わき道をゆく第263回 現代語訳・保古飛呂比 その86

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[別紙]

仏国公使より長崎在留の「教法師」(※宣教師のことか)へ今後の取り締まりのことを知らせる書面の訳書の写し

日本在留の「アウツクモンシエニヨール」(※モンシエニヨールは高位聖職者のこと。アウツクは不明)の「ペツテイジヨン君」(=プティジャン君。注①)へ。余の請求により日本政府は、日本の国法に従って長崎で逮捕した日本人を赦免することを許諾した。この日本人は、日本政府が許した宗旨八宗(注②)以外の宗教を公然と奉じて国法を犯した者たちである。この赦免については日本政府は仁恵の意が深く、その法(※キリスト教を解禁する法のことか)がまだ国内に行われていないにもかかわらず、これを事実上(法があるかのように日本政府が)運用しなかったとしたら、この逮捕された者たちは死刑を免れることができなかったろう。この処置が、特に大君政府(幕府)の好意であることは間違いない。それは、こういう場合に常に行う「謝罪之法」(※具体的にどういうことを指しているのか不明だが、あるいは踏み絵のことか)を強制することなく釈放したことを見れば明らかである。このような有罪者を国法上の規定とは別に、戒めることなく釈放するということは、これまでに先例のないことで、大君殿下(将軍)も過去の事柄を咎めないとの意向だ。これはもとより将来の日本人民にその国の大法を遵奉させるためである。このため、貴君は宗旨上のことにおいては、これまで耶蘇教に入った者たちが、日本の法を守る官吏に対し、今度のように背く行為がないよう、そのほかにもできるだけの処置をされることを私は望んでいる。

右のような(幕府の取り締まり)に対抗することの弊害(は大きい)。今の日本の国内の事情が多難なときにまたまた新たに災難を招く事があったら、「余ニ於テハ更ニ取定ムル定見ナカルベシ」(※私はどうしたらいいかわからない、あるいは打つ手がないといった意味と思われるが、自信が持てないので原文引用)。貴君は人事に温和平穏を掌る司祭であるから、争乱を生じさせることになる大難事をあらかじめ予見しておかれるべきだ。

在長崎の司教へ今日送った書面は以上の通り。

於大坂、一千八百六十七年八月二十八日

日本国在留 仏国全権公使 レオン ロレス(注③)

仏国公使より長崎在留の領事に送った書面の訳の写し

在長崎の仏国領事館役人のレック君へ。別紙の日本在留の司教ペツテイジヨンへ私から送った書翰の写しをこれに同封して送る。

耶蘇教を奉じ、国法を破ったという理由で入牢した日本人は、いずれも刑罰を受けることなくすべて赦免されるように処置されたので、今後日本人を促して、国法を破ったり犯させたりする類いの行為はすべて差し止めるように私から言ってきたといって、同人(プティジャンのことか)へ申し入れておくように。ついては、今後、右の教会関係者の中、誰であっても自らの教法を広めるために、浦上はもちろん、その他の場所へ赴くことがあってはならない。その訳はどういうことかと言うと、いまの日本南方(薩摩、長州などを指すか)の人心が騒がしくなる状況にあたって、カトリックの協会関係者がそのような日本人たちの中に入り交じることにより、はかりしれない危難を引き起こす恐れが非常に強い。公平明敏な処置および私たちの宗門の利益は、このような難事が起きないように極力盡力することにある。ゆえに、そなたは役務上のことを旨とし、私の命令ならびに日本と結んだ条約の趣旨をその文面通り取り計らうよう注意されたい。

在長崎の仏国領事館役人へ今日送った書面は以上の通り。

於大坂、一千八百六十七年八月二十八日

日本在留 仏国全権公使 レオン・ロレス

【注①。朝日日本歴史人物事典によると、プティジャン(没年:明治17.10.7(1884)生年:1829.6.14)は「幕末に来日したパリ外国宣教会(カトリック)宣教師。フランス・オータン神学校卒。万延1(1860)年那覇着。文久2(1862)年横浜に上陸,翌年長崎に移り大浦天主堂建築に尽力。慶応1(1865)年,250年ぶりに潜伏キリスト教信徒を発見する。教会用語問題で横浜漢訳版に反対し,復帰信徒の伝統保存を主張,キリシタン用語版を長崎で刊行,これらはプティジャン版と呼ばれている。「浦上四番崩れ」で迫害されている信徒救出に奔走した。慶応2年日本教皇代理,名義司教などを務める。日本カトリック再布教の先駆者。長崎で永眠,大浦天主堂に埋葬された。『プチジャン司教書簡集』がある。<参考文献>江口源一『キリシタン復活の父,プティジャン司教』(大江満)」】

