わき道をゆく第255回 現代語訳・保古飛呂比 その78

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[参考]

一 慶応二年十月、藩が楮幣(藩札のこと)を発行した。左記の通り。

このたび三支配(町・浦・郷のこと)に渡し遣わす楮幣、来る辰年までの三カ年間云々の布告のこと。

覚(おぼえ)

このたび三支配に渡すことになった楮幣は、来る辰年までの三カ年の間、年貢米の代わりに納めるのをはじめ、さまざまな運上(雑税のこと)を納めるのに使っても構わないという仰せである。右の年限中、「平通用迚も」(※よくわからないのだが、年貢や雑税を納めるとき以外のふだんの商取引の際にも、という意味かもしれない)、正金(正貨幣としての金銀貨幣=デジタル大辞泉)と同等に滞りなく使用するように仰せつけられたので、万一、正金と楮幣の間に差などを付け、「相場合に於て」(※意味不明)猥りの取引をする輩があれば、屹度叱り(江戸時代、庶民に科した刑罰の一。「叱り」の重いもの=デジタル大辞泉)を仰せつけられるはず。このことを三支配の者に通達すること。

慶応二年十月

【注①。この藩札については平尾道雄著『土佐藩』に次のような説明がある。「維新前後は藩の政治活動がはげしくなって、財政面でもその支出が激増した。予想される戦争のためにも軍備の改善と充実が要請せられ、そのような経済事情のもとに藩札が発行されたのである。慶応二年(1866)十月その発行と同時に次の告示をもって庶民に使用心得を諭した。(以下、本文記載の布告と同文なので中略)発行されたのは一分・二分・一両・二両・五両の金札五種で、通用期間は三カ年とされたが、実際はさらに延期されたばかりでなく、さらにつぎつぎに各種の藩札が発行された。」】

十一月

一 この月二日、左記の通り。

佐々木三四郞

右は探索の任務を命じられていたが、その任務を解かれた。もちろん、探索の任務中に下されていた月十両(の手当て)は支給されなくなる。

右の通りお命じになったので、この旨を申し付けるように。以上。

十一月二日

深尾鼎

深尾左馬之助

山内下総

小崎左司馬殿

別紙の通り云々。

同日

小崎左司馬

佐々木三四郞殿

(※魚住注。以下は高行自身の所感)右のお役御免は病気のためだ。さる文化元年に大病にかかり、それ以来十分に回復しないまま、先ごろ太宰府行きから帰着したのであるが、道中より再発気味で、ついに寝込んでしまった。なにぶん旅行などは難しく、やむを得ずお断りをした。遺憾千万である。

病中、門田為之助・北代忠吉らは勤王家なので、夜間ひそかに訪ねて来て話合いをした。門田はすこぶる人物で、将来大いに有望だ。北代も誠実な人間で、若手では最も有望な人物である。門田はこのごろ福岡藤次(注②)の長崎行きに随行した。福岡は最も佐幕の方だったが、このごろの時勢により勤王に傾いている。門田らと同行するに至ったことにより、勤王の旗色がはっきり見えるようになった。しかしながら、前述した武市八十衛(注③)などの君側をつとめた人は佐幕論であり、とかく藩政府も面白くないことが多い。このような次第で、勤王同志の面々、佐井虎次郎・川原塚茂太郎、前述の門田・北代らも出入りを慎んでいて、これまでも家内を使いにして、夜中に手紙を遣わすことがしょっちゅうあった。幸いなことに医師は細川養碩である。彼は勤王家で、毎日診察に来て、内々の伝言などには都合がいい。細川は病中、西洋事情(を記した文書)を、まだ世に出ていないものだといって、持参してくれた。これはやはり医師の久米養恵の長男で以恵という者が江戸から実家に送ってきたとのこと。以恵は福沢塾(のちの慶應義塾。注④)に在籍しているとのこと。

