わき道をゆく第262回 現代語訳・保古飛呂比 その85
一 七月十八日、晴れ、(樋口)眞吉より届け出。御歩行(おかち)の岡田辰衛・濱田直太郎、軍貝下役の荒川順治が昨夜から帰宿しないとのこと。勤めを終えてから、(山田)東作・(毛利恭助)・(下村)省助を連れて高台寺(豊臣秀吉・ねねのゆかりの寺)に行き、豊公の像を拝見した。寺僧が「平日は開扉しない」と言った。そのため偽りを言って、「近日帰国するのだ。豊公を拝せずでは済まぬ」と、強いて開扉を求めた。寺僧は承諾して開扉した。寺からの帰り道、「策が当たった」と笑った。夜、「器械取扱」(※蒸気船運行に携わる職か)の久萬吉・慶太郎が意見を具申した。もっともである。
一 同十九日、晴れ、出勤途中に由比猪内方に行き、御用談(藩の公務に関する話)を数時間した。今日、樋口眞吉が文武下役を仰せつけられ、軍備大小銃等の任務も仰せつけられた。軍貝下役より稽古の件を申し出たので、詮議した。眞吉が「達物」(たっしもの。達の内容。命令を発した事柄=精選版日本国語大辞典)の件で来た。雄之進が来て談話した。濱田鎌之助が来て談話した。
一 同二十日、晴れ、今日、飛脚が京に着いた。大政返上の建白うんぬん等につき、老公・太守さまの了解を得られ、何事も非常にうまくいっている。留守宅も無事、大悦大悦。夕方、松力(料亭)へ猪内、(福岡)藤次・恭助・森多司馬が集まり、飲み食いをした。
一 同二十一日、晴れ、今日、藤次が外藩(※外藩には都から遠く離れた地という意味もあるが、この場合は他藩の京都藩邸のことかも。よくわからない)へ行ったことに関し、松力で会合を持った。夕方、食事して帰宿した。夜に入り、雄之進・唯次郎が話に来て、酒肴を出した。
一 同二十二日、晴れ、今日は気分がすぐれないので(下宿に)引き籠もった。(国許への)飛脚が発つので猪内・藤次が来た。公用の書翰を認め、また、また本山只一郎へ私的な書翰の返事をした。留守宅へも無事であることだけを記した手紙一通を送った。 夕方、石誠(中岡慎太郎か)・恭助が来た。また清平・孫次郎・金子勇馬が来た。
[参考]
一 我が藩において次の通り。
覚
このたびの軍制改革により銃隊に仰せつけられたが、病気のため、藩の指示通り修行することが困難な者は、その旨を支配頭へ届け出るように。
一 お侍の跡取り、また子弟養育人等はこれから年齢十歳の暮れまでに向髪(前髪のこと)を取るよう仰せつけられた。
一 弓は昔から兵器中の第一と称されてきたが、近来、火技(銃や大砲の技術)がますます進歩した。ついては、弓と銃の両方を携え出るのは、「於業ニ」(※意味がよくわからないので原文そのまま引用)難渋するのは明らかなので、このたびより藩の軍備に編入されないことになった。このため、致道館(藩校)においてもそれぞれの嗜みにすることは別として、課程に入れるのは今後差し止められる。
慶応三年七月二十二日
本山只一郎
間忠蔵
乾退助
この文書は後に国許より(京都に)回って来たが、国許で達しがあった日を記す。
~~~~~~~~~~~~~~
(前略)また、恐れながらひそかにお聞きしたところでは、君上(この場合は容堂公のことか)が上京されるお考えもおありとか、ありがたき仕合わせに存じます。しかしながら、このたびのことがご議論の周旋のみに止まるのなら、再度のご上京もよろしいでしょうが、これからはたちまち天下の大戦争になることは、明白です。であるなら、実際は上京されないほうがよろしいと考えます。このような大敵を引き受け、奇襲作戦を行うのに、本陣を顧みる心配があっては、少人数の我が藩は特別な戦果をを挙げるのは難しいと思います。恐れながら、なお明君の英断により、先んじて敵に臨もうとお考えのことであれば、この上なきことで、臣下一人も生還する者はあり得ないでしょうから、何の異論も申し上げるつもりはなく、ただただ敬服する次第です。
このごろの長州藩政府の議論を極秘で聞きましたところでは、もし京都でことがあると聞いたら、即日出兵しようと決心しており、そのため本藩、支藩ともに、その内密の命令を国中に布告したとのことです。諸隊はこのために先陣を争い、「弩を張る(石弓に矢をつがえて攻撃しようとする)」の勢いとのことです。