【注②。精選版 日本国語大辞典によると、八宗(はっ‐しゅう)は「平安時代に広く行なわれた、仏教の八つの宗派。すなわち、倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律・法相(ほっそう)・三論・華厳(けごん)の南都六宗に、天台・真言を加えたものの総称。八家。」】

【注③。デジタル大辞泉のよると、ロッシュ(Leon Roche。[1809~1901])は「フランスの外交官。1864年(元治元)駐日公使として来日。幕府を支持して積極的な対日政策を推進し、イギリス公使パークスと対立。軍制改革などに尽力したが、本国の対日政策変更のため、1868年(明治元)帰国。」】

[参考]

一 この月、長崎地方役(長崎会所=注④=の地役人=注⑤=のこと)を改革し、職務のない者は皆、遊撃隊に編制し、兵役に就かせることにした。

【注④。改訂新版 世界大百科事典によると、長崎会所 (ながさきかいしょ)は「1698-1867年(元禄11-慶応3)の長崎で,中国やオランダとの貿易,利銀の幕府運上や市中配分などの総勘定所で,幕府勘定所・長崎奉行の支配下にあった市政機関。初めは少人数であったが急増し,五ヵ所糸割符会所,代物替(しろものがえ)会所,雑物替(ぞうもつがえ)会所などを吸収して,1734年(享保19)元方・払方の2部局制をとり組織・機能が確立した。筆頭の町年寄・町乙名(おとな)が昇格した会所調役・目付以下,役株世襲の吟味役,請払役,目利,筆者など,1853年(嘉永6)には232人。唐・蘭通詞(つうじ)や唐人屋敷・出島の乙名,組頭などと連携しながら輸入品を査定価格(〈値組み〉)で買い取り,五ヵ所本商人に入札で売り立て,10~20割余の差益で輸出貿易(銅,海産物など)の差損を補てんし,幕府運上,奉行役金,諸役所経費のほか,過半は地役人の役料給銀に,そして箇所銀,かまど銀,寺社寄進銀その他の市政経費に充てた。これらの勘定帳は,長崎奉行を通して幕府勘定奉行の監査をうけた。執筆者:中村 質」】

【注⑤。精選版 日本国語大辞典によると、この場合の地役人は「江戸時代、長崎の市政および貿易などに携わった土着の役人。町年寄、町乙名(おとな)、組頭、日行使(にちぎょうじ)、長崎会所諸役人、唐通事、和蘭通事、目利(めきき)、遠見番、唐人番などが含まれ、いずれも町人出身者であったが、原則としてその職を世襲し、外国貿易による利潤の分配にあずかる権利を有した。」】

[参考]

一 この月、幕府が諸国の関所の通行規定を改正した。

関所の通し方の件は、前々よりのご規定の内容があるが、このたびその改正を命じられたので、来る八月一日より別紙の通りに心得るよう。これまで(幕府の)留守居役で取り扱っていたことも、これからすべて関所掛かり御目付が取り扱うことになったので、そのことを一万石以上(の大名や、それ)以下の面々に洩れなく伝えられたい。

条々

 一 婦人の通し方は別段の改正はなく、すべて男子同様の「振合」(※振合はふつう釣り合いとかバランスとか都合とかの意だが、この場合、どういう意味だかわからない。ひよっとしたら扱いの意か)をもって通し、少女も振り袖・留め袖を着用して構わない。

 一 剃髪・惣髪(注⑥)・かぶろ(髪を短く切りそろえて垂らした子供の髪形=デジタル大辞泉)などについては別段の改正はない。

 一 首・死骸・乱心・手負い・囚人などは手形がなくとも、付き添いの者より証書を差し出し、通行すべきこと。

 一 諸役人が急の御用の際は、身分が上の者も下の者も夜中も通行して構わない。

 一 これまで印鑑を引き合わせて通行(注⑦)した分は、これからそれをするに及ばない。

右の通り心得られたい。

【注⑥。デジタル大辞泉によると、惣髪(そうはつ)は「男子の髪形の一。月代さかやきを剃らず、髪を全体に伸ばし、頭頂で束ねたもの。束ねずに後ろへなでつけて垂らしたものもいう。江戸時代、医者・儒者・山伏などが多く結った。そうがみ。そうごう」】

