わき道をゆく第261回 現代語訳・保古飛呂比 その84
一 (慶応三年)六月二十四日、祇園の中村屋で会合があった。薩摩の脱藩者・田中幸助[中井弘(注①)]が来会し、建白書を修正した。田中は後藤と長崎で昵懇になった。すこぶる面白い人である。薩摩人には珍しい通人のように見受けた。帰途、由比の下宿に立ち寄り、今日の(会合での)やりとりを知らせた。「人定刻」(※この場合は人が寝静まるころ、午後十時ごろのことか)に帰宿した。
【注①。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、中井弘(なかい-ひろし1838-1894)は「幕末-明治時代の武士,政治家。天保(てんぽう)9年11月生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。安政年間脱藩して土佐高知にゆく。後藤象二郎の援助で慶応2年渡英。維新後外国官判事,駐イギリス公使館一等書記生などをつとめ,のち滋賀県・京都府知事となる。元老院議官,貴族院議員。明治27年10月10日死去。57歳。幼名は休之進。号は桜洲山人。別名に弘三。著作に「漫遊記程」など。」】
一 同二十五日、晴れ、今日は(京都藩邸に)出勤、少々気分が優れず、夕方、由比の下宿に行って話をし、初夜(午後八時ごろ)帰宿した。
一 同二十六日、晴れ、(藩邸での)勤めを終え、眞邊の下宿で会合。今日、建白書の草稿を薩摩藩邸に送った。
一 同二十七日、晴れ、(藩邸に)出勤しただけで、よそには出かけなかった。
一 出勤した。夕方、芸州藩の辻将曹・寺尾精十郎・平山寛之助・船越陽之助・小林順吉と会った。建白についての相談あり。芸州藩には少々異論がある。もっとも大体は同意であるが、文字の上などのことである。
一 同二十九日、晴れ、(藩邸での)勤めを終えてから「松力」(※木屋町の松力楼のことか)で薩摩藩の大目付・町田民部(注②)と会った。田中幸助が同席した。民部はロンドンに二年間留学し、このごろ長崎に戻り、ただちに京都に出て来たという。さまざまな西洋の話に終始した。夜に入って下宿に戻った。
【注②。朝日日本歴史人物事典におよると、町田久成(まちだひさなり。没年:明治30.9.15(1897)生年:天保9.1.2(1838.1.27))は「明治期の文政家。島津氏門族で薩摩国(鹿児島県)石谷城主町田久長の長男。通称民部,石谷と号す。変名上野良太郎。江戸昌平黌に学び,帰藩後大目付,藩開成所掛。慶応1(1865)年,森有礼ら藩留学生を率いて渡英。滞欧中,博物館事業に注目する。帰国後参与,外国官判事,外務大丞などを歴任。明治4(1871)年文部大丞に転出し,もっぱら博覧会事務に携わる。同6年大英博物館などをモデルにした大博物館構想を唱え建設地を上野山内にすべく建議。同9年にはわが国最初の内務省博物館長に任命されるが,6年後に突如罷免されたことに衝撃を覚え,同22年官を辞して仏門に入った。三井寺光浄院住職として余生を送る。古美術の鑑識に長じ,余技に観音像などを好んで描いたという。<参考文献>一新朋秀「町田久成の生涯と博物館」(『博物館学年報』18,19号)(犬塚孝明)」】
[参考]
一この月、老中小笠原壱岐守よりの通達。
来る十二月七日より、兵庫港を開港し、江戸ならびに大阪市中へも貿易のため外国人が居留することになっているので、諸国の産物を手広く運搬し、勝手に商売してよろしい。
右の内容を幕府直轄領・私領(大名・旗本・御家人の領地)・寺社領ともに洩らさず広く知らせるように。
七月
一 この月一日、晴れ、(藩邸での)勤めを終え、眞邊(の下宿)で会議をした。薩摩藩から『建白の趣旨に全面的に同意する』という返事が来た。一同悦んだ。帰途、由比と二人で薩摩藩の智略に感服した。『芸州藩(広島藩)は些細の事にも異論を唱えたけれども、薩摩藩はただご同意ごもっともと言うだけ。そのため我が藩の人間は薩摩も異論は一言もなかったと吹聴することになるだろうが、これは薩摩の智略である。(薩摩は)これまでの我が藩のことには疑念を抱いている。そのため、今度は我が藩を主役に仕立て、一本打たせ、その後で大いにやるつもりであろう。これは我が藩に十分の重荷を背負わせたということだ。わざと一本参ったと叫んで、二の太刀で十二分を占める覚悟だろう』と二人で微笑して帰った。夕方、大仏のあたりを散歩。夜、若尾譲助・山田東作と四条河原で納涼した。
