わき道をゆく第265回 現代語訳・保古飛呂比 その88

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一 (慶応三年)八月二十一日、雨、朝「サトー」を訪ねた。午後、運吉を従え、昼飯を酒楼で食べた。七ツ半(午後五時)ごろから(長崎奉行所の)立山役所に出勤し、平山圖書頭、大小監察らと談判した。夜中、由比畦三郎が来た。

一 同月二十二日、雨、本日も立山役所に行き、前日のように(平山らと談判した)。帰途、藤屋で周助そのほかと夕食をとった。大雨となり、夜に入り風雨が激しくなり、下宿に帰ることができず、同所で夜を徹して酒を酌んだ。

一(長崎奉行付き調べ役の)安東・小峰両氏よりの書簡、次の通り。

 ご面談したいことがあるので、(貴兄の)ご旅宿に(安東)鈔之助が参ったところ、ご不在のようで残念の至りでした。そのとき(お出でいただきたいと)御家来に言い置きましたところ、体調不良のためできかねるとのご返事、承知しました。しかしながら直接お会いして談判したいことがあるので、明朝、鈔之助宅までお出でいただきたいと存じます。よろしくお願いします。

八月二十二日 長崎奉行付き調べ役 安東鈔之助 小峰利五郎

佐々木三四郞さま

一 東氏らの書簡、次の通り。

手紙で申し上げます。お話ししたいことがありますので、ただいますぐに当役所へお越し下さい。このことをご了解くださるよう(長崎奉行の伊勢)大隅守より命じられています。以上。

八月二十二日 東桃三 大作四郎太郎

佐々木三四郞さま(注①)

【注①。英人殺害事件の経緯については『佐佐木老候昔日談』に詳しく述べられているので、それを引用する。「此連中(※魚住注。海援隊のこと)は所謂壮士で過激であるものだから、長崎人等は恐怖して居る。其邊から自然暗殺の嫌疑もかかつて来たのだ。海援隊の方では、実際関係がないのであるから、一同大に憤慨して居るが、一應訊ねて見ねばならぬので、其隊士や商会の役員や、書生等迄も調べたが、一向に分らぬ。で御用達などを始めとして、発砲に手を廻して捜索したが、更に手懸がない。前途實に茫漠たる者である。併しながら、此取調に依つて、略ぼ土佐人でないと言ふ見込が付いたから、大に奉行と争はなければならぬと覚悟して居ると、十八日に始めて立山役所に於て談判を開く事になつた。先方は長崎奉行能勢大隅守、徳永石見守、外国奉行加役平山圖書頭、大目付戸川伊豆守、小目付設楽岩次郎等だ。先方は何分横笛船を疑うて居る。と言ふのは、暗殺事件のあった際、横笛船が順序を経ずして急遽出港した。ツマリ嫌疑が罹つて航行を禁じられて居るに拘らす、無断で出港したのであるから、或は加害者を夫に乗せて逃がしたのではあるまいかと言ふ点にあるのだ。が是は単に商法の為めに薩摩に行つたので、全くさういふ意味は含んで居らなかつたのだ、才谷の留守中は渡邊、菅野等が代理をして居たので、之に就て十分辯解したが、生憎菅野と佐々木の辯解に齟齬した点がある。菅野と佐々木の両人は暗殺の当夜丸山花月楼に於て酒食し、夜の十二時頃引上げて、海援隊の旅宿両所に立寄り、夫から同道して横笛船運転準備の為め大波戸場より端舟を以て乗船し、翌日の午後二時頃帰港した。所が其横笛船が出港して一時間計り経つて、土佐の南海丸が出港した。で先づ加害者を横笛船に乗移らせ、港外に於て更に南海丸に乗移らせて逃がした者であらうと、内外人とも疑つたのみならず、甚だしきは丸山を通行したのだから、菅野等ではあるまいかと言ふ者さへある。處を両人の申立が相違して居るのだから、先方は益々疑うて、之を呼戻す様にと言ふ。自分等は二十一日、二十二日立山役所に於て飽迄呼戻の不必要を唱へた。二十三日の夜また立山役所で談判した。奉行はなほ菅野、佐々木の申出の相違の筋を訊問し、権力を以て抑へ付けやうとするが、存分辯解して一つも譲らない。一時は随分八ケ間敷なつて、設楽などは口角沫を飛ばして弁じ立てるが、此呼戻しの事はさう軽々しく御請は出来ぬ。何れ明朝御返事申上げると言うて退出したが、どうも申口相違の弱点があるのだから、呼戻した方が宜からうと思うたから、才谷に相談すると、別に異議もない。で其事を調役の安藤鈔之助迄申出ると、安藤が『此度の呼戻しは申立の相違からと言ふ譯ではなく、全く疑念があるからである。いやさういふ名義にせよ』と言ふ。けれども自分は『夫はいかぬ。両人の申立に相違がなければ何とでも辯解の法はあるが、相違があるから呼戻すのである。枉げて其名義に盲従する事は出来ぬ』。と跳付けると、少しまた問題になりかかつた、とうとう夫に押付けて、幕府の長崎丸を借りて、岡内俊太郎をやることとし、石田英吉が船長となつて、八月二十五日の夕刻長崎港を出帆して、薩摩に向かった。」】