【注⑦。精選版 日本国語大辞典の解説によると、関所通手形(せきしょ‐とおりてがた)は「江戸時代、関所を通過する際に所持し提示した身元証明書。武士はその領主から、町人・百姓は名主・五人組・町年寄などの連名で手形発行権をもつ者に願い出て、下付をうけた。関所では手形の印と判鑑とを引き合わせて、相違ないことを確かめた上で通過させた」とある。本文中の「印鑑を引き合わせて通行」とはこのことだろう。】

八月

一 この月一日、石川(大坂留守居役の石川誠之助)に後事を托して早々に出発、早駕籠で蔵屋敷に帰ったところ、もはや鶏鳴(夜明け)だった。すぐさま支度し、兵庫に向け夜のほのぼのと明けたころに出発、駕籠かきを追い立て追い立て走ったが、何分気がせいていたので、道ゆく速度が遅い気がした。ようやく兵庫近くになったところ、蒸気船が見え、次第に船も近くなり、遙かに幕府の回転丸、薩摩の三国丸、英国の軍艦つごう三艘が煙を出し、今にも運転しようと待ち受けている模様もわかった。ようやく七ツ時(午後四時)ごろに兵庫着。すぐさま三国丸に乗り込んだ。このときはしけで急ぎ来る人がいた。近寄って見ると、坂本龍馬である。越前春嶽公より老公(容堂)への書翰を持参していた。このたびの英国人との事件を春嶽公が心配して手紙を書かれたとのこと。坂本はこれから帰京するつもりだったが、(三国丸が)運転を始めたとき、(それに気づかず)いろいろ話をするうち、出帆してしまったため、そのまま同乗して高知に向かった。

一 八月二日、昨夜、海上の風波で船の動揺がはなはだしく、大いに困却した。ようやく日の入りすぎ、須崎に入港。上陸して、宿に郡奉行の原傳平・前野源之助を呼び寄せ、帰国の事情を話した。程なく英国軍艦・幕府軍艦が入港するので、その用意をすべきこと、しかしながらそのうち談判が始まるので、それまでは人心が騒ぎ立てることがないように厳しく取り締まること、また、この郡の兵隊などを繰り出しての警衛は見合わせるよう話した。両人も承諾した。(自分らは)同夜、須崎を発ち、早追いで急行した。その夜も大雨で、名古屋坂などで難儀した。時々たいまつが消えたりして道中がなかなか進まず、猪内と自分は従者を一人ずつ召し連れ、先打ち(馬に乗って一団の先頭に立つこと=精選版日本国語大辞典)も行き届かず、人足を継ぐのも間に合いかねた。朝倉村の番所に来る人足は一人もいなかった。平常は参政・大監察などが巡回などするときは随行者もあり、まずもって(巡回を人々に)知らせることになっているが、このたびは急なことで、従者をひとりずつつれ、そのうえ京都を発ってから少しも暇がなく、ことに昨夜来、船中が動揺して主従ともに乱髪などで重役と見えず、番所もあまり急いで人足を呼び立てなかった。そのため猪内が大声で、「自分はお仕置き役である。あの方(高行)は大目付である。大事の御用で京都より帰った。一刻も早く人足を出せ」と言うと、番人は大いに驚き、あわてて走り出して、ようやく人足が来た。

坂本龍馬は兵庫より思いがけず乗船して、須崎港に着いたのだが、同人は二度まで脱藩している。国内では脱走人として上陸すれば、国法の許さぬところであるから、このとき藩政府も佐幕家が多く、ことに脱走人などを憎むことがはなはだしいので、どういうことになるか解らなかった。幸いに夕顔(土佐藩所有の蒸気船)船長の由比畦三郎は猪内の養子なので、猪内よりよくよく事情を話して、(坂本を)夕顔船に乗り移らせ、船中に潜伏させた。(坂本は)京都では重役たちと交際しているのに、お国ではなかなか難しいことである。高知に着いてから猪内が、龍馬を潜伏させていることは内々老公に申し上げた方がいい、そのことは貴君から言上されたいと言ったので、そうしたところ、老公はしばらく考えて、今日のところはまずもってその取り計らいをしかるべく聞き置いたことにしておこう。なにぶんやかましいことであると言って、お笑いになられた。

龍馬は初め脱走したとき、その後の春嶽公よりの申し入れで、罪を許されたのだが、またまた脱走した。しかしながら龍馬が人物であることは、かつて勝房州(勝海舟のこと)より老公へ申し上げたこともあったと聞いた。ゆえによくよくおわかりのことだから、深くお咎めをされないのだと恐れながら推察した。

[参考]