一 七月二日、晴れ、出勤、申の刻(午後四時ごろ)より、柏亭で薩摩藩の小松帯刀・大久保市蔵・吉井幸助(注③)・内田仲之助(注④)と会う。西郷吉之助は病気のため欠席。我が藩よりは後藤・福岡・眞邊・寺村・由比らである。自分も列席した。この時、義太夫語りを呼び寄せたところ、はなはだ下手だったので一同腹を抱えて笑った。
【注③】 朝日日本歴史人物事典によると、吉井友実(よしい・ともざね。没年:明治24.4.22(1891)生年:文政11.2.26(1828.4.10))は「幕末の薩摩藩士,明治政府高官。通称は幸輔。鹿児島城下に藩士吉井友昌の長男として生まれる。早くから西郷隆盛,大久保利通と親しく交わる。安政3(1856)年大坂薩摩藩邸の留守居となり,諸藩の有志と交流。同6年9月,鹿児島で同志有馬新七,大久保利通らと脱藩して京都で尊攘運動に挺身する計画を立てたが,藩主に慰留され断念。精忠組の幹部となり,文久1(1861)年には大目付に抜擢された。翌年,藩兵1000人を率いた島津久光に随従して上洛,勅使大原重徳の護衛隊の員に列して江戸下向。元治1(1864)年2月,沖永良部島に流されていた西郷が赦免されるに当たり,召還使として同島に赴いた。次いで上京,御小納戸頭として京都の守衛に任じ,同年7月,禁門の変では,西郷,伊地知正治らと藩軍を督励して長州軍を撃退した。慶応3(1867)年,土佐藩勤王派との連携工作に当たり,5月,乾(板垣)退助,中岡慎太郎らを小松帯刀,西郷らと京都薩摩藩邸に迎え薩土討幕密約を締結。鳥羽・伏見の戦に,薩摩藩軍を指揮。維新政府の徴士,参与,軍防事務局判事に任じ,戊辰戦争では越後方面に転戦して功績あり,永世禄1000石を下賜された。以後,弾正大忠,同少弼,民部少輔,同大丞,明治4(1871)年宮内大丞,同少輔を歴任。8~10年元老院議官,10年8月1等侍補,11~14年元老院議官兼1等侍補。12年兼工部少輔,13年6月工部大輔。15年には日本鉄道会社の創立に際して社長も務めた。17年7月宮内大輔,このとき,伯爵を授けられた。19年から24年3月まで,宮内次官,21~24年枢密顧問官。昭和時代の歌人吉井勇は孫である。(福地惇)」】
【注④。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、内田政風(うちだ-まさかぜ1815-1893)は「幕末-明治時代の武士,官僚。文化12年12月2日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。江戸留守居添役,京都留守居役をつとめる。禁門の変や戊辰(ぼしん)戦争では軍需品の供給にあたる。維新後は金沢県参事をへて明治6年初代石川県令。8年退官,島津家の家令となった。明治26年10月18日死去。79歳。通称は仲之助」】
一 同三日、出勤したところ、四ツ時(午前十時)ごろ「シウ院」(?)の者から注進、次の通り。
相手はわかりませんが、公儀の鉄砲方と千本通りの東寺の辺りでただいま戦が始まりました。
これに関し、早速下横目の雄助・元助の両人を現場にやったところ、次の通り。
昨日の二日夜、「二条小路御鉄砲方」(※京都所司代の鉄砲方か)五人と、東寺の鉄砲方三人が、島原の田常というところで遊び、腰をかけたとき、どちらからか足を踏んだ、踏まないということで互に口論となり、ついに二条方が逃げ去った。逃げた一人が物陰に潜んでいるのを東寺方が見つけ、その者に傷を負わせた。かなりの傷手だったとのこと。それから今朝の未明、二条組の八百人ばかりが東寺へ押し寄せたが、(東寺側は)木戸を閉じた。それから間にいろいろと仲裁が入って、事態が収まったとのこと。はっきりしたことはわからないが、ただいまのところ、東寺も門を開け、平日の通りのように見える。
