わき道をゆく第256回 現代語訳・保古飛呂比 その79
一 (慶応三年)正月十二日より毎日出勤して、朝夕、俊姫のご離別案件について奔走した。藩政府も大いに疑い惑って、方針を決定しなかった。そのうち意外なことが起きた。離別の一件は勤王家の者たちみんなが大いに憂慮し、物議が起こり、道すがら耳打ちするような事態になったのだが、家老の山内下総殿へ、山川孫二郎[久大夫の父。久大夫は自分の同志で、特に懇意なので、実父の孫二郎も同様に懇意にしている]が、なにげなく、昵懇のゆえに、道すがら耳にした風聞を内々に話した。それを聞いた執政たちが早くも外に漏洩したかといってひどく怒りだした。とくに(執政の)深尾左馬之助殿は無二の佐幕家で開港論であるから、長州を忌み、憎み、勤王家をつねづね忌々しく思っていたのだが、この漏洩の件の探索を下横目の某に命じて、その報告を聞いていよいよ憤怒した。この機密を漏洩したのは、必ず犯人がいるはずだ、勤王家の機密に預かる者がいるためだ。必ず取り調べをして厳しく処置すべしと、恐ろしい勢いだとのこと。もっとも、(深尾左馬之助が)目指しているのは自分(高行自身のこと)だということを内通してくる人があった。そのわけは、自分は平素、勤王家だと執政たちは強く確信していて、またその通りなのだが、ことに今度は、最初山川氏の下総殿への内々の話がきっかけになっていて、山川氏は自分が最も親しい仲なので大いに嫌疑もかけられているようだ。そのうえ、昨年、開成館建築などのために御用金云々の話が持ち上がった際、自分が異論を唱え、深尾左馬之助殿と大議論し、遂に退役(この場合は役職から退くこと。高行はこのとき普請奉行・郡奉行を解任されている)を仰せつけられて以来、特ににらまれていた。(深尾殿は)執政たちのなかではずいぶん有力者であって、意地も悪い方だ。このため、思うに、自分が必ず第一番に取り調べを受けるに違いない。実に今日、大事の前の小事ではあるが、致し方なく、このうえは(機密を漏らした罪を自分の)身に引き受け、(自分)一人が切腹して自白すれば、他の者に累を及ぼさずに済む。自分は漏洩していないと主張する根拠もあり、またそれが本当の事なのだから屈するべきではないのだが、前述の通り、(藩上層部が)勤王を憎んでいる状況下で、今日はいささか勤王家が勢いを得ようとする時なので、必ず羅織(らしょく。種々に罪を作りかまえること。無罪の人を罪におとしいれること=精選版日本国語大辞典)して連累(他人のひき起こした事件や行為にかかわって、罪や迷惑をこうむること。かかりあい。まきぞえ=精選版日本国語大辞典)などをこしらえ、大獄を起こし、勤王家を挫く策に出る恐れがあるとして、決心したので、(妻の)貞衛に密かに(事情を)告げ、もしそうなったら、同志の人々に相談し、各自十分に用心して尽力すべしと申し含めて、取り調べの沙汰が今に来るだろうと待っていた。そうしたところ、幸いなことに、我が同志の大目付・本山只一郎が老公に対し、離別の件での機密漏洩について、執政たちが厳しく取り調べをして糺明すると言っていると申し上げたところ、老公は大いに笑われて、今日の天下の形勢容易ならざるときに、そのような私事について大獄を起こすことなどは執政の大量(この場合は度量が大きいこと。心が広いこと。また、そのさま=デジタル大辞泉)とも思えぬ。決して糺明は無用である。このことを執政たちに言い聞かせよということで、いわゆる鶴のひと声で立ち消えになったとのこと。それをまたまた内通して来たので、初めて生き返った心地がした。畢竟、老公のご英明によることであって、感涙したことである。
(俊姫の)離別の件については、君公の側近では林勝兵衛が、外輪役(注①)では自分が異議を申し出たため、遂にいろいろな議論も出て、藩政府の方針も定まらず、そのうち物議が起こり、あれこれと日を送っていた。そうするうち、先日上京した参政・福岡藤次はかねて離別の件に同意していて、上京したあとは徳大寺様お輿入れの件にも関わったが、京都の全体の情勢から見て、今日(太守さまが)離別なされると都合が悪いと言ってきたので、ついに当分(離別は)お取りやめになった。まずもって安心した。この(離別)の件では林と自分が大いに尽力し、土俵際でようやく踏みとどまって、大いに「守[ママ]返し」(※盛り返しの誤記か)、お取りやめになった。このことは、いささか臣下の職分を尽くした心地がして、愉快な気分だった。