一 岡崎菊右衛門の筆記に曰く。

一 八月二日、大坂からの蒸気船により御仕置役の由比猪内、御目付の佐々木三四郞、小目付の毛利恭助ほか一人が(国許に)帰り着いた。

その経緯は次の通り。七月七日、長崎の英人館で(何者かが)英人二人を殺害し、逃げたという。下手人は土佐の人間と(英国側が)主張しているとのことで、英国船より「ミニストル」(公使)が幕府へ訴え出た。そのため(由比らが)大坂で板倉候に呼び立てられ、右の事情を言い聞かせられたが、一切知らぬと申し出た。それならば御国(土佐のこと)に行って問い糾すということで、外国奉行の平山(圖書頭)、お目付の戸川(伊豆守)が蒸気船で入国。八月四日に須崎着。五日、陸路を通ってご城下に到着。同日、ご隠居様(容堂)に散田屋敷で会い、翌六日早朝、浦戸経由で須崎まで帰った。

このたびの幕府のやり口には大いに疑念があり、(土佐藩の)軍隊が五日・六日、須崎または浦戸などへ出動した。

とにかく英国側に直接会おうということになり、ひとまず穏やかになった。九日、(平山らが)帰った。(土佐藩の)諸勢力は十日、引き取った。

一 八月三日、五ツ時(午前八時ごろ)前、高知着。自宅に立ち寄らず、ただちに福岡執政に(到着を)報告した。それから藩庁に出勤、あれこれ評議し、太守さまにお目通りしてこのたびの事件の詳細を申し上げた。散田御殿に参上し、老公へも同様のことを申し上げ、夕刻に帰宅した。今日、ちょっと乾退助に面会した。乾は大不平で、「後藤は大政奉還が行われれば、即日将軍を関白に推挙すると言っている。こんな精神だから出兵などを深く嫌い、老公に良いように申し上げ、出兵の沙汰は止んだ。今日までこぎつけたのに、このような因循論では、またまた元の木阿弥になってしまう」と言った。自分はそれに答えて言った。「後藤の将軍を関白に推挙するとか、または戦を好まぬので出兵を嫌うとかいうことは、僕はいまだ聞いていない。たとえ後藤がそのような説であっても、天下の今日の形勢は砲声を聞かずして治まることは万々ないと思う。君はひたすら軍事を整頓して、いつでも出兵に差し支えがないよう尽力されたい」。また、後藤にちょっと面会したところ、後藤はこう言った。「自分も実に困却している。かねて約束した通り、二大隊の兵は速やかに出すつもりだったが、老公のお考えでは、大政返上などの周旋をしたのに、後ろ盾に兵を用いることは、強迫手段であって不本意千万である。天下のために公平心をもって周旋するのに、なぜ兵を後ろ盾にするのか、出兵無用という御意である。それなのに乾はじめ一般の若者たちは、後藤は死を恐れ、出兵を嫌い、老公に良いように申し上げて出兵せずと言う。迷惑である。君は(その辺のことを)よく了解して、意脈を通じるようにしてもらいたい」と。自分はこう答えた。「ご迷惑はお察しする。僕は十分了解した。今日は相互に疑心なく、一藩の不覚がないよう、一心に協力することが肝要だ。出兵のことも必ず必要になる局面は遠くないにちがいない。(老公に)ことさら出兵の件を申し上げても、了解されないだろう。何事も藩の内部を整えることが急務である。乾には軍事のことを任せているので、そのことを十分実現するようにして、しかるべくかれこれを貫徹するようにと話した」と。それから後藤と別れ、両御殿(藩主のいる二ノ丸と、容堂のいる散田邸のことか)へも行き、いよいよ明日の早朝より須崎に行くことになった。談判をはじめるにあたっては、種々の御用があり、その挙げ句、後藤と乾の間柄を十分に周旋する暇がなくなった。

一 八月三日、(幕府の)御目付が(土佐に)来るという内容の覚え書き、次の通り。[某氏筆記]

  覚

七月七日、長崎で英国人が殺害され、その下手人は土佐の人間だという風説が立った。このため、英国が幕府に圧力をかけてきたが、風説の真否が分からないので、幕府の事情聴取のため、外国奉行・大目付らが将軍さまの直筆文書を持参して国許(土佐)に派遣される。(外国奉行らを乗せた船が)今日明日中には着岸の予定である。また、英国船がこのたび阿州候(阿波徳島藩主・伊達宗城のこと)の招きで八月二日、兵庫を出帆し、徳島表に行った。英国船は帰帆の際、前件(英国人殺害)の真否を幕府のお役人に問い糾すため、国許に立ち寄ると聞いている。その際は幕府のお役人が応接し、それにつれて我が藩の重役の者よりも談判に及ぶことになるら、前もってそのことを心積もりしておくように。もっとも事にあたっての進退や立ち居振る舞いにおいては太守さまの下知を守り、猥りの挙動がないよう、厳しく慎むべきこと。