藩政府や門地家は、なにぶん薩の奸策、長の暴論ということが念頭から離れない。ゆえに、わが勤王家も暴論を唱えず、今日の時勢には藩政府も飢えている時であるから、ほどよく事態に対処するのが肝要と考えて、心配りをしていたが、これまで我々は藩政府・門地家からは過激の軽格・徒士らに加担していると疑われ、また過激の勤王家からは我々は因循家と見なされている。自分はいわゆる不偏不党だと信じているが、右のような状況で、困難な場所に立っていたが、このごろは藩政府も時勢が少しばかり見え、また過激派もよほど注意しているようなので、大いに望みがあると期待しているのだが、種々様々の事情があって、猜疑がはなはだしい。とかく門地家らは勤王論が盛んになって、もし誤ったときは、山内家の行く末はどうなるのか、ついに滅亡に至るかもわからないと言う者たちがいる。または、軽格・徒士らが跋扈するようになることを恐れて、それを憎む者たちの二通りがいる。また過激派は一途に[脱文があるようだ]佐幕家・門地家から長年にわたって軽蔑を受けている者たちの二通りがある。その中に双方ともまことに憂国の人はあるけれども、また時に乗じて事をなそうと画策する人もいるし、門地家も思い切り悪く、ぐずぐすしていて我が身大事の人もいるにちがいない。このようなありさまで双方とも実に容堂公のご意思には背いているように見える。そのわけは、容堂公のお考えは、なにぶんとも天朝と幕府の一和をはかり、内乱のないようにし、外国へは条理をもって対応するというご配慮である。ことに山内家は徳川家には恩義も深いので、できるかぎり尽くそうというお考えであり、そのうえ幕府も朝廷に対し言うべからざる仕打ちがあれば、むろん勤王の大義により討幕するのはもちろんであるが、今日外国の脅威が差し迫っているとき、みだりに軽挙しては、まことに(朝廷の)ためにならないという深いお考えであるが、門地家は、老公の佐幕のご意思と或いは信じ、また今日、幕府に対して所詮力及ばずと考えている。また勤王過激派もとかく佐幕のご意思とか、あるいは開港のご意思とかに考えていて、いずれも老公の真に深いお考えはわかっていない。近ごろは幕府の権力もよほど衰えている状況で、将軍も他界されるなどして、もし勤王家の徒士以下の者たちがその機に乗じて跋扈したときは、またまた失策を犯し、佐幕家に勝ちを占められるかもわからず、つまるところ、我が藩の大害となることを深く心配していたが、幸いなことに、そのあたりは誰もが注意して、まずもって差しあたり変事も起きない模様である。しかし、決して油断はできぬ人心のありようである。

【注②。朝日日本歴史人物事典によると、福岡孝弟(ふくおか・たかちか。没年:大正8.3.7(1919)生年:天保6.2.5(1835.3.3))は「幕末の土佐(高知)藩士,明治政府官僚,政治家。高知城下に生まれる。吉田東洋の薫陶を受け後藤象二郎,野中助継らと吉田派の中心におり安政6(1859)年大監察。東洋遭難後は逼塞したが,隠居山内容堂(豊信)の帰郷後,藩政指導部に復帰,大監察,仕置役を歴任,容堂の公武合体路線に沿って行動。慶応3(1867)年大政奉還運動では後藤と藩を代表して成功させた。同年12月維新政府の参与として基本綱領策定の必要性を提唱,翌4年1月に五箇条の御誓文を起草。議事体裁御取調御用,明治2(1869)年学校御用掛。3年2月高知藩庁に転じ,少参事,権大参事として藩政改革,財政整理に尽力。5年政府に出仕,文部大輔,司法大輔,征韓論政変後に辞職。7年左院1等議官に暫時任じた。8年政変で元老院議官,政府部内の薩長両派と土佐派の緩衝役を務めたが,下野。13年元老院議官に復帰,14年文部卿,同年参議に昇任して18年内閣制度施行まで勤めた。この間,参事院議長も兼任。17年子爵。18年宮中顧問官,21年から他界するまで枢密顧問官。<著作>「五箇条御誓文と政体書の由来に就いて」(国家学会編『明治憲政経済史論』)(福地惇)」】

