わき道をゆく第257回 現代語訳・保古飛呂比 その80

▼バックナンバー 一覧 2025 年 3 月 17 日 魚住 昭

一 弘田氏の書簡、左記の通り。

近江屋某の珍話(珍しい話)は下横目も誰も知りませんでしたので、明日までに探るよう言い聞かせました。そのようにご承知ください。

(慶応三年)二月二日 弘田久助

佐々木三四郞さま

ついては、(國澤)四郎右衛門殿もお風邪のため(貴殿と)同様に勤めを休んでおられ、(中山)左衛士殿は時間をやりくりして九ツ時(この場合は正午ごろのことか、午前零時ごろのことかよくわからない)より仕事じまいをしています。おついでにお耳に入れておきたいと存じます。頓首。

一 武田氏よりの書簡、左記の通り。

舌代(申し上げますの意)

先日、お訪ねくださり、ご歓待いただき、心底感謝しております。その後もいかがお過ごしかとあれこれ想像しておりました。今日は「寓窓尤閑隙」(※意味不明のため原文そのまま引用)、もしもわずかでも時間があれば、「未牌前後より」(※同上)ご来訪くださることはできませんか。何しろ渇望しております。以上はご様子伺いかたがた書きましたが、そのほかはお会いしたときにお話ししたいと思っています。早々不一。

  二月二日 [大洲藩学者]武田亀五郎(注①)

  佐々木三四郞さま

  侍史

【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、武田敬孝(たけだ-ゆきたか1820-1886)は「幕末-明治時代の儒者。文政3年2月4日生まれ。武田成章(なりあき)の兄。伊予(いよ)(愛媛県)大洲(おおず)藩の儒官。藩校明倫堂でまなび,江戸に遊学して大橋訥庵(とつあん)に師事。のち明倫堂教授,藩主侍講となる。幕末の京都で尊王諸藩との連携に尽力。明治維新後は宮内省につとめた。明治19年2月7日死去。67歳。通称は亀五郎。号は韜軒,熟軒など。」】

一 中山(左衛士)氏の書簡、次の通り。

お手紙かたじけなく拝見しました。御安康(注②)とのこと、先ず以て嬉しい限りです。ところで寅五郎の件(前回の記事参照)はまことに意外のことに存じます。寅五郎の一件は当時においては小事で、全部久助(弘田久助。高行や左衛士の部下と思われる)の調べに任せていて、すべて気も付きませんでした。大事な局面でこのようなことが起きるのも、またどういうことなのでしょうか。天が助けないということでしょうか。明日は無理にでも出勤するつもりです。登庁したうえでいろいろお話しを伺いたいと思っています。

まずは右のお知らせまで。早々頓首、百拝。

  二月四日 鉛鎗(左衛士のこと)

  竹槍先生(高行のこと)

【注②。デジタル大辞泉によると安康(あん‐こう)は「平和で安らかなこと。安穏。書簡で、相手の健康・繁栄などを祝うあいさつの言葉としても用いる。「御安康の段」「国家安康」】