この事件に関して、我が同志の者に横田祐造という、まだ若年ではあるが、いささか文筆の才のある者が、君公がまだ離別しないうちに徳大寺様と縁組みなさるのは二人の妻を娶ることに相当し、明律(注②)では二妻を娶る者は徒(労役のこと)何年と、罰則を付けて建白した。それに対し君公がひどく立腹されたと聞いて、またまた心配していたが、ようやく事なく済んで安心した。
【注①。土佐藩の行政の仕組みについては平尾道雄著『土佐藩』に簡潔な説明があるので、それを引用しておく。「行政機関は近習(きんじゅ)と外輪(とがわ)にわかれ、前者は内政官として藩主の江戸参勤に側近するものに近習家老があり、側用役や内用役・納戸役がこれに付属し、その勤務を監察するものに近習目付がある。江戸藩邸や京都藩邸には留守居役が任命されて渉外関係の任務に当り、大坂には在役が常駐して蔵屋敷を預かり、主として財務を作配した。後者は外政官として執政の任に奉行職二人または三人が家老のうちから選任せられ、月番をもって政務を担当するのである。その下に仕置役を置いて参政の任に当て、その付属機関には民政方面に町奉行・郡奉行・浦奉行があり、徴税官としては免奉行、営繕関係には普請奉行と作事奉行、会計事務には勘定奉行や銀奉行、林政官には山奉行があり、船奉行は造船や航海を管掌した。寺院や神社のためには特に社寺奉行を置かず、仕置役が直接これを管理することになっていたのである。司法警察には大目付があり、その下に小目付・徒目付・下横目を任命して風紀を監察させたのである。民政は町および郷・浦の三支配に区分された。町は町奉行、郷は郡奉行、浦は浦奉行が管掌するのであるが、その下部はそれぞれの地域において自治組織をもち、庄屋がこれを支配した。これを地下支配と称し、地下支配に対して仕置役場の直接支配するものを直支配(じきしはい)と称し、地下人のうちでも直支配に入る機会をもつことをその栄誉としたのである。」】
【注②。改訂新版 世界大百科事典によると、明律 (みんりつ)は「中国,明代の基本的刑法典。明の太祖朱元璋は創業の初め,1367年(呉1)に律令の制定に着手し,翌年これを公布した。のち三たび改定され,今日みる明律はその最後の97年(洪武30)に修定されたものである。唐律と異なり,名例,吏,戸,礼,兵,刑,工の7律から構成される。唐律を模範としながらも,宋・元の法制をふまえて時代に適応するよう形式,内容を新たにしている。たとえば,刺字(いれずみ)の刑や凌遅処死という極刑をとり入れ,唐律にくらべ厳格な刑罰体系になっている傾向がみられる。清律にもおおむね踏襲され,また日本,朝鮮,安南の法律に影響を与えた。」】
一 正月十五日ごろ、
皇太子がさる九日、践祚(天皇の位につくこと)されたと承った。
[参考]
一 同十七日、有栖川宮(有栖川宮熾仁親王のこと。注③)・九条尚忠公(注④)以下が許される。
九條入道
これまでふつつかの振る舞いがあって重慎(※慎みは精選版日本国語大辞典によると、江戸時代、公家(くげ)・武士に科した刑罰の一つ。自宅にこもり、外出することの許されないもの」だが、重慎は慎の重いものを指すかと思われる)を仰せつけられていたが、だんだん老年になり古希に達したので、特別なご憐愍をもって、このたび重慎・入洛禁止を免除すると摂政殿が命じられた。
ただし参内ならびに外出、他人との面会などについては追ってお沙汰がある。
住まいは洛外のこと。
ただし月々一度ばかり(洛中の自宅に)帰宅するのは構わない。(その際)一宿(一晩泊まること)のほかは許されない。
有栖川中務卿(有栖川宮熾仁親王のこと)
正親町大納言(正親町公董のこと。注⑤)
石山少将(石山基文のこと。禁門の変で長州サイドに立ったため、処分を受けた)
平松甲斐権介(平松時厚のこと。右に同じ)
五條少納言(五条為栄のこと。右に同じ)
五辻大夫