(追記)八月五日、幕府のお役人が来た。川崎源右衛門方に止宿。同六日、散田屋敷でご隠居様が対面され、同日、(幕府役人は)須崎まで帰った。八月六日正午、須崎港へ英国船一艘が入港、同九日、帰帆。

一 八月四日、大雨、明け六ツ時(午前六時ごろ)より出発。早追いで夕方の七ツ(午後四時)ごろ須崎に着いた。談判のため須崎に行った面々は後藤象次郞・由比猪内・渡邊彌久馬・自分らである。

一 有川氏(薩摩藩三国丸の船長。高行らは西郷隆盛が手配した三国丸に乗って土佐に帰ってきた)よりの書簡、次の通り。

貴兄からの手紙をありがたく頂戴しました。心から御礼申し上げます。さて先日はまたまた「御再越」(※高知から須崎に再び来たという意味か)とのこと。遠路御草臥(※草臥は山野に野宿すること。旅寝すること=精選版日本国語大辞典)御安着(無事に着くこと)お祝い申し上げます。そうして、ただいま何よりの鰹節四十本を頂戴し、ありがたく賞味いたします。さて明日は天候次第で未明に出帆しますので、そのようにご承知ください。このたびは色々とご懇情をいただき、いずれも恐れ入り、心よりお礼を申し上げます。まずは当座のお礼とお伺いかたがたご返事まで。

八月四日 三国丸船長 有川彌九郎

由比猪内さま

佐々木三四郞さま

  貴酬(ご返事の意)

一 八月五日、早朝より談判の場所を定めようといろいろ評議したが、何分手狭で、適当なところがないので、大善寺にその席を設けた。それから、軍艦が入港した際に応接の手順などを相談した。そのうち人心は動揺しているとの風聞が伝わり、郡奉行に相談し、鎮撫の手配などをさせ、その多忙さは言いようがない。またまた高知より兵隊を繰り出してくると注進があった。だが、前もっての話し合いでは、談判中は兵隊を出さないことになっていて、高岡郡内の兵隊もそのつもりでいるようにと郡奉行に申し聞かせていたのに、どういう都合か、高知より出兵の知らせがあった。そのため郡奉行は大いに不平を鳴らし、「決して兵を動かしてはならぬというお達しだったので、管内にその旨を示しておいた。それなのに高知よりわざわざ出兵するのは、当郡の兵はお役に立たないという見込みのためか。当郡の兵でも須崎港の防禦はできるつもりだ。もしお役に立たぬということであれば、当郡の兵隊は承服しない。すでにだんだんとそうした(抗命の)兆しが現れているとの報告がある。私どもも職掌上偽りの指示をしたことになり、このまま安閑としておることはできない」と言って議論が紛々とした。しかしながら須崎に来た面々は高知より出兵の打ち合わせがないので、意外の事態にはなはだ困却した。しかしそれでも致し方なく、「これには何かご評議の筋でも急に出来たのだと思う。しかし、決して高知から来た兵隊を当港の表面に立たせることはしない。万々一変事が起きたら、当郡の兵を先鋒として防禦させるようにする。急に兵端を開くことは絶対にないので、そのつもりでおられたい」と言ったら、ようやく承服した。その間にもいろいろ議論があって、その夜もろくろく寝つけなかった。このとき滑稽だったのは、御郡下役の川田金平という者の議論だ。川田は快男子であるが、今日の天下の形勢には迂遠で、突然こう言った。「兵隊は城下の兵のように戎服または鉄砲を一様に揃えているよりは、当郡の郷士あるいは民兵らが種々粗末な服を着て、火縄銃あるいは猟銃などを思い思いの出で立ちをした方がかえって勇壮で、英人も恐れるだろう」。このような人心だから、人民らの騒擾も推して知るべしである。

一 八月六日、朝の五ツ半(午前九時)ごろ、英国軍艦が入港した。これは三日ごろ到着して港外に停泊していたものであろうか。または阿州(阿波国)に立ち寄ったかと思われる。すでに幕府の回転丸は、我々が乗り込んだ三国丸に遅れながらも、早く入港しているので、英軍艦も兵庫は出港したけれども、時機をはかって入港したしたものを思われる。もっとも、二日の夜から三日の夜にかけては、非常の大雨で、英軍艦内でも酔った者が過半に及んだという。我が三国丸も風波の中だったが、まだそれほどひどくならなかったときだったので一番早く着いた。そんなこんなで(英軍艦が)延着したものと思われる。