一 本山(只一郎)氏へ送った書簡、次の通り。

昨日は、「兼て御見込の筋、ちと端を御立被成下候哉」(※意味がよく分からないので原文そのまま引用)。今日は(大目付の西野)彦四郎殿がご出勤になるでしょう。そうすれば、両府[参政と大監察(=大目付)を両役場という]のご詮議も捗ることでしょう。このことについて役場(この場合は高行の役職である小目付を指すかと思われる)でも自分たちの見解を申し出ようとせっかく思っていたのですが、意外な罰行(刑罰の執行)で失策を犯し、昨日、「恐入紙面」(自らの非を認め、申し訳なく思うという趣旨の文書)を差し出したとおり、三人とも(自宅に)引き籠もり、恐れ入っています。かねて内々にお話ししたとおり、(自分たちは藩のやり方に)いっそう横やりを入れ、いわゆる矢尽き刀折れるまで一歩も引くまいと、同役の者たちと奮発決心していました。そうした折から、思いがけぬことで引き籠もることになり、遺憾のいたりであります。他の場所と違い、役場(小目付)が罰行のことで失策を犯しては、一日も(小目付の職に)いることができないと思います。なおまた重ねて考えますに、もともとこれは「恐入紙面」の間違いより起こったことで、役場はいささか責任が薄い方でありますが、これまで下横目・監察(=小目付)の違いにより罰を科した案件にも相当するでしょうか。そうなれば、このたびはいよいよ活路がないと思います。新田氏(新田義貞。注③)が北国で流れ矢に当たって死んだような心地に「笑を取り」(※これまた意味がよく分からないので原文引用)、今日の状況は遺憾千万であります。しかしながら、何にせよ困難な場所に乗り込む勢いでありましたが、前述の次第で、久助・四郎右衛門・私を速やかに解任され、あまり間をおかずに罰を与えられれば、いささかも時勢に関係せず、真に罰行の失策と世の人々も心得るので、藩政府のためにはよろしかろうと思います。何分とも至急その方針でご詮議を命じていただきたい。後任は津田彌左衛門・乾作七・田村掌蔵などに命じていただければよいと存じます。以上、申し上げます。頓首。

  二月 佐々木三四郞

大目付 本山只一郎さま

右に推挙した津田彌右[ママ]衛門・田村掌蔵は後に佐幕家となり、乾作七は曖昧となった。

【注③。朝日日本歴史人物事典によると、新田義貞(にった・よしさだ。没年:暦応1/延元3.閏7.2(1338.8.17)生年:正安3(1301))は「南北朝時代の武将。新田朝氏(朝兼)の長子,小太郎を称する。文保1(1317)年ごろに家督を継ぎ,上野国(群馬県)新田荘を本拠地とする新田一族の惣領となる。正慶1/元弘2(1332)年,河内(大阪府)の楠木正成攻めの幕府の動員令に応じたが,病気を理由に中途で帰国した。翌元弘3(1333)年4月,執権北条氏の守護国である上野国で,楠木合戦の戦費調達のための有徳銭の徴集使として得宗被官の紀出雲介親連と黒沼彦四郎入道が新田荘世良田宿に入部してきた。義貞はその過酷な徴集をとがめ,親連を捕らえ,黒沼を斬った。この事件は幕府に対する公然たる反抗に映じた。幕府による誅伐の機先を制して,5月8日に義貞は荘内一井郷の生品明神で挙兵し,東山道を西進して越後(新潟県)の新田一族や上野・信濃の諸士を八幡荘(高崎市)に糾合し,翌9日鎌倉街道を武蔵に進撃した。一方,12日に同じ新田荘の世良田で,紀政綱,世良田満義らに擁されて足利尊氏の子千寿王(4歳)が蜂起し,義貞軍と合流した。ここに,新田・足利連合軍が形成され,尊氏の六波羅攻めと相呼応する形で,分倍河原(東京都府中市)合戦で北条軍を撃破したのち,稲村ケ崎を突破した義貞は,22日に鎌倉を攻め落として北条高時以下を自尽させ鎌倉幕府を滅亡させた。 後醍醐天皇の建武政府のもとで,義貞は越後・上野の国司に任ぜられ,左兵衛佐(のちに左近衛中将),従四位上の官位を得た。建武2(1335)年,南北朝内乱が開始されると,南朝方の侍大将として,箱根竹ノ下合戦,播磨の赤松則村攻め,兵庫湊川合戦,京都合戦などに転戦したが,戦い利あらず天皇を擁して比叡山に立てこもった。3年8月,両朝の一時的和睦の際,恒良親王を擁して越前(福井県)に下向して金ケ崎城,黒丸城などに拠り,越前守護斯波高経らと抗争していたが,藤島城付近の燈明寺畷で不慮の戦死を遂げた。南朝方一筋に転戦に次ぐ転戦の末の最期であった。安養寺明王院(新田郡尾島町)に葬られる。<参考文献>尾島町編『尾島町誌』通史編上(峰岸純夫)」】