一 八月二十三日、早朝、藤屋で食事し、長崎奉行所調べ役の安藤鈔之助宅に行ったところ、すでに立山役所に出勤したとのことで、すぐさま立山に行った。渡邊剛八(海援隊士)は(英人が殺害された七月)六日夜に外出したかどうかがはっきりしないので、至急取り調べるよう(長崎奉行所から)言われた。夕方、安東が来た。その夜、平山外国奉行、大監察戸川伊豆守、小監察設楽岩次郎、長崎奉行能勢大隅守・徳永石見守が列座して、申し出が相違していることについて訊問された。先方は権力をもって訊問しているのだが、不屈十分[不届千万か]に辯解した。しばらくの間はお互いにやかましくなった。設楽小監察が一番口を利いた。次に横笛船を呼び戻すことについて言われた。これは商用のため薩摩に行っているので、その辺をとくと勘考した上で、明朝返事をすると答え、退出した。今日は三澤・石崎らを(藤屋に)呼んでおいたのだが、右の事情により、ようやく五ツ半(午後九時ごろ)すぎに藤屋に行った。招いた客人は早くから同所で待っていた。そのため慌ただしく盃を傾け、大酔となり、夜半ごろ帰宿した。

一 安東氏の書簡、次の通り。

先ほどは失敬、お許しください。その節は役所までわざわざ出てきていただき、ご苦労さまでした。その折りにお話ししておいた菅野・渡邊両氏の申立書を外国人へ届けるのがしだいに遅れ、先方からの苦情も少なくないので、その辺の事情もくみ取っていただき、早々にお取りまとめの上、明日の早朝までに役所なり拙宅なりにお届けくださるようにいたしたく、このことを念のため、あらためてご承知ください。以上。

  八月二十三日 鈔之助

  三四郞さま

一 由比(猪内)氏よりの書簡、次の通り。[同月二十三日ごろ受け取り]

一筆啓上いたします。(国許を)ご出帆の後、きっと早々に(長崎に)到着されたこととお察しします。あれからどのような形勢でしょうか。横笛船のことが非常に気がかりです。もっともこれは奸術の出所もあるでしょうから、あれこれご配慮されていることとお察しします。引き続きそちらの模様を絶えず手紙でお知らせ下さい。もしまた英船が催促に来るやも知れず、そのときの言い訳にするつもりですので。国許もさてさて思うように動きません。しかしながら、このうえ因循のならぬのは知れたことゆえ、かたわらの異論は押しのけておき、近日出発の運びになりましたので、まずご安心下さい。出兵等のことは、君公はじめ異論もあり、これはすなわち君公の暫時のご深慮により、出兵せずと言えば、いささか不都合ではあるけれど事足りると言うべきか。これらは「惣分の論」(※よく分からないのだが、藩内の合議の結果という意味かも)に任せようという意味です。執政の京都行きもいろいろと難しいので、両人[後藤、寺村]に執政の役目を兼ねさせることにして、彼らの意志に任せました。諸事が飛び切り(最上級の意か)は飛び切り、因循は因循、二つともその中間を得ず、何とも嘆かわしい。歯抜(※老いて歯抜けになった自分のことか)などは本当に力尽きました。どうかお察し、お察し。今後も引き続き手紙を送ります。ほかに別段述べることはないので筆を擱きます。頓首百拝。