【注③。武市八十衛については、前回の十月一日の項に以下の記述がある。「一 この月一日、大洲を発ち、同三日、高知へ帰着。

同四日より、太宰府の模様、天下の形勢などを両役[参政と大監察]・執政らに申し入れたが、なにぶん半信半疑で、十分の成果が得られない。そのうち京都に使いに出ていた老公のお側物頭・武市八十衛が帰国して言うには、薩摩藩も決して長州を助ける論ではなく、やはり佐幕であると。武市の実弟・中村禎(中村弘毅のことか。注㉔)は京都の留守居役で、同人も同様の見込みだとのことだ。(これらのことは)自分らが太宰府で聞いたことと相違し、藩政府の疑念がいよいよひどく、また佐幕の人々が勢いを得た。そのあいだの苦心はひとかたならず。」】

【注④。旺文社日本史事典 三訂版によると、慶応義塾(けいおうぎじゅく)は「幕末,福沢諭吉が創立した私立学校1858年福沢が江戸鉄砲洲(中央区明石町)の中津藩奥平家の中屋敷内の長屋に開いた一家塾に始まり,初めは蘭書を,’62年ごろからはもっぱら英語を教授した。’68(慶応4)年築地が外人の居留地になったため芝新銭座の旧有馬家の中屋敷に新築して移り,慶応義塾と改称。「慶応」は年号からとり,「義塾」は共同結社の意味を表したもので,ここに学ぶ者を社中と称した。’71年三田に移転。’90年大学部を設置,日本における最初の私立大学となった。1903年慶応義塾大学と改称。自由主義・功利主義的学風で官学と対抗した。第二次世界大戦後,新制大学として発足。」】

  十二月

一 この月三日、外叔父の齋藤内蔵太政名さま、ご病死。

一 同五日、慶喜卿に将軍宣下(朝廷が宣旨を下して、征夷大将軍を任命すること=デジタル大辞泉)。同十一日ごろ、知らせがあった。

一 同二十一日、(高行が)小目付を仰せつけられる。

佐々木三四郞

右の者、小目付を仰せつけられる。これにより、格式は馬廻りとなり、役領知三十石を支給される。諸事入念、厳重につとめるよう。

十二月二十一日

佐々木三四郞

右の者、「爾来之役其儘を以」(※前日に命じられた小目付の役をそのままにして、という意味かと思われる)、軍備御用取り扱い勤めを仰せつけられる。

十二月二十二日

山内下総

福岡宮内

深尾鼎

小崎左司馬殿

別紙の通り云々。

同日 小崎左司馬

佐々木三四郞殿

佐々木三四郞

右の者、そのまま二明組支配の岡村可治の次に入る。

右の通り。以上。

本山只一郎

西野彦四郎

小崎左司馬殿。

別紙の通り云々。

同日 小崎左司馬

佐々木三四郞殿

これは病気が追々快方に向かったので、小目付役を仰せつけられたのであるが、ややもすると(回復が)十分ではなく、わずか一日出勤して、(翌日の)同二十三日から(自宅)引き籠もりになって、大いに恐縮したことである。