一 中山氏の書簡、次の通り。

西郷吉之助(西郷隆盛のこと。注④)が先ほど汽船で浦戸に入りました。この人が来るのは、実に天下の事に関係する大変な大事件で、寅五郎の一件のような小事ではありません。この人への答えによってはまた一国の人気(この場合は人々の気概とか、気の持ちようといった意味かと思われる)にもかかる事で、苦心するというのはこのことです。両先生(高行と四郎右衛門のこと)は彼の小事(寅五郎の一件)を言わず、吉之助の滞在中であっても、努めて出勤し、大事件を論じなくては、正義勤王の名が泣くと存じます。「此報鳥渡願なり」(※此報はこの知らせ、鳥渡はちょっとと読むのだと思うが、文意がよくわからない)

吉之助は直に城下に来たとのこと。旅館は川崎源右衛門方です。

二月十六日 中山左衛士

佐々木三四郞さま

なお貴兄の手紙の内容はそれぞれ承知しました。折悪しく昨夕より体調不良とのこと、なにしろ寒気に触れなさるのはよろしくないと思います。養生専一にお心がけください。何もご心配せずにとくと養生してください。何はさておきお見舞いすべきところですが、まずはご一報まで。百拝。(注⑤)

【注④。朝日日本歴史人物事典によると、西郷隆盛(さいごうたかもり。没年:明治10.9.24(1877)生年:文政10.12.7(1828.1.23))は「明治維新の元勲。鹿児島の下加治屋町に薩摩(鹿児島)藩小姓組西郷吉兵衛,マサの長男として生まれる。幼名は小吉,諱は隆永,のち隆盛,通称を小吉,のちに吉兵衛または吉之助と称し,南洲と号した。安政1(1854)年,藩主島津斉彬の庭方役に抜擢され,江戸で政治的手ほどきを受け,条約問題,一橋慶喜将軍擁立運動に奮闘。だが大老井伊直弼の登場で一橋派は敗北,同年7月には斉彬が鹿児島で病没したため絶望して同年11月鹿児島錦江湾に僧月照と投身したが,西郷のみ蘇生,奄美大島に流された。文久2(1862)年1月召還されて島津久光の朝幕周旋に働くが,久光に疑われ失脚,沖永良部島に監禁された。 元治1(1864)年に赦免され,軍賦役,小納戸頭取となり上京。慶応1(1865)年以降,幕府中心主義克服の道を模索,2年1月,土佐藩浪士坂本竜馬らの仲介を得て薩長秘密同盟を締結。同年年末から翌3年1月の四侯会議で雄藩連合政権の結成を目指し奔走したが失敗。10月14日に討幕の密勅が薩長両藩に降下したが,同日将軍慶喜は大政奉還上表,翌日勅許された。その後も討幕の機会を執拗に追求。王政復古のクーデタで旧幕府側を挑発,同4年1月3日,京都に進軍する旧幕府軍を鳥羽・伏見の戦で撃退した。2月,東征大総督府参謀に就任,3月,勝海舟との会談で江戸無血開城に成功。しかし,彰義隊掃討戦(5月)のころから軍事指導権を長州の大村益次郎に奪われ,鹿児島に帰郷。明治2(1869)年2月,藩参政に就任,凱旋将兵の主張に沿って門閥打破,大規模常備軍の編成を柱とした藩政改革を推進。また,東京政府を公然と批判した。 明治3年暮れ,鹿児島に下向した勅使岩倉具視に,西郷は政府改革のいくつかの条件を認めさせ,翌4年1月に上京。同6月には提案した御親兵の編成が成り,参議に就任,廃藩置県の密議に賛同し成功に導いた。岩倉使節団が米欧に派遣された際は筆頭参議として留守政府を総理。外遊派は,新規事業と政府首脳部人事の凍結を西郷に誓約させたが,留守政府では各省が学制,徴兵制度,地租改正などの重要政策実現に邁進した。5年7月,陸軍元帥兼参議兼近衛都督に就任。華々しく推進される欧化主義的な諸施策に西郷は不満で,現状打破を望むようになった。そこに懸案の日朝国交問題が緊迫,6年6月の閣議で西郷は,自らが朝鮮に出張し,解決に当たりたいと非常な熱意で要望した。8月閣議はいったん西郷使節朝鮮派遣を決定,裁可されたが,発令は岩倉大使の帰国後とされた。10月,閣議は改めて西郷派遣を決定したが,参議大久保利通は猛烈に反対論を主張,岩倉,参議木戸孝允,同伊藤博文らが大久保を支持して連袂辞職を表明,対策に窮した太政大臣三条実美は急病を発して政務処断能力を喪失。同月23日,岩倉が太政大臣代理となり先の決定を覆し,使節派遣は中止された。即日,西郷は下野し,25日,板垣退助,後藤象二郎らも下野。征韓論政変である。 鹿児島に退去した西郷を追って薩摩出身の近衛士官,兵の多数が天皇の制止も聞かずに鹿児島に引き揚げた。7年6月に士族の教育,軍事訓練,開墾事業を推進する機関として鹿児島に設立した私学校の経営を腹心の桐野利秋,村田新八らに委ねて,西郷は悠々自適を決め込んだ。私学校党は鹿児島県政を掌握して,県官任免,禄制整理,地租改正,徴兵制という政府の主要な政策を拒絶し隠然半独立国の形勢をなし,対外的危機の到来を待って,内政大改革におよぼうと待機した。10年西郷は政府の挑発に激怒する大勢に押されて武力反乱の先頭に立つに至り,敗北を喫し,9月24日,鹿児島城山に自刃して果てた(西南戦争)。「敬天愛人」が座右の銘だった。<著作>大西郷全集刊行会編『大西郷全集』全3巻<参考文献>勝田孫弥『西郷隆盛伝』(福地惇)」】

