わき道をゆく第264回 現代語訳・保古飛呂比 その87
[参考]
一 安田氏の筆記を見ると、
このとき、長濱若宮(※現在の高知市長浜にある若宮八幡宮のことか)に出動の後、浦戸に駐屯した。翌九日の夜に帰る。総勢百五十人余りとある。種崎(に出動した兵)の頭は渡邊玄蕃である。この人は亡くなったので問い合わせできない。これまた百五十人くらいは出動したであろう。ほかに致道館に集まったのは御馬廻り三組だが、この者たちは出動しないでことが済んだ。
一 八月十日、病気のため引き籠もり。実は先月二十九日の夜に淀船に乗船してから昨夜半まではろくろく寝床に入らず、昼夜少しも休む暇がなかった。よって少々不快になった。また、もうすぐ長崎行きの命令が出るので、それに備えて今日だけ保養のために出勤しなかった。
一 参政・大監察あての(佐々木高行の)書簡、次の通り。
諸君、今日も大いにご苦労をおかけしますが、僕はやむを得ず引き籠もります。よろしくお取りはからい、伏してお願いします。僕は病気もまずさしたることはなく、医師にも相談したところ、長崎の用向きには支障がないということなので、そのようにお聞き取りください。そういうことですので、一日でも半日でも(出発を)延ばすことをひたすらお願いします。その間にお灸の治療などをして養生するつもりです。このため、表立って早く(長崎行きの)命令の下されることのないよう周旋してもらえませんか。また、藩政府の中に異論等はないでしょうか。それをお聞かせください。まずは右のご了承を得たく、匆々。
八月十日
佐々木三四郞
参政・大監察あて
一 右の返事、次の通り。
さぞさぞお疲れのことと存じます。ご病気もさしたることがないとのこと。なお厚くご加養ください。
一 英人「サトーウ」の件は散田邸で(老公が)会われ、御召寄(おめしよせ。目上の人が下の者を呼び寄せること)という名目になりました。
一 「惣分」(※全体に、という意味だと思うが、正確なところはわからない)異論なし。
一 京都うんぬん(※長崎から直接京都に行くのではなく、いったん国許に帰ったうえで京都に派遣してもらいたいという高行の要請の件と思われる)はまだ手をつけていません。なおお会いしたうえで申し上げます。ご出発はどうも延期するのは難しいようです。長崎よりは一と先づお帰りということになるだろうと思います。先ず取り急ぎ。
一 本山(只一郎)・間(忠蔵)両氏の書簡、次の通り。
お手紙拝見しました。「被仰越候通り、十二日御出足の筈に御座候。執政より御仕出し間違候事と被存候間、十二日と御座候間、宜敷別紙を以て、只今参政より御不審相立申候間、先御留置可被下候。貴答、早々頓首
八月十日
追て御子様[ママ]厚くご保護専要に奉存候。」(※どういうことを言っているのか、よくわからないので原文をそのまま引用した)
只一郎
忠蔵
三四郞さま
[参考]
一 同十日、現在往来でこのように説く者がいる。長崎で異宗に伝染した囚徒を、万一外人に迫られて政府がゆえなく解放するようなことがあれば、鎮台(中央から離れた土地におかれて、その地方の政務、軍事などをつかさどった機関。また、そこに駐留する軍隊やその長=精選版日本国語大辞典)の命令を待たずに信教徒を捕縛し、宣教師を斬殺し、天主堂を焼き払おうという企てがあると。たまたま兵庫開港問題の際であるから、もし新たにこのような悶着を生み出すよりは、囚徒をそのまま獄舎に置いた方がいいと。この月五日、板倉伊賀守が兵庫港に停泊中の仏国公使の軍艦に赴き、いろいろ弁論したが、公使は持論に固執して動かなかった。結局、出牢のうえ村預かりに処することに決まり、双方往来しないようにせよという旨は、七月二十九日の評議決定と同じになったため、いったん取り戻した公使より宣教師・領事への書簡は改める必要がないということに決まった。同八日、板倉閣老が再び兵庫に行き、その案件が定まった。この日、御目付の瀧澤喜太郎を長崎に派遣し、次の書面を交付させた。