一 十二月二十五日、天皇(注⑤)崩御。

同三十日のご発表で、翌年正月九日、(その知らせが)高知に届いた。

【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、孝明天皇(こうめいてんのう。没年:慶応2.12.25(1867.1.30)生年:天保2.6.14(1831.7.22))は「仁孝天皇の第4皇子に生まれ,天保11(1840)年立太子,弘化4(1847)年9月即位,父天皇の遺志を受けて公家の学問所を創設,学習院と命名した。嘉永6(1853)年のペリー来航以来,開国という新たな状況に直面し,困難な選択を強いられ続ける。関心は伝統の存続にあり,だから鎖国が望ましい。だが天皇としては多数意見を尊重しなければならぬ。安政5(1858)年2月上洛の老中堀田正睦が条約調印の承認を求めたとき,諸大名の意見を聞いたうえで判断するとして許可を与えなかった。同6月幕府が独断で調印を行ったとの報告に接し譲位を表明。8月,井伊直弼の幕政指導に不信を示す,いわゆる戊午の密勅を水戸藩および幕府に伝達。9月老中間部詮勝が入洛,浪士に始まった捕縛が公家におよびそうになり,12月鎖国の状態に引き戻すことを条件に条約調印を了承した。 桜田門外の変ののち,安藤信正・久世広周らの幕府の数度にわたる要請を受け,将軍徳川家茂と皇妹和宮の婚姻を承認。文久1(1861)年長井雅楽の「航海遠略策」を受理。翌2年5月島津久光の献策を容れて勅使大原重徳を江戸に派遣,10月薩長土3藩主の要請に基づき三条実美,姉小路公知を正副の勅使として派遣し幕府に攘夷を督促。翌3年長州藩の建議を受け,折から上洛中の家茂を従えて賀茂社へ行幸,237年ぶりの行幸だった。石清水社行幸を経て大和行幸が計画され始めるとことの成り行きに不安を抱き,これを朝彦親王に伝え,8月18日の政変を承認。次いで翌元治1(1864)年1月再度上洛した家茂に公武一和の協力を命じた。同年7月禁門の変の直後,長州追討を命じた。翌慶応1(1865)年9月幕府の要請を受けて長州再征を許可。10月徳川慶喜の強要を容れ条約を許可,ただし兵庫開港は不可とした。翌年の暮れ,にわかな病を得て死去。38歳であった。<参考文献>宮内省編『孝明天皇紀』(井上勲)」】

一 山川良水(高行の同志。上士)の筆記、左記の通り。

諸侯方よりお使いのこと。

慶応二年六月、松山より。同七月、大洲より武田亀五郎、また松山より。同八月、また松山より、同三年二月、松山より。同七月、また松山より、同長州より。同八月、(幕府の)外国奉行・大小目付が来た。すなわち平山圖書頭(注⑥)である。

右のほか、諸家より(使いが)来ることがあったが、「急速難調事」(※急速にととのいいがたきこと、と読むのだろうが、意味がいまひとつ分からない。急速に問題は解決しなかったという意味だろうか)。

【注⑥。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、平山敬忠(ひらやまよしただ[生]文化12(1815).2.19.[没]1890.5.22)は「幕末の外国奉行,図書頭,神道大成教教祖。通称,謙次郎。号,素山,省斎。三春藩士黒岡氏の子。幕臣平山氏を継ぐ。徒目付としてペリー来航以後,外交交渉の場にのぞみ,慶応2 (1866) 年8月から同3年4月まで外国奉行,次いで同4年正月まで若年寄並および外国総奉行を兼ねた。幕府の親仏政策に尽力し,フランス公使 L.ロッシュに国事を諮問した。幕府瓦解とともに辞任。大政奉還によって静岡に蟄居したが,明治3 (70) 年許されて東京に帰り,以後政界に意を断ち,神道の興隆に努めた。 1879年大成教会を設立,83年大成教と改称し,第1代管長となった。著書『本教真訳』『修道真法』。」】

保古飛呂比 巻十六 慶応三年正月より同年五月まで

慶応三年丁卯 三十八歳

正月

[参考]

一 この月三日、万国博覧会の実況を調査するため、徳川民部大輔(注⑦)をフランスへ派遣した。

【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、徳川昭武(とくがわ・あきたけ。没年:明治43.7.3(1910)生年:嘉永6.9.24(1853.10.26))は「幕末の水戸藩最後の藩主。徳川斉昭の第18男。母は万里小路睦子。慶喜の実弟。元治1(1864)年兄昭訓の急死により御所守衛に任じられ,7月の禁門の変時に常御殿東階付近を警衛,11月京都警衛の功を賞されて従五位下,民部大輔となる。同年末天狗党の西上に対し禁裏守衛総督慶喜の命で追討軍先鋒として東近江路を進軍,しかし総攻撃予定日に武田耕雲斎らが加賀藩に降伏したため帰京。慶応2(1866)年11月清水家襲封。慶喜の営内に居住。従四位下左近衛権少将。翌3年パリ万博に向山黄村以下28名を率い将軍慶喜の名代として参加。締盟各国訪問後フランス留学,徹底したフランス語教育を受ける。明治1(1868)年明治維新により慶喜が水戸で謹慎中と知り留学を断念,帰国後水戸藩襲封。同2年旧幕軍追討のため江差へ。同年版籍奉還,藩知事となる。翌3年北海道開拓を志し旧藩士と天塩5郡に入植,のち帰藩。同4年廃藩置県により藩知事免官。同9年フィラデルフィア万博見学のため渡航後,フランスに再留学。同14年帰国し松戸に隠居。<参考文献>『維新史』4,5巻(岩壁義光)」】