【注⑤。この西郷の土佐来訪については『佐佐木老候昔日談』で詳しく語られているので、それを紹介しておく。「二月十六日西郷吉之助が、島津侯の使命を衒んでやつて来た。自分は生憎病気の為め引籠つて居ると、中山から夫を報知かたがた天下の大事に関する事件であるから、是非とも出勤して呉れとの事。處が悪い時には悪い者で、翌十七日から寅五郎一件で三日間勤事差控を命ぜられた。モウモドかしくてならぬ。中山が西郷の旅館川崎源右衛門方に訪問し、また職掌上その用件も分るゆえ、問合せて見ると『兵庫開港に関して諸侯の会議を要する。老公にも是非とも御上京を願ひたいと、その出京を促したのである』との事。尚聞く處に依れば開港問題のみではなくして、今日の困難の場合、御幼冲の陛下が宸襟を悩ませ給ふも畏多いから、皇国の基本を立つる様尽力されたいといふ意味で、勿論長州処分の事も籠つて居るのだ。老公はもとより尊王の念には厚い。西郷に答ふるには『わが家は徳川氏の恩を蒙る事は極めて多いが、国家の為めには私情を顧る遑はない。須らく正義公道に依つて進退しやう』と、上京を御承諾になつたので、西郷は直に帰つて了つて、竟に面会する期を得なかつた。実は十七日の朝訪問しやうと思うて、中山に問合はせると、兄の長髪乱髪では吉之助も閉口するだらうなどと答へて来た。間もなく勤事差控に遇つて、萬事休したのだ。病後の乱髪では、人から見れば今日の壮士以上の壮士であつたのであらう。実に残念の事であつた。けれども此度の事に就て、薩摩抔の態度が不審でならぬ。西郷の説は『兵庫は既に幕府で許容したのであるから、今日鎖せば五ケ国が幕府に応援して、朝廷に迫り、遂に救ふべからざるに至るであらう。其時正義の藩が蹶起した處が、之を敵としては到底勝算がない。故に兵庫は開かなくてはならぬ』。と云ふので、政府部内にも大分賛成者があるが、自分は之には大反対である。モウ今日は開港は致方がない。和親交易とならば、他の二三港を開けば十分である。態々人心に影響する兵庫を開くに及ばぬ。殊にその閉鎖は先帝の御遺志である。さきに幕府は私に外国と開港を約したが、これは正式のものではない。条理が立たない。宜しく外国と条理を以て応接し、条理に叶へば開港するも已むを得ぬが、許すも許さぬもわが国の権利に属する。薩摩も以前は盛に条理を唱へたではないか。夫が豹変するといふは、甚だ疑はしい。自分等も、既に薩が討幕の計画のある事は密に耳にして居る。何分幕府を苦めて、その方面に進んで居る様に思はれる。ツマリ兵庫を開港して、外国と一段落を付け、その上幕府の罪状を数へて目的を達せんとするのではないか。何分薩は奸謀に長けて居るから、我藩を売らうとするのではあるまいかとも疑はれる。兵庫は今一時の権道を用ゐて開港するとするも、開港しなければ戦争すると云ふ位の精神ならば、必ず爾後飽くなきの欲望を逞うするに違ひない。脅赫されて開港するなどとは国家の体面に関する。就ては軽々しく西郷の説に雷同してはならぬと思うたから、直に筆を取つて左の建白書を認め、密に大目付本山只一郎に示し、更に執政に送り、両公の御覧に供へた。(後略)」】