八月十九日 由比猪内

佐々木三四郞さま

さてご病気はいかがでしょうか。心から心配しております。もとより、お変わりはないと思いますが、船中の動揺はひとしお難儀だったと思います。なお厚くご自愛専一と存じます。梅太郎[変名である](坂本龍馬)へもよろしく。先日、(西郷)吉之助への手紙を頼みました。「須崎より相届き居候處」(※須崎から届いていたものだが、という意味と思うのだが、いまひとつわからない)、目的とする大物[乾のこと]の京都行きが実現しないのでまず不用となるでしょう。またこの人(乾退助のこと)は使いようもあるらしく、小生も強いて京都行きを勧める言葉もなく、かえって行かないのもよろしいだろうと思います。「此意を御はなし置希所なり」(※意味がよくわからないので原文引用)

(以下は高行による解説)ついでに言っておくと、奸術うんぬんは、英人暗殺を土州人(の仕業)と幕府が唱えることにより、今回薩長と協力して幕府に抗する土佐藩に英人を迫らせ、それで幕府に抗する力を削る策であろうと大いに疑った。僕輩もその一人である。本文の出兵うんぬんは、高行らの考えでは、大政返上の件を十分尽力するには、兵力を備えぬときは會津藩ならびに新撰組をはじめ幕府方の激徒のために斃されるかもわからない。よってとにかく大隊精選の兵を備えたいと申し立てたところ、容堂公は公論をもって建言周旋するのに兵力を借りるのはだめだとのことである。ところが板垣などは藩において大に疑念を持ち、これまったく後藤は死力を尽くす男にあらずと思った。高行に板垣が語って言うには、京都で後藤は前将軍を関白に任ずべきだと申し立てたよし、既往(過去のこと)は不問にすると言うのも程があると。不平である。高行はそれに対してこう言った。後藤一人がそう主張してもそうはならない。遠からず戦争になるのは必定だから、君は兵制に尽力せよ。板垣大いに悟り、笑って(不平を言うのを)止めた。

執政の京都行きうんぬんは、執政は門地家で微力ゆえに、寺村左膳・後藤象二郎に、さらに執政の役目を兼ねさせた。寺村は中老で、これも微力だが、家老よりはいささか勝っている。

一 八月二十四日、晴れ、早朝、菅野覚兵衛・佐々木栄の言い分が相違した件に関し、横笛船を呼び戻すかどうか梅太郎と相談した。渡邊剛八・菅野もその場に来て、ともに評議して呼び戻しに決した。よってそのことを申し出た。安藤鈔之助が言った。このたびの呼び戻しは申し立ての相違からという訳ではなく、(全く疑念があるから)横笛船呼び戻しの命令となった、ではいかがか。それに答えて(自分は)言った。言い分の相違がなければ何とでも弁解する法はあるが、言い分が相違した以上、ともかく呼び戻して取り調べるということだと思う。であるから、迎船の件はそちらで手配してもらいたいと申し出た。委細承知とのことだった。夜に入り、石田英吉、下等士官一人、水夫一人が来た。今夕、岡内俊太郎を(長崎奉行所に)行かせた。俊太郎は立山役所に二度出頭し、夜の五ツ半(午後八時)ごろさらに立山に行った。これは明日、横笛船呼び戻しに薩摩へ向かう件についてである。石田はじめ明日出帆の面々に藤屋で別れの盃を交わした。夜半、帰宿した。[ただし昨今は非常な多忙である。十分快寝せず]