以上は、私の心中で思うところを認めて、御侍史(貴人のそばに仕える書記。右筆=ゆうひつ=デジタル大辞泉)ならびに乾(退助)さまあたりへ差し出すようにと佐々木さまより示唆がありましたので、このようにいたしました。誠恐頓首。
七月二十二日 清之助(中岡慎太郎か)
本山さま
玉几下
急いで認め、心に浮かぶままで、いつも失敬して申し訳ありません。
右の書面は、今回、国民新聞社で開催した維新志士遺墨展覧会に出品されていたものを岩崎英重が筆写したものである。
明治四十三年一月二十三日
一 七月二十三日、晴れ、岩崎小吉・唯次郎が来た。夕方、恭助を連れて板倉筑前(淡海槐堂のこと。注①)へ行くはずだったが、遅刻となり、途中から酔月亭に行き、酒食した。初夜(午後八時ごろ)すぎに帰宿した。
一 一両二歩二朱 酒肴料
【注①。朝日日本歴史人物事典によると、淡海槐堂(おうみ・かいどう。没年:明治12.6.19(1879)生年:文政5.12.1(1823.1.12))は「幕末の尊攘派志士。儒者下坂篁斎の子に生まれる。京に出て薬業を営むかたわら,安政3(1856)年公家醍醐家に仕え板倉の姓を与えられる。文久2(1862)年洛東日吉山に文武館を設け尊王攘夷運動を支援。翌年8月18日の政変ののち,三条実美に糧食,金品を送り,天誅組に兵器を補給した。長州藩急進派による禁門の変後の元治1(1864)年8月,六角の獄につながれ,33カ月の在獄ののち慶応3(1867)年4月出獄。討幕運動を支援し中岡慎太郎に資金を送る。翌明治1(1868)年4月醍醐家を去り,姓を淡海とした。大津裁判所参謀,宮内中録などを歴任し明治5年辞官,詩画に親しみ57歳で没。(井上勲)」】
一 同二十四日、晴れ、吉田泰吉・利岡馬二郎が「詰越」(※つめごえ。詰越はふつう藩主が国許に帰ったのにそのまま江戸に居残ることを指すが、この場合は容堂公に随従して京都に出て来た家来が居残ったことかも知れない)の件で、内情を申し出た。
今日、猪内が宇和島藩人のところに行き、恭助は薩摩藩人のところへ行った。そのため夕方、松力で落ち合い、夕食をとった。それから猪内と散歩、直に帰宿した。
一 同二十五日、晴れ、朝、若尾譲助が来た。出勤の途中、猪内方に寄った。今日、薩摩人の大山と松力で会うはずのところ差し支えがあって、大山は来なかった。猪内・東作と松力で会い、それより散歩、松風亭で納涼、初夜(午後八時ごろ)すぎに帰宿した。
一 一分二朱 支度料
一 同二十六日、晴れ、出勤、午後より眞吉(注②)・藤右衛門・唯次郎をつれ、大佛・智積院・新日吉神宮の境内を詳しく見分した。それというのも、以前、後藤(象二郎)が帰国の際、打ち合わせておいた二大隊の兵が追々上京してくるだろうから、白河邸に配置するかどうか思案していた。しかし、白河邸は不便で、やはり(京都の中心部に近い)智積院のほうがよいという見込みになったので、(兵の)進退駆け引きの都合など、あれこれ配備する位置等を調査する必要があった。これは自分の職掌で、大監察は武者奉行の任もあるためである。帰り道に、酔月亭で食事し、黄昏に帰宿した。夜に入り、猪内方にちょっと立ち寄り、公務の話をした。今日は代金(酔月亭の飲食代のことか)をまだ払っていない。
【注②。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、樋口真吉(ひぐち-しんきち1815-1870)は「幕末の武士。文化12年11月8日生まれ。土佐高知藩士。郷士の子。遠近鶴鳴にまなび,諸国を遊歴して剣術や砲術をおさめる。帰郷して中村に家塾をひらき,土佐西部勤王党の首領格となる。戊辰(ぼしん)戦争に従軍,その功で留守居組にすすんだ。明治3年6月14日死去。56歳。名は武。字(あざな)は士文,子文。号は彬斎(ひんさい),南溟(なんめい)。」】