一 中山氏への返事、左記の通り。

現在の藩政府の情勢と、西郷吉之助が来た件のあらましをお聞きしたくて手紙を差し出しましたが、吉之助の旅館にお出でとのこと。もはや出勤されたのでしょうか。あれこれの模様を聞かせていただきたい。僕もはなはだ体調不良ではありますが、昼のうちには無理にでもちょっと出勤しようと奮発していますが、おおかた安心できる情勢ならば、今日だけ休養できれば具合がいいです。実は長髪乱髪なので、(このような状態で出かけるのは)あまりに仰々しいかといささか心配しています。なおお考えをお聞かせください。兵庫をいよいよ開港する論か、または鎖港する論か、「大模様」(※文意がよく分からないので原文引用)を申すことができませんが、お聞かせくださるよう願います。頓首。

二月十七日 佐々木三四郞

中山左衛士さま

一 中山氏の書簡、左記の通り。

(手紙で)仰せの通り、貴兄の長髪乱髪を見せられたら吉之助も閉口するでしょう。兵庫を開かぬ時は、五カ国を敵に回して神州は保てず、開く時は、幕府の不条理をもって開けばまた神州も保てません。それゆえ各諸侯の会議がなくてはなりません。

鉛槍より

竹槍先生へ

追伸、今日、散田邸(山内家の別邸)でご隠居様が(吉之助に)お会いになるとのこと。

一 二月十七日、刑の執行取り扱いについて三日間勤事差し控え(出勤停止)を命じられる。左記の通り。

別紙の内容を我々より申し渡すよう奉行衆から命じられたので、そのつもりで。以上。

二月十七日

申し渡しの覚え

  佐々木三四郞

右は先ごろの刑の執行取り扱いにつき、あやまちがあり、自らの非を認めて申し訳ないという趣旨の申し出をした。刑の執行にあたっては、念を入れるべきはずのところ、それを怠って不注意の至りである。これにより日数三日の勤事差し控えを命じる。