右の通り、届け出たまま、記しておく。
一 七月三日、寺村左膳・眞邊栄三郎・後藤象二郎・深尾直衛が今日、出発帰国した。よって、御用翰(公用書簡)と留守宅への手紙を下横目の慶助に託した。また、太閤勲功記二十冊と帷子(裏地をつけない衣服。ひとえもの=デジタル大辞泉)二反を後藤に託し、留守宅へ送った。
大政返上の建白について、老公のご意向をうかがうため、後藤らが帰国した。その際、自分より後藤に相談した。「(土佐藩から)十分に出兵するようにしてほしい。そのわけは、このたびの建白は容易ならざることなので、兵を用意して周旋しなければ、必ず兵力で制圧されるにちがいないからだ」と。後藤は同意し、帰国したらそのような段取りにする云々と。
[参考]
一 島津大隅守(薩摩藩主・島津忠義)・伊達伊予守(宇和島藩主・伊達宗城)が老公に贈る書を後藤に託した。次の通り。
申し上げますが、ご家来の後藤象次郞が先日上京し、自分が着眼した事柄をもって、貴兄を補佐するつもりでありましたが、(京都到着が貴兄の)ご帰国後になったため、大いに失望し、無念に思うあまり、差しあたり懇意な私たち二人に対し、彼の思うところを詳しく吐露しました。その所論はもっともでありました。ついては、貴兄へ早々に(その所論を)申し上げ、その上で(貴兄が)当否をご裁断されることと推察しております。(貴兄は)いったんやむを得ず病気治療のため帰国されましたが、象次郞はこの目的(大政奉還の建白こと)を(貴兄に)採用していただければ、主君のために一身を抛ち、是非ともただちに(貴兄が)上京されるようにお願いするとのことです。打ち捨てておけないのは、ただいま(貴兄が)熟知されているように、朝野(※この場合は朝廷と幕府という意味か)の信任・依頼の感応もないということです。(後藤の所論は)まことに国家の立国の基本を述べて、非常に有為な計略を打ち立て、天下の形勢の変革を論じて、非常に有為なきっかけとなり、上は宸襟を安んじ奉り、下は一般庶民を苦しみから救うものです。実際の施行にあたっては容易なことではなく、いわゆる非凡な人物があって、しかも非凡な功績があってはじめて実現できることです。いま(鎌倉幕府以来の)六百年の国体を変化適応させ、海外の各国を圧伏するという大事業を成し遂げるには、貴兄の英傑と後藤の忠実な補佐が、水魚のようにあいまって生じる大知力がなければ不可能です。とても凡庸愚劣でしかも弱り果てた我々の狭い見識では対処することができません。貴兄が上京してくだされなければ、盲者が杖を失ったようなもので、呆然として戸惑うばかりです。こうした実情を憐察くださり、伏してご努力を願います。心中を腹蔵なく申し上げましたので、熟考してくださいますよう。恐々頓首。
七月四日
なおなお、本文で申しましたご上京の件ですが、どうしても上京できず、かつ、象次郞の建議を採決されたならば、(土佐藩の)重臣に命じていただいて、(貴兄の)ご処置の初策の詳細を漏れなく指揮して(我々に)お示しください。不備。
一 七月三日、夕方、祇園の智音院(知恩院の誤記か)に行く。
先月下旬に土佐を発った飛脚が到着。同僚の渡邊彌久馬の書簡を夕方、由比猪内より届けてきた。留守宅からの手紙も着いた。母上をはじめ皆々様、子供らがご機嫌良しとのこと、安心した。母上よりは、留守宅のことを気にかけず精勤せよとのこと。姉上より、忠義は楠公(楠木正成)を見習えと(いって、次の歌が詠んであった)。
まごころの道守りつついつくまで
あとへはひくな日本魂
(妻の)貞衛より、このたびは何事も思うとおりに振る舞われ、留守のことは気になさらず、忠義を尽くしてください。「よき御名」(名声、名誉のこと)を得られたなら、早々のご帰国をお待ちしています。悪名をさらして帰国されても仕方ありません。とかく小高坂(佐々木宅の所在地)は辺境のことゆえ、とりわけ心がけがよろしければ、まことに先一郎(高行の長男)の大幸と思っております、とあって、