一 坂本氏の書簡、次の通り。

このたび石田英吉の航海のことですが、以前から衣服の少ない者たちなので、はなはだ気の毒です。金を与えてくだされば早速に買い求めます。もし先生のお着物でもあれば、与えてくださるならばよろしいのですが。今回の英吉の仕事は非常の用向きなので、(土佐藩の)官費よりそうした金を出してしかるべきかと存じます。何とぞよろしくお取りはからいを願います。謹言。

龍拝

佐々木さま

【注②。このころの海援隊の様子について『佐佐木老候昔日談』には次のように描かれている。「此頃の海援隊の貧乏と言うたらない。石田が船長となつても、其衣服がない始末。才谷より『石田も二十両あれば間に合ふから、やつて貰ひたい』。さもなくば自分の着古しの衣服でもやつて呉れ』と頼んで来たので、其金額丈けやると、一寸した洋服を整へて、先づ以て船長らしくなつた。初め海援隊の出来た當座は、後藤や福岡なども滞在して居つた。後藤は土佐商会の総裁であるから、岩崎なども其命を聞いて、海援隊を助けて居つた。また海援隊の方でも、不時必要の時には商会に無心に行く。後藤等が居なくなつてからは、岩崎などは厄介の様に思うて居る。岩崎は学問もあり、慷慨の気に富んで居るが、商業を以て國を興すといふ主義を懐いて居て、丁度海援隊とは反対である。海援隊からは屡々金の融通に行く。商会の方でもさうさう際限なくやれぬので、之を謝絶する方針を採つた。すると海援隊の方では、天下の為めに尽力するものを厄介視するとは不都合であると言うて攻撃し、互に軋轢する様になつた。才谷は度量が大きいから、其等の壮士を抑へて、先づその衝突を避けて居たが、内情に立入ると、右様に僅かの金にも困つて居たのだ。」】

一 八月二十五日、曇り、今朝、端本喜之助を立山役所へ出した。官金二十円を石田英吉に渡した。才谷らがたびたび来る。夕方、英吉・俊太郎、下等士官の小柳高次、高見島[シハク](塩飽諸島の高見島。幕末、初めて太平洋横断した咸臨丸の水夫のうち四人は高見島の出身だった)の水夫小頭梅吉、ほかに水夫一人が幕府の長崎丸に乗り込んだ。その際、一樽(※酒樽のことか)を持たせた。夕刻より肥前藩士副島次郎(注③)に藤屋で会った。このごろ肥前人では副島次郎・大隈八太郎(注④)の両人が最も人物であると聞いた。時勢談をしたが、同藩は佐幕の風があるので、胸襟は開かず、適当に談話した。夜四ツ(午後十時ごろ)前に帰途、宿より使いが来た。立山役所で御用があるとのことで、出頭した。帰途、渡邊剛八の下宿に行き、御用のことを伝えた。

なお、長崎定役の久保山寛三が調べ役の使いとして来たとのことだった。

【注③。改訂新版 世界大百科事典によると、副島種臣 (そえじまたねおみ。生没年:1828-1905(文政11-明治38))は「明治期の政治家。佐賀藩士。幼名竜種,通称二郎。号は蒼海また一々学人。国学者枝吉種彰(南濠)の子として生まれ,副島家の養子となった。兄神陽も学者となり,弘道館で大隈重信,大木喬任,江藤新平,島義勇らを教えた。尊王攘夷運動に奔走したが,のち藩が長崎に設けた致遠館監督となりみずからもG.H.F.フルベッキに英学を学んだ。維新政府の参与,制度寮判事となり,政体書の起草に参画,1869年(明治2)参議となり,71年11月岩倉具視の欧米差遣にともない外務卿に就任し,マリア・ルース号事件,琉球帰属問題にあたった。73年全権大使として清国へ行き,帰国後征韓論を唱えた。一時参議となったがすぐ辞任し74年民撰議院設立建白に署名。しかし民権運動には参加せず宮中に入り,一等侍講,宮中顧問官などを歴任,88年枢密顧問官となり,91年には副議長を務めた。92年松方正義内閣の内相を一時務めたこともある。能書家としても著名。執筆者:田村 貞雄」】