以上のことを我々から申し渡すよう奉行衆から命じられた。以上。

二月十七日 お目付役

三四郞は来る二十日朝、奉行のところに挨拶に来るよう。

右の事柄を同役の中山左衛士より言ってきたが、病気につき、同役の國澤四郎右衛門に頼んだ。

この勤事差し控えを命じられたことなど、いろいろあって、西郷吉之助に面会しなかった。遺憾々々。

一 同月中旬、意見書を左記の通り、大監察・本山只一郎に内見してもらったうえで、執政に差し出した。

このごろ薩長では兵庫を開かざるを得ないと(言っているが)、三四郞らは(その理屈が)まったく理解できない。薩長二藩はしきりに条理論を唱え、条理を立てて夷(外国勢)に応接すれば、向こうも好むところなので、まったく国威を失わないと主張するが、条理とは道理が至当で一分の不義もないことである。しかしながら、(薩長の言い分は次のようなものだ)。兵庫(の開港)はすでに幕府が許容したのだから、今日鎖港すれば、五カ国が幕府に同調し、ついに朝廷に迫って、救いようがなくなるにちがいない。そのとき正義の藩は外で五カ国と、内で幕府とを敵にすることになって、それではまったく勝算がなくなる。ゆえに兵庫は開かざるを得ないということだが、それはまったく理屈が通らない。なぜならば、外国に条理をもって応ずれば、何事も承服すると(薩長は言っているが)、であれば、今日外国に応接するに際して、兵庫を開いたのは国王(天皇)の意思ではなかった。国王は深意があったのを、幕吏が勝手に開いたのである。幕吏は上は帝王(天皇のこと)に背き、下は諸侯を欺き、外は五カ国を欺き、内は国を欺いた罪は大である。ゆえに幕吏の罪を糺し、先帝の遺志を継ぎ、兵庫の開港はまず断るべきである。先帝が在世であれば、親しく深意をうかがい、また諸侯の議論するところもあるであろうが、不幸にして世を去り、「親柩未だ乾かず」(※柩に塗った防腐用の漆がまだ乾かない、つまり亡くなって間もないという意味か)。論語に曰く、三年、父の道を改めぬのは孝と言うべし。今日、先帝の遺志に背き、兵庫を開港するのは、臣下のやるべきことではない。現在、帝王はいまだ年若い。成長の後はまた思慮もあるにちがいない。よって、まず三港(※すでに開港になっている横浜・箱館・長崎のことか)の通信を厳にし、天下の公法によって永続の基を築こう。ここをもって五カ国に応接すれば、先方に条理をわきまえる心があるなら服従するだろう。もし服従せずに、君を欺き、国体を失した幕吏に加担するなら、これは条理を知らぬ夷狄であって、条理をもって交わりを固くしなければならぬ理由はない。今日、天下の公論に基づき、万国が互いに足りないものを融通し合うのは天然自然の道理である。不通(互に融通し合わないこと)は天然自然の道理にもとると(外国側が)言うならば、前に述べたように、三港(の開港を)永続すれば、どうして天然自然の道理に背くだろうか。互に融通し合うことに不足があるだろうか。交通を許せば、外国が洋中で危難に遭い、やむを得ず薪水を求めた場合、どの国であっても渡してよろしい。そうなれば外国側も自らの主張を根拠づける方法がない。兵庫だけを開かなければ、天下の公法に背くという理屈はない。なぜならば、西欧といえども、それぞれの国体がある。合衆国は合衆国の国体がある。英仏は英仏の国体がある。そのほかは推して知るべきである。その国体を外国が改革することのできないことは、これまた条理である。さらに詳しくいえば、国には大小強弱がある。祖宗の法がある。人質の異なるところがある。ゆえに開港といえども、あるいは五港を開き、あるいは三港を開くなど、各国に権利がある。