吾がせこが大和心をみするよに
いかで吾身もただにやむべき
(という妻の和歌が記されていた)
一 七月四日、快晴、中城藤右衛門が弾薬置き場の件を届け出る。例刻(いつもの決まった時刻)より未の刻(午後二時ごろ)、毛利と二人で白河邸の見分に行き、申の刻(午後四時ごろ)に帰宿した。この白河邸は不便なところなのに、どういうことでお買い入れになったのかと思うのだが、佐幕論家がこれまでのように(京都の中心に近い)大佛境内の智積院に部隊を配備するのは(事変にまきこまれるので)よくない、(白河邸は)辺境にあるため(事変に巻き込まれないので)都合がいいと考えたためだろう。智積院は要地であるのみならず、一朝事が起こったとき、部隊が繰り出すにも便利であるから、やはり(今のまま)借りておくほうがよいと思った。ついでに白河邸の模様も見分したことである。夕方、石川誠之助(中岡慎太郎)が来た。夜に入り、毛利・望月清平と四條で納涼した。
【注②。この白河邸と智積院の件は大政奉還の建白と密接な関連がある。その辺の事情を高行が『佐佐木老候昔日談』で語っているので、次に紹介する。「さてこの建白も既に薩芸両藩の同意を得た以上は、一刻も早く帰国して、老候の御意を伺はなくてはならぬと、翌三日後藤、寺村、眞邊、深尾[直衛]等が京都を出発して、帰途に就いた。もとより建白は正義である。あるが、幕府の方は悪感情を持つに違ひない。将軍は兎も角、臣下が異議あるに違ひないから、十分兵力を貯へて盡力しなければならぬ。彼の兵力に壓世羅縷々様では到底目的を貫く譯みはいかぬと思うたから、その際後藤に二大隊位の兵はなくてはと、出兵の事を注意すると、後藤も賛成して、其の運にする事を約した。すると、同二十日になつて、後藤から建白も両殿の思召に叶ひ、萬事都合よく進歩して行くといふ報知があつたから、近い中に二大隊の兵が繰込んで来ると思うて、同二十六日その兵を収容する陣地を検分した。一体藩には、二ヶ所の陣営がある。白河邸と大佛境内の智積院とである。尤も智積院は借入の處だ。白河邸は頗る不便の地であるが、佐幕家が智積院に兵を置く時には、却つて事変の際、その渦中に捲込まるるといふ事を恐れて、強いてコンな辺境の地を買入れたのだ。既に白河邸がある以上は、智積院の方は返すといふ議論が起つたが、自分は大に之に反対して、当分また借置く事にした。同所は頗る要地である。進退懸引にも便利である。夫故此度の兵はここに置かうと思うて、その配置の工合などを取調べ、チャンと手筈を定めて待つて居るが、チッとも来る様子がない。来ないのも無理はない、種々六ケ敷事情があつて、後藤の力でも及ばなかつたのだ。本山からの手紙に、實は大政返上の建白があると聞いて大に喜んで居た。然るに後藤が帰国して見ると、大政返上後将軍を関白にするというて居る、『あけてくやしき玉手箱』などと云うてきた。また翌月二日土佐に帰つて、後藤に会うと、後藤も困つて居る様子。『實はかねて約束した二大隊の兵は、速に上京さする積であつた。處が、老公の思召に、大政返上の周旋するに、兵を権するは脅赫手段で、不本意千万である。天下の為に公平に周旋するに、兵を後盾とする必要があらうか。断じて出兵無用との仰せ。然るに乾始め青年輩は、後藤は死を懼れて出兵を嫌ひ、老公に宜加減に申上げて、とうとう出兵しないと攻撃する。僕は今板挟の有様。乾等に僕の真意のある處を話して呉れまいか』と云ふ。依て答へて云ふには、『御迷惑御尤で、僕は兄の真意は十分了解して居る。今日は互に疑念を去り、一藩の不覚なきやう協力するが肝要である。出兵の事も何れ遠くはあるまい。今殊更に申上げても御聞済はあるまい。何事も内を調べるが急務。乾には軍事を任せてある故、其の方を十分督励し、また兄の真意の貫徹するやうに話さう』と、また一寸乾に会ふと、モウ大不平である。『後藤は、大政奉還が実行されたならば、即日将軍を関白に申立てるというて居る。實に怪しからぬ事だ。