一 八月七日、英船が碇泊している。談判所は前もって大善寺に設けたが、英軍艦か、我が夕顔船(土佐藩の汽船)の中で談判をやろうということになり、英軍艦内で談判をした。後藤象二郎がその任にあたった。しかしながら、何分下手人が判然としない。先方は尊藩人(土佐藩の者)と申し立て、こちらは我が藩にはいないと言う。いわゆる水掛け論である。その日は決着がつかず、明日さらに談判しようということで退席した。そのうち高知から兵隊が繰り出して来た。士官は山田喜久馬・高屋佐兵衛・山地忠七・祖父江可成・大藪新助ら数名である。いずれも屈強の面々で、戦いをしたがっている。大善寺の談判書を見て、大藪が言った。「先方は腰掛けでも、こちらは着座にすべきだ。先方の礼にならうのは国辱である」。自分はこう言った。「先方が腰掛けでこちらが着座すれば自然と上下の勢いになるが、いかに」。皆は「もっともである」と言った。また祖父江が言った。「幕府の軍艦の乗組員でも洋服を着た者が上陸すれば、異人と見なして銃撃すべきだ」。自分は言った。「幕人も日本人である。外患の今日、日本人と知りつつ砲殺するとはどういうことか。実に暴論である。深く思慮してもらいたい」。祖父江は黙り込んだ。また英軍艦より言ってきたのは、「しばらく碇泊すれば、規則により軍艦で練習をしなければならぬが、砲声などを聞いて間違えないよう通達する」とのことだった。このことを兵士たちが聞いて皆こう言った。「たとえ練兵にもせよ、港内で発砲すれば、我々がこれに応じないのは国辱である。決してそのままには打ち捨てがたい」と。けれども、これはこちらから発砲は差し控えるように申し入れた。幸いにすぐに英軍艦が帰港したので、相互に異議はなかった。

一 八月八日、前日のように談判した。結局、長崎に行って、実地に取り調べて談判することに決まった。英側よりは通弁官の「サトウ」氏(注⑧)が公使の代理として長崎に赴く予定。こちらからは自分が長崎に行くという約束をした。

【注⑧。20世紀日本人名事典によると、 サトウアーネストSatow Ernestは「外交官,日本学者 駐日英国公使。国籍イギリス、生年1843年6月30日、没年1929年8月26日、出生地ロンドン、本名サトウ アーネスト・メイスン〈Satow Ernest Mason〉。」「英国外務省通訳生試験に合格後、1861年中国に派遣され、同年駐日公使館付通訳生に任命される。1862年(文久2年)初来日し、1865年横浜領事館付き日本語通訳官、1868年日本語書記官に昇任、オールコック、パークス両公使の下で維新の激動期における日英外交に従事した。この間、1866年「ジャパン・タイムス」誌に対日外交問題について「英国策論」を発表、幕末の政策に大きな影響を与えた。1884年シャム総領事を務めたのち、1895年駐日公使に就任し再来日。その後、1900?05年駐支公使を最後に外交官生活を引退。以後デボン州オッテリーに住んだ。また英国の日本学者の草分けで、とくにキリシタン研究に功績があった。主著に「日本耶蘇会刊行書誌」、自叙伝「一外交官の見た明治維新」の他、「明治日本旅行案内」や「英日国語辞書」など日本語及び日本事情研究の著書も多い。1895年ナイトの称号を受ける。1993年写真アルバムが子孫から横浜開港資料館に譲渡された。」】

一 同九日、内外人がそろって食事などをし、九ツ半(午後一時)ごろ英軍艦が帰帆した。自分らは夕刻[日の入りごろ]、空蝉船(土佐藩の汽船)に乗り込み、出帆した。夜半、高知着。このたび長崎表には夕顔船が行く予定で、自分も夕顔船で行く予定。英人「サトウ」氏も同船の予定で、空蝉で一度浦戸まで来た。

一 さて、須崎で兵士ならびに郡役所などの間で種々の議論もあったとき、後藤が言った。「英人との談判はどれほど難しくても十分できるが、内輪のことは大閉口だ。貴兄が内向きは担当してもらえないか」と。よって外は専ら後藤が引き受け、内は自分が専ら引き受けることにした。もっとも談判の際は必ず後藤・由比・渡邊・自分の四人が列席した。

留守宅の貞衛(妻)より須崎への手紙に次のように書いてあった。「このたびのことははなはだ重大であります。前にお勤めの方々[参政・大監察など俗論家のこと]がしきりに言われるには、我々は俗論とか佐幕家とか言われたが、異人には決して恥をかいたことはない。このたびもし彼らを上陸などさせたならば、実に佐々木などの勤王家も腰抜けであると。また若年の人々は佐々木はどうあっても上陸はさせないだろう。もし上陸させたら、(英人と)ともに殺してやると言っているという風聞ですので十分用心されるように」と。