右はこれまで(先帝の)思し召しで、参内を止められ、他人との面会も禁じられ、間違いなく処分を受けるべきはずのところ、このたびのご凶事(先帝崩御)につき、格別の憐愍をもって出仕を仰せつけられたので、以後おのおのが堅固な改心をするようにと摂政殿が仰せになった。
廣幡大納言(広幡忠礼のこと。注⑥)
徳大寺中納言(徳大寺実則のこと。注⑦)
長谷三位(長谷信篤のこと。注⑧)
これまで(先帝の)思し召しがあり、自分遠慮(自発的な謹慎)と、参内・他人との面会を禁じられ、間違いなく処分を受けるべきはずのところ、このたびのご凶事(先帝崩御)につき、格別の憐愍をもって出仕を仰せつけられたので、以後おのおのが堅固な改心をするようにと命ぜられた。
東園中将
萬里小路前辯
これまで(先帝の)思し召しがあって、差し控え(自宅謹慎)を仰せつけられていたところ云々前文同断、これからは本番所へ出仕すること。
石山右兵衛権佐
これまで(先帝の)思し召しがあって、参内を止められ、他人との面会云々同断、これからは本番所へ出仕すること。
正月十七日
【注③。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう(1835―1895))は「幕末・明治時代の皇族。有栖川宮幟仁(たかひと)親王の長子。天保(てんぽう)6年2月19日生まれ。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷(そんのうじょうい)運動を支持。1864年(元治1)国事御用掛に任ぜられたが、同年の蛤御門(はまぐりごもん)の変(禁門の変)で長州藩士に荷担したゆえをもって謹慎を命ぜられた。1867年(慶応3)12月、王政復古とともに総裁職に就任。翌1868年の戊辰(ぼしん)戦争では2月、東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。のち、兵部卿(ひょうぶきょう)、福岡県知事、元老院議長を務め、1877年(明治10)の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任。日清(にっしん)戦争中の明治28年1月15日に没した。[大日方純夫]」】
【注④。朝日日本歴史人物事典によると、九条尚忠(くじょうひさただ。没年:明治4.8.21(1871.10.5)生年:寛政10.7.25(1798.9.5))は「幕末の公家。二条治孝と信子の子に生まれ,九条輔嗣の嗣子となる。安政5(1858)年日米修好通商条約の締結が朝幕間で問題化するなか関白として幕府との協調路線をとり,攘夷派廷臣と疎隔。将軍継嗣問題では徳川慶福(家茂)擁立を図る南紀派につく。幕府擁護の態度が孝明天皇や廷臣の不信を買い,同年9月内覧を辞職。のち幕府の援助により復職。和宮降嫁に当たってはこれを積極的に進め,公武合体に尽力。ために尊攘派志士の糾弾激しく,文久2(1862)年6月には関白・内覧をともに辞し,久我建通,岩倉具視らと落飾・重慎に処せられ九条村に閉居。慶応3(1867)年1月謹慎・入洛禁止を免除され,12月8日還俗を許される。(保延有美)」】
【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、正親町公董(おおぎまち-きんただ1839-1879)は「幕末-明治時代の公家(くげ),軍人。天保(てんぽう)10年1月24日生まれ。中山忠能(ただやす)の次男。正親町実徳(さねあつ)の養子。文久3年国事寄人(よりゅうど)となり,尊攘(そんじょう)活動をおこなうが,同年八月十八日の政変で差控処分。慶応3年にゆるされ,戊辰(ぼしん)戦争では奥羽追討総督をつとめた。明治2年陸軍少将。明治12年12月27日死去。41歳。」】
【注⑥。デジタル版 日本人名大辞典+Pluによると、広幡忠礼(ひろはた-ただあや1824-1897)は「江戸後期-明治時代の公卿(くぎょう),華族。文政7年6月28日生まれ。広幡基豊(もととよ)の長男。内大臣近衛忠煕(ただひろ)の猶子。文久2年国事御用掛となり,攘夷(じょうい)急進派として活躍し,翌年八月十八日の政変で参内停止の処分をうけた。慶応3年ゆるされ,内大臣。侯爵。貴族院議員。明治30年2月18日死去。74歳。」】