成程既往はとがめずとも、それでは賞罰が正しくない。さういふ精神であるから、深く出兵を恐れ、老公を欺いて中止した。是迄運んで、今になつてソンナ因循論を唱へては、また元の木阿弥となつて仕舞う』。と非常に憤慨して居た。この関白云々は、ツマリ坂本の策で、佐幕出の後藤であるから、あまり過激ではいかぬと見て、将軍を関白として、天下政治の棟梁にすると薩藩でも唱へて居ると、後藤に話したのを其の儘応用して、藩に来て広言したものと見える。そこで自分は、『後藤が将軍を関白にするか、出兵を嫌ふとかの事は、僕はまだ聞かない。たとへ後藤がその説でも、天下の形勢が許さない。君は専門に軍事を整頓して、緩急に応ずるだけの準備をして置いて貰ひたい』と答へた事がある。かういふ様に色々と議論が起つて、思ふ様にも運ばず、後藤も殆ど窮して居つたのだ。兵が上京しなかつたのも、偶然ではない。」】
一 七月五日、快晴、藩邸での勤めの後、福岡(孝弟)・毛利(恭助)とともに、日吉境内へ的打ち(弓で的を射ることか)に行った。帰途、會々堂で石川・清岡(清岡公張のことか。注④)ほか一人と会い、長州の事情を聞く。夜に入って帰宿した。
【注④朝日日本歴史人物事典によると、清岡公張(きよおかたかとも。没年:明治34.2.25(1901)生年:天保12.7(1841))は「幕末土佐国(高知県)安芸郡郷士,明治期官僚。通称半四郎,野根山殉難23士の首領清岡道之助の実弟。勤王の志あり,文久年中に上京,諸藩の志士と交流,藩命で公卿三条実美の衛士となる。文久3(1863)年8月の政変で三条ら七卿に随従して長州に亡命,禁門の変では長州藩軍に従い堺町門に奮戦したが敗れて再び長州に退却,慶応1(1865)年,三条に従って太宰府に移った。3年12月,王政復古政変で五卿が赦免されるや随従して入京して明治政府に出仕,地方長官,元老院議官,宮内省図書頭,枢密顧問官を歴任,20年子爵。(福地惇)」】
一 同六日、曇り、勤めの後、(由比)猪内・(山田)東作・(毛利)恭助とともに兒玉に行き、小道具を見る。帰途、四条橋下ルの松風亭に立ち寄り、初夜(午後八時ごろ)帰宿した。席料などは二分だった。
一 同七日、晴れ、勤めの後、下宿を川原町三條下ルの坪屋彌兵衞方に変えた。このごろは幕府の歩兵らが横行して、市中の家に入ってきて、時々(金銭の)ねだりごとをすることがあるとして、また、盗賊などの防止のためもあって、家々より願い出て、門に薩州下宿、土州下宿と書くようで、そのため下宿を借りるのも容易らしい。なるほど往来を歩くと薩土下宿と記した門が多い。今日、若尾譲助が宗門改め差し出しの件を言ってきた。「昔昏」(※黄昏の誤記か)に雷雨。
一 蚊帳 四両で買う。
一 硯筆墨
一 枕 一個
つごう代金一分二朱
一 一分二朱 (それまでの下宿先の)升屋友一郎へ謝礼
一 一分 米次郎へ。
一 七月八日、曇り、出勤、今朝、岡本健三郎(注⑤)が来て、時勢談になった。土佐を発った際は藩の議論もやかましく、いまだ国是が一定していなかった。そのため上京のうえ、その時の(臨機応変の)取り計らいをするだけの許可を受けてきた。参政でも福岡・眞邊・寺村らはもちろん佐幕家だったので、もしも上京の上、異論が出たら、その時は長州の三暴臣(禁門の変の責任をとって切腹した三家老)の例に習い、事が破れたなら罪を引き受けようと、健三郎へはかねて内々に話しておいた。しかし、今日の模様では、もはやその辺の気遣いは必要ないようだ。吾が藩も薩長と離れることは出来ない局面に踏み込んだと、(岡本と)二人でほくそ笑んだ。また、下横目の代之丞が御用箪笥を持ってきて、しばらく話した。また眞邊嚴太郞が江戸から帰国途中に立ち寄ったということなので、恭助とともに宿で会い、江戸の模様を聞く。夕方、松風亭で石川誠之助と談話、初夜(午後八時ごろ)(下宿に)帰る。このごろは世の中が殺気だっていて、敵方では幕府の新撰組や会津の壮士(の振る舞い方)が激しい。夜中に往来する時は相互ににらみ合い、刀の柄に手をかけるばかりにして行き過ぎるありさまで、はなはだ危険であるが、互に勇気を励ましている時節なのでかえって愉快に思うことである。夕方に雷雨。