長崎奉行へ
浦上郷の耶蘇宗門を信仰する者どもを召し捕り、取り調べをしたことについて、(長崎奉行が)申し立てた事実は実際にあったが、(将軍さまの)深いお考えもあるので、今回の件は、召し捕った者に対しては残らず村預かりを申し付ける。決して他の郷に行ってはならぬということを申し渡し、以後は双方の取り締まりを厳しく行い、浦上郷だけでなく、長崎近郷の土民が耶蘇宗関係のことで外国人居留地に立ち入ること、ならびに、宣教師が御国民(日本国民)に布教することは決してしてはならない。今後、万一そのようなことがあったら、御国民には厳しくお咎めを申し付け、宣教師については長崎領事にかけ合い、同人より厳しく申し付けることになる。このため、御目付の瀧澤喜太郎をそちらに派遣するので、詳しいことを聞いてもらいたい。
一 八月十一日、午後、暫時出勤。長崎行きについての心得方を箇条書きにして、うかがうために出勤した。しかしながら、まだ気分が良くないので、夕方より引き籠もった。
覚
一 下手人が御国(土佐)の者に決まったときは、どういう取り扱いにしたらいいのか。
○(藩よりの返答)召し捕った上で、長崎奉行に伺い出て、その下知(命令)を受け、処置すべきこと。
一 同じく(下手人が)海援隊(注①)の者で、もとは御国(土佐)の者であればどうするか。
○御国の者の取り扱いと同じようにせよ。
一 同じく(下手人が)他国の者だった場合はどうするか。
○その藩に知らせた上、取り計らいをすべきこと。ただし長崎奉行へも「其形」(※意味がよくわからない)一応届けておくべきこと。
一 同じく(下手人が)他国の亡命者で、現在海援隊に入っている者だったらどうすべきか。
○何藩かがわかれば右と同じようにせよ。
公儀より尋ねられたとき、
一 海援隊に編入された者で、御国の亡命者であれば、いつまでも御国の者と言ってよろしいか。
○本文の通り(※つまりそのようにせよという返答か)
一 (海援隊に編入された者で)他国の亡命者は出所などを申し述べ、現在雇い入れ、あるいは食客とするか、または現在召し抱えている者とするか。御国の者といってしかるべきか。
○事実を明白に申し出てしかるべきか。
一 (自分が)長崎に派遣された御用向きは、このたびの英人より申し立てた件の詮索だけであって、長崎出張中の者どもの平素の行いについては関与せず、船中は船法、商会は商会担当が(これまで)取り扱ってきた通りと心得てよろしいか。
○本文の通り。
一 下手人の手がかりがあれば、長崎のほかのどの国へも適当な時期に行くことを、事前に許可してもらいたい。
○本文の通り。
一 長崎の御用向きがたいてい片付くか、または交代要員が来た場合は、一度国許に帰ったうえで、再度のご詮議によって京都派遣を命じていただきたい。今回は、ひとまず京都での任務は解除していただきたい。長崎より直接京都行きを命じられると、御用向きに難渋するので、このこと(京都での任務解除)を命じてもらいたい。
○詮議のうえ通達する。
一 夷人と応接の際はもちろん、日本人と会うときでも、今回に限り、(藩の)制服などの制外(きまりの外。制度の範囲外=デジタル大辞泉)にしていただきたい。
○本文の通り。
一 このたびの御用向きについては、事柄によっては諸藩士または諸浪人などに会うこともあるので、どのような場所に立ち入るかもわからない。自然、遊里に立ち入るかも分からないので、諸事を制外にしてもらわないと、時と場合によって取り扱いに難渋することになるので、事前にその許可をいただきたい。
○本文の通り。
右の諸点を至急詮議して決めていただきたい。明朝の出発に差し支えるので、よろしくご通知を願いたい。
ただし、これらの諸点について時宜を見計らって(判断して構わないという)委任を奉行衆にお願いするはずのところ、出発の時刻に差しかかったので、象二郎・栄三郎・平十郎・権次・忠蔵・退助に話して、奉行衆に伝えておくので其の通りに取り計らってよろしいと、一同より言われたため、そうするつもりだ。