我が皇国は三港と定め、ほかの港は開かぬと言う。これは条理である。外国側が兵庫を開かないのは天下の公論に背くといい、ゆえに開かなければ不義の幕府に加担し、兵庫を開けば幕府を助けずという。これはまったく兵庫の開港は、外国が大いに欲するものを恣にしようとするものである。このような夷狄に、今日条理をもって兵庫を開けば、後害なしとの見方は大いに怪しむところである。今日、兵庫を開けば、明日の害は今日とは比べものにならない。今日、条理をもって開けば明日の大害がないという見方であれば、今日、国体の条理をもって外国に応接すれば、先方は承服する道理である。国体の条理を聞き入れないときは、外国は条理を知らぬというべきである。今日、薩長の唱えて言うところは、まったく一時の権道(目的達成のための便宜的手段)であって、年々、先帝の遺志を先延ばしにする策略である。(薩長は次のように言う。)今日、速やかに先帝の遺志を実現しようとしても、かえって成功せず、たちまち神国の覆滅を招くにちがいない。ここは涙を流して兵庫を一時開かざるを得ず、そうして皇国が一つにまとまり、外国が飽くなき欲を発揮して、先方は必ず「大曲名を生ずべし」(※文脈からいって大失態を犯すという意味かも)、そのとき皇国を挙げて攘夷し、国威が立ち、それより時勢に応じて三港とか二港とか開くことにしようと言えばよい、と。ところで、先帝は必ずしも夷(外国)を憎むことがひどくはなかったし、外国の失態を憎む叡慮であったから、条理が立って、今日兵庫を開いても、先帝の遺志に背かないのだというのは、あまりに言葉を飾りすぎではないか。先帝が夷狄を深く憎まれたのは、まったく深い考えがあるところで、(京都の)近海に開港するべきではないとのお考えが丙午年の勅令で明瞭である。今、兵庫を開いて討幕するのは条理が立たない。兵庫を開くのなら、幕府をあくまで督責して、条理の立つ開港にもっていくべきである。幕府も諸侯の正義論をもって助けたときは、成功するだろう。兵庫を開いて討幕すれば、いわゆる五十歩百歩の違いであって、これもまた千年の笑いぐさとなるだろう。また「権謀術数亡国の秦なり」(※秦は権謀術数で亡びたという意味だろうか?)、決して信じてはいけない。しかし薩長はどうあれ、我が藩と薩長は同列で論じることはできない。(我が藩は)幕府のご厚恩もまた大である。ゆえに幕府の失態により今日の切迫した事態にいたったとしても、丁寧に繰り返し建白され、兵庫開港や胡服(軍隊の洋式服装のことと思われる。このころ幕府は士卒の制服として、洋服を採用した)など(のような過ちの明白なものは)、天朝に謝罪し、幕吏の責任を問い、天朝に対する失礼を挽回することを督責すべきである。ここにいたって、幕府が先帝の叡慮に背き、正義の藩を倒し、欲を恣にし、逆威(逆な威勢。上位者に反する力=精選版日本国語大辞典)を振るおうとするなら、幕府は賊である。賊は討伐せざるを得ず、一藩が正義の旗を翻して、利害得失を顧みずに行動してよい。今日の切迫した事態に至り、処置を誤ることはそういう例が少なくないということを思わなくてはいけない。今日に至って尊皇攘夷の国論を確固として動かすべきでないことを示し、上京なさって、幕府が今までの非を悟り、新しく生まれ変わったという実績を示し、防長を勅免(勅令による赦免)し、その後、兵庫港の開港については、常道(常に人間が守るべき道)と権道(目的を達するための便宜的手段)を取捨選択し、現在に当たっての公論に従うべきだ。権道の本意を省みて、いわゆる権謀術数等の詐術を使わず、真にやむを得ぬ至誠を貫かなくてはならない。今日、すぐさま西郷の説に雷同すべからず。