【注④。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典によると、大隈重信(おおくましげのぶ[生]天保9(1838).2.16. 肥前,佐賀[没]1922.1.10.)は「佐賀藩士。明治維新の際,討幕運動に加わる。維新政府成立後,明治1 (1868) 年徴士として中央政府に出仕。外国事務局判事となり長崎に勤める。同2年大蔵大輔となり,次いで民部大輔を兼ねた。同3年参議,1873年大蔵省事務総裁となり,81年政変により下野するまで実務官僚として明治政府初期の財政を運営,81年日本最初の国家予算案,歳入出見込会計表を頒布し,同年 10月大蔵卿となった。明治十四年の政変で下野したのち,82年立憲改進党を創設,総理につき,以後民党政治家の道を進んだ。同年 10月東京専門学校 (現早稲田大学 ) を開設。 88年第1次伊藤内閣の外相として入閣,引続き黒田内閣の外相として条約改正に取組んだが,外国人判事登用案を非難され来島恒喜に爆殺をはかられ片足を失った。 98年に内閣総理大臣として憲政党を基盤にした日本最初の政党内閣隈板内閣を組閣したが,党内抗争と,薩長の妨害でわずか4ヵ月で総辞職した。また,1914年シーメンス事件,第1次憲政擁護運動の渦中にあって,組閣に窮した井上馨,山県有朋ら藩閥勢力の誘引に乗り再度首相に就任した。」】

一 坂本氏よりの書簡、次の通り。

石田および下等士官・水夫頭には、私より金を少々やりました。(貴兄からは)二十金おやりになれば結構です。洋服がととのいます。彼(石田)は横笛船では船将でしたので、それだけのことはしてやりたく存じます。是非ご配慮をお願いします。再拝。

八月二十五日 龍馬再拝

佐々木先生

左右

一 池田氏(旅宿の亭主)よりの書簡、次の通り。

ただいま久保山寛三が来て、安藤鈔之助より伝える事柄があって、至急お目にかかりたいとの口上でした。先刻(あなた様が)仰せの通り、よんどころない用事があって出かけていますので、急ぎであれば、その出先に使いを送るようにと言われておりますと答えました。そうしたところ、用件は渡邊剛八の一件で、宿の主人の供述書と食い違う点があり、これについては、明日の早朝、奉行が異人とやりとりするのに差し支えるので、今夕、供述書の記述を少々手直ししたいとのことでした。このため奉行所にただいま来ていただければ、安藤がお待ちしております。しかしながら(佐々木さまが)お一人でお出でになっても、なおまた渡邊にその意味を伝え、書面を仕立てるのに(時間がかかって)明朝に間に合わないといけないので、そこのところは渡邊を同道されるようにとは、久保山の一存では申し上げかねます。が、いずれにしてもただいま直接面会できればそのことを「申上可取分處」(?)、外出しておられるので、なにぶんすぐさま奉行所にお出でくださるようにと、(久保山は)詳しいことを言い置いて引き取りました。このことを至急お知らせします。早々以上。