一 七月二十七日、晴れ、夕立あり。出勤。早朝から眞吉・雄之進が来た。また石誠(中岡慎太郎)も来た。今日は「仕舞」(※仕舞はふつう物事が終わることや、物事をやめることを指すが、この場合は処置すべきことといった意味だろうか)がすこぶる多忙、つまり白河邸に浪人勢を入れて置くことについてである。石川誠之助の申し立てにより、白河邸に浪人を置くことを許したのである。いつものように唯次郎・雄之進・眞吉らが来た。
白河邸に浪人勢を入れて置くことになった経緯はこうだ。先日、石川誠之助が来て言うには、このごろまたまた幕府が浪人狩りを始めたようで、柳馬場に下宿していた対州(対馬)の浪人・橘某がすでに捕縛されたとのこと。ついては我々の同志たちもばらばらの所に下宿していては、危険なのでひとまとめにして、白河邸に置くようにしてもらいたいとのことを(石川誠之助が)内密に申し出てきた。しかしながら、藩政府内ではまだ十分に勤王論が主導権をとっておらず、ようやく大政返上の建白などのことでは内々に実現に漕ぎつけたものの、浪人らをかなり忌み嫌う者が多く、現に在京中(の藩幹部)にも福岡藤次はじめその他も、そうした傾向がある。また他藩には(浪人を忌み嫌う者が)非常に多いので、みだりに手も下しかねる状況なので、自分より由比猪内へ事情をよくよく相談したところ、同人は存外に時勢が分かっていた。由比は参政の中でも上席株だが、何とか同意してくれた。そのため他に異論が起きないうちに急いで実現すべく、ことを進めた。幸いなことに御陸目付(おかちめつけ。小目付の下役)の樋口眞吉も同志である。その下の下横目で唯次郎・健三郎雄之進らもいずれも同志であるから、異論がないうちに、自分が一手に(手続きを)進めさせたのである。ことのほか多忙であった。今日の事情は実に難しいことである。後日、(自分が)罪人となるのは覚悟の上である。
[参考]
一 七月二十七日、長防(長州藩の通称)の乱暴についての高札を取り除かせる。
長防の件につき、昨年上京の諸藩や、今年上京の四藩、つまり薩州・越前・宇和島・此方様(あなたさま。この場合は容堂を指すか)より、それぞれ寛大な処置を求める言上があり、朝廷も同様にお考えになったので、早々に寛大の処置がとられることになった。長防のご処置について、このたびのご指示もあるので、当地(この場合は大坂三郷を指すか)ならびに堺表に掛けておいた長州人乱暴についての高札を取り除くように。
右の通り京都よりご指示があったと越中守殿(注③)からお達しがあったので、この旨を三郷町中に告げ知らせるものである。
七月二十四日 三郷惣老(注④)
伊勢
日向
【注③。朝日日本歴史人物事典によると、松平定敬(まつだいらさだあき。没年:明治41.7.21(1908)生年:弘化3.12.2(1847.1.18))は「幕末維新期の桑名藩(三重県)藩主,京都所司代。通称鎮之助,晴山と号した。父は美濃国(岐阜県)高須城主松平義建。尾張(名古屋)藩主徳川慶勝,会津藩(福島県)藩主松平容保の弟。安政6(1859)年桑名藩主松平猷の養子となり家督を相続した。元治1(1864)年京都所司代に就任し,一橋慶喜,松平容保と共にいわゆる一会桑政権の一翼を担い,京都の治安維持および朝幕間の周旋に努めた。慶応2(1866)年8月から9月にかけての同政権崩壊後は兄容保と袂を分かち,終始一貫慶喜と行動を共にする。明治1(1868)年の鳥羽・伏見の戦ののち,大坂を逃れて江戸城に入り,主戦論を唱えた。のち東北を経て箱館に渡り,五稜郭で政府軍に抵抗したため,翌年津藩に永預となり,同5年1月になってようやく許された。なお会津藩士手代木直右衛門によれば,坂本竜馬暗殺犯とされる京都見廻組与頭佐々木只三郎に暗殺を指令したのは定敬だという。<参考文献>「酒井孫八郎日記」(『維新日乗纂輯』4巻)(家近良樹)」】
【注④。精選版 日本国語大辞典のよると、大坂惣年寄(おおさか‐そうどしより)は「江戸時代、北組、南組、天満組といわれた大坂三郷の各郷の惣会所で、各々の公務を取り扱った役人。多くは世襲で名誉職であったが、五役免除の特典と上荷役三〇〇艘、茶船二〇〇艘使用の特権を有し、また、べかぐるまの運上を収納した。」】