【注⑦。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、徳大寺実則(とくだいじさねのり。1839―1919)は「明治天皇の侍従長。天保(てんぽう)10年12月6日、右大臣徳大寺公純(きんいと)の長男に生まれる。西園寺公望(さいおんじきんもち)の兄。1862年(文久2)権中納言(ごんちゅうなごん)、国事御用掛となり、翌1863年議奏に進んだが、尊攘(そんじょう)派として活動したために、同年八月十八日の政変によって罷免された。王政復古後の1868年(明治1)新政府の参与、ついで議定となり、内国事務総督などを兼任。1870年の山口藩脱隊騒動の際には宣撫使(せんぶし)として出張した。1871年宮内省に入って侍従長となり、それ以後、一時期(1877年8月~1884年3月)を除いて、明治天皇の死去までその職にあった。この間、宮内卿(くないきょう)、華族局長、内大臣などを兼任。1911年(明治44)公爵となった。大正8年6月4日死去。[大日方純夫]」】
【注⑧。朝日日本歴史人物事典によると 長谷信篤(ながたに のぶあつ。没年:明治35.12.26(1902)生年:文政1.2.24(1818.3.30))は「幕末明治期の政治家。公卿高倉永雅の子。刑 部 卿長谷信好の養子に入る。号は騰雲,梧園,梧岡。嘉永・安政期(1848~59)は,国事書記御用,議奏加勢,国事御用掛として朝幕問題にかかわった。文久3(1863)年議奏となるが同年8月18日政変で罷免された。慶応3(1867)年議奏に復職,維新政府が成立すると参与,次いで議定。また刑法官事務総督から大津裁判所総督を兼ねる。明治1(1868)年閏4月から8年まで京都府知事。元老院成立で議官となり10年まで勤める。17年子爵。23年貴族院子爵互選議員となる。同院内の研究会派に属した。(酒田正敏)」】
[参考]
一 正月二十三日、幕府が命令を発し、国喪(国全体が服する喪)により長州征討の兵を解く。すなわち左記の通り。
壱岐守(老中・小笠原長行)から通達された文書
御所よりのお沙汰の趣旨もあって、長防の征討はしばらく兵事を見合わせていたが、このたびの国喪につき、(征討軍)一同を解兵せよとのご命令があった。
一 國澤氏の書簡、左記の通り。
(お手紙を)拝見しました。仰せのように、苦心とはこのことであります。このうえは明後日にひとまず出勤するつもりです。「別紙ハ(中山)左衛士より相廻し可申」(※正確な意味が分からないので原文そのまま引用。この國澤書簡には中山からの書簡も同封されていて、そのことを断ったものと思われるのだが・・・)。明後日にご出勤の際、ちょっとお立ち寄りを願います。ほかのことはお目にかかったときに申し述べます。貴兄のお手紙に対する返事を取り急ぎ。頓首。
正月二十四日 國澤四郎右衛門
佐々木三四郞さま
廻達(次々に送り届けること。順送りに回して知らせること=デジタル大辞泉)した文書は上包みを取り落としてしまいました。まだお目付衆にご返却でなければ、お包みを願います。万一、お返しになっていれば、僕より「挨拶可致」(※意味がよく分からないので原文そのまま引用)、とりあえず(替わりの上包みを使いの者に)持たせて差し出します。ところで、これまで(関係者)三人に聞いたところでは、前に述べたことと大して変わらず、いささかもご詮議中とは聞いていません。このことは実に理解できません。しかしながら、本山氏の手紙では、今一度出勤しなくては不十分なようです。きっぱりと決意したことも狼狽するありさまで、まことに不安なことです。しかしそれでも、(君公の)ためになることであれば、馬となり牛となるとも苦しからず(※どっちつかずの意か)は、臣下の分際ではあるまじきことではないでしょうか。貴兄のご決意を承りたいと思います。早々頓首。
君の為になればこそ出れ泥にたにもふれて人に指ささるとも
この手紙を書いているとき、一首詠みました。ご笑読ください。火中々々(※駄作なので火中に投じてくださいという意味か)
正月二十五日 國澤四郎右衛門
佐々木三四郞さま
