑なことだが、このたびはご不幸が打ち続いたので、御手傳役をお受けするのは当たり前だと思った。注④
【注④『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』に次のような記述がある。「嘉永二年の夏、(豊信)公には幕府から、家督始御手傳役といふのを仰せ付けられた。この御手傳を拝命すると、大層物入のある事で、どの大名でも嫌ふのであるけれども、御当家は、種々御不幸の後であるからして、御手傳は当り前の事と、下々でも噂をした」】
一 閏四月三、三[ママ](四の間違いか)、五日、譲恭院さま(豊惇公の戒名)の御百[ママ]回忌の法要が期日を早めて行われたので、父子とも拝礼のため眞如寺にまかり出た。
一 同十一日、御馬御馭初めがあったので、父の代わりをつとめた。
御馭初めは、藩祖である大通院(山内)一豊公の時代からのめでたいしきたりで、本来なら正月十一日のところ、本年は家督相続等の都合で延期された。
一 同二十三日、太守さまがお城に着かれた。その際、父上と一緒に例の場所(山田弘小路)にお迎えに出た。
本山(高知県北部、藩主が参勤交代の際に通る土佐街道沿いの場所)から事前に(太守一行がまもなく城下に入るという)連絡があって、午後四時ごろ着かれた。即刻三ノ丸でご祝詞を申し上げる。
五月
一 この月朔日、太守さまが初めてお国入りされたので、家臣たちが総お目見え。その際、午前六時ごろ、家老の柴田備後殿の御宅に集まり、日行司(当日の世話役の意か?)の島崎孫八に届けた(原文は「柴田備後殿御宅ヘ相集リ、日行司島崎孫八ヘ相届ク」。取りあえず、「届けた」としたが、誤訳かも)。
そこから三ノ丸へ罷り出て太守さまにお目見え、その際、鳥目(金銭の異称)を差しあげた。(家臣が主君に金銭を差し上げるというのはちょっと変だが、原文は「其節鳥目差上候事」となっている)
一 同五日、端午の節句のご祝詞を申し上げるため、父子ともに三ノ丸へ出仕。
一 同十日、三ノ丸において、太守さまの十三箇条の御諚書(=貴人の命令やことばを記したもの)を拝承するよう仰せ付けられた。
ただし、これは家督を継がれて御一代に一度の習わし。
一 同十三日、剣術式の日なので南会所(土佐藩の役所)へ出勤。
ただし南会所は政庁であって、その大広間をもって武芸式等の場所としている。
六月
一 この月朔日、毎月恒例の出仕のため登城。
一 同八日、内膳さま(第十二代藩主・豊資の三男)が先ごろよりご病気であったが、ついに同日亡くなられた。これにより、十五日間は楽器類の使用が禁じられた。内膳さまの遺骸の眞如寺への葬送にともない、父上はお寺詰めを仰せつけられる。
内膳さまは少将さま(原注・豊資公)の三男で、去年三月十七日、ご一族の山内遠守さま[麻布さまと言う]の養子になられ、つづいて江戸へ登る道中に病気になられた。そのため先月中旬ごろ、帰国してご養生しておられたが、ついに右の次第となった。内膳さまは一族の中の逸材で文武ともに志が厚く、誠実かつ落ち着いた人柄であらせられた。その威望といい、徳望といい、衆人みな嘱望していた。このたび養徳院さま・譲恭院さまがご逝去された後は内膳さまが家督を継がれる順番だったが、内膳さまはすでに山内遠江守さまの養子に入られていたので、現在の太守さまである豊信公が相続され、景翁さま(=少将さま・豊資公)の末男である鹿次郎さま[豊範公]がその養子になられた。内膳さまは遠江守さまの家督を継がれた。遠江守さまは御分知末家(所領を分割相続した分家)で、家老と同じような位であり、現太守さまと上下関係が逆転した。誠にお気の毒なことであると我々は皆言っていたが、不幸にも鬱症にかかられ、ついに亡くなられた。何とも痛々しいことだと言うしかない。現太守さまは御厄介(当主の傍系親族で扶養される者)のお子様で、景翁さまには四人も男子がいたのに、誠に意外な家督相続となったわけである。内膳さまは本家の家督を継いで当然のお方だったのに、人間の幸不幸は実に計りがたいことである。
一 同十五日、十六日、養徳院さま[豊熈公]の一周忌法要につき、十五日、父子ともに参拝のため眞如寺へ出勤。日行司は父上。
七月
一 この月六日、太守さまが三ノ丸で槍術をご覧になるというので出勤。
一 同二十九日、妻[原増右衛門の長女]不縁につき離別。