第一条につきさらに心得。この点について下紙(公文書などに添付する別紙。付箋。この場合は長崎奉行に伺い出て、下知を受け、処置すべきことという返答のこと)はあるけれども、召し捕ったときは(土佐藩の)国法に処すのが当然だということを象二郎・栄三郎・退助・権次・忠蔵らに言い置き、一同は引き受けた。
お問い合わせの内容は承知しました。できればちょっと御用番(その月の政務を執る執政のことか)へご足労くだされば、はなはだ都合がいいと存じますが、それが無理だということであれば致し方ありません。第一条は、付け紙したところが大議論になるでしょう。なかなか手紙などで事が済む訳でもないと思います。また「両府客老」(※よく分からないのだが、ひょっとしたら、他藩の出身者でしかも海援隊の隊員のことか)のところもどうでしょうか。いずれ乗船の際にちょっと「両府」(?)へは立ち寄っていただきたい。親書はひとまず受け取っておきます。都合が着いたら、御用番のところに行かれたほうがよろしいかと考えます。匆々拝備。
即刻 本山只一郎
佐々木三四郞さま
【注①。改訂新版 世界大百科事典によると、海援隊 (かいえんたい)は「幕末期の長崎における坂本竜馬を中心とする組織。貿易,海運などを業としながらも倒幕運動への参加を企図した政治集団。1865年(慶応1)に廃止された神戸海軍操練所の修業生のうち坂本竜馬を中心とする20余名は,薩摩藩の保護をえて鹿児島に赴くが,ただちに同藩の小松帯刀に伴われて長崎に移り,同地の豪商小曾根家の援助をえて,同年5月下旬に〈亀山社中〉を成立させる。その後社中は,薩摩藩の名義を借り,小曾根家の海運業に支えられて,薩長両藩などの武器・艦船の輸入を仲介し,あわせて海運業に従事しながら航海術を修業していた。ところが土佐藩の政情の変化と坂本竜馬の政略とが重なって,土佐藩(後藤象二郎,福岡孝弟ら)と社中がむすびつく。67年(慶応3)4月初旬,竜馬は,脱藩の罪を許されるとともに海援隊長に任命され,社中は海援隊士とされた。この組織は,〈海援隊約規〉に見るように〈脱藩ノ者,海外開拓ニ志アル者〉を組織し,〈出崎官〉すなわち長崎に出張している土佐藩の責任者に属することが定められていた。隊士の出身階層が町医者(長岡謙吉),村役人(菅野覚兵衛),饅頭屋(近藤長次郎)など多様であり,出身地も土佐中心であるが紀州(陸奥宗光)など他藩出身もみられた。そして最終的には土佐藩の海軍力となることが期待されていたが,直接的には勉強しながら商業活動を独自にすすめるという幕藩制社会には珍しい組織であった。しかし竜馬が暗殺されてから自然崩壊し,68年(明治1)閏4月27日藩命により解散した。執筆者:池田 敬正」】
一 八月十二日、晴れ、五ツ半(午前九時ごろ)出発。南会所へ出勤、長崎行きについていろいろと用談し、九ツ(正午ごろ)前、幡多倉ではしけに乗り、八ツ(午後二時ごろ)すぎ、浦戸で若紫船に乗船、八ツ半(午後三時ごろ)出帆。夜五ツ(午後八時ごろ)すぎ、須崎に入港。すぐさま夕顔船に乗り移り、九ツ半(午前一時ごろ)須崎を出帆。船長は由比畦三郎、乗り組みは英人「サトー」、同人に随従する会津人野口某、ほかに坂本龍馬・岡内俊太郎(注②)らである。
【注②。朝日日本歴史人物事典によると、岡内重俊(おかうちしげとし。没年:大正4.9.20(1915)生年:天保13.4.2(1842.5.11))は「明治初期の司法官。土佐国土佐郡潮江村(高知市)に土佐藩士岡内清胤の長男として生まれる。通称俊太郎。同藩の横目であったが,文久3(1863)年江戸に上り,水戸藩士や桂小五郎,久坂玄瑞らと交流。坂本竜馬の海援隊に入り,秘書役として活躍した。明治2(1869)年刑法官に出仕,4年10月佐々木高行司法大輔らの欧米視察に随行。帰国後,岩倉具視,伊藤博文らと共に征韓論に抗して高知の征韓論者説得に努めた。6年6月司法大検事に任ぜられ,以後長崎上等裁判所長心得,大審院刑事局詰,高等法院陪席判事を歴任。19年5月元老院議官,23年9月貴族院議員勅選。33年5月維新の功績によって男爵,晩年は政友会に所属した。(楠精一郎)」】