慶応三年二月

自分の意見を書いて参政・大監察に送り、両公(太守と容堂)に御覧にいれるよう申し出た。

[付紙一]薩摩に同調して討幕するという論が(我が藩に)あると聞く。大いに「行違あるべし。不信し信ずるも」(※正確な意味がわからないので原文引用)、また策略であろう。[大監察本山只一郎の付紙]

[付紙二]伝授前の論は僕の見方とまた同じ。御国(我が藩)は御国の見込みあるところを主張すべきだ。[本山只一郎の付紙]

一 二月二十日、山内兵庫豊誉さま[初民部]がご逝去、[行年二十七歳]。兵庫さまは、雅五郎さま[豊著さま]の七男で、容堂さまの実弟である。すこぶる勤王論で、武市半平太の説を大いに支持されたが、武市らが厳罰に処せられてから、失意の境遇にあられたが、前述の通りご逝去されたので、勤王家の落胆悲哀は甚だしかった。

一 中山氏の書簡、左記の通り。

次第に快方に向かっておられると察します。なお厚く保養に専念してください。もはや「功迫至極に立至」(※意味がよくわからないので原文そのまま引用)、別紙の通り文通したところ、その返答もこのように参りました。実に苦心限りなく、貴兄も少しでもよくなられたら、ご出勤なされるよう。一人ではますます窮するばかり、加勢を待つのみです。実は今日あたりは風邪気味なのですが、「跡々引」(※よく分からないのだが、ひょっとした早退のことか)もならず、私の心中をご憐察ください。あれこれ直接お会いして申し上げたいと思います。頓首。

二月二十三日 鉛鎗

竹槍先生

一 中山氏への返事、左記の通り。

僕も今日はだいぶ心持ちがよろしいのですが、まだ出勤できる気分ではないと思っていました。しかしながら貴兄のお手紙を読みまして明日より出勤しますので、そのようにご承知下さい。何しろ我慢が第一です。そのうち(自分が)できるだけ(上層部に圧力をかけて)迫りますので、貴兄からもしきりに迫ってください。何にせよお目にかかったときに縷々申し上げます。頓首。

二月二十三日 佐々木三四郞

中山左衛士さま

なおなお風邪をこじらせぬよう保養第一にお願いします。以上。

[参考]

一 この月、(容堂公が)朝廷の命令を受けられた。左記の通り。

  松平容堂

かねて(天子が容堂に)上京するようお命じになり、京都に着いたならば(容堂の)見解を尋ねようと思っておられたところ、だんだん(上京が)延びているので、三月二十日ごろまでに、文書ををもってお答えを申し上げるように。もっともその答えでもって上京の御用が済むわけではない。(天子さまは容堂の上京を)催促するよう命じておられる。

慶応三年二月

[頭注]「ゆえに(上京の)意思があるかどうかということだけをお尋ねになった」

一 二月二十四日、ご隠居様が上京されることを内々に仰せ出られた。

  覚え

昨年来、ご隠居様に上京するよう(朝廷から)再度お沙汰があったが、ご隠居様は病気のためお断りされていた。しかしながら今日に至って、天子がご幼少で、将軍が新たに就任したばかりの状況でいたずらに傍観しがたくなった。そしてご隠居様は、朝廷の事始めの基本を立てずには済まぬと考えられ、そのことに尽力するため、この三月中に上京すると仰せ出られた。この旨をよく心得、ご隠居様の趣意に応じ、秩序を乱すことなく、藩内一同必死に職分を尽くすよう覚悟せよと仰せ出られた。

二月二十四日

(以下は高行の所感)老公は速やかに上京されるべきだと(自分らは)申し出たのだが、佐幕家などは、いろいろな口実をつけて、あるいは薩摩に売られると言い、あるいは会計に支障が出るといって反対した。また兵庫港の開鎖の議論があり、長州の処分についてそれぞれが意見を述べるなど議論が百出した。あれこれぐずぐずとして、山内家の安危にかかわる局面なので、上京せずに安全策をとったほうがいいという論も多く、実に苦心した。自分等はもはや必死の覚悟で、大義のためには一国斃れて後止むべしなど激論をもって迫った。昼夜寝食もろくにとれなかった。(今日、上京が決まったかと思えば、明日はそれが変わったりして)晴雨が瞬時に変わり、いわゆる秋の空のような状況で、自分らも逆上して失言もし、なにしろ不穏で、この先どうなるかと思った。

(続。今回もまたわかりにくいところが余りに多く、難渋しました。いつになったらすらすらと訳せるようになるのかとため息をつくばかりです。毎度の事ながら誤訳・拙訳がいろいろあるかと思います。ご勘弁を)