(以下は佐々木の所感)右の苦心うんぬんは、武市半平太に連座した面々で禁獄中の者は赦免するべきであると申し立てたところ、非常にうまくいきかけてはまた逆戻りして、なんともわからず、何度も「晴れ曇り」(※事態が転変することを指すか)したことである。今日は早くそのような面々を赦免し、今の藩政府組と協力し合うようにするのが肝要と、しきりに周旋したのだが、最早力尽きた心地がしたためである。
一 中山(左衛士)氏の書簡、左記の通り。
貴殿のお手紙をかたじけなく拝読しました。それにしても、最近の藩政府の様子はますますにっちもさっちもいかなくなっていて、この調子では勤新[勤は勤王家、新とは吉田派のことである。世に新調組という]が和することも難しく、破裂の勢いです。とかく新の方は牡丹[牡丹とは、古流の槍術の牡丹が大きく、近年は小牡丹で稽古している。ゆえに大牡丹は因循固陋の諺となり、大の字を除いても通じる](※魚住注。精選版 日本国語大辞典によると、牡丹槍は「稽古用の槍で、木竿の先に綿または毛を布でまるく包んでつけたもの」)で、何とも気の毒千万、調和に向けてこれまでお互いに力を尽くしてきましたが、このうえは破裂した方がかえって国事のためになるかとも存じます。かつまた寅五郎の一件(注⑨)、これは先代以来絶えてなかった二重罰(同じ事案について重ねて処罰すること)とは違うように思います。「依て起處有之上は」(※根拠とするところがある以上、という意味かと思うが、自信がないので原文引用)、真の二重罰というわけは決してありえません。小生なども「初罰」(※処罰の誤記か)を必ず一見することにしておりますが、「発し候時居合不申からはどふのぬくいなりに出勤」(※よくわからないのだが、ひょっとしたら、刑を言い渡したときにその場におらず、刑が執行された後、死体の胴の温かいときに出勤したという意味かも)、大事の中の小事ゆえ、「御場所の明け渡し」(※小目付という役職を空位にすることか)も恐れ多く、いずれ近いうちにお沙汰があると思います。まずは以上のことだけを取り急ぎお知らせします。叩首(頭を地につけて礼拝すること。ぬかずくこと=精選版日本国語大辞典)
正月 [中山左衛士]鉛鎗生
竹槍先生
(高行自身の追記)私のことを竹槍先生と呼んでいるのは、さる十日、佐佐木氏の竹槍で叩き立てられ云々と渡邊彌久馬が言ったため、みんなが(私のことを)竹槍と言うようになった。中山左衛士はその際、黙ったままだったとして、自ら鉛鎗と称した。
【注⑨。この辺りの事情については『佐佐木老候昔日談』で詳しく語られているので、それを引用する。「実に当今の政府は、一寸先は暗であると同僚とも話合った事であるが、自分が多少政府に望を屬したといふのは、吉田派即ち新調組との調和である。昨年以来同志と共に之に就ては殆んど全力を濺いで尽力し、新調組の中にも大分自分等の方へ傾いて来た者もある。由比や神山なども、余程目が醒めて来た様子であるが、眞邊や西野抔は頑迷守株なほ固く佐幕主義を取つて居る。従つて自分等に対しては、外の者と一緒になつては兎角反対を唱へる。此頃武市派の河野等が終身禁錮となつて居る。『天下危急の時に方つて、アアいふ有為の材を禁獄して置くのは、如何にも残念である。早く赦免して国事に奔走させたが宜い』と、その赦免を政府に迫つた。すると政府でも、夫を採用しかけては又後戻りする。佐幕家は『アアいふ謀叛人を出獄させるのは、恰も虎を野に放つと一斑頗る危険で、土佐国は治まりはしない』と激烈に反対する。自分等は必死になつて之を駁し、また運びかかつてはコワれて了ふ。実に不平で溜らぬ。政府にも愛想が尽きた。病気もあるし、旁挂冠しやうと決心して、同志の本山に書面を送つて、その周旋を依頼した。(中略)本山も驚いてまた留任を勧告する。中山も國澤も『今君に引かれては、今後の方針が立たぬから、是非思ひ留つて呉れ』との事。さういふことなら、是非ないから、之に就ては互に身命を抛つても尽力しやうじゃないかといふ處で、一先づ思ひ留つた。其の中、御目付方で失策があつた。・・・といふのは、寅五郎といふ殺人犯があつて、目付に於て死刑の宣告を下した。