一 八月十三日、晴れ、六ツ半(午前七時)ごろ西御崎を通過、七ツ(午前八時ごろ)すぎ、伊予ノ崎を過ぎた。船中は平穏、時々坂本などと談話した。
一 同十四日、姫島の北方で夜明けを待ち、五ツ時(午前八時)ごろ下関に碇泊した。才谷の案内で稲荷町の大坂屋で休息した。才谷の妻の住家に才谷が連れていってくれた。この妻は有名な美人ということだが、賢夫人かどうかは知らない。善悪ともになしかねまじく見える。それから招魂所(注③)へ参り、すぐ本船に帰った。いまだ一人も船に帰ってこない。退屈した。夕方、出帆した。
【注③。改訂新版 世界大百科事典によると、招魂社 (しょうこんしゃ)は「靖国神社および護国神社の旧称。1862年(文久2)福羽美静(ふくばびせい)(1831-1907)らが討幕運動で非命の最期をとげた尊皇の志士を京都東山の霊山(りようぜん)にまつり,63年八坂神社境内に小祠を建立したのが最初である。討幕諸藩でも招魂慰霊がなされ,長州藩では64年(元治1)に藩主により山口市赤妻に設置され,慶応年間十数ヵ所に増加した。68年(明治1)5月太政官布告で霊山にペリー来航の〈嘉永癸丑〉(1853)以来の〈国事殉難者〉の招魂場を設置してより,諸藩でも〈旌忠社(せいちゆうしや)〉等の名称でそれぞれに設置。68年6月江戸城内で戊辰戦争戦没者の招魂祭を,7月には京都河東操練場で招魂慰霊の祭典をそれぞれ執行した。大村益次郎の尽力で69年に勅命により東京招魂社を九段坂上に設置し,鳥羽・伏見より箱館戦争にいたるまでの戊辰戦争戦没者を合祀した。79年東京招魂社は別格官幣社靖国神社となる。官祭招魂社は,各藩ごとのもので,74年の内務省達で官費支給を受け,山口,鹿児島等の討幕諸藩を中心に71年までに多くが設立されていた。私祭招魂社は74年以後が大部分である。これら地方招魂社は,旧藩域を中心にまつったもので,強い旧藩の郷党意識にささえられていた。ちなみに愛知県名古屋の官祭招魂社(現,愛知県護国神社)は,尾張藩士をまつった旌忠社にはじまったため,当初西南戦争の戦死者の分祀を〈土民〉のゆえに拒否した。かつ長らく尾張部出身者のみの合祀で,1926年まで三河部出身者は合祀されなかった。明治政府は,東京招魂社-靖国神社を頂点に,地方招魂社を系列化することで,天皇の下に民心を収斂させる場として招魂社を位置づけた。1939年地方招魂社は官私の別なく整理され護国神社と改称した。」】
一 同十五日、曇り、夕方七つ半(午後五時)ごろ、長崎に入港。商会(土佐藩営の商社。開成館貨殖局の長崎出張所)に行き、それから池田屋に泊まった。岡内が同宿。夜中、松井周助・才谷梅太郎・岩崎弥太郎(注④)が来て、英人殺害事件を相談し、夜明け過ぎに寝た。
今日、才谷の考えで、このたび英人を殺害した下手人を探索し得た者には千金を与えると流布させようという話が出た。それに同意し、さっそくその段取りを進めた。長崎で海援隊というのを以前から才谷らが組織している。才谷が隊長だ。その隊士は本藩人の菅野覚兵衛(注⑤)・中島作太郎(注⑥)・野村辰太郎(注⑦)・小田小太郎・石田英吉(注⑧)・関雄之助(注⑨)・安岡金馬ら数名である。越前人は渡邊剛八・佐々木栄・福島某である。紀州人・陸奥陽之助(注⑩)、幕人・田中幸三、そのほか橋本某ら数名である。この隊はかねてから過激の評判があったが、このたびの事件も必ず海援隊の人間の仕業だと国内外の人々が見込んだので、英公使はそれを信用して圧力をかけてきたのである。