須崎で休息中、英人に出そうと菓子類を取り寄せておいたのを、後藤と二人で勝手に食べ、雑談などで大笑いをしていたところ、由比猪内が他から帰ってきて、「あなたたちは何事だ。僕などは先日以来、大いに心を痛めていて笑うどころではない。菓子などをやたらに食い散らかすとはどういうわけであるか。チト静かにされたい」と叱られた。自分らはいよいよおかしくなったが、由比は年長者なので、そのまま不注意を謝した。その折り、渡邊彌久馬が来て、「あなたたちはさすが若いだけあって余裕がある。僕らは日夜真面目。

由比も僕も老いたり」と言って微笑んだ。あとは一同大笑いとなった。

[参考]

一 後年、片岡謙吉(注⑨)が記録したもので、事実とちがうくだりもあるが、ここに掲載する。

慶応三年八月四日、英国軍艦一隻が幕艦回転号とともに、我が須崎に到来した。急報が高知に届いた。物情騒然、その日のうちに城下の諸隊に出動準備の召集令が敷かれた。同日、西は須崎、東は浦戸・種崎に向かって出発する部署を定めた。同六日、午後七時、別撰隊一小隊の隊長・山田喜久馬氏、足軽隊二小隊の山地忠七氏・祖父江可成氏、差使役(※

使者役のことか)は高屋佐兵衛氏、昼夜兼行で須崎に向かい、戸波を通って翌七日午前八時ごろ須崎に着陣した。同七日七時ごろ、別撰隊一小隊長・片岡健吉氏、足軽隊一小隊・箕浦猪之吉氏が種崎に向かって出発し、唐津を越えて種崎砲台脇に着いた。浦戸・種崎台場担当も同時に海路より出発した。そのときの浦戸・種崎台場担当の頭は中老の渡邊玄蕃・安田犬喜。須崎に着いた諸隊は大善寺に入ったが、寺内が狭くて、将兵が本堂と鐘撞堂に入ったけれども足を伸ばして寝ることができなかった。突然の出兵だったので昼食をとることができず、しきりに郡役所にせっついてようやく夕方に食べた。このときの郡奉行は原傳平・前野源之助、同八日、二小隊は他の民家に移った。

これより先、長崎で英国の水夫を殺害したものがあった。まだその下手人は捕まっていない。たまたま「徽章ノ事」(※よくわからないのだが、あるいは衣服の紋のことか)より我が藩を疑い、二隻の軍艦が尋問のため土佐に向かうという計画を聞き、後藤象次郞氏は長崎より薩摩の汽船を借り、大坂を経由して土佐に帰帆した。佐々木三四郞・渡邊彌久馬・由比猪内の諸氏も、同船で京都より帰帆した。英国船が来るのを待ち、直ちに須崎に出張した。談判を終え、英船は帰帆した。[この談判の経緯は、後藤・佐々木両伯へご質問されれば明らかになる]

英艦・幕艦が須崎に到着したが、両艦ともに大いに警戒して水夫一人も上陸させなかった。はじめ(土佐藩の)諸隊が着いたとき、大善寺内に夕顔船[我が藩の汽船]の腰掛けと机などを置いて並べてあるのを見た。これについて、その準備をしている船員に訊ねたら、こう言った。「ここで談判するので、その場所をつくっている」。さらに同船員の言うには、「英公使パークスは兵士を引率して談判に来るだろう」と。山田・山地・土屋・高屋の諸隊長はこれを聞き、佐々木・渡邊の二氏に面会して、こう訊いた。「英公使は応接所に兵を率いて来るというのは真か」。佐々木・渡邊の二氏が言った。「そうであろう」。山田・山地の諸氏が言った。「ならば我々もまた兵を率いて応接すべきだと思う。いかがか」。佐々木・渡邊ははっきりした答えをしなかった。数回のやりとりを経て、山田・山地の諸氏は、後藤氏に面会して、兵を率いて談判するのかどうかと訊いた。後藤氏はすぐさま答えた。「兵を率いて行くことはもちろんだ。先方が兵を率いて来れば、我が方もまたを率いて行き、そして先方がもし無礼な言を発したら、断然お討ちなされ。お討ちになるより先に自分が刀を抜いて切りつける。談判の際にはお知らせするので、その準備をしてお待ちなされ」。山田・山地らの所隊長は大いに喜んだが、はじめの佐々木・渡邊氏らの答えとすこぶる違うので怪しんで帰り、奮って応接所に出る準備をしていた。翌九日になっても何らの知らせも聞かないので、山田・山地の所隊長は重ねてまた後藤氏に面会し、訊ねると、後藤氏は言った。「談判のことは英船に行って、仮に下談判を試みたところ、(相手は)よく訳がわかり、本談判を要せずに落着し、ことがまったく済んだので、我が兵士らに先方の軍艦を見に行かせてもよい」。そうして諸隊長は帰宿するやいなや、昼夜兼行で高知に帰れと命じられ、夕方、諸隊は須崎を引き上げて帰り、諸隊長はみな後藤氏の機敏に驚いた。この事件が終わった後、藩の汽船・空蝉船で、英の書記官「シーボルト」が来て、老公が開成館で対面されたことは、後藤・佐々木氏が承知しているだろうから、両氏に訊かれればよくわかるだろう。