一 同二十八日、晴れ、今日は出勤せず。猪内・藤次の下宿に行き、公務についての用談。それより(自分の)下宿で公務に関する用件を処理。ところが今日、留守居役の森多司馬にただちに役所へ来るよう幕府大監察の長井玄蕃頭より通知が来た。このため再び藤次の下宿に一同集まり、多司馬の帰宿を待つ中、どうやら浪人を白河邸に入れておいた件か何かで嫌疑を受けたのではないかと心配し、今か今かと待っていたら、ようやく(多司馬が)帰宿した。すると、あにはからんや、七月六日、長崎で土佐人が英国人を殺害(注⑤)したため、英公使・パークス(注⑥)が幕府に迫り、談判しているので、早々に大坂に行き、(英国側と)交渉するようにとのことである。このため藤次が下坂するはずだったが、折りから風邪で寝込んでいるので、猪内が下坂し、それから状況次第で帰国することになった。自分も大坂まで行くことになり、毛利恭助をつれ、夜の五ツ(午後八時ごろ)すぎ、京都を出発、淀から乗船したが、先日来の天気のため、水勢が乏しく、船は遅々として進まなかった。
【注⑤。イカルス号事件。後に犯人は金子才吉と判明。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、金子才吉(かねこ-さいきち1826-1867)は「幕末の武士。文政9年生まれ。筑前(ちくぜん)福岡藩士。藩命により長崎で蘭学をまなび,また航海測量術をおさめる。のち清(しん)(中国)に航行,視察した。慶応3年長崎でイギリス船イカルス号乗組水夫を殺害する事件をおこし,同年7月8日自刃(じじん)した。42歳。本姓は徳田。名は厚載。字(あざな)は永貞。号は春琴など。」】
【注⑥。朝日日本歴史人物事典によると、パークス(没年:1885.3.22(1885.3.22)生年:1828.2.24)は「幕末明治期のイギリスの外交官。イングランドのスタッフォードシャー,バーチルズ・ホールに,鉄工場主であった父ハリーの長男として生まれる。4,5歳で両親を相次いで亡くし,父の兄弟に育てられる。1838年キング・エドワード・グラマースクール入学。41年10月,マカオ在留の語学者ギュッツラフ家に寄留していたふたりの姉のところに合流し,中国語の勉強に専念する。42年5月,満14歳でロバート・モリソン書記官兼第1通訳官のもとで外交官の道に入り,同年8月,南京条約の調印式に参列。44年厦門のイギリス領事館通訳官となり,領事オールコックに認められる。54年厦門領事,56年6月広東領事代理となるが,アロー号事件が発生し事実上の総督として活躍。60年7月,北京攻略戦に参加,特派使節ブルースのもとで首席通訳官となり,11月北京入城を果たした。62年5月,バス勲位2等勲爵士となる。64年上海領事となるが,翌慶応1(1865)年3月,日本駐在公使に任命され閏5月16日横浜に着任した。 パークスは当時の難題であった長州問題,特に賠償金問題と条約勅許問題に取り組み,機敏な行動と忍耐力で在日外交団をまとめ上げ同問題を解決。その後,薩摩や長州に接近するとともに幕府からも離れない立場をとり,前任者オールコックとは異なり日本の政局に積極的に働きかける態度は示さなかった。だが,戊辰戦争に際して局外中立を宣言したことは,結果的に,幕府側が外国の援助を受けるのを妨げる方策となった。灯台,電信,鉄道など近代西洋文明の早急な導入を日本政府に勧告し,部下には日本研究を奨励,日本アジア協会の会長を2度務めた。明治10年代の検疫問題や条約改正問題では,日本側に妥協しない辣腕ぶりを示した。明治14(1881)年聖ミカエル・聖ジョージ勲位を受け,同16年,北京駐在公使に転任し,同年8月離日。翌年,朝鮮駐在全権公使を兼任した。<参考文献>F.V.ディキンズ,高梨健吉訳『パークス伝』(内海孝)」】