一 この月四日、周防守(松平康英のことか。注⑧)より通達。

主上(孝明天皇のこと)がご病気だったが、ご養生がかなわず、昨年十二月二十九日、崩御されたので、ご機嫌伺いのため明五日、惣出仕(江戸にいる諸大名全員が登城して将軍にお目見えすること)。今日より鳴り物(楽器使用)を停止、松飾りを取り払い、殿中は平服のこと。

正月四日

【注⑧。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、松平康英( まつだいら-やすひで1830-1904)は「幕末-明治時代の大名。文政13年5月26日生まれ。松井康済の長男。松平康泰(やすひろ)の養子。外国奉行兼神奈川奉行となり,文久元年開港延期の交渉副使としてヨーロッパにわたる。元治(げんじ)元年陸奥(むつ)棚倉藩(福島県)藩主松平(松井)家4代となる。寺社奉行をへて,慶応元年老中にすすむ。2年転封(てんぽう)となり,武蔵(むさし)川越藩(埼玉県)藩主。8万400石。4年松井姓に復した。明治37年7月5日死去。75歳。初名は康直(やすなお)。周防守(すおうのかみ)。」】

一 昨年十二月二十三日より、病気で引き籠もっていたが、病中に届いた中山氏(高行の同役)からの書状は左記の通り。

「御廻之書面」(※いただいた手紙という意味だと思うが、不確かなので原文をそのまま引用)はそれぞれ確かに受け取りました。月番(1カ月ずつ交代で勤務すること)の件は久助と話し合い、どうにでもしますので、決してご心配は無用です。保養専一にすることが何より大事だと存じます。取り込み中のため、返事のみを書いて筆を擱きます

慶応三年正月五日 中山左衛士

國澤四郎右衛門(高行の同役)さま

佐々木三四郞さま

一 国澤氏に送った書簡、左記の通り。

前略、貴兄のお考えはいかがでしょうか。なにせ陸目付(小目付の下役)を置かなくては(小目付の職務を)果たせないという申し立てが認められなければ、それを機会に(出勤せず)引き籠もったなら、埒が明くのではないでしょうか。そうなったら、今一度出勤されたらどうでしょうか。そしてその件が認められたら、できるかぎり尽力するのは当然のことだと存じます。先ほどだいたい申し述べた通り、半知借り上げ(注⑨)も遠くないうちに行われる模様だと聞いているので、さらに(事の真偽を)仕置き役に尋ねて、もし本当のことだとしたら、これまたそのままには事が運びません。世間の物議がかねてから多くある中へ、いまのように突然半知借り上げのお沙汰が下ったら、人心は納得しません。そのうえ米穀をはじめ諸物価が日増しに高騰する勢いなので、大身の面々は格別難渋することもないでしょうが、お侍のうち小身の面々やそれ以下の者たち、そして郷や浦の民までも同じことですが、富者はますます富み、貧者はますます貧しくなっていきます。そうした折から、半知借り上げのようなことはよくよく見通しがなくてはなりません。しかしながら藩の財政がただちに支障を来すときは、これまた致し方ないことではありますが、これまで土木事業をおびただしく起こし、すでに昨冬には好ましからぬ藩札発行も始まって、それからまる一年もしないうちに、またまた半知借り上げということになっては、あまりに見通しのないことで、いずれその職に当たる人の責任は免れないのではないでしょうか。その中の後藤(象二郎)参政は、長崎で、このたび軍艦一艘、ほかに蒸気船三艘、あわせて四艘を買い求めたとのこと。もとより当今有用の品ではあるけれども、ただいまの藩財政は、ことに軍備をはじめ足元のことまで難渋する状況なので、これまた物議を醸すことになるでしょう。これらのことは何にせよ直に会って話さなくては分かりかねる問題です。何を申しても、我が職掌上、配下(陸目付のこと)をもたなくては細事に煩わされ、なかなか大事件の議論も十分にできませんので、ご考慮いただきたく思います。僕は病症に侵されていますので、はなはだ当惑しておりますが、貴兄の今一度のご奮発があれば、それに従って申し出るつもりです。このことは、まだ(中山)左衛士にも相談していませんので、そのことをまずお含み置きくださいますよう。僕もただただ困窮し、日夜不安、いよいよますます愚鈍になり、何の考えも浮かびません。いずれもご助力をお願いします。まずは以上のことについて御意を得たいと思います。頓首。