【注④。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、岩崎弥太郎(いわさきやたろう。1834―1885)は「三菱(みつびし)財閥の創設者。号は東山。天保(てんぽう)5年12月11日、土佐国安芸(あき)郡井ノ口村(高知県安芸市)の地下(じげ)浪人で上農の弥次郎の長男として生まれる。1848年(嘉永1)から高知の紅友舎で、さらに1855年(安政2)から江戸の安積艮斎(あさかごんさい)の塾に学んだ。1859年から藩職につき、1866年(慶応2)には藩の開成館貨殖局に勤務して翌年に二度目の長崎出張を行い、各国の商館との取引で企業家としての腕を磨いた。維新後の1870年(明治3)10月から開成館大阪商会は藩から分離し、九十九(つくも)商会という海運業を行う私商社になり、弥太郎はその指揮者となった。同商会は三川(みつかわ)商会、ついで1873年に三菱商会と改名し、岩崎弥太郎個人の企業になった。彼は強いナショナリズムを唱えて太平洋郵船(アメリカ)、P&O汽船(イギリス)を打ち破り、また大久保利通(としみち)や大隈重信(おおくましげのぶ)など政界と結んで、台湾出兵(1874)や、西南戦争(1877)を頂点とする内乱を鎮圧するための新政府の軍需輸送を独占して巨利を占め、全国汽船総トン数の73%を手中に収めた。これと並行して燃料確保のため高島炭坑を買収(1881)、三菱為替(かわせ)店による荷為替金融と倉庫業の開始(1876)、東京海上保険(現、東京海上日動火災保険)への出資(1878)、官営長崎造船所の貸下げ(1884)など、海運業からの多角化によって三菱財閥の基礎を築き、また吉岡銅山、明治生命保険(現、明治安田生命保険)、千川水道も経営した。弥太郎はつねに強い指導権を把握して「社長専制主義」を確立し、薩長(さっちょう)藩閥政治が確立した「明治十四年の政変」(1881)以後は「政治不関与」を唱えた。郵便汽船三菱会社と共同運輸会社の競争が頂点にあった明治18年2月7日に胃癌(がん)で死亡した。[三島康雄]『岩崎弥太郎・弥之助伝記編纂会編『岩崎弥太郎伝』上下(1967。複製版1980・東京大学出版会)』▽『三島康雄著『三菱財閥史 明治編』(教育社歴史新書)』」】
【注⑤。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、菅野覚兵衛(すがの-かくべえ1842-1893)は「明治時代の軍人。天保(てんぽう)13年11月23日生まれ。坂本竜馬の海援隊にくわわり,竜馬の妻の妹君子と結婚。明治2年アメリカに留学,7年帰国し海軍省にはいる。9年少佐。鹿児島造船所次長,横須賀鎮守府建築部長などを歴任。明治26年5月30日死去。52歳。土佐(高知県)出身。初名は千屋(ちや)寅之助。名は孝訓,孝義。」】
【注⑥。日本大百科全書(ニッポニカ)によると、中島信行(なかじまのぶゆき1846―1899)は「明治時代の政治家。弘化(こうか)3年8月土佐藩士族の家に生まれる。通称作太郎。幕末、海援隊に入って活躍し、新政府成立後は徴士(ちょうし)、外国官権判事(ごんはんじ)、兵庫県判事、大蔵省紙幣権頭(ごんのかみ)、租税権頭を歴任ののち、神奈川県令(1874~1876)、元老院議官(1876~1880)を務めた。神奈川県令時代に開かれた第1回地方官会議(1875)では公選民会論を説くなど進歩的意見を述べ、元老院議官辞任後の1881年(明治14)自由党の結成に参加、副総理に推された。さらに翌1882年請われて大阪の立憲政党総理となり、民権運動に力を尽くした。1887年保安条例に触れ横浜へ転居し、1890年神奈川5区より代議士に当選し初代衆議院議長に就任。1892年イタリア公使、1894年より貴族院議員。1896年男爵となる。明治32年3月26日没。なお夫人俊子(としこ)(旧姓岸田)は女性民権家、長男久万吉(くまきち)は実業家として名高い。[安在邦夫]『寺石正路著『土佐偉人伝』(1914・富士越沢本書店)』」】