一 七月二十九日、晴れ、四ツ半(午前十一時)ごろようやく下坂し、長堀の蔵屋敷に着いたところ、板倉(勝静。注⑦)閣老(老中のこと)から使者が来た。今日の早朝から何度も来て、催促がしきりである。すぐさま支度を整えていたところ、幸いに西郷吉之助が下坂していたので、下宿に立ち寄り、「このたびこのような次第でただ今より談判に行きます。ご助言をいただきたい。と同時に、場合によっては至急帰国しなければならないのですが、おりから弊藩の持ち船も来ておりません。聞くところでは、貴藩の三国丸が兵庫に停泊しているようなのでしばらく借用したい」と(言った)。西郷曰く。「英国人と談判となれば、至極重大事と存じます。弊藩も先年、英国人と談判した際にも、ずいぶん難しいことになりました。少しでも先方に言葉質を取られると面倒なので十分ご注意なされるように」と。また「三国丸はすぐにご用立てしますのでご安心ください」と、(我々の立場を)深く思いやって答えてくれた。まず一安心し、それより中寺町の板倉の旅館に行き、談話した。もっとも英公使はその席に出ず、列席したのは板倉周防守[閣老]、平山圖書頭[外交奉行]、大監察戸川伊豆守、小監察設楽岩次郎、そのほか柴田某だった。当方は自分と由比猪内、大坂留守居役の石川誠之助、小監察の毛利恭助、下横目一人らだった。板倉曰く。「先ごろ長崎表の丸山町で英国水夫が殺害されたが、その下手人は貴藩の者のようだ。ついては速やかに取り調べるよう英公使より差し迫って言ってきた。そこもとは重役ということならば、その辺のことについて通知があったのだろう、どうか」。(自分が)答えて曰く。「まったく存じません。昨日、京都留守居役へ(幕府の)お達しがあって初めて承知しました。そもそも弊藩の所業と英公使が申し立てたのは確かな証拠があるのですか」。(幕府側)曰く。「まだ証拠は申し出ていないが、長崎表では一般に土州人の所業ということで、決して間違いないと(英国側は)言っている」。(自分が)答えて曰く。「それは意外なことでござる。藩士も長崎表におりますが、土佐守より常に外国人などへは猥りな振る舞いがないよう指示していて、弊藩の者はそのような振る舞いはしないと信じています。万一やむを得ぬことで殺害などしたりすれば、必ずそのとき自訴して、自殺して詫びるということが武門の常です。ことに弊藩はその辺りには厳重な藩法があるので、外人を暗殺し、身を隠して国難を引き起こすようなことをする者は一人もいない、ご安心いただき、その方針で談判していただきたい」。板倉曰く。「前に申した通り、英公使は土州人の所業と深く信じていて、何分幕府が手ぬるいので、遅延するといって、大いに憤激しているため、そのような返事では決して承知せぬであろう」。(自分が)答えて曰く。「それならば私どもが直に談判したい」。(板倉が)曰く。「それはできない。前述の通り、先方は大憤激して、すこぶる切迫しているので、その方らが直談判したらどういう変事が起きるかわからない。差し控えられたい」。つづけて曰く。「このたびの事件は将軍家にも深くご心配になって、容堂殿に申し入れたならば、適宜の処分があるであろうとのご意向であるから、その方らは帰藩の上、その取り計らいをするように」。(自分が)答えて曰く。「私どもも不肖ながら一藩の重役です。このたびの上京は、土佐守・容堂の命を受け、出先での処分は委任されています。私どもが下手人は弊藩の者ではないと申し上げたのは土佐守・容堂よりお答え申し上げたのと同様に聞いていただきたい」。(板倉が)曰く。「このたびは前述の通り、将軍家にもご心配で、容堂殿へ念を入れて申し入れるとのことなので、どうあっても山圖書頭・戸川伊豆守・設楽岩次郎が(貴藩に)参上する。そのつもりで帰藩されたい」。答えて曰く。「将軍のご命令により、どうあっても(土佐に)来られるのは閣下方の任であるからその辺は強いて申し上げない。結局風評のみのことであるから、わざわざご苦労にも及ぶまいと思うが、このうえはどうにも私どものとかく申し上げるべきごとではない。私どももこれより帰藩します」。そのとき板倉が言った。「ただいま英国公使より言ってきたのは、土州藩重役たちが帰国すると決まったら、英国軍艦に乗り込んでほしい。