慶応三念正月七日 佐々木三四郞

國澤四郎右衛門さま

【注⑨。旺文社日本史事典 三訂版によると、半知借上(はんちかりあげ)は「江戸時代,藩における財政救済法。御借上・上米・半知・借知ともいう。諸藩主が家臣の知行俸禄を継続的に削減すること。はなはだしいときは俸禄の半ばにも達したので半知といった。江戸中期以降一般化したために武士層は貧窮化していった。」】

一 右の返事、左記の通り

お手紙拝見しました。仰せのような事態ですので、貴兄の苦心に同意します。もちろん貴兄と同じ志なので、ひとまず出勤し、なおまた当今の時勢ですので、あれこれ微衷(自分のまごころ・本心をへりくだっていう語=デジタル大辞泉)を尽くすつもりです。しかしながら、少々体調が優れませんので、場合によっては、明後日の九日より出勤しますので、そのようにご承知おきください。何事も今度お会いしたときに。百拝。

慶応三年正月七日 國澤四郎右衛門

佐々木三四郞さま

一 正月九日、本年初めて出勤した。

一 同日、福岡宮内殿が奉行職に任命された。

福岡宮内殿

右は奉行職を仰せつけられる。

右の通り心得として通知する。以上。

慶応三年正月九日 間忠蔵

佐々木三四郞殿

一 同十日、去年十二月二十五日、

今上帝(孝明天皇)の崩御、昨年十二月三十日の発喪(喪を発表すること=デジタル大辞泉)の件を拝承した。まことにもって何とも申し上げようがなく、ただただ悲嘆した。同志たちは落胆の極みであろう。