【注⑦。デジタル版 日本人名大辞典+Plusによると、野村維章(のむら-これあき1844-1903)は「幕末-明治時代の武士,司法官。天保(てんぽう)15年4月8日生まれ。土佐高知藩士。長崎で坂本竜馬(りょうま)にあい,慶応2年脱藩して海援隊にくわわる。戊辰(ぼしん)戦争には長崎振遠隊軍監として従軍。維新後は茨城県令をへて検事となり,東京控訴院検事長,函館控訴院長などを歴任した。明治36年5月8日死去。60歳。通称は要輔。」】
【注⑧。朝日日本歴史人物事典によると、石田英吉(いしだえいきち。没年:明治34.4.8(1901)生年:天保10.11.8(1839.12.13))は「明治維新の志士,行政官,政治家。土佐の国安芸郡中山村(高知県安田町中山)生まれ。少壮より文武の業に励み,医術を修めたが,大和天誅の乱(1863)で敗退し長州に走り蛤御門の変(1864)に参戦,坂本竜馬の海援隊に参加,陸奥宗光と親交,戊辰戦争にも出征した。維新後明治政府に出仕して,地方官(長崎県大参事,秋田県権令・同県令,長崎県令,千葉,高知の県知事)を歴任して治績を挙げ,また元老院議官も務めた。第1次伊藤博文内閣で農商務大臣陸奥の下で農商務次官を経歴,その後貴族院勅選議員に挙げられ,没年に至った。明治29(1896)年男爵。孫の英一郎は大正15(1926)年,爵位を返上した。(福地惇)」】
【注⑨。朝日日本歴史人物事典によると、沢村惣之丞(さわむらそうのじょう。没年:明治1.1.15(1868.2.8)生年:弘化1(1844)は「幕末,土佐(高知)藩の勤王の志士。諱は延世,変名は河内愛之助,関雄之助。間崎滄浪の門弟。土佐勤王党に加盟,藩の消極的時局対処姿勢に憤慨,文久2(1862)年春,吉村虎太郎と長州に脱出,いったん帰郷,武市瑞山に中国,九州方面の形勢を報告,3月,坂本竜馬と共に脱藩して再度長州に走り,以後別行動をとり,勝海舟の神戸海軍操練所で英語・航海術を学ぶ。慶応3(1867)年,坂本の海援隊に参加し,奔走。翌4年1月,鳥羽・伏見の戦の報が長崎に達するや,海援隊は長崎奉行所を占拠したが,その夜訪れた薩摩藩士を闖入者と誤り殺害,その責任を取って自刃した。<参考文献>瑞山会編『維新土佐勤王史』(福地惇)」】
【注⑩。朝日日本歴史人物事典によると、陸奥宗光(むつむねみつ。没年:明治30.8.24(1897)生年:弘化1.7.7(1844.8.20))は「明治期の政治家。紀州(和歌山)藩士伊達宗広,政子の子。15歳のとき江戸に出て,安井息軒,水本成美の塾などで学ぶ。これより陸奥陽之介と名乗る。宗広,宗興(伊達家養嗣子)が尊皇派であったため長州,土佐の志士らとの交流ができ,坂本竜馬に知られて神戸海軍操練所,亀山社中,海援隊と行動を共にした。維新政府が成立するや外国事務局御用掛,次いで会計官権判事に任ぜられ,外国使臣との応接,外国軍艦の購入に活躍した。明治2(1869)年大阪府知事後藤象二郎の下で働いたのち,摂津県(のち大阪府に編入)知事,兵庫県知事。3年薩長土肥を中心とする政府人事に不満を抱き紀州藩強化策に専念,兵器購入,教師雇い入れのため欧州に出張す。廃藩置県ののち,神奈川県知事,外務大丞,大蔵省租税権頭から租税頭,大蔵少輔心得と進み,大隈重信,井上馨,渋沢栄一らと共に大蔵省改革派として活動した。明治6年政変で薩派が大蔵省を握ったため陸奥ははじき出された。8年元老院成立で議官。幹事役を務めた。西南戦争当時土佐派の政府転覆計画に加担したことが発覚して,11年下獄。獄中でベンサムの功利主義の著作を翻訳した。 16年出獄,翌年イギリス,オーストリアに留学,シュタインなどに学んだ。19年帰国後,井上外相に引き上げられ弁理公使から特命全権公使,21年駐米公使となり日米条約,日墨条約の改正交渉に従事。23年帰国,農商務大臣に就任,民党対策を主として担当した。第2次伊藤内閣の成立で外務大臣となり,念願の条約改正事業に着手,27年日英条約改正を成功させ,以後次々に各国との条約改正をなしとげた。また朝鮮問題ではついに清国との開戦にいたる外交を展開し,アジアをめぐる国際関係に大きな変動をもたらすに至った。この経緯を『蹇蹇録』として外務省高官および,ごく限られた政治中枢に配布した。伯爵。病気のため29年5月辞職後も,雑誌『世界之日本』(主筆は竹越三叉)を刊行するなど政治的再起を目指していたが,翌年死去。<参考文献>『陸奥宗光』(現代日本思想大系10巻)(酒田正敏)」】