諸事案内の都合もよいのでということなので、英国軍艦に乗り込むようにされたい」。(自分が)答えて曰く。「そのことは甚だ迷惑なのでお断りする。そもそもこのたびの事件は、英国公使が確証もないことを申し立て、加害者を弊藩の人間であると決めつけるのははなはだもって不都合なことと思われる。それについて、前に申し上げたことだが、どうしても閣下方が将軍の命令により弊藩にお越しになるということであるのなら、私どもは容易ならざる事件なので、注進のため帰国するのである。しかし、英国公使が押しかけ談判するのは先方の勝手のことであるから、私どもが案内すべき道理はない。私どもはこのたびのことには大いに不平である。というのは、英国公使は風説を信用して下手人は土州人と決めつけ、「大政府」(※徳川幕府のことか)に迫り、また弊藩に軍艦を差し向けることなどは、すべて理解できぬことである。もちろん長崎表で英国人を殺害したということであれば、下手人は土佐藩士であれ、外国人であれ、日本政府で取り調べるのは当然かと思うが、証拠なしに土州人と決めつけ、弊藩へ軍艦などを差し向けるのは無礼なことと思う。そのような次第であるから、(英国軍艦に)乗り込み、案内することは断然お断りするのでよろしくお取り成しを願います」。(板倉が)曰く。「英国公使よりはしきりに乗り込みのことをしきりに求めてくるから、なお一応評議してみよう」と言って、しばらく一同退席した。再び(自分たちが幕府との折衝に)出席することになると、(英国軍艦)乗り込みの件は難しくなるだろうと思ったから、猪内と相談し、断りなしに帰藩しようということになった。留守居役の石川誠之助に後事を託し、「再出席のことを言ってきたら、すでに両人は退出し、速やかに帰国するということで、後のことは私に託しましたと答えてほしい。いい加減に言い逃れしておれば、その間に自分らは兵庫まで行き、彼の地で三国丸に乗り込むつもりだ」と言って、(板倉の旅館を)出た。
【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、板倉勝静(いたくら)・かつきよ。没年:明治22.4.6(1889)生年:文政6.1.4(1823.2.14))は「幕末の老中。父は桑名藩(三重県)藩主松平定永,天保13(1842)年備中国(岡山県)松山藩主板倉勝職の養子となり,嘉永2(1849)年襲封した。寛政の改革を行った老中松平定信は外祖父。号は松叟。藩政面では陽明学派の儒者山田方谷(藩校有終館学頭)を元締役兼吟味役に抜擢して財政再建,殖産興業,軍政改革などに努め,約10万両の負債を解消し,さらにほぼ同額の余財を生み出した。安政4(1857)年奏者番兼寺社奉行として安政の大獄の五手掛に任じられたが,寛大な処分を主張して大老井伊直弼と対立し,罷免された。文久1(1861)年復職し,翌年老中に任じられ生麦事件を処理,さらに将軍徳川家茂の上洛に随行し攘夷の勅命を奉承し,横浜鎖港談判に当たった。元治1(1864)年老中を退職したが,慶応1(1865)年再任され,第2次長州征討に際し寛典論を主張した。将軍家茂没後,一橋慶喜の将軍就任を推進する。その後慶喜の幕府強化策により新設された会計総裁に任じられ,幕政改革に尽力した。慶応3年10月土佐前藩主山内豊信の大政奉還の建言を受けると,その実現に努めた。鳥羽・伏見の戦ののち,慶喜に従って江戸に帰り,老中を辞し世子勝全に家督を譲る。松山城は岡山藩の征討軍の前に無血開城した。日光で謹慎中に新政府軍により宇都宮に移されたが,大鳥圭介に救出され,奥羽越列藩同盟の参謀となり,さらに箱館五稜郭に転戦した。しかし,東京に戻り自首し禁錮に処せられたが,明治5(1872)年赦免され,上野東照宮祠官となった。<参考文献>田村栄太郎『板倉伊賀守』(長井純市)」】
一 西郷氏よりの書翰、次の通り。