一 同十日、今日、太守さまの御前様[長州よりお輿入れになった俊姫さまのことである]の件につき、ご評議があるので、参政(=中老や馬廻りから任命される仕置き役)の麻田楠馬宅へ集まるよう、大目付の本山只一郎より通知があった。同僚の國澤四郎右衛門・中山左衛士と麻田宅へ出向いたところ、参政の由比猪内・眞邊栄三郎・渡邊彌久馬、大目付の西野彦四郎・本山只一郎・神山左多衛・森権次らが集まった。評議の内容は、御前様の離縁の件についてはすでに長州へ通知され、(御前様は)五藤主計殿の屋敷へ別居されていたが、もはや長州の囲みも解けた状況なので、早く(御前様を長州へ)お送りしたほうがいい。(でないと)またまたどのような変事が起きるかもわからない。よって内々の決定が行われ、(俊姫の)あとはすでに徳大寺さま(五摂家の次に位置する清華家の一つ)よりお輿入れの予定となっている。しかしながら、今日のこういう状況において、なおまたとくと評議して、意見をお聞きしたいということだった。自分は同僚の國澤・中山と末席から異議を申し出たが、参政・大監察(大目付のこと)ともに不承知だった。実際には、参政・大目付の中には我々の意見をもっともと聞く人もあったが、執政(=家老のなかから選ばれた奉行職)はすでに決定して、両君公(太守さまと容堂公のこと)へも申し上げていることなので、大いに困却の模様の人もあった。いろいろと論じたうえ、何分難しくなって、國澤・中山も閉口した。遂に(反対するのは)自分一人となって、いよいよ議論を起こし、必死の覚悟と決心して論じた。その趣意は、長州公は今日、朝敵の名を負うことで、兵は解けた形ではあるが、このあとどのようなご処分を受けられることか、まことに困難な立場にお立ちになり、「所謂返す所なき御場合」(※よくわからないので原文そのまま引用)と存じます。ところが、今日、(俊姫を)離別して、長州に帰し、ことにまだ公然と離別しないうちに、すでに徳大寺さまと縁組みの内約をしたということなどになったら、まことにもって人道に背き、後世までも不義の汚名を君公に負わせるかも知れず、(そうなったら)人臣のつとめに反し、何をもって天下の人に対し面目が立ちましょうか。また長州は、相馬将門(注⑩)その他のように、暴逆によって朝敵の名を得たのではありません。いつか疑いが晴れてどのような名誉回復が行われるかもわかりません。というのも、今日、「仕官ノ歴々」(※よくわからないが、藩の役職についている者たちという意味ではないか)には自然と偏った心があって、自分の利害のために正常な判断力を失っています。義と不義、また天下一般の人心の向背に気づかず、ゆえに幕府の表面を見て、長州は滅亡するにちがいない、うまくいっても極端な減石(この場合は幕府が長州藩の領地を削り取る減封のこと)になるにちがいないと考えているけれど、今日の全国の民心は決してそうではありません。たとえ長州を一時減封しても、徳川幕府の命脈は長くありません。天下は混乱するでしょう。そのときわが君公が不義の汚名を負うならば、何をもって天下にお立ちになられるでしょうか。今日、仕官している人たちが見るところと、人民の見るところは、おのずから公正・不正の違いがあります。人民は、幕府が勝とうが、長州が負けようが、わが身の利害に関係ないので、その論は公平です。なのに今日の民心を察するに、こぞって長州を義とし、長州の開運(局面打開、あるいは勝利を意味するか)を希望すること、まことにひどい干魃の時に(雨を呼ぶ)雲を望むがごとしです。これは長州の開運を[脱字あるか]とするに足ります。これを道理の上から論じても、また利害よりしても、今日、(俊姫を)離別されるのはよろしくありません。君公(山内豊範。注⑪)は若年であられます。恐れながら十分なご分別もおありではない。また老公にも、血縁関係のことは、実の父子の間柄であっても、はなはだ猥りにとやかく論じることもいたしかねますが、いわんや義理のからんだ関係であられるため(余計に口を出すことがはばかられます)。大御隠居さま(第十二代藩主・山内豊資のこと。君公・豊範の実父にあたる)はもはやご老年で、君公に対してはことにご愛情が深く、(君公の)離縁の話をお聞きになったときから、君公の心中を心配され、一途に離縁すべきだと思っておられるのでしょう。そのあたりはいずれにつけても三公のご事情はごもっともあらせられるので、今日の場合は、重職の面々に最も責任があります。ことに君側の重役は深く思慮して、思し召しをうかがい、よく道理をわきまえて申し上げることは当然であります。しかしながら、そのことが行われず、まことにもって不安ななりゆきです。三四郞(高行自身のこと)はいつまでもこの議論を主張いたしますと申し述べたら、論議が種々に起こって、幸いに渡邊彌久馬・本山只一郎が我が主張をもっともと言い出した。その際、渡邊は「今日は佐々木氏の竹槍で叩き立てられ、大いに動揺した」と言って、笑ったのである。今日のところはとりあえず決定せず、各々退席した。帰りがけ、(中山)左衛士宅に(國澤)四郎右衛門と集まり、今日のことを相談した。両人ともに元来(高行の説に)同意だったのだが、とても実現は無理だと知って、その席では黙ってしまったが、いささか守[ママ]り返したため、大いに奮発し、明日より十分尽力すると約束して、帰宅した。

太守さまの御前さまは長州侯よりお輿入れになった俊姫さまである。ところが先年、離別となり、この月、中島町の中老・林邸にお移りになったが、長州へお送りになり、そのあとへ徳大寺卿の福姫さまをお迎えしようという議論が起こった。すでに内約ができたが、時勢の変遷により議論も起こり、後に徳大寺の福姫さまは景翁さま[豊資公]の養女になられ、大洲(藩主の)加藤(加藤泰秋のこと。注⑫)へお輿入れになった。