一 八月十六日、曇り、早朝に才谷が来た。それから一緒に土佐商会へ行き、野崎傳太・松井周助・岩崎弥太郎に会った。今日の五ツ時(午前八時ごろ)、奉行所へ出頭するよう言ってきたが、病気のため断ったところ、小目付を出頭させるよう言ってきた。松井周助は密事御用のため小目付役として届け出ておいたので、(自分の)代理とし、岩崎とともに出頭した。(土佐藩の帆船)横笛丸の件だった。才谷・渡邊・中島・中島が下宿に来た。横笛丸の経緯を聞いた。同夜、松井・由比・才谷・渡邊・菅野・中島らが来た。岩崎の代理として森田晉三も来た。横笛丸が(英人殺害の翌日に)出帆した際の手続きなどの言い分を聞いた。
[参考]
一 彼の吉田[長崎人]の千両で家を求めるという(貴兄の)考えは面白そうではあるけれど、これは必ず、前門の虎を退けたものの、後門の狼が入ってくるという話になるのではないか。はたして大兄にも見つけることはできないと推察します。草々。別案を早々に提示してください。頓首。
八月十六日 楳(うめ。才谷梅太郎つまり坂本龍馬のこと)
陸奥大先生へ
一 八月十七日、曇り、早朝に(岩崎)彌太郎が来て、考えの概要を述べた。もっともと聞き取る。夕方、西川易二[西川易二は長崎での藩の御用達である]が明日の五ツ時(午前八時ごろ)、(長崎奉行所の)立山役所に出頭するので、その際、横笛丸乗り組みの者を召し連れて行くように言いつけた。それから松井を同伴して、英人「サトウ」を訪ねた。留守だったので帰った。帰途、長人(※長州人の意か)に会ったので同伴した。夜、梅太郎が来た。
[参考]
一 (土佐藩の)藩政録に曰く。八月十八日、長崎運上所(注⑪)で長崎奉行能勢大隅守・徳永石見守及び外国奉行加役平山圖書頭、大目付戸川伊豆守らが列席して、英人「サトー」、吾が藩の佐々木三四郞と面会し、英人暗殺の事件を議論した。以来、同所で数回の会議があり、また、種々に探索したものの、暗殺の真相はついに明白にならなかった。
【注⑪。山川 日本史小辞典 改訂新版によると、運上所(うんじょうしょ)は「税関の前身で,幕末~明治初年に各開港場で関税徴収や外交事務を扱った役所。幕末期には各開港場を管轄する遠国奉行のもとに設けられ,奉行所の役人が勤務した。運上所は,1859年(安政6)神奈川・長崎・箱館の3港におかれ,67年(慶応3)兵庫と大坂にも設置された。明治維新後,運上所はもとの名称のまま各地方官庁のもとで活動を続け,68年(明治元)新潟にも設置された。各運上所は71年から翌年にかけて大蔵省の直接管轄下におかれ,関税徴収事務を行う現在の税関の機構ができあがった。名称も73年1月税関と改称された。」】
[参考]
一 八月十八日、異宗徒の取り扱いについて、「ゼーレツク」(※前にレオン・ロッシュの手紙に登場した仏国領事館役人レックのことと思われる)より平山圖書頭に、次のような書簡を送ったとのこと。
於長崎、一千八百六十七年第九月十五日
長崎に駐在中の圖書頭の平山参政閣下に贈る。
牢内にいるキリスト教徒の件について左のことを謹んで貴下に願う。
昨夜、風説で聞いたことですが、このごろ四十余人の宗徒が、わずかに長さ十二尺・幅六尺ほどで、生活のために十分でない場所に置かれているということを伝え聞きました。しかしながら、拙者は以前から貴国の仁政を承知していますので、この風説は恐らくは虚妄であろうと察します。