ただし、家事困窮中の離別なので、女子の養育に十分な乳母を召し使うことができず、もらい乳あるいは摺粉(すりこ。注⑤)等で世話をし、ことのほか難儀する。祖母上がもっぱら世話をされる。自分も夜中などは幼児を抱き、昵懇の家へ乳を飲ませに連れ行き、あるいは、摺粉に入れる白砂糖を買うため、五、六丁離れた廿代町に通う。その白砂糖も貧窮しているため少々ずつ、毎夜のように買い求め、買う金がなくて大いに困ることもしばしばである。
【注⑤。摺粉。精選版日本国語大辞典に「米をすりばちですりくだいて粉にしたもの。湯で溶いて、乳児に母乳の代わりとして与えた。江戸時代には、火にかけて、汁飴(しるあめ)を加え甘味をつけて吸わせた」とある】
八月
一 この月二日、三日、泰嶺院さま(第十代藩主・山内豊策)の二十五年忌法要につき、同二日、眞如寺へ父子ともに出勤。
一 同十日、太守さまが三ノ丸で剣術をご覧になると仰せ出られたのに、病気のため出勤できず。
一 同十二、十三、十四日、覆載院さま(第四代藩主・豊昌公)の百五十年忌法要があり、そのため十二日五ツ時(午前八時ごろ)より眞如寺へ出勤。父上が日行司。
一 この月朔日、毎月の出勤日だが、病のため出勤できず。
一 同三日、鎗術式があり、出勤。
一 同十三日、剣術式があったが、病のため出勤できず。
一 同二十五日、このたびの家督相続の御祝儀としてお料理を頂戴するところにもかかわらず、病のため出勤できず。
ただし、家督を継がれると、家臣に鶴の料理をくださるのは以前からのしきたり通り。
十二月
一 この月朔日、毎月恒例の出仕日のため登城した。
一 このころ家計がままならず、中持業[口入師とも言う](人材、金銭などを幅広く扱う周旋業者を指すと思われる)の民蔵に頼み、所々で借金していろいろやりくりして、ようやく年の暮れの始末をつける。幸いに民蔵には妻子があり、乳も相応にあったので、しばらく半乳(母乳と米摺粉の半々?)にしたが、それも追々減少した。それゆえまたまた専ら米摺粉を用いるようになったが、砂糖等を一時にたくさん買い求めることが相変わらずできず、時々少々ずつ自分が買いに行く。以前同様、実に難儀なことだ。そういう困窮にもかかわらず、齋藤宅(佐佐木一家は、江戸に赴任した親類・齋藤内蔵太の留守宅に住んでいた)に住んでいるので、それほど家計が苦しいとは外面より見えなくてかえって困却することが多い。
嘉永三年庚戌(訓読みでかのえいぬ、音読みでこうじゅつ) 佐佐木高行 二十一歳
正月
一 この月元日、ご祝詞を申し上げるため登城し、お流れ(「酒席で、貴人や目上の人から杯を受けて、これについでもらう酒」デジタル大辞泉)の酒を頂戴。
一 同十一日、御馬御馭初めで父上の名代を勤める。
一 同十五日、御船御乗初めの予定だったが、太守さまの体調不良のため、同二十一日に延期され、自分も拝見しに行った。
二月
一 この月朔日、病のため、毎月恒例の登城せず。
一 同十三日、剣術式が行われ、出勤。
一 同十七日、十八日、譲恭院さま(豊惇公)の法要があったが、病のため出られず。
三月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 同二日、太守さまが御鷹の鶴を将軍から拝領され、そのお歓びとして登城。注⑥
【注⑥。精選版 日本国語大辞典に以下の解説がある。鶴の御成(つるのおなり)は「江戸幕府の年中行事の一つ。将軍みずから、毎年寒入り後、三河島・小松川・品川・目黒などの鶴の飼付場で行なった鷹狩。捕獲した鶴は御鷹の鶴と称して朝廷に献上し、また御三家その他の大名にも賜わった】
一 同二十一日、小原與一郎・前野常之丞・山田喜三之進と一緒に大砲の試し打ちを見物するため、仁井田浜へ行った。
四月
一 この月朔日、毎月恒例の拝謁のため登城。
一 同三日、槍術式があり、出勤。
一 同十五日、奥役物頭格・美濃部忠助の長女と縁組み、藩の許しを得て婚礼。
【注⑦。奥役がどういう地位だったか不明。物頭については、『勤王秘史 佐佐木老侯昔日談』に、土佐藩の武士の格式は、「家老、中老、物頭、相伴格、馬廻、新馬廻、御扈従格、新扈従、馬廻末子、新扈従末子、御留守居組、新御留守居組、白札、郷士、徒士の十五に分れて居た」とある。美濃部は物頭ではなく、物頭格だったとあるから、物頭に準じるポジションにあったと思われる。ちなみに、すでに述べたように佐佐木家は御扈従組なので、高行は自分より少し家格の高い家の長女を娶ったということになりそうだ】
(続)
(魚住より読者の方々へ。改めてお断りしておきますが、この原稿は東京大学史料編纂所編纂、東京大学出版会刊の『保古飛呂比 佐佐木高行日記』を底本にした現代語訳です。私の無知無教養ゆえに訳文に多くの誤りがあると思われます。ご容赦を)