【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、 平将門(たいらのまさかど。没年:天慶3.2.14(940.3.25)生年:生年不詳)は「平安中期の武将。桓武平氏高望の孫で父は鎮守府将軍良将(一説に良持)。若いとき上京して一時期,摂関藤原忠平に仕えたこともあったが,志を得ず本拠地の下総国に戻って勢力を養い豊田,猿島,相馬の3郡(ともに茨城県)を支配した。承平5(935)年父の遺領の配分と女性問題をめぐって一族と争いを生じ,おじ国香やその姻戚の常陸(茨城県)の豪族源護 の子らを殺したことで,おじ良兼,良正や国香の子貞盛の攻撃を受けることになった。将門はこれを打ち負かしたが,護がこの事件を朝廷に訴え出たため召喚された。運よく恩赦に浴し許され帰国した。のちおじたちとの争いは激しさを加えたが,これを抑えこみ国司の抗争に介入した。天慶2(939)年武蔵国において権守の興世王,介(次官)の源経基と郡司の武蔵武芝との争いの調停に当たったが,経基によって朝廷に訴えられた。 その矢先,常陸国における国守藤原維幾と土豪藤原玄明の紛争で将門を頼ってきた玄明を庇護して国府を襲撃,官物を奪って放火し,この段階で国家に対する反乱とみなされた。将門は興世王にのせられ下野(栃木県),上野(群馬県),武蔵,相模(神奈川県)の諸国を配下におき,八幡大菩薩の神託を得たとして新皇と称して坂東八カ国の独立を宣言し,下総国猿島郡石井に王城の建設を始めた。しかし翌年,貞盛や下野国の押領使藤原秀郷らに滅ぼされた。事件後ほどなくしてできた『将門記』の語るところである。この承平・天慶の乱が貴族に与えた衝撃は大きく,のちの争乱で「宛も承平・天慶の乱のごとし」と引きあいに出されることが多い。侠気に富む行動に対して悪逆無道の人物という評価のある半面,国家の苛政に勇敢に反抗した英雄とのみかたもある。このことが各地に首塚など多くの遺跡を生むことにもなった。茨城県岩井市の国王神社に将門の木像がある。<参考文献>福田豊彦『平将門の乱』,林陸郎『史実平将門』,赤城宗徳『平将門』(朧谷寿)」】

【注⑪。朝日日本歴史人物事典によると、山内豊範(やまうちとよのり。没年:明治19.7.11(1886)生年:弘化3.4.17(1846.5.12))は「幕末維新期,最後の土佐(高知)藩主(16代)。鵬羊と号す。12代藩主豊資の末子,13代豊煕,14代豊惇は実兄,第15代豊信(容堂)は従兄弟。嘉永1(1848)年,実兄の豊煕,豊惇が相次いで病没,土佐藩は存亡の危機に瀕した。南邸山内氏の豊信が豊資の末子豊範を養子にして本家に入り襲封,安政6(1859)年に豊信が安政大獄の厄難に遭い隠居したため,豊範が襲封。文久2(1862)年,朝廷より国事周旋・京都警衛を命じられ,勅使大原重徳の江戸下向を護衛した。明治17年7月華族令により侯爵。(福地惇)」】

【注⑫。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、加藤泰秋(かとう-やすあき1846-1926)は「幕末-大正時代の大名,華族。弘化(こうか)3年8月12日生まれ。加藤泰幹(やすもと)の子。元治(げんじ)元年兄泰祉(やすとみ)の養嗣子となり,伊予(いよ)(愛媛県)大洲(おおず)藩主加藤家13代。慶応3年小御所会議の際,御所の警備にあたり,戊辰(ぼしん)戦争では藩兵を奥州に派遣した。明治17年子爵。大正15年6月17日死去。81歳。」】

(続。俊姫の処遇をめぐる議論で、末席の高行の思い切った発言に驚かされます。公的な場で、藩主・豊範について「恐れながら十分なご分別もおありではない」などとよくも言えたものだと思いました。下手をしたら切腹ものでしょう。あるいは、当時の土佐藩にはそれなりの「言論の自由」があったのかもしれません)