しかしながら、こうした宗徒のことについては、先日の貴下のお言葉もありますので、なお今このような訴えを申し上げた場合には、囚人らが寛大なご処置を受けるべきことを拙者は疑いません。拝具謹言。
貴下の辱侍生(※よくわからないが、手紙の脇付のようなものか) ゼーレック
一 八月十九日、曇り、今日、南海丸(土佐藩の蒸気船)の乗組員が、横笛船関係の面々の下宿に集まり、八ツ時(午後二時ごろ)前より運上所に行った。これは英人殺害の下手人の嫌疑の件で取り調べを受けるためである。一応調べが済み、帰途、関係者の長崎人石崎揆一郎・平野富二郎(注⑫)、江戸人三沢揆一郎、越前人渡邊剛八らを玉川亭に招き、馳走した。夜の四ツ半(午後十一時)ごろ帰宿した。
【注⑫。朝日日本歴史人物事典によると、平野富二(ひらのとみじ。没年:明治25.12.3(1892)生年:弘化3.8.14(1846.10.4))は「明治時代の実業家。石川島造船所(石川島播磨重工業)の創立者。幕臣矢次豊三郎の次男として長崎に生まれる。幼名富次郎,慶応2(1866)年より平野姓を名乗る。長崎奉行所御用所番,幕営長崎製鉄所機関手見習,幕府所有西洋型汽船(船長本木昌造)の乗組機関手,幕府軍艦回天の1等機関士を経て,同3年坂本竜馬の要請によって土佐藩船の機械方となる。翌年長崎に戻って製鉄所機関方となり,明治3(1870)年10月製鉄所兼小菅造船所長に就任するが,両所の長崎県から工部省への移管に伴い翌4年辞職。同年本木昌造の活版事業を引き受け,5年「首証文」を差し入れて借り入れた1000円を持参して従業員10名と共に上京,神田佐久間町に活字販売店を開設,6年7月には築地に平野活版製造所を設立。9年10月閉鎖中の官営石川島修船所の貸下げを許可され,わが国最初の近代的民間造船所である石川島平野造船所を創立,続いて12年12月横浜製鉄所を借用,石川島造船所の分工場とし,17年末には同工場を石川島に移築合併した。21年末石川島造船所は3年10カ月の建造期間を要して民間造船所最初の軍艦「鳥海」を竣工させたが,翌22年1月それまでの平野の独力による経営から有限責任石川島造船所(資本金17万5000円)に移行した。<参考文献>三谷幸吉編『本木昌造平野富二詳伝』,寺谷武明『日本近代造船史序説』(沢井実)」】
一 同月二十日、雨、今朝、(土佐)商会へ本藩の諸生(多くの学問をする者たち。多くの学生や門弟=デジタル大辞泉)数人を呼び集め英人の事件について聞き糾した。何もわからず。夕方、才谷梅太郎とともに玉川亭で長州の木戸氏[桂小五郎]に面会、時勢のことを談じた。最近、木戸は表向き薩摩人と称して長崎に出て来たのだが、長州藩船の修復に取りかかった。それが済んだところで(修復費用が)千両不足したため、大いに困却し、才谷に相談して、才谷から自分に言ってきた。役場にはその金がないので、商会に相談して、その金子を用意し、木戸に送った。木戸も大いに喜び、その謝礼として、長州でつくられた新短刀一振り、長州縮織り二疋を送って来た。その辺の事情もあったので、(初対面だったが)いろいろと隔てなく語りあった。そのとき木戸が言うには、「近ごろ英国のサトウに会ったら、こう言った。『このたび三藩の尽力で大変革のことを周旋しているとのこと。このことがもしできなければ、欧州の諺で老婆仕事(※よくわからないのだが、ぐずぐずして結局うまくいかない仕事というような意味か)と言うことになる。十分ご尽力されたし』と。英国の一書記からこのようなことを言われたくらいであるから、このたびのことができなければ、最早内外に対して面目が立たぬ。お互いに奮発しなければ、恨みを千歳に残すのみだ。大政返上のことも難しかろうか。これも七、八歩まで運べば、その時の模様次第で、十段目は砲撃芝居をやるよりほかなかろう」などと、いろいろ相談して、夜に入って帰宿した。
(続。いつものことですが、意味の分からぬところが多くてすみません。いずれは完全な現代語訳にするつもりですので、どうかご容赦ください)