[慶応三年]八月二十五日 池田拝上

佐々木さま

一 土方(楠左衛門)氏の書簡、次の通り。

一筆啓上いたします。時下秋冷の兆しがありますが、まず以てご安泰であられることを幾重にもお喜び申し上げます。さて、先月末ごろ、大村藩の渡邊昇(注⑤)という人が太宰府に来て、邪教のこと(注⑥)についての談判がありました。この邪教の問題は「不論正俗を」(※意味がよくわからないので原文そのまま引用)、諸藩のそれぞれ憂うところなので、長崎に人を出している諸藩が天下のために公論をもって説得すれば、鎮台(長崎奉行のこと)も奮発するだろうということで、結局薩摩藩としては太宰府に滞在中の者たちの中から長崎に行かせることで手を着けようということに決まり、このたび前田杏齋(注⑦)という人がそちらに行きました。そうしてあなた様とも打ち合わせをして、各藩合議の上で、鎮台を説得するつもりなので、私から(あなた様に)事情を申し上げてくれということで、あなたさまのお考えを顧みず申し上げますのでよろしくご検討ください。詳しいことは(前田杏齋に)聞いていただくことにして、私からは縷々申し上げません。そしてまた昨秋の御西行(佐々木高行の太宰府行きのこと)以後、一方ならぬご尽力をされ、(土佐藩の)国論が一新して、まことにもって欣喜雀躍の至りに存じます。引き続きさぞさぞご苦心されておられることと察します。なおこの上のご尽力を天下のためにお願いします。先だっては老公様が病気のために帰国されたことについては、藩の内輪で種々紛々としたとのことを伝え聞き、遺恨このうえなく、日夜歎息しておりましたところ、同僚の後藤さまが奮発され、国論を定め、いよいよ公明正大の条理をもって皇国の大基本を押し立てになったということを承知し、渇望たまらずに、日夜、「中原の一左右」(※中央政局の一報という意味か)を待っておる次第です。そのほかいろいろの事情などはここでは申し上げず、なお次の機会に譲ることにいたします。恐惶謹言。

[慶応三年]八月二十五日 土方楠左衛門

【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、渡辺昇(わたなべ-のぼる1838-1913)は「幕末-明治時代の武士,官僚。天保(てんぽう)9年4月8日生まれ。渡辺巌の次男。肥前大村藩(長崎県)藩士。江戸の安井息軒に漢学をまなび,斎藤弥九郎の練兵館にはいり塾頭となる。剣を通じ近藤勇と親交をもった。兄の清とともに尊攘(そんじょう)運動につくし,維新後は大阪府知事,元老院議官,会計検査院長。子爵。大正2年11月9日死去。76歳。名は武常。号は東民,其鳳。」】

【注⑥。長崎のキリスト教徒をめぐる問題について『佐佐木老候昔日談』には次のような記述がある。「處が、此頃薩摩の前田杏齋が土方の添書を持つて尋ねて来た。其用件は耶蘇教徒の処置の事だ。七月下旬大村藩の渡邊昇[後に子爵]が太宰府に行つて、耶蘇教徒を厳重に処分する議論を持出し、各藩士も夫に賛成して、愈々長崎に出て、各藩合議の上、大に奉行を説得しやうと決定し、前田は其の運動に着手するためにやって来たのだ。従来耶蘇教徒は牢獄に投じてあつたが、仏国領事『レック』が抗議を申込み、奉行所でも寛大にする様になつたらしいので、此議が起つたのだ。大村邊にも大分耶蘇教徒が居る。で獄に下して改心せねば食をやらぬとヒドク冷遇したが、更に聞き入れぬ。渡邊もアアいふ男、殊に若盛りであるから、随分過激の論を持出した様だ。一体耶蘇の本拠は浦上村である。長崎は開港地であるから耶蘇を信じさうなものであるが、実際はさうでない。非常に嫌つて、其の信徒を『クロ』と称して居る。浦上村あたりから信徒が来ると、『クロ』が来たというて、丁度穢多でも来た時の様の塩梅。のみならず、蘭方医迄も嫌つて居る。病院に入つて蘭医にかかると一人も助からぬものと信じ切つて居る。處が兎角幕府の耶蘇教徒に対する態度が寛大であるといふ處から、各藩士より無理やりに迫つたのであるが、さう甘くも運ばず「其儘泣寝入となつて、十月二十八日前田も長崎を立つて帰る。其中に奉行も仏国の要求を容れ、段々出牢させて村預とした。之も所謂両責であつて、奉行の立場からすれば、随分苦しい事であつたらうと思ふ。」】

【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、前田元温(まえだ-げんおん1821-1901)は「江戸後期-明治時代の医師。文政4年3月15日生まれ。薩摩(さつま)鹿児島藩士。坪井信道に蘭方をまなび,長崎でモーニッケからまなんだ牛痘接種を鹿児島藩で実施した。慶応4年鳥羽・伏見の戦いの際,戦傷者の治療のため英医ウィリスを招聘(しょうへい)。のち警視医学校を設立し,法医学の基礎をきずく。明治34年9月6日死去。81歳。通称は信輔。号は杏斎。」】