すると、名は忘れたが、何とかいふ人が、『寅五郎は仇敵で、是非復讐したいから、死刑執行前に一本突かせて貰ひたい』と願ひ出た。法律上いかぬ事は分つて居るが、其の心情の諒とすべきものがるので、之を許可した。處が夫が八釜敷なつて、大法に服した罪人を死刑前に突かせるなどといふ事は、先代以来絶無の事だ抔と反対派からは盛に攻撃する。もとよりこれは目付方の粗漏に違ひないので孰れも謹慎を命ぜられた。自分は丁度辞職によい機と思うて、更に本山迄申出たが、兄に今辞職されれば同志の勢力がなくなる。野に在つて尽力されるよりも、現地位の方が萬事であるからと云うて、またかたく引留められて、本意を達する事が出来なかつた。」】
一 本山(只一郎)氏に送った書簡、左記の通り。
前略、僕が病床で繰り返し考えたところ、僕の病状はしばしば述べた通りで、いましばらく保養して、春の終わりになれば快方に至るかもしれません。それまでは思うままに養生しなければ、結局、本来の体調に戻ることがかないません。また死にも至らずとも、いわゆる因循病(※たちの悪い慢性病のことか)となるでしょう。まことに慨嘆するとはこのことであります。つきましては、いましばらく官職を離れ、思うままに保養して、早く全快するようさらにいっそう祈願したく思います。ところで、尊兄は(私に)すこぶる哀憐を垂れ、随意に勤めよという懇切なお言葉をくださり、まことにもってかたじけなく、感謝の言葉もありません。であれば命ぜられた通りに勤めることは当然のことでありますが、一日も官職にあれば、一日の責任があります。ことに現在一日もグズグズしていられぬ時勢であることはいたいけな子供もよく知るところですが、(藩政府の)局内に入っては実行できぬ事柄が多々あります。それゆえ藩政府の状況も、とかく大平のために身についた習性を免れない点も少なくないので、下っ端の役人ですが、機密にも関係し、軍制にも関与する職に任ぜられた以上は、労力を厭わずに自分の職の責任を果たし、少しでも藩政府の補助となるよう尽力しなければ、すまないと思っています。貴兄は僕よりはるかに先輩の官僚であって、これまで尽力の功も立てられていますが、僕に至っては、九州より帰るやいなや病に冒され、今の官職(小目付)に任じられても、また同じことで、いまだ少しも尽力せず、このまま官職を占めていては、内心において実に穏やかでないのですが、諺に病むに主なし(病気は貴賤上下を問わずだれにでも取りついていくことのたとえ=デジタル大辞泉)というように、いわゆる思うにまかせず、いたずらに時を過ごすのは、心苦しくてたまりません。いかに苦心してもその甲斐がなく、まことにもって我が責任を果たすことができない罪は免れません。こうなればいましばらく休暇をいただいて、思うままに養生し、永久の御奉公をしたいという気持ちが片時も止まず、何とぞ僕の苦しい心中をお汲み取りいただき、よろしくご周旋をお願いします。この件は藩政府へも申し出るつもりです。仰ぎ願わくは、貴兄をひとえにお頼み申し上げます。頓首。
正月 佐々木三四郞
本山只一郎さま
二月
一 中山氏の書簡、左記の通り。
お風邪により(自宅に)引き籠もりとのこと、ご自愛専一になさってください。ご不平病の事でしょうから、押してご出勤されるように願います。別紙をお廻しになった件につき、詳しいことをお話ししたいと存じます。大洲藩のご使者は、一人は松本半蔵という人です。まずは右のご報告まで。以上。
二月二日 鉛鎗拝
竹鉛鎗先生
(高行の補足)右は、昨年の太宰府行きの前後、だいぶ藩政府も前向きになったような状況だったので、これよりは藩政府と勤王党とが心を合わせるようになって、武市派の入獄の面々も赦免されるようにしたいと思っていたところ、またまた雲霧が来て、何やら分からぬ折りから、持病も再発し、最早辞職するほかに手はなしと、毎々申し出たので、このように中山より言ってきた。
(続。今回は意味のわかりにくい個所が多くて、作業が捗りませんでした。自分の無知無能を嘆くばかりです。いつも申し上げていることですが、誤訳がかなりあると思いますので、引用・転載はご遠慮ください。いずれは、専門家の力を借りて、正確な訳にしたいと思っていますので、よろしくお願いします。)