一 二分二朱 今日の酒肴料
また、お屋敷などに放火があるという風聞がしきりに聞こえてくるので、(部下たちに)廻番をするよう命じた。
【注⑤。朝日日本歴史人物事典によると、岡本健三郎(おかもとけんざぶろう。没年:明治18.12.26(1885)生年:天保13.10.13(1842.11.15))は「幕末の土佐(高知)藩士,明治の政治家。土佐郡潮江村(高知市)に生まれる。下横目を勤め坂本竜馬と交友,国事に奔走。維新後,大阪府勤務,次いで政府に出て土木頭,治河司,太政官権判事,大蔵大丞を経歴,明治5(1872)年博覧会用務でオーストリアに出張。翌年征韓論政変で辞職,下野参議らに連なり民選議院設立建白書に連署,民権論を主張。10年西南戦争,立志社の挙兵計画で銃器購入工作に当たったが,陰謀発覚して禁獄2年に処せられた。14年自由党に参加。日本郵船会社設立に参画,理事となり実業界に転じた。(福地惇)」】
一 七月九日、晴れ、出勤した。眞邊戒作[嚴太郞こと]が四、五日、(京都に)留まるよう命じられた。これは江戸の模様を聞きただし、かつ、御国(土佐)への御用の筋もあるためだ。 樋口眞吉より意見を申し出た。武芸稽古の道具を健助へすぐあてがうように、勘定方へ引き合わせよと代之丞に申し付けた。岡本健三郎がいろんな建白書の写しを持参した。飛脚便で国許に送る手筈にしておいた。薩州人の黒田了介(注⑥)・永山彌一郎(注⑦)の二人が才谷梅太郎(坂本龍馬のこと)を尋ねて来た。両人は薩の二本松屋敷に詰めているという。眞邊戒作・山田東作が来た。夕方、(由比)猪内・(毛利)恭助・(山田)東作ととともに市中を散歩し、下宿に帰ったところ、夜中に下横目の勇作・喜右衛門より申し出があった。今日、土佐藩の吉田、坂越の家来が建部若狭守さまの仲間(ちゅうげん)と喧嘩になり、相手方が四、五人逃げ出すところを(土佐藩の)関源十郎が騎馬で追いかけたため、一人の仲間が(狼狽して)藩の屋敷へ逃げ込んできたという。よって(自分は)猪内方ヘ行き、相談した。他国の者が誤って入ってきたので許してやり、「御門出」(※意味がよくわからないのだが、ひょっとしたら屋敷に入り込んで来た者を外に送り出すことか)は下横目が取り扱った。[右の仲間は建部の家来の者ゆえ、逃げ去るとき、思いがけず藩の屋敷に逃げ込み、土州邸と聞いて大いに恐れた。所謂敵の陣所へ入ってしまったのだとわかって、命乞いをしたとのこと。笑うべし笑うべし。]
一 はさみと茶碗を買った。 代金は一分だった。
一 十両 六月分の「月金」(※月決めの手当てのことか)を受け取った。
【注⑥。日本大百科全書(ニッポニカ) によると、黒田清隆(くろだきよたか。1840―1900)は「明治時代の政治家。天保(てんぽう)11年10月16日、薩摩(さつま)藩士清行の長男に生まれる。1863年(文久3)薩英戦争に参加。同年藩命により江戸の江川塾に入り砲術を学ぶ。1866年薩長連合の成立に尽力し、戊辰戦争(ぼしんせんそう)には参謀として従軍。箱館(はこだて)五稜郭(ごりょうかく)の攻撃を指揮した。1869年(明治2)外務権大丞(がいむごんのだいじょう)、ついで兵部大丞(ひょうぶだいじょう)となり、翌1870年樺太(からふと)(サハリン)専任の開拓次官に就任。樺太を放棄して北海道開拓に専念すべきを建議し、これは1875年樺太・千島交換条約として実現した。1871年開拓長官欠員につき長官代理となり、1874年陸軍中将兼参議、開拓長官に就任、アメリカ人ケプロンらを招いて、洋式農法の導入、官営工場の設置、炭鉱の開発、鉄道・道路の建設などを進めた。1874年には屯田兵(とんでんへい)を創設。1875年特命全権弁理大臣として江華島事件(こうかとうじけん)の処理にあたり、翌1876年日朝修好条規を締結。1877年西南戦争の際には征討参軍として、西郷隆盛(さいごうたかもり)軍と戦った。