一 八月二十六日、昨夜より高橋安兵衛が(高行の宿に)止宿し、橋本喜之助も来た。夕方より才谷梅太郎とともに藤屋に行き、従来の策略についての話が何時間におよび、ついに明け方になって帰宿した。

一 坂本氏よりの書簡、次の通り。

一筆啓上。さて今日、木圭(木戸孝允のこと)より手紙が届いたのでご覧に入れます。同人は御国(土佐藩)の事情によく通じている者で、(彼の言う)初め強く、後に女の如くなどは、最も吾病(土佐人の病理)に当てはまっています。何とぞ御国の議論を根強くされたく、ただこの点をひたすらご尽力願います。謹言。

八月二十六日 龍拝

佐々木先生

左右

[別紙]

拝啓、昨夕はありがとうございました。大酔して失礼の至り、いまさらながら恐縮しております。諸君にもしかるべくお詫びを願います。さてまた佐々木君には図らずもお会いし、「十年来の変態等御同様に」(※文脈からして十年来の付き合い同様に、といった意味と思われるが、よくわからない)お話しし、さらにいろいろとご高話をうかがうことができ、本望でした。帰宿後、つらつらとお話しの内容を思い返し、前途の情勢を推考してみるに、まことにもって神州の浮沈の瀬戸際というのは真にいま現在のことでありまして、四、五年前の時節とも内外大いに相違し、列侯方のご周旋も、恐れながら尋常のご尽力では、この勢いの挽回ということはとても覚束ないと存じます。先日も、英人「サトー」という通訳官の話で「次々と諸侯方も上京され、建白されたとのこと。しかしながら、一向に実行されない。西洋では古より公論と称して天下に唱え、それが実現せずともそのまま捨て置くことは、老婆の理屈と言い、男子は好まない。しかしながら、日本の今日の建言というものも、少しは老婆の理屈と似たようなところがあるように思う」などと話したとのことを伝え聞いて、思わず長いため息をつきました。外国の一通訳官にこうした言葉を吐かせるのは列侯は言うに及ばず、神州の男子の大恥辱と、老屈生(年老いて腰の曲がった自分)までもはなはだ悲痛な思いをしていましたところ、(高行の)大論を拝承して(自分は)とても喜びました。後藤君が上京されればただちに(大政奉還の)大公論が天下に確立されるでしょう。その末に乾(退助)君の上京はまことにもってその時の状況次第と感服しました。とかく初めは脱兎の如く、終わりは処女の如くなるのは浩嘆(ひどく嘆くこと)の至りであります。何とぞ今度は終わりが脱兎の如くなることをひたすら神州のために祈願しております。まずは昨日のお礼を申し上げたく、ふと筆に任せ、余計なことまで認めて恐れ入ります。大兄(坂本龍馬のこと)かぎりご覧下され、すべてご容赦願います。匆々頓首、九拝。

八月二十一日

なおなお今夕は庄村(※倒幕派の肥後藩士・荘村省三のことか)の一件にお供したいと思います。敬白。

竿鈴生[木戸のこと]

龍大兄[坂本のこと]

一 八月二十七日、曇り、今日、(長崎奉行所の)調べ役から御用の向きがあると言ってきたので、橋本喜之助を名代として出した。以前から土佐商会を通じて英国商人「ヲールド」(※オルト商会の設立者、ウィリアム・ジョン・オルトのことか)から(※魚住注。招かれていたので、といった意味の字句が欠落しているようだ)、野崎傳太・由比畦三郎、そのほか山崎直之進・高橋七右衛門[山崎・高橋は岩崎弥太郎の配下である]を連れて「ヲールド」商社に出かけた。気分が悪くなったので、主人の乗物で帰宿した。今日、橋本喜之助が西田屋に止宿した件を立山(役所)に届け出た。