これより先、我が藩は乾退助氏を大監察とし、軍務総裁に任じた。そこで、乾氏は暗に討幕の準備をしようと思い、まず兵隊を精選した。その概略を言えば、従来の我が藩の銃隊はみな足軽だけで構成し、士格などの銃隊はなかった。乾氏は主として士格の子弟の中から活発で槍剣もしくは砲術に秀でた者を編成して、特に士官を選んだ。その士官らは兵式を知らない者がいれば、別に教師を用意して、兵式の練習をさせていた。ちょうどそのときこの事件(英国水夫殺害事件)が起きたので、急きょ、この練習中の士官に兵士と兵器を与え、一昼夜たたないうちに須崎に出張させた。そうして事が落着するまでに他の数十隊の兵の編成は完了した。このように迅速に諸兵隊を編制した際、乾氏を補佐したのは小監察の大石彌太郎である。

兵士の服装は、撃剣の稽古襦袢に、同じ稽古袴で、(彼らはその服装で)くり出した。

このとき、乾氏が兵を須崎などに出すと、同港に出張の諸氏や藩の重役の中には、このためにかえって災いが生じるのを恐れ、出兵を望まない者があった。しかしながら、乾氏は兵制を改革し、かつ実地演習をするのに好時機とみて、軍務総裁の職権により断じて諸兵を出動させた。その迅速機敏な洞察力と軍事の才能に感服しない人々はいなかった。

(高行の追記)右は片岡健吉より寄越したもの。

【注⑨。日本大百科全書(ニッポニカ)のよると、片岡健吉(かたおかけんきち。1843―1903)は「自由民権家。天保(てんぽう)14年12月26日、土佐国中島町(高知市中島町)に生まれる。父は土佐藩士片岡俊平、母は渋谷氏。家格は馬廻(うままわり)250石の上級武士。戊辰(ぼしん)戦争に際し迅衝隊(じんしょうたい)右半大隊(みぎはんだいたい)司令として会津城攻略に参加。戦功により中老職。朝命による海外視察のため1871年(明治4)5月6日出発、アメリカを経てロンドンに滞在。1年10か月後帰国し海軍中佐。征韓論に敗れて下野した板垣退助(たいすけ)と行動をともにし高知に帰る。74年海軍中佐の辞表を提出するとともに、立志社(りっししゃ)の創立を推進し、翌年4月の社長制設置とともに社長に就任。同年8月24日から翌年1月まで高知県七等出仕。77年6月9日に国会開設を求める立志社建白書を提出して却下になる。同年8月18日西郷隆盛(たかもり)の挙兵に関し逮捕され1年5か月入獄。出獄後、高知県会議員に当選し初代議長。80年4月国会期成同盟の総代として「国会ヲ開設スルノ允可(いんか)ヲ上願スル書」を提出したが拒絶される。85年5月15日キリスト教受洗。87年12月26日公布・施行された保安条例による東京からの退去を拒否したため軽禁錮2年6か月。第1回衆議院議員総選挙以降、連続8回当選。1902年(明治35)3月27日同志社社長。衆議院議長在任中の明治36年10月31日病死。正四位勲三等、旭日中綬章(きょくじつちゅうじゅしょう)。墓は高知市秦泉寺山(じんぜんじやま)。[外崎光廣]『川田瑞穂著『片岡健吉先生伝』(1939・立命館出版部/復刻版・1978・湖北社)』▽『外崎光廣編『片岡健吉日記』(1974・高知市民図書館)』」】

(続。これから舞台は長崎に移ります。歴史の歯車は幕府崩壊に向かって大きく動いていきます。申し訳ありませんが、引用・転載をご遠慮ください)