開拓使十年計画の満了を翌年に控えた1881年7月、その官有物を極端に有利な条件で同郷の五代友厚(ごだいともあつ)らに払い下げようとして激しい世論の批判を受け(開拓使官有物払下げ事件)、10月の「明治十四年の政変」によって払下げは中止、翌1882年開拓使は廃止されて、内閣顧問の閑職にかわった。1884年伯爵。1885年右大臣に登用の動きがおこったが、酒癖の悪さを問題とする天皇らの反対により実現しなかった。1887年第一次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣の農商務大臣に就任、ついで1888年内閣を組織した。同内閣のもとで大日本帝国憲法発布の式典を遂行。政党の動きに制約されず政策を推し進めるとの超然主義の立場を表明した。しかし、1889年条約改正交渉への反対運動が高まり、大隈重信(おおくましげのぶ)外相が襲撃されるに及んで辞職し、枢密顧問官となった。元老待遇を受け、1892年第二次伊藤内閣の逓信(ていしん)大臣、1895年枢密院議長に就任。明治33年8月23日脳出血のため死去した。大久保利通(おおくぼとしみち)没後の薩摩閥の中心人物であったが、長州閥に対しつねに劣勢であった。1878年には酒乱のため病妻を殺害したとの風評がたった。[大日方純夫 2018年9月19日]『井黒弥太郎著『黒田清隆』新装版(1987・吉川弘文館)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書2 黒田清隆』(2005・ゆまに書房)』▽『奥田静夫著『青雲の果て――武人黒田清隆の戦い』(2007・北海道出版企画センター)』」】
【注⑦。朝日日本歴史人物事典によると、永山弥一郎(ながやまやいちろう。没年:明治10.4.13(1877)生年:天保9(1838))は「幕末の薩摩(鹿児島)藩士。鹿児島城下荒田町の生まれ。戊辰戦争で薩藩4番隊監軍として東北地方に出征して軍功あり。明治2(1869)年,鹿児島常備隊の教導,4年御親兵に選抜されて少佐に任官,次いで開拓使3等出仕になり北海道に赴き中佐に昇任。屯田兵の長を兼務,ロシアの南下に備えんと尽力したが,8年樺太・千島交換条約に憤慨して下野,帰郷した。しかし,政府の施政全般には好意的で私学校党とは政見を異にし,10年西郷挙兵に際しては躊躇したが桐野利秋の勧誘を拒絶しきれず,3番大隊長として熊本に進軍,奮戦したが御船で敗北,自刃して果てた。(福地惇)」】
一 七月十日、快晴、出勤後、恭助を連れて芸州の船越陽之助の旅宿を訪ねた。それから二条城の近辺を散歩、夕方、帰途、松風亭で納涼、猪内も後から来た。
一 三朱 羽織紐
一 三朱 箸入れ
一 一両 酒肴料、ただし三人分
前回出した留守宅への手紙の中で(妻の)貞衛に(和歌を)贈った。
敷島の大和心を顕さで
跡へは引かじ武士の友
一 同十一日、晴れ、(岡本)健三郎が剣術の申し合わせ稽古の件を言ってきた。すぐさま美濃部孫二郎に引き合わせ、許容した。廻番を命じられた熊吉・彌兵衞・貫介が来た。(彼らは)先日、放火の風聞があったので屋敷周りの廻番を命じられていたが、四条橋辺りで火を燃やしていた者を捕まえて連れてきた。これは何も付け火(放火)に関係ない者ということがわかり、放免した。もともと人心が殺気だっている状況のため、足軽たちがやにわに捕まえてきたりすることがあるので、注意しておいた。勤めを終えて、飛脚に持たせる私用の手紙を書いた。午後から松力に集まり、公用の書翰を書き、留書役(書記)に持って行かせた。夕方、芸州の辻将曹・平山貫之助・船越陽之助が来た。石川(誠之助)・建部・諫尾も来た。初夜、猪内とともに帰宿した。[留守宅へ送る手紙の中に]
雨あられ間なくふりくる世なれども
誠心はぬれずしほれず
一 七月十二日、晴れ、勤めを終えた後、久澤齋(医師か)を呼ぶ。少々気分がすぐれないためだ。後藤孫兵衛が望月の願書、ならびに土方明次郎の始末書を持参した。
月を見て