一 安藤・小峰両氏の書簡、次の通り。

このほど渡邊剛八殿が(英人殺害事件が起きた)先月六日夜、暮れ方から外出されたということを申し立てられたので、その外出先をお尋ねしたところ、大村町の西田屋に行かれたとのことでした。そのことは外国人に知らせました。ついては、西田屋に滞在しておられた中島作太郎(中島信行のこと)殿・小田兒太郎殿が剛八殿の来られたことをご存じであるなら、剛八殿が来た時刻と帰った時刻ともに即刻お知らせください。以上。

八月二十七日

安藤鈔之助

小峰利五郎

佐々木三四郞さま

一 同二十八日、雨、少々気分が優れないので引き籠もり。喜之助・安兵衛が来た。夜、才谷梅太郎が来て、数時間話し、その夜は泊まった。その折り、才谷の内輪話に、長崎の運上所に十万両ばかりの金子があるようなので、一朝ことあれば、この金子は我がものとすべきだ。その計画をあらかじめしておきたいと。いろいろ相談した。また才谷曰く。これから天下のことを知るときは会計が最も大事だ。幸いに越前藩の光岡八郎(注⑧)は会計に長じているので、以前から彼と話し合っていることもある。そのことを心に留めておいて、同人を速やかに採用することが肝要だと言った。

今夜、鰻を出して食べた。

一 金三十一両二分二朱 藤屋への払い

【注⑧。改訂新版 世界大百科事典によると、由利公正 (ゆりきみまさ。生没年:1829-1909(文政12-明治42))は「幕末・維新期の政治家。福井藩出身。幼名義由,初め三岡石五郎,のち八郎といった。家は御近習番100石の下級武士であった。1847年(弘化4)来藩した横井小楠の学問に影響され,一方で藩の財政調査を実行し,他方で橋本左内らと藩の兵制改革に尽力した。58年(安政5)藩主松平慶永らの徳川慶喜将軍擁立運動に参加したが,この運動は失敗に終わった。このとき由利は江戸で幕府の財政調査を行った。翌年長崎に出張し,越前蔵屋敷を設立し,オランダとの交易を始め,藩内では物産総会所をつくり,養蚕事業の奨励等の殖産事業に力をそそいだ。62年(文久2)政事総裁職にあった慶永に列藩会議を建議し活動したが,翌年藩論が一変し,幽閉蟄居を命じられた。68年(明治1)維新政府に徴士・参与職として登用され,御用金穀取扱方を命じられた。また,五ヵ条の誓文の第一原案である国事五ヵ条を起草した。同年会計基立金300万両の募債と金札(太政官札)3000万両を建議して承認された(由利財政)。そのうち基立金に関しては,三井,小野,島田らの三都の商人を中心とした応募によって約285万両を確保した。金札に関しては,68年5月から発行され,不換紙幣である金札を貸し付ける機関として商法司,商法会所を設立したが,殖産興業のための資金捻出を目的とした金札も,実際には政府の財政赤字補てんにあてられた。しかし,この時期の政府の不安定さゆえ,金札の社会的信用は低く全国的に流通するにはいたらず,政府は,紙幣の正価通用令を出して強制的な流通をはかったが,外国からの反対もあり,金札の時価通用を認めざるをえなかった。このため由利の紙幣政策は予期した成果をあげなかったので辞職した。その後,版籍奉還の際に福井藩政に参与,71年東京府知事,ついで岩倉使節団に随行し欧米を視察した。75年元老院議官に任命されたがまもなく辞し,85年再任,87年子爵を授与され,90年貴族院議員に任命された。執筆者:丸谷 晃一」】

(続。高行は坂本龍馬が大好きだったようです。「龍馬は度量が大きい」とも書いています。龍馬の発想の自由さに惹かれていたのでしょうか。二人の交流はこのあともまだしばらく続きます。いつものことながらまずい訳で申し訳ありません。誤訳がいろいろあると思いますので、引用・転載はご遠慮ください。なお、坂本龍馬の手紙の内容については宮川禎一著『増補改訂版 全書簡現代語訳 坂本龍馬からの手紙』(教育評論社刊)を参考にさせていただきました。ありがとうございました)