ただいま(私が)承知しました蒸気船の件ですが、乗頭(※乗組員の頭の意か)を召し寄せ、手配したところ、バッテーラ(ボートのこと)の件は間違いで、こちらへは廻ってこないようです。そのため、乗頭にはただちに兵庫の本船へ行くよう指示しましたので、明朝は別段、迎えの船は差し上げません。何とぞ兵庫までは、そちらさまで行っていただきたい。兵庫ではお待ち申し上げており、本船に乗り込まれたら、すぐさま出帆の手筈になっていますので、そのようにお含みください。お約束しました内容と少し違いましたので、この旨を早々にお知らせ致します。頓首。
七月二十九日 西郷吉之助
由比猪内さま
佐々木三四郞さま
要詞(要点のみという意味か)
一 英国公使の居所について、後年、本山氏より次の通り。
(前略)さて、先日大坂ご滞在中にご依頼のありました英国公使宿泊の寺がようやくわかりました。当時給仕に行っていた者がありまして、その者に尋ねたところ、それは慶応三年のことで、寺は現在の大坂府下摂津国東成郡西高津村字寺町の本覚寺および正法寺の二ヶ寺[上下に並んでいる]をもってその旅館にあてたとのこと。公使の名は知らないが、当時単に「ミニストル、ミニストル」と言っていたということです。随従の者の中には「サトー」という人がおり、その音が日本人の佐藤姓に通じる点があるのでよく記憶している。この「サトー」氏は英国公使書記と思う。公使一行はかなり多人数で、騎兵隊数人、そのほか馬丁にいたるまで外国人が付き添っていたとのこと。また滞在日数はおよそ百日ほどと覚えており、用向きは当時大坂城に滞在していた将軍に談判の用件があると言っていたとのことです。以上の通り、大まかなところをお知らせします。もっともなお進んで調べますれば、詳細がわかると思いますので、さらに必要な点があれば、すぐに調べてお知らせします。以上、遅くなりましたがご報告のみいたします。[下略]
本山茂樹
佐々木高美(高行の長男)どの
大坂での英国公使「パークス」の旅館を忘れたので、後年、在大阪の本山茂樹に調べてもらうよう高美に頼んでおいたところ、その後、右の通り言ってきたものである。
[参考]
一 七月二十九日、これより先、肥前浦上村の民に耶蘇教を信じる者が多く、物情は恐々としていた。よって長崎奉行はこれを捕らえて牢に入れ、その処置を幕府に尋ねた。ここにおいて仏国公使がまず異議を唱え、各国の公使とともにこれを釈放することを求めた。幕府はこれを容れ、この日すぐ次の書翰を長崎奉行に下した。
長崎奉行へ
浦上郷の耶蘇宗門信仰の者どもを召し捕り、取り調べをしたとのこと、承知した。そのことをフランス公使に知らせ、同人からも本国政府へ連絡した。なお彼の国(フランス)在留の向山隼人正(注⑧)・栗本安芸守(注⑨)からも「彼国事務宰相ヘ寄々相達候筈相達」(※正確にはわからないのだが、フランス当局に伝えるよう指示したという意味と思われる)。また、同国公使より長崎在留の同国領事と宣教師に伝えた書面は写しの通りなので、その意図をくみ、それぞれを参考にし、「吟味筋可相成丈手操致シ」(※意味がよく分からないので原文そのまま引用)、国法を破っても気づかないほどの愚民どものことなので、「雙方以後ノ取締相立」(※これもよく分からないので原文引用)、この村人たちには外国人の居留地に立ち入らず、農業に励むように教え諭したうえ、ひとまず帰村を命じるように。もっとも、宣教師は浦上村ヘ立ち入らないように、別紙の通り、同国の公使より通達しているので、万々一、今後宣教師が浦上村を徘徊するようなことがあったら、同国の領事にかけ合い、同人に(身柄を)引き渡すように。もし埒が明かぬようであれば、当地(江戸幕府のことか)へ言ってきてもらいたい。なお取り締まりに関することは同国公使に相談するように。その(参考に供する)ため、文書の写し二通を知らせる。(※魚住注。二通の文書の内容は次号で紹介する。)