手拭を腰にたれたるひな人も
都の月を哀れとや見ん
このごろ我が藩士らは三尺の手拭いを腰に挟み、羽織を夏は用いず、すこぶる武骨な格好で往き来する。
一 二朱 ウナギ代
一 三朱 「起炭代」(※よくわからないのだが、起こし炭代と読むのだろうか。とすれば、薄い木片に着火しやすいよう硫黄をつけた付け木のことかも)
一 七月十三日、晴れ、後藤孫兵衛・坂越勝彌の家来の門限破りについて、主人より始末書を差し出すべきかどうかの問い合わせがあり、主人は差し出しに及ばずと答えた。
代之丞より、栄之助が「御本取扱」(※よくわからないのだが、ひょっとしたら藩の文書・文献を扱う役のことか。)を昨夕命じられたと言ってきた。徳助も引っ越しするので、稽古道具を(他の者に)まわすと言ってきた。岩崎小吉・美濃部孫二郎より稽古場の「作事」(※作事は築造や修繕のことだが、この場合どういうことを指すのかよくわからない)を申し出たので、早速御内用役(おそばようやく)へ引き合わせた。孫二郎が道具料(?)を差し出し、受け取り、御内用役へまわす。横田逸馬が射込場(弓矢の練習場のことか)の件を言ってきた。生駒清次が来た。夕方、芸州藩と約束があり、松力(料亭)に行った。もっとも芸州藩は来ず、夜に入って帰宿した。
一 一朱 鏡一個
一 同十四日、恭助を伴い西郷吉之助を訪ねる。午後、恭助・石誠(中岡慎太郎のこと)で酔月で会い、夕方猪内・恭助・東作と松風亭で夕飯。
一 一分 東作へ
一 二分二朱と二百(文) 恭助
一 同十五日、晴れ、坂本市郎・岩崎小吉・横田逸馬が来た。いずれも文武稽古の件である。坂本は学文、岩崎は槍術、横田は弓術である。樋口眞吉・代之丞・健三郎が来た。午後、眞邊戒作・下村省助が来た。夕方、猪内・恭助とともに市中散歩。黄昏に帰宿した。
一 同十六日、曇り、早朝より田中幸助・恭助が来た。時勢の話、昼飯を出し、午後帰る。 一 一両 フチ頭( 縁頭。刀剣の柄(つか)の両端。縁と頭。また、刀の柄の先端につけた金具。つかがしら。かぶとがね=精選版 日本国語大辞典)代
一 一両一分 過日[中村屋の払い。福岡へ]廻す。
一 二両一分一朱と三百七十七文 會々堂、酔月楼の酒肴代、毛利へ廻す。
眞邊戒作が明日帰国のため出発するので、留守宅への手紙一通を託す。
雄之進が来て、大坂などの事情を聞く。
夕方、猪内・恭助・五藤孫兵衛・花井楠馬・眞邊戒作とともに松風亭で納涼。今夜、大文字焼きを見物した。恭助の宿の主人が薄茶を出す。
一 七月十七日、曇り、眞邊戒作が出発するので、下宿に行って、藩の公用書簡を託す。
出勤。正午過ぎ帰宿。本日、石川誠之助(中岡慎太郎)の案内で正親町三條どの(邸)へ伺候(貴人のご機嫌伺いに参上すること=学研全訳古語辞典)。拝謁せず。引き続き石川とともに有志の公卿を訪ねることを約束した。もっとも以前からその約束だったが、いろいろ差し支えて延び延びになっていたものだ。岩崎小吉が稽古の用件で来た。このたびの上京で、これまで出会った人は次の通り。
一 薩藩執政の小松帯刀、同用人の西郷吉之助、同用人の大久保市蔵、同用人の吉井幸助・同留守居の内田仲之助、同大監察の町田民部、同川畑伊右衛門・山田孫一郎・黒田了介・永山孫(彌の誤記か)一郎、同藩生の田中幸助。
一 芸州藩執政の辻将曹、用人の寺尾精十郎・平山寛之助・船越陽之助・小林順吉。
唯次郎が来て、藩の公務に関する話をした。猪内の下宿に行って藩の公務に関する話をした。初夜(午後八時ごろ)すぎに下宿に帰ったところ、唯次郎が来て、歩行(おかち。下士身分で、郷士・用人の下に位置する)二人、軍貝下役(※軍貝は戦の合図に鳴らすホラ貝のこと。土佐藩には芸家の一部門として兵学・砲術・馬術などと並んで軍貝があった。軍貝下役は、その下働きをする者のことらしい)一人が今朝以来帰宅せず、先日来の件で出奔したらしいと。すぐさま小監察(小目付)に届け出るよう言い聞かせた。
(続。いつもことながら、私の力量不足で誤訳がいろいろあると思います。申し訳ありませんが、転載・引用をご遠慮ください)