【注⑧。朝日日本歴史人物事典によると、向山黄村(むこうやま・こうそん。没年:明治30.8.12(1897)生年:文政9.1.13(1826.2.19))は「幕末の幕府閣僚,明治の漢詩人。通称栄五郎,名は一履。一色真浄の子に生まれ向山源太夫の養子となる。養父源太夫は号を誠斎といい,微禄ではあったが文名は高く,ペリー来航の直後,求められて意見書を提出した人である。源太夫の教育を受け,昌平黌に学んだのち教授方出役。安政3(1856)年,箱館奉行支配組頭に任命された源太夫に伴われ同地に赴く。翌年8月,源太夫が任務出張中に宗谷で病没,そのあとを受けて組頭となる。のち外国奉行支配組頭となり,文久1(1861)年対馬に出張,水野忠徳の知遇を得て同3年5月目付に昇進した。その直後,老中格小笠原長行に従い,兵約1500を率いて大坂に上陸,尊攘運動の抑圧を図ったが朝廷の非難を招き失敗,免職・差控に処せられる。翌元治1(1864)年9月目付に再任。 翌慶応1(1865)年閏5月,将軍徳川家茂に従い大坂に赴く。9月兵庫開港を外国に回答した阿部正外,松前崇広に対し,朝廷は老中罷免・官位剥奪・国許謹慎を命じた。これを人事干渉とみて反発した幕府は,将軍の辞職と江戸帰還を決定。命ぜられて辞表の文を作る。徳川慶喜の周旋により辞表が撤回されたのち,目付を罷免さる。翌2年10月外国奉行。翌3年1月,パリ万国博覧会に出席の徳川昭武に従って横浜を出港,渡仏。5月駐仏公使に任命され若年寄格に進むが,幕府の地位を軽視し始めたフランス外務省と対立,後任の栗本鯤(鋤雲)に事務を引き継ぎ12月パリを出立。香港で戊辰戦争の勃発を知る。明治1(1868)年2月帰国。同3月若年寄に進められるも辞任。時に年43歳。以来,世を隔てて日々を送る。詩にいう,「先朝の白髪に遺臣あり 世を遁れ優游す寂寞の浜 樗櫟は同く迎う新日月 予樟は尚お見る旧精神……」。徳川を先朝とみてこれに殉じようとの態度である。過去を語ることを好まず,骨董と詩作を愛し,杉浦梅潭の晩翠吟社の一員だった。六千七十余首の作品があったという。<著作>『游晃小草』『景蘇軒詩鈔』(井上勲)」】
【注⑨。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、栗本鋤雲(くりもとじょうん。1822―1897)は「幕末の政治家。明治初期の新聞記者。名を鯤(こん)、通称瀬兵衛(せへえ)。匏庵(ほうあん)・鋤雲と号し、安芸守(あきのかみ)を称する。幕府の医官喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男。同じく医官の栗本氏の養子となり、1850年(嘉永3)内班侍医となったが、上司の忌諱(きき)に触れて1858年(安政5)蝦夷地(えぞち)移住を命ぜられた。10年間を箱館(はこだて)に過ごし、この間フランス人宣教師メルメ・ド・カションEugene-Emmanuel Mermet de Cachon(1828―1889)と親交を結び、1862年(文久2)士籍に列し幕臣となってから一貫して親仏派の領袖(りょうしゅう)として幕末外交史上に活躍した。1864年(元治1)目付に任じ、横浜鎖港談判にあたり、翌1865年外国奉行(ぶぎょう)となる。この間、フランス軍事顧問団の招聘(しょうへい)、横須賀造船所の設立に尽力し、フランス文化の移植と殖産興業に努めた。1867年(慶応3)に渡仏した将軍名代徳川昭武(とくがわあきたけ)(1853―1910)をたすけてフランスに派遣され、幕仏間の親善を図ったが、幕府倒壊により1868年帰国。その後一時世間との交渉を断ったが、1872年『横浜毎日新聞』に入り、翌1873年『郵便報知新聞』(『報知新聞』の前身)に編集主任として招かれ、1885年に同社を退くまで才筆を振るい、成島柳北(なるしまりゅうほく)、福地桜痴(ふくちおうち)らとともに声名をはせた。その間、1878年には東京学士会員に推された。60余編の遺著が『匏庵遺稿』に収められている。[加藤榮一]」】
(続。日記を読んでいると、かつて平士の一人にすぎなかった佐々木高行がいつの間にか藩を代表して幕府・他藩と折衝する立場になっていることに驚かされます。時代の流れというのはかくも急激な変化をもたらすものでしょうか。毎度のことながら、誤訳がいろいろあるかと思いますので、申し訳ありませんが、引用・転載をご遠慮ください)